
09:35
塩尻駅の橋上駅舎へと這い上がってみる。
この駅での乗り継ぎ時間は20分程度。
特急あずさから降り立った身としては、次の行動を起こすには十分すぎるほど時間に余裕がある。
ホームから階段を登りきると、そこには「そば処」と書かれた看板が壁すれすれにデデンと立ててあった。
そば処? 一体どこにそんなスペースがあるんだ。
よく見ると、エレベーターの方向に向かって、「信州そば→」という案内看板もでている。
おいおい、どういうことだ?エレベーターに乗ってホームに引き返せ、とでも言うのだろうか。

09:37
不思議に思って案内に吸い寄せられてみたら、思わず声を上げそうになった。
そこには、正気の沙汰とは思えないほど狭い出入り口を持つ、限界突破した立食い蕎麦屋が鎮座していたからだ。
これ、大人の男性の肩幅とほぼ同等か、下手をすればそれより狭いぞ。
これから山に向かおうという僕のように、大柄な登山用ザックを背負った人間は完全に進入を拒絶されている。
こんなの、お店の外にザックをデポしていくしか選択肢がないではないか。
そういえば、どこぞのテレビ番組で「入口が狭すぎる立ち食い蕎麦屋がある」と紹介されていたのを薄っすらと見た記憶がある。
なるほど、それがこの塩尻駅のお店だったわけか。完全にノーマークだった。
ここからさほど遠くない茅野駅のホームにも立ち食い蕎麦屋があるが、あそこも大概入口が狭かった記憶がある。
この中央本線・篠ノ井線界隈の鉄道マンたちは、「どんなにスペースの制約があろうとも、力技で立ち食い蕎麦屋をねじ込む」という執念のDNAでも持っているのだろうか。
しかし、いくらなんでもこれでお店を営むのは物理的に無理があるだろ、とツッコミを入れつつ案内表示をよく読む。すると、「室内が満席のときは改札を出て外からお店に入ってくれ」との記述が。
どうやらこのお店、改札内と改札外の両方からアプローチできるハイブリッド構造になっているらしい。そして、改札内向けの出入り口がこれ、というわけだ。
もしこれで改札外のメイン入口までこの幅だったら、の「一見さんお断りの隠れ家的立ち食い蕎麦屋」で、それはそれで面白い。

09:40
さすがはワインの銘醸地・塩尻だけあって、改札脇には巨大なワインの貯蔵樽がドスンとディスプレイされていた。
そのすぐ奥に、駅のコンビニ「NewDays」を発見。
残念ながらこのNewDays、改札内からは直接アプローチできない構造になっていたため、一旦改札をくぐり抜けて外に出ることになる。お買い物のために途中下車をするのは、この駅ではオッケーになっていた。
今日のお昼ごはんは、ここで手堅く調達しておこう。

09:42
食料棚の前に立ち、鋭い視線で物色を開始する。
ここでいかに優秀な兵站(行動食)を確保できるかが、後半の山行パフォーマンスを大きく左右する。
「兵站を軽んじる者は戦に負ける」というナポレオン的な教訓が脳裏をよぎり、何を買うべきか真剣に吟味する。
今この場で食べるわけではない。登山口に到着し、いざ登山を開始する直前に胃袋に叩き込む予定なのだ。となれば、ザックの隙間に押し込めるような軽量コンパクトなおにぎりやサンドイッチに無理してこだわる必要はない。

