風と雨は、黒部側の谷底から吹き上げる形で常にわれわれの行く手を阻んだ。
そのため、この写真を見てもわかるとおり、左の眼鏡レンズの方が水滴がいっぱいついている。逆に右側のレンズはそれほどでもない。
「富山地方の天気、雨。長野地方の天気は曇り時々雨ってことで」
中岳から縦走ルートに戻り、先に進む。
爺ヶ岳から、本日の目的地冷池山荘までは標高差で200mちょっと下ることになる。今まで登り一辺倒だった道が、くだりになった。
扇沢から鹿島槍の一連の登山道で言えることは、上りならずっと登り、下りならずっと下りというシンプルな傾斜ということだ。細かいアップダウンを繰り返しながら標高を稼いだり、逆に標高を下げたりするのは非常に疲れるので、こういう道は非常にありがたい。
何より、ちょっと上って、すぐに下るとなると「おい!今僕が苦労して稼いだ標高を無駄にするな!位置エネルギーの無駄遣い反対!」という、精神的ダメージをくらう。
その点、この登山道は精神的ダメージがほぼ皆無に等しかった。偉い。
標高を下げたせいか、木々が生えている間を進んでいた登山道だったが、ここにきて急に開けた。
相当細かいつづら折れの道だ。ここから一気に標高を下げる事になる。
このあたり、風の通り道になっているらしく、強烈な風が吹き抜けていた。
植物が生えていないのは、風が強いからなのだろう。
あっ!
一瞬の強風で、買ったばかりの自衛隊迷彩ブーニーハットがすっ飛ばされた。
「ぼ、僕の2,500円がぁぁぁ」
まず、金額を口走ってしまうあたり貧乏人の証だったりするわけだが、それはほっといてくれ。
幸い、飛ばされた2,500円は(しつこい)すぐ近くのハイマツに突き刺さっていて、なんとか回収に成功した。
危なかった。それにしても、さすがに自衛隊はハイマツを想定した迷彩にはしていなかったようだ。ハイマツの中に埋もれても、帽子だとはっきり分かる。
・・・まあ、高度2500m以上のところで戦争するってどういうシチュエーションなんだかさっぱりわからん。しかも、専守防衛の自衛隊なのだから、本土決戦になっているわけで・・・追いつめられて、山の上に逃げた場合?
というわけで、あり得ない状況なので、迷彩柄にハイマツは考慮されていないということでファイナルアンサー。
危ないので、ブーニーハットのひもをおもいっきり締め上げ、顎に食い込ませてやった。
「これで絶対に飛ばないぞ。今度帽子を飛ばそうとするんだったら、僕の首が飛ぶか帽子が飛ぶかの格闘だ」
闘志が湧く。
しかし、あまりにきつく締めすぎ、頸動脈まで締まってしまい苦しくなったので若干ひもをゆるめたのは内緒だ。
おかでんの負け。
急坂を下りたところに、なにやらオブジェと標識があった。ここが「冷乗越(つべたのっこし)」と呼ばれる場所らしい。
ここから、大谷原に降りる赤岩尾根ルートが延びている。あと10分で、山小屋の地点。
風がものすごく強い。三脚を立てて撮影しようにも、三脚が「あ、もうダメです」と言ってふわーんと倒れてしまう。倒れる、というよりも浮き上がるようにつんのめるので、カメラごとどこかに飛ばされそうで怖い。
三脚撮影を断念。
しょーもない兄貴とオブジェの写真でもお楽しみください。
風がつよいので、まともにアングルなんて決めてられない。とにかく、撮影できればいいやって感じ。
兄貴がうつむいているため、顔が帽子に完全に隠れてしまっている。謎のマスクマンに見える。
「まさか樹林帯の中を歩くことになるとは思わなかったなあ」
と兄貴がぼやきながら歩く。
「せっかく、見通しの良い稜線歩きだったのにな。風が吹き込まない分ありがたいけど」
樹林帯ということは、要するに標高が下がりまくってしまったということだ。地図で事前に高低差は分かってはいるが、実際にこうして標高が下がった事を目の当たりにすると、悔しい。
