東北地方思いつきドライブ天幕合宿

とりあえず、北だ。

日 時:1997年(平成9年) 9月(詳細不明)
場 所:東北地方各地
参 加:おかでん、ばばろあ、しぶちょお(以上3名)

1997年ころはおかでんがパソコン通信にうつつを抜かしている真っ最中であり、アワレみ隊活動は控えめとなっている。

そのかわり、おかでんがパソコン通信で主催していた会議室(Peoleネットでは『パーティー』と呼んでいた)、「オンラインお笑い研究所」のオフ会として飯能河原闇鍋大会をやったり、芋煮大会やったり、一泊バーベキューオフを開催してそこにサポートとしてアワレみ隊メンバーが加わるといった事はあった。でも、写真が乏しい時代のこと、今となってはいつ開催したのか覚えていない。

パソコン通信のメンバーとアワレみ隊メンバーを一緒に集めたのは、アワレみ隊の規模拡大を当時考えていたからだった。結果的にアワレみ隊の拡張には至らなかったが。

1997年、飯能河原でキャンプするのもいいが、なんとなく惰性だよね、変化がほしいよね、という話になった。だったらレンタカー借りて、どっかで天幕設営して泊まればいいね、ということになり、行き先はなーんも決めないうちから、東京のニッポンレンタカーで車を借りた。車種ははっきり覚えていて、青色のファミリアだった。

この企画には、東京組のおかでんとばばろあ、それに名古屋からしぶちょおが参加して、合計3名の旅行となった。車借りて、天幕道具一式をおかでん宅で詰め込んで、あてもなく出発。

普段は詳細なスケジュールを組んで事前に参加者に周知するおかでんだが、今回ばかりはあまり計画を立てなかった。天幕を張るには、空き地と、水場と、トイレが必要だ。水場はどっかの公園やスーパーの洗面所でどうにかなるけど、天幕張っても大丈夫そうな空き地なんてのは実際現地に行ってみないことにはわからん。

アワレみ隊にしては初めての「車による移動」企画なので、そのフットワークの軽さを過信することにする。うろうろしていればどうにかなるだろ、程度の認識。

今でこそ(2011年)、道の駅で車中泊など結構当たり前というか多くの人がやっているが、当時のわれわれ(社会人1名、大学院生2名)はそんな発想が全くなかった。なにせ、1997年当時はインターネットがようやく普及し始めたころ。ネットでいろいろな情報を収集するなんてことはできなかった。首相官邸のページくらいしかまともなコンテンツがネットにはなかった頃だもの、仕方がない。

車に荷物を詰め込み、テントで泊する・・・いわゆるオートキャンプだ。これは初期アワレみ隊において、もっとも軽蔑し堕落の象徴とされていたスタイルの合宿。いよいよアワレみ隊も落ちぶれたものだ、という話もあったが、いやいや、「区画整理されたオートキャンプ場でテントを張るのがダダイズムであり、移動だけのために車を使うのは問題ない」という解釈だってできる。だってよく考えてみろ、今までの天幕合宿は、すべて公共交通機関を使っておるではないか。ほら。

んー。なんか言い訳くさいけど、でもおかでんとしては妙に納得してしまっていた。そんなわけで、車でキャンプ。あっ、「天幕」という表現をついつい「キャンプ」とかいう外来文字使いやがった。この野郎。

どこに行くか、という話になったとき、「とりあえず北だろう」という結論になった。広島出身の隊員一同は、帰省ついでに東海地方、関西地方、中国地方・・・と横断していく機会がある。だから、「西へ。」というのはいまいちワクワクしないのだった。その点、北の大地、東北地方はよっぽど何かの縁がない限り行く機会がなかった。

ならば今回行けばいいさ。

はーい。

とはいっても、東北地方のどこに行けばいいの。

とりあえず、仙台を目指すことにした。本当に「とりあえず」だ。とはいっても、仙台市街に入ったって、まさか町中の公園にテント張るわけにはいくまい。そうなると、海岸線、しかも砂浜があるところを探すことになる。

車で延々と東北地方を目指す。運転は交互に交代しながら、ひたすら東北道を北へ。

いざ北に向かってみると、ちょっと目標を遠くしすぎたんではあるまいかと少し後悔。予想以上に東北、でけぇぞ。いや、それ以前に、関東を突破するまでで結構疲れた。

なにせ、朝集合して、それから車を借りて、天幕荷物を整理して、部屋から荷物をすべて運びだし、詰め込み、さあ用意ドンだ。これだけで初日午前中は終わってしまう。お天道様が真上に来るころにようやく出発じゃ、行ける場所は限られる。

遠いねえ、なんてぼやきながら進んでいき、この日到着したのは仙台市から海に向かったところにある七ヶ浜町。大体この辺を本日の大本営とする、と決めたものの、実際にテントを張る場所には非常に迷った。すっかり日没になって真っ暗になっている中をうろうろ走り回った。岬の先に通じる遊歩道を歩いてみたりしたが、なかなか良い場所が見つからない。

