飯能河原強化天幕合宿

全員集合!

日 時:1995年(平成7年) 4月5日~7日(2泊3日)
場 所:埼玉県飯能市入間川河川敷 通称「飯能河原」
参 加:ちぇるのぶ、おかでん、ジーニアス、ばばろあ、しうめえ、しぶちょお、けじん(以上7名)

3月に飯能河原でBBQをやったばかりのアワレみ隊だったが、4月に入ると早速次の作戦にとりかかった。さすがに3月に天幕合宿となるとキツいが、4月になれば水温む季節。天幕を張っても手痛いしっぺがえしはくらうまい。実際、昨年に4月合宿の実績がある。あのときは明け方寒くて目が覚めたものの、耐えられないほどではなかった。

4月といえば花見、という発想は当時全くなかった。バブルの余韻覚めやらぬこの時代、花見といえば「今日は始発で場所取りにやって来ました」と若手社員が眠そうな顔をしてテレビのインタビューに答える・・・そういうイメージしかなかった。「そういうものは大衆迎合的である。われわれがやるのは恥ずかしい事だ、ケッ」と、完全に花見から背を向けていた。学生時代というのは、とにもかくにも青臭いんである。

4月といえばもう新年度。何を暢気なことをやっているんだ、となるが、こちらはモラトリアム真っ最中の学生身分。4月に入ると、そろそろ新年度の授業決めなくちゃいかんなーと考え出す時期であり、まだまだ春休みの真っ最中なのだった。実際問題、今回の天幕合宿にはアワレみ隊隊員のうちどうしても都合が付かなかった蛋白質以外、全員の参加が実現した(途中参加含む)。

目指す場所は、相も変わらず飯能河原。この頃、新しい天幕合宿場所を探そうと、おかでんは飯能河原がある入間川を遡上偵察してみたり、さらに山奥である秩父まで何度も出かけていた。しかし、「そこそこ近くて、お店(食料、ガソリン、酒)が身近にあり、水とトイレもあり、そして何よりも人気があまり多くない場所」という非常に我が侭な要求に応えてくれる場所は飯能河原以外見つからなかった。まあ、飯能河原に何一つ不満はないので、結局今回も飯能河原に全員集合!

1995年04月05日(水) 1日目

荷造り中

今回は全員集合の名にふさわしく、名古屋勢であるちぇるのぶとしぶちょおも集結。わざわざ2泊3日の野宿のためにやってくるフットワークの軽さ。これも学生の特権だ。

なにせ時間だけはある。学生にとって、都市間移動というのは言うまでもなく「青春18きっぷ」であり、新幹線だのマイカーだのという発想はない。体力も有り余っており、大垣夜行(当時は「ムーンライトながら」は運行されていなかった)の自由席で悶々と眠れぬ一晩を過ごす事くらいはむしろ愉快なアトラクションくらいの認識だ。そんなわけで、やれ新幹線だ、飛行機だという発想になりがちな社会人様よりも学生の方がよっぽど身軽に動けたりするのだった。

大垣夜行でやってきた名古屋勢を朝6時頃に迎え撃ち、しばらく待機。10時過ぎくらいに今度は関東勢であるばばろあ、けじんがやってきたので初日のメンバーはこれにて勢そろい。さて、荷造りを始めるか。

本当は名古屋勢が到着した時点で徐々に荷造りをしておいた方が良いのだが、何せ荷物が大量だ。人数分トートバッグがあり、そこに荷物が全部収まれば話は早いのだが、「各自のザックにこの荷物は入れる」というものが多い。たとえば鍋釜などはその典型。そうなると、全員がそろって、なおかつ全員のザックの空き状況を確認してからでないと荷造りが始められないのだった。

荷物はおかでん宅のベランダに無造作に放り投げられている。今思えばすのこでも敷いて、その上に荷物を並べておけば良かったのだが、面倒なのでそんなことはしてない。コンクリートの床に直置き。当然風雨にさらされまくっており、トートバッグは一部がカビている。「うへえ」なんていいつつばたばたトートバッグを叩き、埃を払ってから荷造り開始。

