弊息子タケが、保育園で何やら大きな工作物を2つ持って帰った。
青と黒の丸に、手で持つための棒が取り付けられている。丸い紙には、何かが描かれている。
日本列島っぽいものが描いてあるように見えたので、「地球儀?宇宙ごっこ?」と聞いてみたが、違うという。そりゃそうか、3歳児にとって、自分がいるこの大地が星であること、そして宇宙が存在するということは全く理解できていないはずで、「宇宙ごっこ」なんてできるわけがない。
ただ余談だが、「ロケット」という乗り物は彼はボキャブラリーとして知っていて、それが「宇宙」に行く乗り物だということも知っている。じゃあその「宇宙」って何だ?というところまでは彼は疑問に思わないらしい。いちいち、彼が見聞きするものすべてに「何?なんで?」と聞いていたらきりがないので、子どもという生き物は適当に聞き流すスキルを持っているようだ。
で、このうちわのような物の正体だが、「花火大会だよ」と彼は言う。そして、その場にしゃがんだかと思ったら、ぴょんと飛び上がってバンザイしながら「ドドーン」と叫んだ。
なるほど、そういうことか。保育園、面白いことを考えるなぁ。
後で保育園の連絡帳(スマホで閲覧でき、当日の保育の様子が写真付きで見られる)を確認してみると、今日は保育園でこの工作を作ったあとにみんなで花火大会ごっこをやったそうだ。
どどーんと言いながら飛び上がって花火を打ち上げる子、そしてそれをお行儀よく座って鑑賞する子、ジュース屋さんの屋台を作って商売を始める子などいろいろいたようだ。
その写真を見て面食らったのだが、「花火を鑑賞する役」をやっている子どもたちの多くが、スマホのおもちゃ(または壊れて使えなくなった本物のスマホ)を手にし、打ち上げ花火を撮影しているフリをしていたことだ。子どもたちのごっこ遊びにおいて、「スマホで撮影する」というのは不可分な存在になってきているという事実に驚いた。
こういう環境で育った子どもは、花火大会をはじめとするあらゆるイベントが「写真を撮る対象」であり、いい感じの写真が撮れればそれで満足、という価値観なのだろう。「思い出作り」なんて昭和の言葉だ。思い出というのは、映える写真を撮って、それを見返すことによって後から作られるものだ、という時代になった。
(2024.08.15)
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