ドドン効果

公園に遊びに行った際、弊息子タケは落ちていた木の枝を2本拾った。そして樹脂製のカバの上にまたがり、木の枝でカバをポコポコ殴り始めた。

やめて!動物虐待ごっこをやっているの!?

というのは過剰反応で、おそらく彼は盆踊り大会で見た太鼓のマネをしているらしい。時折、えいやっとポーズを決めてみせる。

2歳の頃の記憶なんて大きくなってからは何一つ覚えていないものだ。だから子どもが小さいうちからあっちこっちに連れて行くのは意味がない、お金の無駄だ、という人がいる。その意見にある程度は同意するものの、そうはいってもやっぱり「記憶に残らないような年頃の体験であっても、その後のキャラクター形成に何らかの影響を与えるのではないか」と思っている。

ただ、刹那的にあれもこれも、いろいろな娯楽や体験をさせてもダメじゃないかと思っている。それは単に子どもに刺激と一時的な興奮をもたらしているだけではないか、と。何か、いろいろな体験を「点」ではなく「線」でつながるように、ストーリー立てを親として考えておくのが良さそうだと考えている。

「線」といっても、それが太い実線である必要はなく、「破線」や「半透明の線」で構わない。

(2023.08.13)

コメント

コメント一覧 (2件)

  • それと、「子供時代の出来事や体験を親がしっかり記憶しておくこと」も大事だよな、と実体験を通して強く思います。おかでん家は大丈夫でしょうけれど。
    というのも、「2歳の頃の記憶なんて大きくなってからは何一つ覚えていない」とも言いきれなくて、本当に断片的だったり、象徴的な一場面だけだったりしますが覚えてることもあるんですよね。もう少し大きくなってからでもそれは同じで、前後の経緯とかは覚えてなくてもほんのちょっとした記憶だけが残ってたりする。
    自分の場合は、「駅前のあの辺り(覚えてない)にあったお店で、生まれて初めてカキフライを食べた」とか、「めったに外食をしない家だったのに、家族で中華料理を食べに行った」とか。食い気ばっかやん、って言われそうですが、他にも親の実家に帰省した時にどこかの公園(覚えてない)に遊びに行って、その時車に跳ねられかけた」とか。ほんとうに一場面。
    そういうことを後から思い出して、「あれってどういう経緯だったのかな?」と思って親に尋ねても、「そんなことあったっけ?」って言われちゃうことが本当に多いんですよ、うち。特に母親が顕著で、過去の思い出なんかに囚われない主義が影響してるっぽい。
    子供大人問わず、記憶って時々取り出して追想することで補強される面があると言われますから、そりゃ思い出さなきゃ忘れちゃうわなと。
    前述の「あれってどこだったっけ?」とか「あれは何故?」はまだマシな方で、「あの時家族で〇〇行ったよね」って、家族で共有してる思い出だと思ってたことについても「そうだっけ?」って返されるのはちょっと切ないものがあります(苦笑)

  • 一平ちゃん>
    これ、いつか独立して記事にしようと思っている話なんだけど、
    「幼少期の断片的な記憶って、本当に当時覚えていた記憶?」ということを疑問に思ってます。
    たとえば僕が持っている一番古い記憶は3歳のときのものなんだけど、これはこれまでの人生で何度も「一番昔の思い出」ということで思い返してきたので、記憶が補強されてきた側面がある。

    芸人がフリートーク用のエピソードトークを持っているように、、何度も「あのとき、こういうことがあった」ということを反復することで記憶が補強される。
    または、「昔のことを記憶している」ということを記憶する。

    そうなってくると、一体記憶っていうのは何なんだ、と根源的な疑問を持つようになってきます。
    何らかの体験をしたその瞬間をスナップショットしたものが記憶だと思っているけれど、記憶を記憶する、ということもあり得るからです。

    最近の子どもは、生まれたときから成長の過程で何百枚、何千枚と親からスマホで写真を撮られまくっている。
    なんなら、GoogleフォトやAlexaで、「◯年前のあなた」というレコメンドで昔の写真が勝手に表示される。
    そういうのに慣れてしまうと、記憶の記憶、または記憶の改ざんというのが日常茶飯事で起きてしまうはずで、令和時代の子どもたちの「過去の思い出」というのは昭和時代までの人たちと違う光景だと予想します。

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