ワンルームマンションの家で、5人がかりで荷造りというのは到底無理。しかも砂埃やらカビやら、大変怪しい状態の荷物だ。そんなわけで、いったん荷物をマンション前に並べ、そこで荷造りを行った。まるでフリーマーケットの出し物準備みたいだが、違うぞ。これ全部持っていくからな。こら、ゴミみたいとか言わない。

ほぼすべての荷物はおかでんの私物であり、総投資額は20万円近い。今でこそ、ホームセンターなんかで安いアウトドアグッズはいくらでも売っているが、1990年代前半にはそういう店がなかった。そのため、登山用品店などで高い買い物を強いられていたのだった。時代は変わった。

ちなみに、当時は「食器もおかでんが用意する」形を取っていた。2000年代に入ってからは、食器は各自持参に変わったが、昔は何でもかんでもおかでんがそろえておかないと気が済まなかったのだった。これは、キャンプ用品のアレとコレはばばろあ所有物、ソレはしぶちょお私物、などとまだら状に所有権が分かれると、たとえばおかでんが私的にキャンプをやろうとしたときに不自由するから、という考えに基づいている。

そんなこともあって、当時は天幕合宿の都度「機材使用料」として参加者各位からお金を徴収していた。せいぜい一人一泊100円程度だったと思うが、このお金を回収することで「おかでん私物だから、と遠慮しないで、金を払った以上我が物顔で使って欲しい」という意味があった。もちろん、大金を出してキャンプ用品をそろえたおかでんへのカンパ的意味もある。

さて荷造りに話を戻すと、かさばるのはなんといってもテント。「ファミリーキャンパー」という名前がプリントされているので、略して「ファミキャン」と呼ばれていた。ファミコンのようだ。これが11キロも重さがあり、なおかつかさばるのでやっかい。そのほか、軽いけどかさばるのがウレタンマットやブルーシートの類。鍋釜類はその大半がザックの中に収まった。というより、お相撲さんがちゃんこやるときに使うような大鍋の中に詰め込めるだけ詰め込んだ、というのが正解。あと、やかんも偉大なる空洞があるので、同様。ここにはたわしやスポンジなどが収まった。

「いいかちぇるのぶ、絶対パンツ入れるなよ」

ちぇるのぶがやかんの中に自分のパンツを入れたのは既に過去の話だが、隊員全員にとってトラウマに近く、きつくちぇるのぶに指導が入るのだった。実際、やかんをザックに入れようとしたちぇるのぶはその手からやかんが奪われた。信用されていないのだった。結局やかんは別の人のもとへ。

そのちぇるのぶのザックだが、他の人より一回り小さなサイズだった。逆に一番大きいのがしぶちょおのものであり、しぶちょおは

「オレのザックがデカいから荷物が増える。ちぇるのぶお前は荷物が少ないんだから手にはいっぱい持て」

とぼやいていた。

しぶちょおのザックは、初回天幕合宿である神島の前に、おかでんが買ってきたものだ。舌切り雀の寓話よろしく、しぶちょおに「小さなザック(おかでんが現在使っている物)と大きなザック、どちらにしますか」とお伺いたてたら、大きい方を選んだのだった。大は小を兼ねるのだが、その分割り当てられる荷物も増えるのだった。

飯能河原

西武池袋線で飯能へ。

途中、電車は航空自衛隊入間基地の脇を通っていく。「おー、飛行機がおるで」と一同車窓に夢中になる。時代が時代なら、憲兵さんに「見てはいかん!」と一喝されていたかもしれん。

飯能駅から歩いて10分ほど、ホントひたすらまっすぐ歩いたら飯能河原。これホント。全くぶれずに駅からまっすぐ歩いたら河原に降りる階段に出るのだから、こんなに分かりやすい場所はない。

