3歳児の弊息子タケには、最近数字とひらがなを積極的に教えている。
早期教育だとか英才教育といったことを目指しているわけではない。単に、彼があれこれ一人で判断して動けることが増えてきたから、特に数字の知識が必要になってきたからだ。
「それを2つ取って」とか、「おかわりするなら、何個欲しい?」という会話を親子でするようになってきたので、数字の理解は必要だ。
しかし、面白いもので、彼が言葉を発するようになって以来2年近く数字について繰り返し教えても、まだピリッと理解ができていない。
歌の歌詞を覚えるように、丸暗記で「いち、にい、さん、よん、ご・・・」と覚えられそうなものだけど、それも案外うまくできない。おそらく、3歳前後の脳というのは、そういうことを理解できる構造にはまだなっていないのだろう。
だから、子どもの様子を監察したり、彼が発する言葉の意味を考えるのが僕は面白い。
たとえば彼はこういうことを時々言う。「お母さんがいなくて寂しいよ」と。一見、ママに甘えたい子どもの愛くるしい発言のように聞こえるが、果たしてそうなのだろうか?僕は、額面通りの言葉ではないと思う。大人が思うほど、子どもの脳は解像度が高くないはずだからだ。
母親であるいしは、保育園の連絡帳にこの逸話を記し、自分の感想として「パートナーは額面通りの言葉ではないと言っているがそうなのだろうか?」と、僕の見解に対して暗に反対・不満の意を記している。
もちろん、僕は彼が「寂しい」と感じたことを否定したり軽んじるつもりはない。単に、大人が理解する「寂しい」という言葉の意味と、子どもが使う「寂しい」では解像度がずいぶん違うのではないか?と思っているだけだ。
彼に限ったことでなく、保育園で出会う彼の同級生たちとも会話をしていると、その独自の世界観についていけないことがある。その幼稚だけど斬新な発想は、心底うらやましい。大人では到底真似ができないことだ。この子どもの脳が感じる世界・見える世界を大人の視座で解説できないものだろうか、といつも思う。
ビスケットを教材に数字のお勉強をした後は、彼はテンション高く「じゅうななんてんごー!じゅうななてんごー!」と叫びながら椅子を持ってウロウロし始めた。
なんで17.5なんだ?と思ったが、そういえば彼の靴のサイズが17.5センチだった。その数字だけはなぜかよく覚えていたらしい。
でも、なぜ椅子を持ってうろつくのかは、やっぱり意味不明だ。こういうところが、本当に羨ましい。
(2024.03.31)
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