いくつも間違いを犯し、自分がクソジジイ化していることに気づく

夫婦で自転車を漕いで、清澄白河にあるカフェに行った。初めて訪れる店だ。

車が通れないような狭い道の先にそのカフェがある。ロースタリーも兼ねていて、隅田川の護岸に向けて煙突を突き出している。そのせいで護岸ギリギリのところにお店の入口があるらしかった。

道がわかりにくいので道中にお店の看板がでている。その矢印に沿ってお店に到着し、お店の前に自転車を駐めた。

店内に入ってしばらくすると店員さんがやってきて、「店の前に自転車を駐めたのはお客様ですか?店の前は駐輪場ではないので、店の裏側に回って駐めてください」と言われた。えっ、そうだったのか。

頭をかきながらぐるっとお店の裏手に周り、指定された場所に自転車を駐めた。

途中にある看板を見てみると、確かに入口はこっちだけど自転車で来た人はこっちに駐めてね、と矢印が書いてあった。この看板、自転車で通り過ぎる時も僕らは見ていたものだ。でも、矢印の向きがどこを指しているかわからなかったので、店の入口に向かってしまったのだった。

「しまったしまった、最近の新しいお店はおしゃれなデザインやフォントを使うので、文字が小さかったり直感的でないデザインなんだよな。見落としていた」

と反省。

でもマジで、なんで最近は「文字が小さい」「しかも細字のフォント」「さらに、文字間のスペースが無駄に広い」んだろうな。フラットデザインが流行った10年くらい前からの潮流なのだろうか。

そんなデザインにとっさに追随できなかった自分のミスだ。

このお店は、ドリンクのオーダーは店員さんをテーブルに呼んで行うものの、フードのオーダーはカウンターまで行って別途しなくちゃいけないというちょっとかわったルールだった。ちょいとわかりにくい。

で、フードのオーダーのためにレジ前に並んだら、「そちらはお会計出口です。入口はこっちです」と違う方向を指示された。いけない、ここでもお店のルールに気付けなかった。

一瞬、「何だよ、店によってはレジ待ちの列に対して『入口』『出口』ってちゃんと張り紙が掲示されるじゃないか。ここはなにもないぞ。不親切だな」と思った。でもその考えはわずか1秒であり、その後は「うわあ、自分が老いた証だな」という反省と恥ずかしさでいっぱいになった。

先ほどから、「字が小さい」「説明がなくてわかりにくい」と不満に思っているのって、僕らが見てきたザ・お年寄りそのものだったからだ。

で、そういうじいさんばあさんを見て、僕は「それくらい状況判断しろよ。面倒くせえ奴らだな」と思っていたものだ。

しかしどうだ、今度は僕がまさに同じ状況になってきているではないか。ああー。

たぶんこのお店に全くの非はなく、若い世代であれば看板の文字やお店のシチュエーションで、あらゆるルールを即座に把握できるのだろう。たとえ言語化されていなかったとしても。

一方の僕はというと、そういうものを「察する」力が衰えてきている。これが老い、というものなのか!

これまでも「老い」というものはあちこちで感じてきた。柔軟な思考力だとか、体力とかだ。しかし、今回のように「認知力」が低下しているという現実をまざまざと実感して、心底震え上がった。いよいよ自分も年寄りになったぞ、と。

歳を取ることを恐れてもしょうがない。ただ、「自分は老いつつある」ということをちゃんと自己認識し、それに見合った立ち居振る舞いをちゃんとする、ということは心がけようと思う。少なくとも、若者の邪魔はしないように。

(2024.09.30)

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