一カ月前、バーベキューをやった場所に今回も陣取る。全員集合しても、やっぱり女性はいないのでトイレの心配は考えなくてよい。

テントをたてるとようやく腰が据わるというか、ほっとする。そこからいろいろな作業に手分けして取り組む。なおテントだが、神島からのやり方通り、居住テントと荷物用テント、合計2張りを構えるのがお約束になっていた。飯能河原にはBBQの残飯目当てのカラスがとても多く、食材は必ず荷物用テントに収納しておかないと何をされるかわからん。

当時はクーラーボックス(またはクーラーバッグ)は持っていなかったので、保冷という概念はあまり考えていなかった。まあなんとかなるさ、くらいの考え。

なたを研ぐ

食材を買いだしに行くもの、薪を買いだしに行くもの、ガソリンを買いに行くもの、水を汲みに行くもの。各自三々五々散らばって任務を遂行する。

そんな中、ばばろあが川で何かをやっている。見ると、ナタを磨いていた。

「ナタ、錆まみれじゃけえ」

と言うが、実際その通り。神島、佐渡島と潮風にさらされまくりだったナタはすっかり錆がついてしまっていた。キャンプやるけどその後のメンテナンスはほとんど・・・というか全くやっていないツケがこういうところに出てきている。

ホイコーロー

初日昼ご飯。

誰が作ったか忘れたが、回鍋肉。

キャベツでかさを増やそうとした結果、やたらと水っぽい、味が薄いものができあがってしまった。

教訓としては、野菜をたくさん入れると水が出てくるぞ、と。

ばばろあ食事中

アワレみ的食事スタイル。

河原にべったり座り込んで、食う。お皿も、地べただ。

椅子とか机とか買うという発想は全くなかった。そんな荷物になるもん、買ってどうするんだ。そもそもその出費はオレか?いやー、もうこれ以上の出費は無理だわ。

ちょうどこの頃、おかでんはパソコン通信にはまっており、「14.4kbpsの回線でつなぐと1分20円(NTTの通信料は別)」なんて世界に生きていた。通信費だけで毎月数万円かかっており、とてもじゃないが学生身分でこれ以上の追加出費は無理だった。

ついでに言うと、この年にアワレみ隊天幕合宿がこの4月の飯能河原しかやらなかったのは、おかでんがパソコン通信のオフなどに勤しんでいたからだ。富士山登ったり古民家で利き酒会やったり、いろいろやってた。

話を戻すと、地べたで飯を食うのがアワレみスタイルならば、そのばばろあの手前にあるウェットティッシュがフタが開いた状態で転がっているのも、清く正しいアワレみスタイル。テーブルがあればもう少し整理できるんだが、物は地べた、または買物の際に仕入れてきた段ボールの中という状況では何かと物が散らかる。

晴れていればこれまた快適。しかし雨が降ると居場所がなくなるので、テントの中に逃げるしかない。

ばばろあ仕込み中

夕食の準備。

日が傾いてきたらそろそろ夕食準備だね、とやっているとあっという間に周りが暗くなってきてしまう。なにせ、飯能河原は軽い谷底に位置している。直接お日様に照らされるのは一日のうち数時間しかない。

夕食の食事はばばろあが担当。今日は串焼きバーベキューにする、ということで串打ちに余念がない。

はっきり言えば、串に刺さなくてバラバラに焼いたってなんら問題はない。しかし、風情ってもんですよ、エンターテイメントってやつですよ。串に刺さっている肉と野菜を豪快に横からかぶりつく・・・これは男のロマンであり、子供からのロマンだ。

アメリカ人って毎週末こんな串焼き肉を庭でわいわい言いながら焼いて食ってるんだろ?畜生うらやましいぜ、という嫉妬心満載。そんな卑屈な心境を払拭すべく、われらがばばろあは串を打つ。ただし、彼は純粋なる日本人顔、しかも職人さんでこういう顔の人いるよね、という感じの渋い顔付き。だから、「バーベキューを準備中」という横文字よりも、「焼き鳥を仕込み中」と形容した方がしっくりくる。