「なにが10分で冷池山荘だ、10分では着かないではないか」
昭文社のアルペンガイドに記載されている標準コースタイムは、今までにないほど誤差が大きかった。全くあてにならん。
愚痴っているうちに、樹林帯が開けてきた。あ、人口建造物発見。山小屋だ。冷池山荘だ。
じゃーん、
今年7月15日に新装オープンしたばかりの冷池山荘に到着。外観を見る限りでは、新品のピカピカって感じはあまり受けない。
「山小屋だからな、外見がピッカピカって事はあり得ないんだろうな」
と納得しておく。
冷池山荘の前は、やや広いテラスになっていて、そこから松本平が一望できる位置関係にある。
ここで、「一望できる。」と断言したかったのだが、ご覧の通り。ガスっていて、あまりよく見えない。だから「一望できる位置関係にある。」という表現にとどめさせてください。
14時39分、冷池山荘着。思ったよりも早く着いた。本日の所用時間4時間50分といったところか。
冷池山荘前で記念撮影をしておく。
大きく深呼吸をしてから、中に入る。ここまでが、登山モード。そしてこの山小屋に一歩足を踏み入れた時から、まったりモードだ。これから半日以上、何もすることが無くこの建物の中で悶々とすることになるのだ、気合いを入れなければ。
内装は、さすがに改築しただけあって初々しい。木材の色つやが新鮮だし、木の香りもする。
入り口入ってすぐ左手に受け付けがあった。早速、受付を行う。・・・山小屋の場合、「チェックインする」という表現はどうもそぐわない。結局、「受付」が一番しっくりくるのだよな。
平成16年度宿泊料金。
ご覧の通りです。解説省略。
北アルプスの山小屋は、その多くが「食事のみ」のサービスをやってくれている。だから、テント泊にして、食事だけ山小屋のお世話になるという選択肢もあるということだ。
「山小屋の混雑はイヤだけど、テント泊で自炊するのは面倒だし重いのでもっとイヤ」
という人向けだろう。
ただし、夕食・朝食セットで3,000円する。テン場使用料500円を加えると、3,500円となる。山小屋1泊2食付き8,600円と比べれば半額以下だが、それでも結構なお値段になるのは事実。
われわれ社会人にとってみれば、一泊8,600円くらいの支払いはなんと言うことはないが、ワンゲルなどの学生さんにとってみればとんでもなく高額だろう。学生割引があってもいいと思うのだが、どうだろうか。
ただでさえ現在、山は若い人が居ないのだから、将来のお客さん育成のためにも学割って非常に有効だと思う。
いや、でもそこまでして山に人を入れることはないか。自然破壊になるだけだし。登山愛好者が高齢化して、誰も登る人が居なくなったら、それはそれで自然にとって良いことだったりして。
「予約をお願いしていたおかでんですが」と受付に申告。ううむ、山小屋に泊まるシチュエーションではない会話のような気がする。
受付の奥にはホワイトボードが掲げられ、そこには本日のご予約者一覧が書かれていた。もちろんきっちり、「おかでん様」という記述もあった。
一泊二食つき8,600円を支払ったら、引き替えにカラフルなチケットを渡してくれた。朝食券、夕食券および水1リットルサービス券だ。これと引き替えに食事をしてくれ、ということだな。
水1リットルサービス、という概念は面白い。このチケットがないと、1リットルあたり150円のお支払いとなる。これは種池山荘と一緒。
入り口入ってすぐのところにあるロビー。きれいで、開放的だ。真ん中にストーブが据えられている。
まだ発電機が回っていない時間のため、ちょっと薄暗い。
われわれの部屋は2階だった。従業員さんの導きにしたがい、指定された場所に向かう。