かといって、諏訪名物の「峠の釜めし」のような重量級に手を出すのはご法度だ。重たすぎる。
登山口にゴミ箱が設置されているとは思えないので、ここで発生した空き容器は山の上に担ぎ上げ、さらにそのまま下界まで持って降りることになる。その分足腰に負担がかかるから、弁当箱は軽いに越したことはない。
棚を見ると、長野駅弁の定番「とりめし」が730円という、駅弁界隈にしては良心的な価格で並んでいた。さて、どうする。
せっかくの遠征だ、いかにも日常感あふれるコンビニ飯風のパッケージには手が伸びない。やはり旅人としては「旅情」というロマンを大事にしたい。
かといって、駅弁を食べさえすれば無条件で旅情が手に入るのかと言われればそれは違うと思うのだが、それでもコンビニ弁当よりは遥かに楽しい。予算との兼ね合いも含めて自問自答が始まる。
そもそも登山というのは交通費やら山小屋代やらで金銭感覚が狂いがちにな。えーいもうどうにでもなれと散財する人もいれば、すでにお金がかかっているから、ということで節約する人もいるだろう。
僕の場合、結局頭が混乱したままどっちつかずの絶妙な出費をしてしまう。その結果、思った以上に散在しているくせに、思っているより満足感が高くないという毎度おなじみの罠に陥る。
悩んだ挙げ句、今回僕が手に取ったのは、1,100円の駅弁だった。高いような、そうでもないような、なんとも相変わらず微妙なチョイスだ。

09:47
飲料冷蔵庫のラインナップも実に潤沢だ。
最近はどこの駅ナカコンビニでも、ノンアルコールビールをしっかり取り扱ってくれるようになったのは非常に嬉しい。
とはいえ、今回はスルーを決め込む。さっき車内で既に一本飲んじゃった、という理由もあるが、これからお昼用にと買っていけば、登山口に着く頃には当然ぬるくなっている。
ぬるくなったノンアルコールビールほど、この世で存在価値のない飲み物はない。わざわざお金を払ってまで飲むものではないと、ノンアル大好きな僕でさえ断言する。お金の無駄だ。
昔はどれほどぬるかろうが「山頂でビール!」というだけで大喜びしていたものだが、アルコールという免罪符を取り払われたただの「ぬるい麦汁」は、脳への報酬が一切ない罰ゲームでしかない。「自分は何をやっているのか?」と我に返らされる、そんな飲み物がぬるいノンアルだ。

09:50
買い物を終え、先ほど衝撃を受けた「桔梗」の改札外カウンター側へ回ってみる。
なるほど、これがさっきの「超絶狭い改札内入り口」の表側の顔だったわけか。
しかし、こちらも観察してみると狭いっちゃあ狭い。何せ、お客さんが立ち食いしているスペースは、完全に駅の一般通路そのものだ。人一人分が立つために店舗がセットバックしている気配はない。
駅の待ち合い用ベンチが、蕎麦を座って食べるための椅子を兼ねているくらいだ。これは珍しい。

09:52
信州上陸の記念として、この珍しいお店で蕎麦を一杯手繰っていくのも悪くないな、とは思う。
しかし、悲しいかな朝ごはんを食べてから大して時間が経過していないし、先ほどお昼用の駅弁を仕込んだばかりだ。
ここで無計画に食い地獄を発動させれば、これから山に登る際、単純に体が重くなって己の首を絞めるだけだ。大人の登山家としては、無駄なカロリー摂取と重量追加は慎まねばならない。
そんな理性が働き、今回はメニューの偵察だけに留めておくことにした。
券売機は今風のタッチパネル式にアップデートされている。
画面の先頭に「そばメニュー(約1分)」とわざわざ明記してあるのが実に親切だ。
この「1分」とは当然、注文から提供されるまでのスピードのことだろう。僕のようなタイトな乗り継ぎ客が多数を占める要衝駅ならではの、鉄道ダイヤへの最大限の配慮だと思われる。
券売機の最も目立つ左上、すなわちお店が一番売りたい一等賞のポジションには「信州鹿肉そば 800円」が君臨していた。へえ、鹿肉そば!立ち食いとしてはなかなか珍しい、興味をそそられる提案だ。
経験上、鹿肉なんて大して美味いものではないと知っているのだが、「メニューにあったらぜひ食べたい食材」という、アンバランスさがある食べ物だ。
その隣に控えるのが「山賊そば」。この塩尻・松本界隈のB級グルメとして名を馳せる、鶏の唐揚げ(正確には竜田揚げに近い)がドカンと乗った名物だ。ニンニクや生姜の効いたタレに漬け込んだ鶏肉に片栗粉をまぶして揚げた、スタミナ満点の逸品である。
他にも「石臼挽きもりそば 700円」などもあり、さすがは蕎麦大国・長野。安易に刻み海苔をバサバサ散らした「ざる」でお茶を濁さず、シンプルかつストレートな「もり」で勝負してくるあたりに本場のプライドを感じる。
ちなみに最安値の「かけそば」は360円。良心的だ。