水ノ神

鎮座する水タンク。

神島から使われてきた、折りたたみ可能な水タンク・・・というか水バッグは故障のため廃棄されていた。20リットルの水を取っ手でぶら下げていたら、取っ手が壊れた。もうこうなると、ぶよぶよしたバッグを抱きかかえるしか運搬のしようがなく、手に負えないのだった。

その点この水タンクは、合宿の始めと終わりの輸送時には邪魔くさくてかなわんが、びくともしない構造なので、取っ手がすっぽ抜けるとか穴があいて水が漏れるといた心配はなさそう。頼もしい。

水バッグの時は神島でキャリーカートを破壊した戦績があり、最後は自滅したことも合わせるとなんとも人騒がせな存在だった。その点この水タンクはどっしりと構えて余裕の存在。実際、2011年現在でも使われ続けている。

本来、この水タンクには折りたたみ式の土台を付けることができる。しかし、そこまでお金に余裕がなかったおかでんは脚まで買ってはいなかった。荷物になるし。そこで、石をケルンのように積み上げ、そこにタンクを鎮座させた。平らにならすまで少し時間はかかったが、何かのモニュメントのように仕上がった。

ばばろあが石に水の神様を何体か描き入れ、簡単にお祈りをして水場完成。

初期のアワレみ隊は、「独自の文化(しきたり)」を作る事に対しておかでんが積極的だったため、「かまどの神様」をこしらえたり今回のように「水の神様」を用意することがならわしだった。

【後注】水タンクの蛇口周辺に水の神様は何体もあるのだが、作者であるばばろあから「後生だから(webの)掲載は勘弁してくれ」と言われたので、ぼかしを入れました。水タンクの取っ手に挟まっている一体はおかでん作によるものなので著作権フリー。

かまど当番

飯ごうでご飯を炊くしぶちょお。

この当時は、飯炊きと食事制作は別の人間の役割になっていた。

かまどの火をコントロールしながらの調理なので、一人ではやや荷が重たかったからだが、あと一人がかまど担当としてかまどに張り付くと、ついつい興が高じて火を高らかに吹き上げさせてしまいがちだった。

調理は直火で行われていたので、鍋釜のすすけっぷりは相当なものだった。食後、食器を洗う時は料理の汚れを落とすというよりも、すすを落とす方がメインだった。面倒なのですすだけは放置せず、うまいこと鍋釜の中だけきれいにしたいのだが、すぐに他の食器や手についてしまい始末に負えなかった。しかも、合宿終了して、すべてきれいして撤退しよう、という段階ですすがあたりを汚しまくり、大変に弱った。

たき火で調理というのはワイルドでたくましいが、2011年時点では炭火調理に移行してしまった。今、たき火に戻れといわれてもさすがにそれは遠慮願いたい。

串焼き

この日の夕食、バーベキューを焼いているところ。

一同わくわくしすぎて、まだかまだかと待っている。やっぱり串が刺さっているだけで料理のプレゼン能力が倍増するわ。

アワレみ隊の中ではいち早く「炭」の存在と利用価値に気づいていたばばろあは、この料理を直火でガンガン下から焦がすような事をせず、燃えさかる薪をいったん鎮火させ、おき火状態の木で調理を行っていた。佐渡島でもバーベキュー的な料理を作っていたので、この手の料理は十八番なのだろう。

ただ、ノーマルの薪を炭火として運営するのは相当大変。火力がなかなか安定しない。うっかりするとすぐに火がおこって直火がチロチロと肉を炙るし、かといって火が出ないように落ち着かせるとすぐに熱が弱まる。

焼き上がったと思われる串から、三々五々食べる。この当時は料理人が「料理名」と「料理のポイント」を解説してからの食事開始だった。キリスト教信者が、食事の前にお祈りするのと同じ?ニュアンス。しかしこのときは、とにかく焼けたものからホレ食べろ、状態だったのでそんな余裕もなし。

肉は美味い。やっぱり塊肉は美味いわ。普段薄切り肉ばっかり食べているので、噛みしめ甲斐がある肉は美味いですよ。ええ。

しかし、ピーマンが生焼け。まあ、これはこれで食べられる。しかし、玉葱が完全に生だった。

「辛い!」

一同、悶絶。こんなに辛い玉葱は食べたことがない、というくらい辛かった。オニオンスライスのサラダなんてものは世の中にあるが、ああいう耐えられる辛さではなかった。食べられないくらいの辛さ。どうしてこうなった。

串に刺して食べる肉、というのはロマンでありあこがれであったが、串刺しにしている食材毎に焼けるタイミングが違いすぎる。これは見た目だけは立派だけど、調理法としてはあまり賢くない事を一同思い知らされた。

宴会中
盛り上がる宴

食事が一段落したところで、たき火に移動して宴会。

火を取り囲みながら思いつく限りの歌をあれこれ歌う。

一升瓶が横倒しになっているが、この頃の飯能河原では一升瓶の清酒が必ず登場していた。撤収の際、邪魔な荷物になるのだが、ビールよりも燃費が良いというか、酔いやすかったので導入されていた。今でこそおかでんは「最初から最後までビールでイケる」という通風まっしぐらな輩だが、学生時代のおかでんは清酒も等しく愛していた。

宴会の最後にはアワレみ隊独特のシメ方を。まず、「乳首踊り」を全員でたき火の周りで踊り狂い、その後最後に男性器と女性器にそれぞれ応援団風のエールを送り終了。

1995年04月06日(木) 2日目

親子丼

二日目の朝。

ちぇるのぶ担当による朝ご飯は、フライパンいっぱいにこしらえた親子丼。

微妙に半熟に仕上げる、なんて器用な事はできないので、玉子が余熱でガチガチに固まる前に、それお皿に取り分けろ。

アワレみ隊には、「食事は大事なイベント。レトルトを使うのは禁止。」というルールがある。明文化はされていないが、口頭ではそういうお達しが行き渡っている。しかし、よく考えると過去に「スパゲティミートソース作った時、ミートソースは缶詰だったよ」とか、イレギュラーなケースもあったっけ。結構いい加減だ。

とはいえ、親子丼はちゃんと作られた一品。玉葱と鶏肉をだし汁で煮込み、あとは玉子を廻しかければ完成。簡単だけど、キャンプ飯としてはなんだかぜいたくな感じがする。

親子丼の具をよそっているお玉はアワレみ隊発足(1993年)から2011年の現在まで、現役であり続けている。カレーを作った時以降カレー色に染まってしまったので、「バルパンサー」と名前が付けられている。

あとは、かまどに据え付けられている網もまだ現役だったりする。何せメンテナンスをほとんどしない性分なので、長持ちするものはとても珍しい。

朝寝

朝ご飯を食べて、片付けが済んだらしばらく暇な時間になる。

食器は使った人が洗う。調理に使った鍋釜は食事当番が洗う。そういう役割分担になっていた。まず大きな汚れをウェットティッシュで洗い、ほぼきれいになったところで川に持っていきすすぐ、というやり方をしていた。

作業としては薪拾いと、この日の昼食、夕食、翌日の朝食の買いだしが控えているのだが、お店が開くのは10時。それまで暇だった。薪拾いは、頑張った分だけ夜のたき火が盛大になるのだが、朝から根詰めてやるものでもない。各自、寝袋を干すためにテントから引っ張り出し、そこの上でうたた寝。

昼飯準備中

昼食準備。

一名が火の番をして、もう一名が調理をするという典型的アワレみ調理法。

竹製の火おこしがあったので、それをフーフー吹いて火力を上げる。

焼きそば

この日のコンビは調理:しぶちょお、かまど:けじんの組み合わせ。しぶちょおは焼きそばをこしらえていた。

焼きそば、とはいうが、5名分もの焼きそばをフライパンでこしらえるには無理がある。そこで、鍋を使っていた。焼いているんだか蒸しているんだかわからんが、こういう調理法こそ似合うのがマルチャンの三玉入り焼きそばの実力。