結局、菖蒲田海水浴場という砂浜に陣地をこしらえる事にした。

最初からこの砂浜にしなかったのは、夜にも関わらずそこそこ人がいたからだった。カップルがいちゃついていたりしたら「畜生うらやましいぜ畜生」と言いながら、そのイチャイチャっぷりを酒の肴に飯のおかずに、ぐいぐい飲み食いしていただろう。しかし、砂浜に跋扈する人たちは花火に講じている人たちだった。線香花火程度なら可愛いもんだが、ロケット花火をひゅーい、ひゅーいとガンガン打ち上げとる。それが一組だけじゃなく、何組もいるのだから物騒だ。

われわれはそういう人たちと関わりたくなかったので、砂浜のすみっこでこっそりテントを張った。闇夜に乗じて、という表現がぴったりだ。

天幕はあっという間に設営できる。なにせペグうちをしないのがわれらの流儀。風に吹き飛ばされそうな時は自体重で支えろ!という発想。あとはかまどなのだが、さすがに流木拾ってきて、ちょうど良いサイズに切断し、火をおこし・・・というのは今回の合宿では無理だ。おとなしくガソリンストーブを使っての調理を選ぶのがオレたちのジャスティス。

何を作ったかあまり覚えていないが、近隣スーパーで買い出しをした際、サメの肉が売られていたので、それに火を通して食べた記憶が残っている。サメといえばアンモニアくさくてまずそうなイメージがあったが、特筆するほどまずくはなかった。

食後、花火が相変わらず打ち上げられている砂浜を後目に、そそくさと寝る。そそくさと、といっても、そもそも夕メシを食い始めたのが22時近くだったので、寝て当然っちゃあ当然だ。

全く熟睡できない夜となった。眠りたくても、眠れない。テントの中でじっとしていると、屋外で頻繁に響くロケット花火の音が非常に怖いからだった。狭いところにいると、外の音に敏感になるものだが、なにせ相手はヤンキーみたいな人たちばっかりだ。相手が悪い。

いずれロケット花火がこちらのテントに向けて発射されるんじゃないか、遊びの一環としてテントを狙い撃ちしてくるんじゃあるまいかと心配でたまらない。

時間の経過とともに花火大会は沈静化するだろうと期待していたのだが、いやいやどうして、相手は圧倒的物量作戦で臨んでおり引き下がることを知らない。ひょっとしたら入れ替わり立ち代わり、同じような花火大会を開くために人が浜辺にやってきていたのかもしれない。つくづく迷惑な話だ。

結局、根負けして夜が明ける前には全員が起きだし、テントから脱出するはめになった。みんな「騒音で眠れない」だけでなく、「襲撃されるかもしれない恐怖」でげっそり。

まだ薄明の空のもと、朝食準備にかかる。

お味噌汁用の油揚げと、おかずの魚をを網で炙っていたら、花火をやっていたヤンキー崩れが一人ふらふらとわれわれのところにやってきた。

すわ、ロケット花火で襲撃なんてなまっちょろいことをするんじゃなく、拳で直接制圧に訪れたか。焦るアワレみ隊一同。しかし、そのおにーさんはめっさフレンドリーで、かまどの脇にヤンキー座りしながら「何しにきたん?」とか「どこから来たの?」と聞いてきたのだった。こっちとしては警戒を解くべきかまだ警戒しつづけるべきか、判断に困って一同無言で顔を見合わせるばかり。そんな気まずい雰囲気を全く意に介さないおにーさん。

「おいしそうだなー」なんて油揚げを見ていうものだから、「せっかくだからどうぞ」と言わざるをえない状況に。そうすると、彼はうまいうまいといってぱくぱくと油揚げを食べた。「トンビに油揚げをさらわれる」という言葉があるが、まさかヤンキーに油揚げをさらわれるとは。

「ああっ、それ以上食べたら僕らの分が!」というレベルまで食われた。しかし、人当りがいいおにーさんだし、静止したら何言われるかわからんしで結局黙って食べられるのを見ているしかなかった。さすがに全部食べられるということはなかったので、まあ許容範囲。

さらに今度はお金をせびられたりするんちゃうんか、という恐怖を後目に、小腹を満たしたおにーさんはふらふらと浜辺を去って行った。

「なんだありゃあ」
「ずいぶん食われたぞ、おい」

浜辺は夜明けで赤く染まっていた。ようやくこのころになって、昨晩からのやかましいロケット花火の音は消えていた。浜には静けさが戻っていた。

砂浜での天幕は片付けが少々面倒くさい。砂がいたるところについているので、それをきれいに払い落とさないといけない。全員でばっさばっさとあちこちをたたいたり伸ばしたりして、朝の到来とともに退却。

