26センチの球体と、回らぬ衝動

地球儀

今年の弊息子タケへのクリスマスプレゼントは、地球儀にした。

僕が子どもの頃と違って、今の世界は国の数がやたらと増えている。


僕の時代なんて「ソ連」という巨大な壁がそびえ立っていたものだが、今はそうはいかない。細分化された国々を老いた眼で識別するには、それなりのスペックが必要だ。老眼じゃなくたって、誰しもがヨーロッパ界隈の国を識別するのは大変だ。

というわけで、視認性を最優先し、ぱっと見一番デカかった「直径26センチ」の個体を発注した。

これをリビングテーブルの特等席に鎮座させる。

狙いは、家族でニュースを見ながら「今報じられたのはここだ!」と指差し確認する、いわばリアルタイム・地理ゲームの開催だ。

すると、彼はまだつたない筆致で、一枚のメモを残した。

「たいせいよう たいはいよう うみのなまえ」

・・・なるほど、そうきたか。

アメリカや中国、ロシアといった「国家のパワーゲーム」に目が行く大人を尻目に、彼はその間に横たわる広大な「海」を、世界の正体として認識したらしい。
この着眼点は、ちょっとした衝撃だった。子どもならではの、実にピュアな視点だという他ない。

しかし、観察を続けるうちに、僕の中にひとつの違和感が芽生えた。

僕が子どもの頃、地球儀とは「知の探究」の道具である前に、完全なる「物理玩具」だった。

限界の回転速度までベンベンと回し続け、摩擦で熱を帯びる軸受けに喜びを感じていたものだが、弊息子タケには、まったくといっていいほどその衝動が見られないのだ。

不思議だ。なぜ彼は、この球体を高速回転させて悦に浸ろうとしないのか。

ひょっとしたら、これは「素材」の問題なのかもしれない。

昭和の地球儀は、どこかメタル感のある材質で、回す際にも心地よい抵抗感と重厚な「回している実感」があった。

対して、令和の樹脂製地球儀は、あまりに軽やかすぎて、回転によるカタルシスをスポイルしている気がしてならない。

いくら回しても、なんだか気が晴れないのだ。

世界の広さを知った息子と、回転の快楽を失った父親。

リビングに置かれた26センチの球体は、今日も静かに、その温度差を映し出している。

なお、この巨大地球儀だが、テレビを見る際に邪魔になるので、ニュースの時以外は片付けられる運用となった。デカければいいってもんじゃなかった。

(2026.12.26)

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