鍋の横に飯ごうが置いてあるが、ご飯も炊いたのだろうか?だとすれば学生の胃袋ってスゲーと思うが、どうだったか覚えていない。

木を拾ってくる

昼食後、全員総出で薪探しに出る。ここから遅れてしうめえ、ジーニアスが加わったので、総勢7名による人海戦術。ジーニアスはキャンプ用品を持ち合わせていないので、日帰り参加。

飯能河原のメイン会場界隈だと、たくさん訪れるバーベキュー客のために枯れ木など全く見つからないだろう。しかしわれわれがいる河原は人気が少ない分、探せば探した分だけ木が見つかってやりがいがあった。中には丸太と呼べるような大捕物をしてくる奴もおり、そういう人は拍手で出迎えられた。

大きな木は火が長持ちするので大変にありがたい存在。細かい枝ばかりだと、すぐに燃え尽きてしまうので困る。とはいえ、最初のたき付けには必須の存在なので、これはこれで欲しい。バランスが重要。

のこぎり部隊

大きな木は、そのままかまどにどーんと突っ込むわけにはいかない。そのため、まずは枝を鋸で切り落とし、その後かまどに入るサイズに幹を切断し、その後ようやくナタで細分化という手続きになった。のこぎりは2つしかないので、ナタはのこぎりの作業待ちとなることが多かった。

その点ナタは早い。ぱこん、スカーンだから。

石を投げ合う

めぼしい薪が見つからなくなってきたので、次なるターゲットは川を挟んだ対岸の崖となった。膝までズボンをまくり、対岸に渡ってめぼしい薪を探す。ここいらにはまだまだ枯れ木が転がっている。

と、河原側から石が飛んできた。人に当てようというものではなく、わざと手前に落とし、その水しぶきをお見舞いしてやろうというものだった。

「にゃろー」

こっちも石を投げ返す。しかし、どう考えてもこっちが不利だ。相手は「水しぶきを浴びせる」事ができるけど、こちらはそれができない。なにせ相手は陸地にいるからだ。まさかどストレートで人体めがけて投げつけるわけにもいくまい。

仕方が無いので、「バーカバーカ」と言いながら逃げ回るしかなかった。

そんなのんびりとした午後の一時。暇なんですね、基本。

二日目の夜

夕食の準備中。

竹を加えるちぇるのぶ

日が高いうちは、河原に地べたで座るのは当然のように振る舞っていたが、日が傾いてくるとなぜかみんな立っている。何か深刻な会議でもしているかのようだが、単にやることがなく火を見つめているだけだ。火は、いくら見ていても飽きない。

おでん

この日の夕食はおでん。

煮込むだけなので簡単。とはいえ、7名分のおでんなので、鍋がいっぱいいっぱい。つゆがすり切りまできている。火力注意。うっかりこぼすと、灰が立ち上って鍋の中に入ってしまう。

火を飛び越える

食事の後のお楽しみ、キャンプファイヤーだ。

この頃は、「テント」の事をかたくなに「天幕」と言っていたのに、たき火については「キャンプファイヤー」と呼んでいた。和洋入り交じっており、あまり一貫性がない。天幕、というのは明らかに椎名誠の影響からきているが、「キャンプファイヤー」は子供の頃からのあこがれてきた言葉をそのまま使っている。やっぱ、「たき火」より「キャンプファイヤー」の方がわくわくするよな。

とはいえ、時代の流れと共に「キャンプファイヤー」という表現は使われなくなり、2011年現在では「たき火」で統一されてしまった。おっさん化著しいのだと思う。

キャンプファイヤーの楽しみは替え歌を中心とした歌合戦だけではない。調子に乗ってくると、大抵「たき火越え」をやった。あっ、今たき火って言った!おかしいな、本当に整合性がとれていない。

