今日も彼はまた踊る

最近の弊息子タケは、日課のように「ジュリアナの祟り」の動画を見たがる。

将来どういう子どもに育つのだろう?と楽しみな光景だ。

もっとオーソドックスな曲を聴いて欲しい、とか、リトミックをやってほしい、ということを僕は考えていない。

他の人と同じことを、「他の人がやっているから」という理由で我が子にやらせるのはむしろ損だと思っている。塾に通うようなことをやるとなると、親がどれだけ札束を持っていて、子どもにそのお金を注ぎ込めるかという勝負になってしまうからだ。

今の東京では、世帯年収1,000万円どころか1,500万円、2,000万円という人間がゴロゴロいる。そういう家の子どもと同じように塾に通い、基礎教養を学んだり受験に向けた勉強をしても彼が有利になることは難しいだろう。それよりも、なにか一芸に秀でた、良い意味で変な人になってくれれば良いと僕は考えている。

「ジュリアナの祟り」の動画を見ながらぴょんぴょん飛び跳ねている彼を見て、そんな希望を僕は持っている。

とはいえ、僕は彼にオタ芸を極めてほしいと思っているわけではない。

僕は我が子に、「将来はこうなって欲しい」と願っていることが2つある。

(1)コンテンツを消費する側になるな。コンテンツを作る側になれ。
(2)人の顔色を気にする立場になるな。自分のやりたいことをやれ。

今や、人類史上もっともコンテンツが世の中に溢れている。文字、映像、音楽、音声、その他五感に訴えるものが多く存在する。それらを受容するだけの人生にはなってほしくない。コンテンツを発信する側になってほしい。

それは彼がYouTuberになることを意味するのではなく、日頃の何気ない会話でも、学校や会社での成果でも、なんでも独自性を持つように意識できる人材になってほしい、という意味だ。

絵を描くのがうまい、とか作曲ができる、というコンテンツ制作者にならなくてもいい。たとえば、ゲーム実況をやっているYouTube配信者は、ゲームというコンテンツを消費しつつ、軽妙な実況をそこに加えることで独自のコンテンツを作っている。ゼロから全く新しいコンテンツを作ってくれとは僕は彼にいわない。でも、少なくとも、口をポカンと開けてただただコンテンツを受け入れているだけの人生にはならないでほしい。それが上に書いた項目(1)だ。

一方、(2)で書いていることは、いざコンテンツを作る側になったとしても、それが人気商売にならないようにしてくれ、という注意喚起だ。彼には、アクセス数といった数字やコメント欄のコメントに一喜一憂するコンテンツに自分の軸足を置かないように気をつけてほしい。自分なりに軸がしっかりしていて、強度があると思えるコンテンツが作れるならば最高だ。そういう人に育ってほしい。

(2023.11.02)

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください