日本人にとって、桜の花を眺めるというのは特別な感情がある。
四季における春の象徴であり、出会いと別れの象徴でもあり、そして老いの象徴でもある。
僕は50歳に近付いてきて、「自分の人生であと何回、桜を見ることができるのだろう」と考えるようになってきた。
僕がチューリップを見ても、そのような感慨はまったく覚えない。アジサイでもそうだ。でも、桜だけは特別だ。おそらく、一週間足らずで散ってしまい、年によってはほとんど鑑賞する暇さえない、はかない存在だからだろう。
一方、2歳になったばかりの弊息子タケはもちろん「老い」の感覚はない。彼には「成長」しかないからだ。そもそも、昨年も一昨年も見た桜について、彼はまったく記憶を持っていないだろう。じゃあ、今年見た桜はどうだろうか?来年覚えているだろうか?・・・多分、忘れている気がする。
僕自身、一番古い記憶は3歳のときのものだ。ぎゃくに言えば、それより前のできごとは一切覚えていない、ということでもある。
僕の心の奥底で、2歳までに見聞きしたことは人格形成に影響を与えているとは思う。しかし具体的にどれがどの程度僕に影響を与えたのか、まったくわからない。
彼は興味深そうに桜を見上げ、手を伸ばして花に触ろうとする。その心の動きは彼の記憶にどの程度留まるのだろう。そしてそういうことを考えると、今僕がこの世の中から消失すると、彼にとって父親としての記憶は残るのだろうか、ということも気になってくる。
(2023.03.22)
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