「思考回路のリボ払い」コーナーにいろいろな商品紹介記事を書くことが多かった1ヶ月だった。
アフィリエイト広告目当てではないぞ、ということを言外に強調しておきたいので、敢えてAmazonのセール期間ではないタイミングに投稿している。
とっとと同時並行連載中の「のっとれ!松代城」の記事を書いてしまいたいが、あっちは面倒なのでなかなか筆が進んでいない。というのも、家族3人がでてくる旅行記なので、写真にモザイクを入れる作業があれこれ発生しているからだ。
観光地の情報やイベントのできごと紹介は、今や潤沢にSNSやwebサイトで知ることができる。僕がわざわざ旅行記という形で文章を書くのは、「僕という一人称で見聞きしたものを書き残す」ためだ。なので、家族の話なんてどうでもいいことをわざわざ書かなくても・・・と思う一方で、「いや違う、それこそが文章にする意義だ」と思い直している。
昔々、2000年前半頃はまだブログすら隆盛しておらず、SNSもほとんど存在していなかった。そういうとき、人々が情報を収集するのは、お気に入りのwebサイトの管理人さんが書く文章を読むことだった。webサイトの管理人、というのはキュレーターであり、啓蒙する立場の人でもあった。
今となってはそういう役割は全くなくなってしまった。時代は移ろう。
今は、むしろ「私的な話、個人的な感想」を書くほうがむしろ意義があると僕は考えるようになった。僕の考えが変わった、というより個人サイトの立ち位置が相対的に変わったのでそれにチューニングを合わせているに過ぎない。
もちろん、内輪話をダラダラと書いて、しかも「どうです、僕らって面白いでしょう?」と読者に内輪ネタをひけらかすのは最悪だ。これは昔も今も変わらない。そうではなく、キュレーターとして振る舞おうだなんて偉そうなことは考えず、あくまでも自分の生き様、自分のフィルターを通して見える光景をエンターテイメントとして文章にすることが大事だ。
僕はというと、「エンターテイメントとして文章にする」というのがずいぶん苦手になった。昔は、もっと比喩を多様し、ふざけた文章を書くことを心がけていた。しかし今では、歳とともに文章が硬直化してしまった。
たぶん、脳の老化という現実があるとともに、このコンプライアンス遵守時代において、下手なことが書けなくなったことも理由にある。
このサイトを遡ると、僕が1992年に書いた文章まで遡って読むことができる。大学1年生のときの文章なので、そりゃあもう荒々しい内容だ。当時は冗談で書いているが、今これと同じ文章を書くと、冗談では済まされないような内容だ。
小山田圭吾問題で再認識されたように、昔は、特に80年代から90年代にかけては露悪的な表現がカッコいいとされている時代だった。社会的にNGとされる表現を敢えて使うことで、お行儀よく取り繕っている奴らを見返してやっている感覚があった。
でも今は違う。お行儀良さが大事。というか、お行儀良さの背後に隠れているお行儀の悪さ、なんていう二面性がそもそも希薄な存在になってきた。「道路交通法を破って何が悪いクソポリ公」とか思わないもんな。冗談でもそういうことを書こうと思わないし。
90年代という露悪的な時代に僕は身をおいていた、ということもあるし、若いからこそ熱量がある悪口(中には差別的な内容も含む)が書けたのだろう。歳をとってくるとどんどんそういう文章は書けなくなってくる。エネルギー切れだろう。
(2024.10.01)
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