子どもがハンドルを握った瞬間、僕は自らの老いを実感した。

レンタカーを借りて、一家で遠出していた。

その時借りた車は、前列シートと後列シートの間がウォークスルーになっている作りだ。こういう作りの車は僕自身初めて乗る。

チャイルドシートに固定されるのを嫌がって暴れる弊息子タケをなんとか後部座席に押し込んで扉を閉め、僕は運転席に座ろうとする。すると、彼はするするっとウォークスルーをすり抜け、運転席にちゃっかり座ってニコニコしているのだった。

さっきまで、絶対車に乗りたくないマンとして大騒ぎしていたのに。

ああそうか、当然、子どもは車のハンドルを持ちたいよな。当然、車の運転ごっこをしたいよな。当たり前すぎることに、今ようやく気がついた。

日々、タケが子供用のおもちゃの車に乗って家中を移動しているのに、その我が子が実物の車に興味を持つということまで想像が及んでいなかった。

他人からすると「だからなんなんだ」という話だけど、それをこうして文章にしてしまうくらい僕は驚いた。

車のハンドルというのは、家族の中では無条件で僕が握るものだ、と思いこんでいたからだ。しかし、今目の前に、たった2歳の子どもがハンドルを握っている。この事実に、少し頭が混乱した。

もちろん、「お前には20年近くはえーよ」と言って彼を後部座席に追い返したが、その後も毎回、車の乗り降りがあるたびに彼はウォークスルーを伝って前の席に座り、ハンドルを握りたがった。

なんだろうな、たぶん「ハンドルを握る」ということに僕は父権や男らしさのようなものを見出していたのだろう。にもかかわらず、わずか2歳の子どもがハンドルを握っているので、自分が老人になったような気がしたし、自分の時代が終わったような感覚もちょっとだけ感じた。

些細なできごとだけど、僕にとってはとても印象的なエピソードだった。

これまでは単に「子どもの成長を見守る、僕」という構図だった。この「僕」は静止していて、「子ども」は前へと進み続けている。

一方、今回の事案は「子どもの成長を見て、自分が老いていくことを感じた僕」という構図だった。つまり、「子ども」とともに「僕」も移動している状態を意識した。

こんな話をしても、「何を馬鹿なことを言って!」と一笑に付されるだろう。でも、僕の人生の後半戦における重要なターニングポイントになりそうな気がするので、こうして文章に残しておく。

(2023.08.27)

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