「お七夜(おしちや)」という概念を、僕は今の今まで知らずに生きてきた。
平安時代から続く貴族の儀式だそうで、産まれてから七日目の夜に赤子の健やかな成長を願うのだという。
第一子タケの時は、そんな知識は微塵もなかった。当然、何もしていない。
スルーした実績がある以上、今回も「知らぬ存ぜぬ」で通す選択肢もあった。
そもそも、こういう儀式はやりだすときりがない。
バレンタインデーがチョコ業界の陰謀であるように、これもどこかの利権が絡んでいるのではないか?
天邪鬼な僕としては、「その手には乗らないぞ」という反骨心が疼く。
だが、せっかく無事に産まれてきてくれたのだ。
いし(妻)への労いも兼ねて、たまには「お祝い」という名目で美味いものを食う口実があってもいい。
振り返れば、誕生当日はそれどころではなかった。
予定日より早い急な破水、明け方の出産、しかも正月三が日の真っ只中だ。
お祝い膳を作る余裕などなく、家の中の動線確保と居場所作りに気を取られているうちに、気づけば一週間が経っていた。
仕切り直しには、ちょうどいいタイミングだったのだろう。
僕が腕を振るってもよかったのだが、今回は「お祝い感」という外見の説得力を優先した。
デパートへ走り、御赤飯が鎮座する立派なお弁当を調達してくる。

いしもタケも、並んだ御馳走を見て喜んでくれた。
やはり「赤」という色は、それだけでハレの日を演出してくれる。
食後は、メインイベントである「手形足形取り」の儀へと移行する。
便利な世の中になったもので、乾かせば何度でもやり直しができる専用台紙というものが売られている。
自宅用と両家の実家分、計3冊を用意した。
実家に送ることにしたのは、親孝行の気持ち半分。
「失敗して、あんまり綺麗に取れなかったやつを実家送りにしよう」という不届きな算段が半分だ。
だが、現実は甘くなかった。
相手は生後わずか一週間の新生児である。
手は常に「グー」の状態で固く結ばれている。
これを無理やりパーに開き、インクを塗り、台紙に押し付ける。
言葉で書くのは容易いが、実際は至難の業だ。
力を入れすぎれば児童虐待の域に達しそうだし、かといって加減すれば何も写らない。
「どこまで力を込めていいのか」というデリケートな境界線に尻込みし、結局、手形は無惨な汚れに終わった。
「せめて足形なら」
足の裏はグーにできない。勝算はある、と思った。
だが、首の座っていない新生児の脇を抱え、空中でホバリングさせながら台紙に着地させるのは無理ゲーだった。
UFOキャッチャーの如く第二子ちゃんを操作してみるが、狙った位置に降りてくれない。
諦めて寝かせた状態で足を押し付けたが、本能的に嫌がった彼が足を捻ったため、全ての台紙で足形は歪んだ。
やり直し可能という仕様に甘えていたが、こちらの精神が先に根負けした。
「もうこれでいいや」と適当なところで切り上げる。
理想と現実のギャップ。それが育児というものだ。
翌日、昨夜の奮闘を見ていたタケがお絵描きをしていた。

「おひちや」と書いてある。惜しい、タケ。それは「おしちや」だ。
江戸っ子のような誤字はさておき、絵の構成が興味深い。
巨大な手足の横に、謎のロウソクのような棒が二本。
彼に聞けば「筆だ」という。
どうやら、別の日に行った「書き初め」の記憶が、手形足形の記憶と脳内でマージされてしまったらしい。
大人が考える「覚えている」と、子どもの認識する「覚えている」は、全く別のレイヤーにあるのだろう。
さらに不可解なのは、中央に描かれた「赤い巨大な魚」に乗る赤ん坊の姿だ。
鯛か? めでたいから鯛なのか?
タケにそんな高度なメタファーが使えるとは思えない。
リビングを見渡して、ようやく正解に辿り着いた。
これ、第二子ちゃんが寝ている「ベッドインベッド」だ。
実物は地味な灰色なのだが、タケの目にはいつの間にか真っ赤な巨大魚として映っていたらしい。
子どもの視点というのは、なかなかどうして、予測不能で面白い。
(2026.01.08)

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