最近、初対面の相手に対する自己紹介で、僕はこう切り出すことにしている。
「趣味は子育てです。この歳になっても、乳幼児と毎日過ごしています。下の子が成人するのは僕が70歳の年なので、死ぬまで子育てをするつもりです」
これが僕の「鉄板ネタ」だ。
もっとも、ドッとウケるわけではない。ポリコレや多様性が叫ばれるこのご時世、初老に差し掛かろうという男が口にする「子育てフルベット宣言」を、無邪気に笑っていいものかどうか、周囲は一様に困惑する。
だが、それでいい。狙いは爆笑ではなく、相手の脳裏に消えない爪痕を残すことだ。話題作りのフックとしては、これほど強力なものはない。
最初は心底「子育ては趣味」と思い、夫婦で弊息子タケの奪い合いをしていたくらいだったのだが・・・二人目の弊息子リョウが生まれたことで、事態は「ネタ」では済まされない領域になってきた。
今の僕の生活は、仕事と育児。この二つだけで、一日の24時間が塗りつぶされている。
子供たちを寝かしつけ、ようやくパソコンの前に座る。
本来なら、この年代の男であれば、職場の同僚と親睦を深めたり、かつての仲間と旧交を温めたり、あるいは地域コミュニティへ参画して「老後の居場所」を耕しておくべき時期なのだろう。
しかし、僕にはそんな余裕が、1ミリも残っていない。
趣味の幅を広げるどころか、かつて持っていた趣味の領土さえ、育児という濁流に飲み込まれて久しい。
パソコンに向うといっても、子育て関連の事務処理などで相当時間がとられている。写真の整理も、子どもが二人になったことでとても時間がかかるようになった。
子育ては嫌いではない。むしろ、好きなのだと思う。
だが、その「好き」にすべてを注ぎ込むことが、結果として僕の「老後の可能性」を、知らず知らずのうちに狭めているのは事実だ。
子供たちが自立したとき、僕の目の前には、仕事も育児も失った空っぽの荒野が広がっているだけではないのか。
そんな本能的な恐怖が、最近は気になってきている。
さらに、二人目の存在が「親としてのスタンス」を複雑にさせる。
一人目、タケの時はすべてが新鮮だった。
「あそこの公園に連れて行こう」「四季折々の体験をさせてやろう」と、親としての思惑を存分に投影し、実験的な楽しさがあった。
だが、リョウに対してはどうだ。
タケの時に培った「ベストプラクティス」があるおかげで、育児そのものは効率化されている。しかし、その分、体験はマンネリ化し、どこか「義務」の色彩を帯び始めくるだろう。
一人目の際に学んだ経験を経て、より愉快な親子関係が築けるのか。
それとも、二人目には一人目ほど手をかけないという、ある種の「手抜き」に落ち着くのか。
正直なところ、自分でもスタンスが定まっていない。
「死ぬまで子育てします」
そう笑って言えるうちはまだいい。
だが、二人目育児という名の、マンネリと義務感、そして一人目の時の苦労体験をまた繰り返す事に対する怖さが入り混じった「終わりのないプロジェクト」を前にして、僕は今、かつてのような無邪気さを維持できずにいる。
かつてアワレみ隊で数々の無謀な挑戦に身を投じてきた僕だが、今、人生で最大かつ最も「逃げ場のない」挑戦の渦中にいる。その自覚だけが、妙に冷徹に、僕の頭の中に居座っている。

(2026.03.15)

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