3歳児でも闘争本能はある

節分。

あちこちの神社で、豆まきが行われる。

僕が広島に住んでいた頃、そんな文化は知らなかった。単に無知だったからなのか、東京中心の文化なのかはわからない。

神社の拝殿でお祓いを受けた人が、豆をはじめとしてお菓子やカップ麺などを壇上から撒く。豆はバラバラにばらまくのではなく、あらかじめ数十粒単位に詰められた小袋をまく。

成田山新勝寺や浅草寺などでは、芸能人などの著名人が豆を撒き、それがニュースになる。そういう神社やお寺だけが豆まきをやっているのかと思いきや、ごく普通の近所の神社でもやっているから驚きだ。

例年、僕はあちこちの神社の豆まき時間を調べ上げる。まずはこっちの神社に行って、次はあっちの神社に・・・とハシゴすることを画策するからだ。しかし実際は1つの神社で気力体力を使ってしまい、次の神社まで自転車を漕ぐ気になれず、そのまま家に帰る。

今年は弊息子タケを肩車し、壇上から投げられるお下がりものをキャッチさせようとした。

しかし、動体視力がまだまだ発達していない3歳児だと、高速で飛んでくる豆などを即座にキャッチできる身体能力がない。そのため、「ちょーだーい。こっちにちょーだーい」と叫ぶ声虚しく、彼はほとんど豆をキャッチできなかった。

周りの大人たちが憐れんで、そして「ちょーだーい」という声を可愛いと思ったのか、豆まき後に自分の戦利品をお裾分けしてくれたくらいだ。

そのとき彼の顔を見たら、親でも見たことがない、真剣に怖い顔をしていた。「もっと遊びたいのに!」などというときに見せる怒った顔とは違う、目が座った状態でギョッとした。子どもでも、殺気立つことがあるんだな。

ちなみに、僕はバケツを持参していたので、バケツで豆をキャッチしていた。こんなことをやるのは、王貞治のホームランボールをキャッチしようとして、野球場の外野席にグローブを持って出かけたとき以来だ。

家族三人、まあまあな数の豆やお菓子をいただくことができたので、ご満悦のタケ。帰宅後、鬼に扮してソファでくつろいでいた。

神社での豆まきは、壇上の人たちは「福は内」と叫んで豆を撒く。「鬼は外」とは言わないので、結果的に我が家に鬼が居座っちゃった。

余談。
豆まきは、最初はゲーム感覚でワクワクしながら楽しめるのだが、だんだんイヤーな気持ちになってくる。昨年も感じたし、今年はもっとその印象を強く持った。
金持ちに群がる貧乏人、という構図だからだ。
バケツを持って待ち構えている自分もさることながら、周囲の大人が地面に落ちた豆に群がったり必死になっている様子は、ちょっと僕は嫌な気持ちになった。「必死になっている人が密集している」というシチュエーションに慣れていないため、恐怖を感じたのかもしれない。
その一方で、壇上に登っている人たちは余裕の表情だ。壇上と地べたの人のギャップを見て、ますます「一体何をやっているんだろう、自分たちは」という印象を持った。生きるか死ぬかの鉄骨渡りをやっているカイジたちを、酒を飲みながら鑑賞して楽しんでいる金持ちの構図だと思った。
極めつけに、どっかの金持ちのボンボンらしき子どもが、手にした豆をピッチャーのように投げつけているのを見てますますイヤな気持ちになった。放物線を描くよう優しく投げればよいのに、まっすぐ投げるから、豆を投げられた方向の人は逃げなければいけない状況だった。何だこの構図は。

(2024.02.02)

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