オカ・デウス
こういうこっちゃないんだよなあ、と書きながらいつも思っている。
本当は、もっと細かい、本当に細かいレベルでの子どもの成長や親の気づきを文章にしたいんだ。
今でもそれはやっているけれど、写真を撮ってそれにコメントをつけているようじゃ、まだまだメッシュが粗い。
本当に書きたいのは、弊息子の「ふとした仕草」や「わずかな変化」を針小棒大に僕が解釈する、ということだ。人間とは何か、というもっと哲学的な問いを自分なりにしてみたいと思っていた。
しかし、写真をもとに文章を描くと、そういう機微がまったく表現できない。もっと大げさな、単なる親バカなエピソードトークになってしまい、残念だ。
僕が本当に書きたい文章にするためには、「今日、こんなことがありました」というくらいの速報性を確保することだ。僕が「おっ?」と思った些細なことを忘れないうちに記事を書きたい。
で、だ。現状どうなっているのかというと、だいたい4ヶ月遅れくらいで、過去のタケについて文章を書いている。どうするんだこれ。いつまで経っても追いつけないぞ。
「アキレスが亀に追いつこうと歩いているうちに亀は前に進むので、アキレスはいつまで経っても亀に追いつけない」というゼノンのパラドックスを思い出した。
子どもの成長話なので、時系列を無視して文章にするわけにはいかない。そして、「オカ・デウス」は第三者から見て大して面白いコンテンツじゃないことを自覚している。なので、このコーナーの記事ばっかり書いているわけにもいかない。
ずっと追いつかないだろうなぁ。
で、そうこうしているうちに、彼はどんどんいっちょ前の子どもとして成長していく。そうなると、彼を描写することがとても難しくなる。というか、多分彼のプライバシー権を守るためにも、更新を止めることになると思う。なんだ、やっぱり駄目じゃん。
激辛グルメ駅伝2022

連載終了。連載もさることながら、今年の激辛グルメ祭りは楽しかったけど大変だった。その印象がとても強い。
今回開催して思ったことが2つある。
- オフ会形式にして、新しい方や久々の方と出会えることは本当に素晴らしいことだ。
- こういう企画にどんどんつるめる、気さくな「友達」を増やさなくちゃ。
今回、初めてお会いした方1名をはじめ、3年ぶりの再会となった方、つい最近会った方といろいろな方とご一緒した。やっぱり、「オフ会」という形でオープンに参加者を募る企画は定期的にやっていきたいものだ。
このサイトは読者数が数名、1日あたりのページビュー数は牛の胃の数程度、という小規模なものだ。でも、オフ会にお目にかかる方は「以前から読んでいました」とおっしゃる方が多い。いやまあ、「最近のにわか読者です」とは言いづらいから、そういう人は言わないだろうし参加しないのだけれど。(以前、このサイトの記事をほぼ読んだことがないけどオフ会に惹かれて参加した豪傑がいた。いいなあ、こういう人。また来てくれないかなあ)
「誰からも読まれていないサイトなんだから、オフ会という不安定な形で企画を立てないほうが楽だ」
といつも思うんだけど、手を挙げてくださる方がいらっしゃるので、間口は広げておこうと思う。
一方で、「誰も来なかったら企画が成立しない」という状態だと、僕が困るし、ソワソワしてしまう。最低限企画が成立するだけのメンツを気さくな仲間たちで確定させておいて、そこからプラスアルファのメンバーを募る形にしていきたい。
身内の不幸
身内の不幸があったため、更新が一時停止していた。
近親ではあるけれど直接血縁がない方の不幸だったので、葬式という一連の儀式を冷静に見ていた。宗教ってなんだろうね。あまりに儀式的すぎて、これによって本人も家族も安らかになれるのか?と、葬儀社の方からの説明を聞いて不思議に思った。
お供えはこういう形で、とか、神棚には半紙を貼る、とか、正直どうでもいい、と思った。ただ、お亡くなりになった方の直系の親族にとって、こういう様式を執り行うプロセスで故人への思いを新たにするのかもしれない。僕があれこれ言う立場にはない。
でも、肝心の直系親族が、葬儀の日に「これから忙しくなるから急いでご飯を食べなくちゃ」とスーパーで買ってきたとんかつ弁当を食べたり、「故人が好きだったから」とお刺身を食べたりしていた。つまり、精進という概念はまったくない。
この事実を改めて目の当たりにして、結構僕なりにびっくりした。いかに宗教が無力であり、マナー警察にすぎない存在になっているか、ということを見てしまったからだ。
結局、しきたりがどうのこうの、とマナー警察のようにうるさく言う時代は終わって、個々の遺族が自分たちなりの弔いをすればよい、という時代になってきたということだ。せいぜい、宗教的なお作法に詳しい親族があれこれ助言をしてくるので、それに話をあわせる程度か。
