おせちというのは、いろいろな料理の集合体だ。どの料理が一番偉い、とかこれはオマケ、というのはないけれど、単に料理を詰めただけではゴチャゴチャする。華となる、中心的な存在が必要だ。それを担うのが、海老だと思う。
ここはやっぱり有頭海老でなくちゃ。食べにくいから、殻を向いたものにしました!というのは便利だけれど、見栄えが圧倒的に劣る。海老というのは、頭や脚が邪魔くさくスペースを食うところに価値がある。これがコンパクトにまとまる生命体なら、おせちとしては使いにくいと思う。
じゃあ、カニの方がもっとかさばっていいよね!・・・いや、そうはならない。カニは単に邪魔だ。あんなのがお重に入られたら、他の料理が入らなくなる。
海老というのは、真っ赤に煮えてお目出度い上に、背中が丸まってコンパクトになりつつもかさばる、という人間にとって都合の良いサイズ感だ。
デパ地下で売っているような高級おせちでは、真ん中にドカンと伊勢海老が入っているものがある。でもあれって、単に邪魔だよね、と僕は思う。ものには加減がある。
さて、海老だけど、本来なら車海老といきたいところだが、予算の都合でそれは却下だ。できるだけ安く、でもできるだけデカいのを。そこで、「赤海老」という、一体それはなんという名前の海老だかわからない謎の海老を買ってきた。
定食屋とかで、「本日の焼き魚定食:赤魚」というのをよくみかけるけれど、あれも「赤魚ってなんだよ?」と思う。それと一緒で、この赤海老というのは謎の存在だ。とはいえ、そんなことに難癖をつけても誰も得はしない。この海老をありがたく調理させてもらう。
なお、味だけど、若干水っぽいというか薄味という印象ではあったが、悪くはなかった。
すゴボウ、酢レンコンなどをどんどん仕込んでいく。写真がおいつかないので、調理写真は割愛。
くわいも調理するぞ。
実?の部分の皮をむいて、先っちょの部分を斜めに削ぎ落とす。「芽が出る」という意味での縁起物の食材なので、芽を全部切り落としてはだめだ。
油で素揚げしないで、単にうま煮にしても良かったのだけど、せっかくだからやれるところまでやってやろうと思い、油で揚げる。
コロナ時代は、1年後に終焉しているかわからない。2022年の年始も、自宅でお正月の可能性は十分にある。手を抜くとすれば、それ以降でいい。今年はやれることは全部やっておこうと思う。
素揚げにしたあと、味を染み込ませる。
くわいは、本当はスパッと面が出るように包丁を入れて皮を剥くものだ。でも、僕はピーラーで容赦なく皮むきをしたので、ご覧のような状態に。
あと、油で揚げたら、こんがりした色になっちゃった。いや、おせちのくわいはこんな焦げ茶色じゃないぞ。やりすぎた。
「中まで火が入っていなかったら嫌だな」ということで、つい揚げすぎたらしい。
なにしろ、4個で498円だった。「ためしに1個、つまみ食いしてみる」というわけにはいかんのですよ。くわい、高いなぁ。
こんなに高い食材とは思っていなかったぞ、くわい。
その割には、出来上がってみても、ぜんぜん高級感のない外観。
おせちを毎日食べていると、家計が破綻するな・・・と思った。まあ、そんな毎日なんてありえないのだけれど。
栗きんとんを作ろう。
芋をふかして、柔らかくなったところで砂糖と混ぜつつ、マッシュする。
それを、ザルで裏ごし。
恐ろしい食べ物だな栗きんとんって。芋に砂糖で成り立っているんだから。しかも砂糖どっさり。お菓子じゃないか。
で、これだけだと栗きんとんにならないので、コアとなる部分用に瓶詰めの「栗の甘露煮」が登場。
栗は自分で煮ないのかって?いや、無理っしょ、12月に生の栗は手に入らない。
あと、さすがの僕も、栗の渋皮を剥くほどの気合がない。
栗きんとんというのは、本来はまんじゅうみたいな形をした食べ物だ。なにしろ、「きんとん」という言葉は、「金団」と書いて、「金のふとん」や「金の団子」という意味だ。
しかし、まんじゅう状に丸めるのも面倒だな、どの器に保存すればいいのやら、と悩んだので、結局横着することにした。それは、耐熱容器にペースト芋を敷き詰め、その上に栗の甘露煮を等間隔で載せる、というものだ。
食べる時は、さじですくう。
まあ、見栄えは微妙だけどこれでいいや。
ちなみに栗きんとん、くちなしの実を使わなかったので色はものすごく地味なものになった。やっぱり、黄金色にするためにはくちなしの実を用意しても良かったかもしれない。でも、そんなものを買っても、使いみちはほとんどないしなぁ・・・。
次回栗きんとんを作る機会があったら、サフランでやってみよう。サフランだったら、パエリアを作るときに再利用できる。
(つづく)
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