半世紀の時を経て、自分が読んだ本を子が読む

弊息子タケは、僕が47歳のときに生まれた子どもだ。

だから、ざっと半世紀分の年の差がある。

僕の母親が、昔気質の人でいろいろなものを保管したがる性格だ。なので、僕が赤ちゃんのときに着た服や、赤ちゃんのときに遊んだおもちゃが未だに実家に置いてある。それがタケのものとして再登場すると、ざっくり半世紀ぶりの再登場ということになる。ものすごい年月の経過だ。

僕が子どもの頃に読んだ絵本を見つけ、タケに読み聞かせる。それは、自分の記憶の追体験であると同時に、半世紀ぶりに自分の脳のシナプスが繋がった瞬間でもある。

「だるまちゃんとかみなりちゃん」「そらいろのたね」といった本を読み聞かせると、自分も半世紀ほど前にこれを読んだな、とぼんやりと思い出してくる。

子どもの頃の記憶というのは、自分にとって愛おしいものだ。自分がなぜこの絵本が好きだったのか、思い出しながら我が子に読み聞かせる。しかし、たぶん2歳の彼にはまだ時期尚早のようだ。ただなんとなく、面白そうに本を眺めているだけだ。たぶんこの読み方だと、彼の記憶には残らない。あと1年後ないし2年後くらいに読んだ本が、思い出の絵本として彼の心にとどまるようになるのだろう。

また、親が同じ絵本を彼に繰り返し読み聞かせるということも大事だと思う。僕の家には本格的な本棚がなく、絵本は図書館で借りてきた本が多い。図書館は豊富な在庫で様々な知的体験を提供してくれるが、サブスクの音楽のように記憶にとどまりにくいという欠点がある。

彼の今後の「良い幼少期の思い出」作りのためにも、家に本棚を作って蔵書を多く持ったほうがよいのか、僕はちょっと考えている。

(20223.03.30)

コメント

コメント一覧 (3件)

  • ご子息の記憶に残るかどうか…と書いておられますが、内容までは覚えていなくても「お父さんが読んでくれた」という記憶は意外と残っているものだと思いますよ。自分の場合、今のタケちゃんと同じくらいのときに祖父が読み聞かせてくれた紙芝居の、声のトーンや内容を今でも覚えています。ただ祖父の場合はガチガチの教育者だったので、教育的効果であったり読み聞かせの対象(=僕)の理解度を確かめる意図のほうが大きかったような節もありますけれど…

    それとは別に、「今のこの子には難しいかも…」という危惧も、親が思うほどには無いのかもしれないな、とも思います。というのも、父親が昔読んでいた本を息子に読み聞かせる、というシチュエーションがかつて我が家でもあって、その経験からなんですが。
    父が少年時代に大好きだった本を、自分が小学校低学年の頃に読み聞かせてくれたことがあったんです。
    その時は自分にはまだ難しすぎてあまり興味が持てなかったんですが、もう少し大きくなってから本棚にあったその本を読み返してみたら本当にワクワクして、しまいには全く同じ本(当時モノ)を探して自分用に買ってしまったくらい。昭和37年の刊行なので超レトロなんですが、翻訳ものの場合訳者によってかなり印象が変わっちゃったりするので全く同じものがほしかったんですよね。

    ですので、「親が同じ本を繰り返し読み聞かせる」ことが大事だというのには大賛成ですし、家に本棚を作って蔵書を多く持ったほうがよい、というのも「その通り!」だと思います。仮に読み聞かせの機会がなくても、子ども自身が興味を持って、もしくは暇つぶしだったとしても読んだり、という機会にも繋がるので。
    モノがなければ、「昔読んでもらった本、どんなお話だったっけな」と後年思ったとしても触れる機会がないですものね。
    「読書体験」とひとくちに言ったりもしますが、それって「その本に触れたシチュエーション」も込みだと僕は思っていて。なんなら本の内容よりも、「親が自分のために読んでくれた」という思い出のほうが大事だったりするケースもあります。具体的な話をすると、これまた個人的な思い出話になっちゃうんですが、子供時代に母が読んでくれた宮沢賢治とか水上勉とか。正直なところ、私どちらも好きじゃありません。特に宮沢賢治の作品に関して言えばむしろ嫌いなくらい。(ついでに言うと読み聞かせた張本人の母も、そもそも本人が大の読書嫌いだけど教育的効果のために無理してたらしく。なので父タイプではなく祖父タイプですね)
    でも、それ込みで「思い出」なんですよね。その思い出を追体験したいからなのか、時々ふと宮沢賢治を読み返したくなったりするんですよね。
    そういう意味でも、「本」って、子供の人格形成に重要な役割を持ってると思うんです。

    家にあった蔵書が今の自分の一部になってるという思いが強いあまり、つい長々と自分語りしてしまいすみません(汗)

  • 私も昔から本や新聞の虫でしたが、料理の本とか時刻表、新聞は読み漁った記憶がありますねぇ

  • 一平ちゃん、ティータさん>
    宮沢賢治の作品は、子供心に「これの何が良いのだろう?」と不思議でした。たぶん、作品に触れるタイミングによって心に響くかどうかって違うんだと思います。

    時刻表を読むのは楽しい体験でしたね。今、そういう体験は一部の好事家以外はやらないので、惜しいことです。しょうがないことですが。時刻表はどの会社が発行しているもので、どのサイズのものだと自分にとって見やすい、という好みが細かくあったのも懐かしい思い出です。

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