縄文―1万年の美の鼓動@東京国立博物館 平成館

縄文―1万年の美の鼓動@東京国立博物館 平成館

東京国立博物館で時々企画展として展示される、古代インドやインダス文明とかマヤ文明とか、そういうのを見るたびに感じることがある。

「それに比べて当時の日本は・・・。」

この一言に尽きる。

緻密かつ写実的なものが紀元前●世紀から作られれていた諸外国と比べて、日本の土器や土偶のオモチャ感覚たるや。

もちろん、そこから今日の日本まで進化できたというのは、素晴らしいことだと思う。しかし、島国というハンデキャップが、昔の日本においてどれほどまでに文化的遅れを取っていたのかというのはまざまざと分かる。

恐らく、日本人的な合理性のない性格とか、同調圧力とか、そういうのもこういう文化の遅れから醸成されたんだと思う。

そういう認識が僕にはあるので、今回の縄文から弥生にかけての土器の展示については、あまり期待していなかった。「いやー、やっぱり日本の土器には日本ならではの凄さがあるよ」という、わかった風な感想を抱いておしまい、という結末が目に見えていたからだ。

縄文―1万年の美の鼓動@東京国立博物館 平成館

実際その通りではあったのだけど、やはり間近に見る縄文式土器は迫力がすごい。火焔型の土器の、「何でこんな謎めいた形に精魂込めたんだろう?」という不思議さや、土偶の奇妙さは、見れば見るほど不思議だし興味が尽きない。

土器自体よりも、当時の人たちや権力者が「このデザイン、めっちゃクールやんけ!」と思ったであろうその価値観というか、時代背景というのがすごく興味がある。だって、土器は使いづらいし、縄目の模様が入っていてもそんなに美しいとは思えない(21世紀の美的感覚で捉えた場合)。

あと、あれだけ複雑な土器を作る技術があったのなら、せめてもう少し写実的な人物像を作ろうとは思わなかったのだろうか?現存しているものがたまたまオモチャ的なものばっかりなのかもしれないが、それにしても人間を精密に模写しようというベクトルが殆ど見られないのは、清清しいくらいだ。

昔のオカルト雑誌を読むと、「土偶は宇宙人を模したものだ」と書いてあったっけ。宇宙人から技術を提供してもらって、古代人類は進化を遂げたのだ、とも。まあ、この作品群を見ると、そういう気にもなる。

唯一、現物と近い姿をしているな、と思ったのはイノシシの土偶。なんでイノシシだけは精密なんだよ、と思った。ついほっこりしてしまい、帰り際にそのイノシシの絵葉書を買ってしまった。

(2018.07.08)

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