二日目、特に行くあてはなかったが、とりあえず海沿いに北上することにした。

最初に着いたのは塩釜。塩釜といえば海産物という印象があったのだが、幸い鮮魚センターのような施設があった。何かめぼしいものがないかどうか、中に入ってみることにした。

中にはいろいろな魚が陳列されていたが、われわれの目に留まったのは「ほや」。バケツの中にたくさんのホヤが入っていた。名前は聞いたことがあっても、実物を見たのは初めてであるわれわれは「うわー、グロい」などといいつつ興味津々。値段が驚きで、1個10円だった。これで商売になるのか、おい。そんなにありがたくない食材なんだろうか?ほやって。

ほやは新鮮なものしか食べられたものではないということで、この生鮮食料品輸送が発達した現在においても、東京では滅多に売られていない。食べるなら今がチャンス。そんな興味津々であるわれわれにうってつけだったのが、この鮮魚センターに併設されていたレストラン。調べてみたら、ホヤも食べさせてくれるらしい。ものは試し、さっそくわれわれは生のホヤを食べてみる事にした。

殻から取り外され、刺身状態に刻まれたホヤは外見ほどはグロテスクではない。油断して食べると・・・うわ、生臭い!なんだこれは!一同顔をしかめてしまった。磯臭い食材といえば牡蠣がその代表格だが、あれはまだ心地よい磯臭さだ。ホヤの場合、悪質な磯臭さがする。

たとえるなら、汚れがぷかぷか浮いている港湾の奥の方の海水を煮詰めた感じ。

「こりゃいかん!臭いがとれん!」

あわててレストランを後にしたわれわれは、ばばろあが「牛乳飲んだら臭みが取れるんじゃないか?」というので牛乳を探した。が、そんなものが自販機に置いてあるはずもなく、結局急場しのぎで乳酸菌飲料を購入。三人で交互に回し飲みし、臭いをごまかした。

「いやあ、まさかあんなにすごいとは思わなかった」

「料理を残さず食べること」という教育を受けてきたおかでんだったが、このホヤだけは未練ありつつも敵前逃亡、すなわち何切れか残すしかなかった。付け合せにあったキュウリを食べるのがやっと。よかった、「一人一皿」なんて頼んでいたらえらいことになっていた。三人一皿で正解。

「なんでこんなにホヤがくさいんだろう?」
「新鮮なものじゃなかったんじゃあるまいか?」

議論をしてみたが、いくらなんでもお店から徒歩数十秒のところで1個10円の活けホヤが売られているのだから、鮮度が悪いはずがない。

「昨日の残りものだったんじゃないか?」

なんていい加減な推測も出たが、結局「ホヤはあれだけくさい食べ物である」という結論に落ち着いた。

この時のホヤの苦い思い出は、ばばろあが執筆する「食い倒れ帳」の「第002頁 ほや 旋律の脊索動物」にも登場する(現在は当サイトには未掲載)。いずれにせよひでぇ目に遭った。このトラウマが解消されるまで、おかでんの場合13年かかった。

ホヤに痛めつけられた後、われわれはさらに北上し松島に着いた。

松島は「日本三景」ということで、ぜひ観光しようと思っていた。しかし、海に小さな島があちこちある程度であり瀬戸内育ちのわれわれにとってはなんら珍しく感じなかったことと、道路沿いには土産物屋と有料駐車場の看板が並び、色気がなかったことから素通りすることにした。

そのあと、牡鹿半島の先端まで行ってみることにした。牡鹿半島の沖には金華山という島があり、社会で「金華山沖は暖流と寒流が交わるところなので魚が豊富」って習ったっけ。それだけの理由で金華山を見てみたくなったのだった。ただし、当時は牡鹿半島と金華山をごっちゃにしており、牡鹿半島の中に金華山があるものだと勘違いしていた。「あの対岸にあるのが金華山」と看板表示で教えられた時は、「えっ、そうだったの?」と驚いたくらいだ。

金華山を見た後は、南下を開始した。2泊3日の予定なので、そろそろ南下しないとやばい。これ以上北に向かうと戻ってこれなくなってしまうからだ。しかもレンタカーを72時間の契約で借りているので、きっちり72時間までには返却をしないと。

南下したからといって特に思い当たる場所はなかったのだが、時間的な制約もあって那須のあたりで一泊することにした。

黒磯のスーパーで買い物をし、さてどこに泊まるかと探しまわったところ、車がこれ以上いけないどん詰まりの那珂川沿いにちょうどよいスペースがあったので、そこを天幕場所にした。

最終日は、那須湯本の地獄を見て、那須岳のロープウェー乗り場までいって那須岳を見上げ、それから東京へと戻った。

二泊三日、車で行けるところまで行って、適当な場所に天幕を張る。これからしばらくの間、アワレみ隊の行動パターンとなるやり方の第一歩がこの東北旅行だった。丹念に探せば、なんとか泊まるところは見つかるものだ。