とはいっても、たぶん僕の直接の親兄弟が亡くなったら形式に則った形を採ろうとするだろう。「形式に沿うことが正しい弔い」とばかりに。当事者というのはそういうものだ。
でも、「神棚に半紙を貼る」みたいな話って、僕らの日常生活の中では思いつかない発想だ。だって、神道に詳しくないし信者でもないのに神様に手を合わせているだけだから。お願い事だけしているのが現状だ。
だから、「過去からの形式に沿った形で」と思っていても、どんどんそういった形式は忘れられていき、伝承されなくなり、消えていくのだろう。むしろ僕はそれでいいと思う。
僕は次男坊なので、先祖からの宗教からは独立した存在になる。「どういう形で自分の死を迎えるか」というのは、そろそろ真剣に考えておきたい。たぶん、お坊さんを招いて仏教形式でお葬式をやっても、僕自身はありがたい気持ちにはならないと思う。棺桶の中に六文銭とかわらじとか、入れなくていいし。
少なくとも、遺族が「きっとこういう葬式を望んでいるだろう」と勝手な忖度をして、あれこれやらなくて済むように「こういうことはやらなくていいですリスト」は作っておきたい。
この葬式後、実家の父親に「どういう最期を望んでいる?」と聞いてみた。すると、父親は
「死んだら魂が残る、ということなど信じていない。死んだら土に還るだけだ。だから、故人の思い入れの品とか入れなくていい。余計な演出は一切しなくていい」
と言っていた。おお、さすが我が父。しかし、僕が「では、戒名は?」と聞くと
「戒名はなぁ・・・おじいちゃんが◯◯だったから、それと同じものだろな」
と言う。えっ、そこは「戒名はいらない」とか「お坊さんへのお布施が一番少なくて済むものでよい」じゃないのか。
「お墓は?」
と畳み掛けるように聞くと、
「それは今後の課題だ」
と言葉を濁した。ああ、やっぱり難しいな、いくらでも子孫に忖度の余地が残る。
※この話は編集後記じゃなくて一つの記事として独立させてもよいのだけど、宗教批判的にとられてもおかしくない内容なので記事にはしなかった。
今月のBGM
新しい発掘はなし。
先月紹介した、JAZZTRONIKをランダム再生している。
先日、アワレみ隊のジーニアスと会った際に「最近、何を聴いてる?」と質問してみた。大学時代、彼から「洋楽くらい聞かないとあかんよ、もっとHMVとかWAVEとかVirginに行って新譜を視聴しなさい」と言われたことを強く覚えているからだ。
で、実際二人で新宿のVirginに行って、誰やねんこいつ、という海外アーティストのCDをあれこれ買ったものだ。
アルバム1曲目を店頭で視聴して、「これええやんけ!」と思ってCDを買うんだけど、キャッチーで耳障りが良いのは1曲目だけで2曲目以降微妙、というヤツに何度出会ったことか。でもそれがいい。今みたいにサブスクなんてないので、CDを買った以上はしゃぶり尽くすように聞き続けたものだ。
今年の年末、本田雅人がT-SQUAREライブに参戦する!というビッグニュースに血がたぎる思いだ。で、ついつい本田雅人のYouTubeチャンネルを見たり、おそらく著作権侵害と思われるT-SQUARE、THE SQUAREのライブ映像を見たりするようになっている。
でもこれはBGMには不向きだ。もっと淡々としていないと、気が散る。ライブ映像をBGMにした場合、「おっ!?このアレンジは聞いたことがないぞ」とか、「この日のバンドはどんな機材で演奏しているんだろう?」とか映像が気になり始める。仕事にも、文章執筆にも邪魔なので、見ないようにした。
JAZZTRONIKは、ダンス的でありポップでありジャズであり、ムンムンしない程度の色気があってとてもいい。ボーカル曲もインスト曲もあるけど、どちらも作業の邪魔にならずにテンションを上げてくれる。
いっとき、DEDE MOUSEが好きすぎてしこたま彼の曲を聴き込んでいた。今でも好きなのだけど聴きすぎたのと、もう少しそっけない曲のほうが僕の脳みそへの負担が減る、と思って最近は聴く量が減った。
昔は深夜のオールナイトニッポンを聴きながら勉強をする、なんてできたものだ。しかし歳を重ねるとどんどん脳のマルチタスクができなくなってきた。BGMを聴きながら作業、というのも、曲を選ばないと言葉を文章にしづらい。
たぶんカナル型イヤホンのせいもあるんだろう。カフェのBGMなら何が流れていても比較的平気なんだけど、カナル型イヤホンだと脳に直接情報を流し込まれる感じがして、思考が邪魔される。ソニーが出しているような首掛けスピーカーを使うのがBGMには向いているのかもしれない。でも、そういうデバイスを買ってまでBGMをあれこれ聞くつもりはないけれど。
(2022.11.01)
コメント