日常の平穏に退屈しているくせに、かと言ってかつてのように「無茶してナンボ」と無謀な大食いに身を投じるフィジカルな気力も残されていない。そんな50代を迎えた中年の胃袋が、もっとも手軽に「非日常の昂ぶり」を体験できる精肉の聖域。それがシュラスコレストランだ。

今回は僕の誕生日という、これ以上ない大義名分を世間に掲げ、その業界の最高峰に君臨する名門「バルバッコア」の門を叩くことにした。
ご存知の通り、シュラスコという業態はビジネスモデルとして非常にお高い。おいそれと日常使いできるようなお店ではない。
ただでさえ塊肉を贅沢に使うため原材料費が高騰するのは火を見るより明らかなのだが、加えて、串に刺さった肉をこれでもかと客席に運び続ける「肉の宅配人」たるスタッフが常時フロアを回っていなければ成り立たないスタイルだ。
つまり、人件費の塊のようなシステムだ。しかも、恐ろしいことに「食べ放題」という狂気のオプションまで標準装備されている。
結果として、僕のようなしがないサラリーマンの財布をガツンと脅かすお高い値付けになるわけだが、いざ足を踏み入れると、そのお値段に「納得せざるを得ない」圧倒的なクオリティに、毎度のごとく唸らされることになる。

戦いの火蓋は切って落とされた。しかし、このお店の本当の恐ろしさは、肉の前にそびえ立つ前衛陣地にある。
シュラスコレストランにサラダバーがついているのは珍しくもないが、このお店のサラダバーはクオリティがめちゃくちゃ高い。もはや「サラダ」という牧歌的な響きから完全に逸脱している。
テーブルに盛り付けられた料理や珍しい野菜の品々の美しさ、そしてその味の良さは、肝心のお肉が来る前だというのに僕の気分をこれでもかと昂らせてしまう。
「どれから取ろうか・・・」
品数がとっても多いので、ここで欲望のままに皿を満たしてしまえば、本陣であるお肉を迎える前に胃袋が「終戦」を迎えることは確定だ。

僕は自らに「計画的に、かつ冷徹に摂取せよ」と言い聞かせ、慎重にトングを握りしめる。野菜を摂取して健康になろうという目論見ではない。単に、この圧倒的な情報量を前にして、元を取らねばならぬという貧乏性がバグを起こしているだけだ。
ついに、ピキニ(イチボ)やアルカトラ(ランプ)といった肉の重罪人たちが、鋭利な串に刺さって次々と僕のテーブルへと押し寄せてくる。
目の前で巨大な肉が切り落とされるエンターテインメント性は本当に楽しいし、一口目は文句なしに美味しい。誕生日の夜を華やかに彩ってくれる最高の瞬間だ。
だが、シュラスコという料理には、食べているうちに牙を剥く致命的な罠が潜んでいる。
最初はあんなに喜んでいたお肉なのに、擦り込まれた強烈な「塩のしょっぱさ」が、確実に、そしてジワジワと僕の舌と胃袋を疲弊させていくのだ。脂の重みではない。塩分による波状攻撃の前に、僕の胃袋は早い段階から防戦一方だ。
実は案外、お肉をバーンと一直線に食べられないのが、このお店の、いやシュラスコ店というものの構造的な限界なのだと思う。
塩分に麻痺した舌をリセットするため、僕は箸休めに再びサラダバーへと足を運び、焼きパイナップルの甘さに救いを求めることになる。
パンパンに膨らんだお腹をさすりながら退店する。
「お肉をいっぱい食べたなあ」と、上質なプロテインを堪能した満足感に包まれているかというと、これがそうではない。
美しき野菜、ブラジル伝統の濃いめのお惣菜、強烈なしょっぱさの塊肉、そして口直しに貪り食ったパイナップル。それら全てが胃袋の中で渾然一体となり、「なんかいろいろいっぱい食べた」という、ごちゃまぜ感を伴う満腹感だ。
誕生日という特別な夜に、己の煩悩の深さと胃袋の現在地を再確認させられる、そんなバルバッコアでの時間だった。
肉なしの、サラダバーだけでサービスを提供してほしいのだが、残念ながらそれはやっていない。(銀座8丁目に、ランチタイムにサラダバーだけというメニューを提供する系列店があったが、今は閉店している)
(2026.02.04)

コメント