弊息子がハイハイできるようになったのはたしか2021年の冬だったと思う。そこから急に歩けるようになり、今やロボット掃除機よりも家のことをよく知るようになってきた。
帰宅して、リビングに宅配便のダンボールが置いてあったら「なんだか見慣れないものがあるぞ」とすぐに触りに行く。つまり、「家にあったもの/これまではなかったもの」をちゃんと記憶できるようになってきた、ということだ。
人間の能力としては当たり前すぎることだけど、子どもの成長を日々眺めている親としては「おお!」と驚かされる。
こういう、赤の他人・・・特に子育て経験がない人にとってはピンと来ないであろうことが日々細々と発生し続けるのが僕らの日常となっている。
「◯月◯日 ✕✕ができるようになった」
などと箇条書きでファクトを文章で残したとしても、僕が日々驚いたり喜んだりしている細かいディティールは残せないと思う。また、第三者に伝えられないと思う。
本当は、この「オカ・デウス」の記事は日々のちょっとした驚きを記錄していくつもりだった。しかし記事にするのがどんどん遅れ、実際にあった出来事から数ヶ月遅れで文章を書いている。写真を見て、それにこうやって文章を書いていくのだけど、その時点ですっかりディティールが失せている。とても残念なことだ。
子どもに対する親としての愛着、というのは、この「子が育つ過程」を間近に見ることによって醸成していくものだと僕は考えている。特に僕は、お腹を痛めて出産していない男性なのでなおさらだ。
多分僕は薄情なので、単身赴任で子どもと滅多に会えないといった状況だったら、子どもへの興味をずいぶん失っていたと思う。僕は白黒はっきりつけるのを好む性格なので、我が子とはいえ自分が子育てに能動的に携っていない、と思ったら「他人事」というレッテルを貼ってしまっただろう。
このあたりは人によりけりで、遠くからでも子どもを思い続けられる男性も当然いる。でも僕は多分そうはならない。むしろ、「子どもに自分の自由な時間と金を吸い取られている」という被害妄想を持つかもしれない。
当初、パートナーのいしは出産後に長期の里帰りを希望していた。でも僕がおねがいして、里帰り期間を短縮してもらった。産まれて間もない子どもと接するという貴重な時間が僕に不足すると、その時点で僕の子育てやる気が喪失しかねない、と思ったからだ。いや、たぶん子育てはしっかりやるんだと思う。でも、それは「父親」という役割を演じているだけで、魂がこもっていない状態になったはずだ。で、いずれ役割を演じ続けることに嫌になって「もう嫌だ」となる。
家の中の水平移動については、タケの脳内にすっかりダンジョンマップが出来上がったようだ。そうなると次は、垂直移動に興味が移ってくる。
彼は、リビングのソファによじ登ることに成功して以来すっかり味をしめ、最近はベッドマットの上によじ登ることもはじめた。チェストベッドなので高さがあるのだけど、ベッドフレームに一旦足をひっかけ、そこからさらにマットレスによじ登る。脚力だけでなく腕力もいる動きだ。それができるようになってきたのだから大したものだ。腕力なんて、これまでスプーンやフォークを持つくらいしか筋トレできていないのに。
ベッドサイドに僕のテレワーク机が置いてある。僕が毎朝仕事をはじめ、いしが保育園にタケを連れ出すまでの間、彼は僕の部屋にやってきてベッドの上に登っている。高いところにいると優越感があるようだ。
(2022.05.18)
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