いつの間にか、「アワレみ隊隊員たるもの、たき火を美しく飛べなくてはいけない」というルールができており、ある者は高く飛ぶことを追求し、ある者は遠くからダッシュして走り幅跳びの要領で火を飛び越え、ある者は直立不動の状態から立ち幅跳びで飛び越していった。

「どこまで火から遠ざかったら、飛び越しに失敗して丸焦げになるか?」というチキンレースをやるという案もあったが、さすがに誰もそれはやらなかった。若気の至りでやりそうなものだが、火の怖さを日々の調理やたき火で嫌と言う程知っているので、やる気になれなかったのだった。

ガソリンを吹くおかでん
ガソリンを吹くけじん

しかし、それでは物足りない、とおかでんがガソリンボトルを手にした。

ガソリンを口に含み、それを火に向けて吹き出すとボッ!と勢いよくたき火が燃え上がった。おお、これは面白い。

それをみたけじんもやってみる。さすがにこの二人以外はやろうとしなかったが、炎が燃え上がる都度、全員で「オレーオレオレーウィーアーザチャーンプ」とJリーグ初期の頃流行った曲を歌って踊るのだった。

どんどんエスカレートする
火が大きくなる

この天幕合宿は好天続きで、雨天用のガソリンストーブによる調理が無かったためにガソリンが余っていたのだった。それを活用した新たなる危険な芸だった。

※なお、この火吹き芸はこの数カ月後、場所は同じ飯能河原でパソコン通信の人と「闇鍋オフ」をやった際にも披露。その際、燃える薪を手にとり、そこに向かってガソリンを吹いたら火が顔に引火。顔全体をやけどするという事故に発展した。視界全体が炎に包まれたという恐怖の体験以降、この芸は封印した。絶対に真似しないでください。一生後悔します。

チャッカマンとしうめえ

ガソリン芸は、火を豪快に燃え上がらせるけど、口の中がガサガサになる、身の危険を伴う芸。さすがにそれは・・・というしうめえが、サラダ油を口に含み、チャッカマンを手にチャレンジ。しかし、サラダ油ごときでは火が付かず、一同からブーイングを浴びていた。

キャンプの最後に、空いたガスボンベを爆発させる儀式を実施した。代表しておかでんがたき火の中央にボンベを落とし、全員が全力で20メートル以上避難して身を隠す。

爆発を待つ。

待つ。

待つ。

爆発しない。

こういうときは非常に緊張する。単にまだ爆発していないのか、それともボンベを落とした場所が悪かったのか。うかつに近づいたところで爆発したら、大怪我確実だ。

「うひょー、こえー」
「ひゃー」

ボンベを設置した人間の責任として、おかでんが確認に行く。見ると、たき火から微妙にボンベが逸れて落ちていた。あらためてたき火の中央に落とし、今度こそ逃げる。全速力で逃げる。なにしろ、既にある程度暖められているボンベだ。いつ爆発してもおかしくない。

「まだか!」
「また逸れたんじゃないか!?」

火を中心にあちこちに散らばった隊員が、興奮でうわずった声を出す。しかし、今度こそ大丈夫なはず・・・と思ったところで「ボーン」という音ともにたき火が盛大に火柱をあげた。一同ゲラゲラ笑いながら「とんだなあ」「飛んでいったねえ」とご満悦。

飛んでいった先はこの闇の中では判らない。翌日朝、周囲を散策して回収される。大抵、20メートル以上は飛んでいっており、ガスボンベの底が抜けてすっ飛んでいた。飛んでいく方向性は上に飛び上がる例が多いようだが、全方位どこへでも飛んでいっていた。時には「顔の横を飛んでいった」というニアミス例もあり、非常にデンジェラスであった。危険すぎる遊戯。

味噌汁

3日目の写真は残っていない。多分フィルム切れで撮影できなかったのだろう。

人数が多かったので、とても楽しい企画となった。

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