しかし、券売機をよく見ると驚きの告知が貼られていた。昨今の鳥インフルエンザ流行の煽りを受け、鶏肉の入荷が極めて困難になっているという。
そのため、看板メニューである「山賊そば」は当面の間「販売休止」と書かれていた。立ち食い蕎麦のトッピングにまでそんな国際情勢的な影響が直撃しているのか!
と、ここでさらに驚愕の事実が判明する。
告知の続きを読むと、ちょうど今週末は「山賊サマーフェスタ」なる地元のイベントが開催されており、その期間中だけは意地で山賊メニューを一瞬だけ復活させているらしい。なるほど、だから目の前のタッチパネルで「山賊そば 900円」が売り切れにならずに生き残っているわけか。
ただし、この奇跡の復活劇は8月5日・6日の2日間限定。えーと、今日がその8月6日だ。つまり、今日を逃せば明日僕が下山した頃には、山賊は影も形もなくなっているということだ。
なんとも惜しいタイミングだが、致し方ない。泣く泣く券売機の前を離れる。

09:55
それにしても、「しおじり山賊焼サマーフェスタ」だなんて、なんとも胃袋を刺激する楽しげなイベントをやっているもんだな、とポスターを恨めしそうに眺める。
おや、会場は「JR塩尻駅前東口広場」?ここから目と鼻の先ではないか。
特急が来るまでの時間、ちょっとだけ突撃して偵察してくるか?と一瞬頭をよぎったが、無情にもイベント開始は11時からだった。これでは電車の時刻に到底間に合わないので、断念。

10:00
大人しく改札内に戻り、駅ナカの案内板で営業情報を再確認する。
駅構内にワインを扱う店が2店舗もあるあたり、さすがは塩尻駅といったところか。アイデンティティが明確で素敵。

10:05
発車電光掲示板を見上げながら、次に乗る「特急しなの」の到着を待つ。
東京方面からの中央東線と、名古屋方面へ向かう中央西線、そして長野へと続く篠ノ井線、さらに辰野に向かう電車が交差する分岐点だけに、掲示板の情報も複雑で眺めているだけで退屈しない。

10:07
ホームへと向かう階段の通路に、「ホームのぶどう園」という、鉄道駅としては極めて異例な看板を発見した。
さっき特急あずさを降りた際、「なんか隣のホームにやたらと緑の木が生い茂っているな」と視界の端で気になってはいたのだが、まさか駅のホームで葡萄をガチ栽培しているとは夢にも思わなかった。
これは野次馬根性を発揮して見に行かねばなるまい。

10:10
階段を下りた先には、本当に立派なぶどう棚とワイン樽が鎮座していた。看板には「日本で唯一 ホームのぶどう園」と堂々たる表記。
とはいえ、所詮は駅のディスプレイだ。どうせ観賞用で、ここで採れたぶどうで本当にワインなんて作ってやしないだろ?と邪推したのだが、調べてみたら驚いた。
なんと、ここで秋に収穫されたぶどうは地元の醸造所にガチで委託され、本物のワインとしてボトル詰めされて限定販売されているらしい。しかも人気商品なのだとか。
数量限定の超レア物だし、鉄道好きかつ酒飲みにとってはこれ以上ないロマン溢れるお酒になりそうだ。
(つづく)