今時の山小屋ってヤツだろうか、個室構成になっている。一般的に山小屋っていうのは、ながーい通路の両脇にずらりと人がお行儀よく寝るスタイルが多い。これだと、単位面積あたり最大の人員詰め込みが可能となるわけだが、そこで寝泊まりする方としては結構しんどい。
というのは、一つの空間に100名だとかの規模で寝ているわけで、誰かがいびきをかけば、その空間に同居している全ての人が迷惑する。
その点、個室構成になっている山小屋はとってもありがたい。山小屋なんだから、こんなぜいたくしちゃイカンという罪悪感は感じるのだが、現にこうして部屋があるんだから仕方がない。有り難く使わせて頂こう。
部屋はロフトがあって、われわれはそのロフト部分だった。
「おお!?」
先を行っていた兄貴が思わず叫ぶ。
「布団と布団がくっついていないぞ!」
見ると、確かにその通り。布団同士の間に、畳がしっかりと見える。
「さりげなく凄い光景だな。ぎゅうぎゅう詰めが当たり前の山小屋だというのに」
「いや、でも布団の予備が棚にたくさん積んであるところからみても、今日が特別なんだろうな」
「詰め込む時は詰め込むぞ、という警告だな?」
「そういうことだ」
「でも、わざわざ今日用のバージョンとして、こうやって隙間を空けた配置にしてくれるって・・・ありがたいねえ」
「ああ、ありがたいな」
二人して、感謝感謝なのである。
うれしくなって、記念撮影。
ロフト部分は、ハシゴを挟んで3人用、2人用に分かれていた。われわれは3人用のブロックだったが、事実上われわれ専用の個室感覚。だから、こんな写真も撮れる。
普通、山小屋の寝るスペースでこんなにリラックスして写真は撮れませんぜ。しかもセルフタイマー使って。
この山小屋、すこぶる気が利いているのは受付時にハンガーを貸してくれたことだ。一人、2本。こういう気配りは初めてだ。濡れネズミ状態だったので、衣類を干すのは至上命題。早速使わせて貰うことにした。
1階ロビー横に乾燥室はあったのだが、面倒なのでロフトの欄干に衣類を干した。ああ、せっかくの新築山小屋が、一気に庶民臭くなる瞬間。
ちなみにこの山小屋の消灯時間は20時15分らしい。やや早い。一般的には21時だと思う。
20時15分に寝るというのは結構なプレッシャーだ。夜中に目が覚めて、「まだ夜の11時だ」という事に気がついて絶望する、なんて事は十分に考えられる。
だから、間違っても早く山小屋についたからといって、山歩きの疲れに負けてお昼寝をしてはいけない。その後、長ーい夜が待っているのだから。
自宅だったら、長い夜の過ごし方はいくらでもある。しかし、山小屋には「暇つぶしグッズ」なんて持ち込んでいないわけで、眠れなくなったら地獄だ。
ロフトから降りて、部屋の一階部分を見たところ。
ご覧の通り、さすがに通路がばっちりと確保されるほどのスペースではないものの、各布団が独立して陣地を主張していた。
すごく新鮮な光景だ。
なんか、修学旅行で寝る部屋みたいだ。
畳がまだ青々としていて、いい香りがするので山小屋らしくない。「新装直後に泊まることができて良かったね」と兄弟そろってにっこり。
「探検に行こうぜ、探検」
兄貴がうれしそうに言う。250名収容規模の山小屋なので、そこそこ広い。うろちょろしてみるといろいろ面白い発見がありそうだ。
2階廊下を歩いていたら、変な場所を見つけた。
「うわっ」
思わず声が出てしまった。
ガラス張りの床だ。のぞき込むと、1階が透けて見える。
ここ、歩いていい場所なのか?それとも足を踏み入れてはいけない場所なのか?
壁に、張り紙がしてあった。「サンテラスをご利用のお客様へ」だそうな。
なるほど、ここはサンテラスと呼ばれているらしい。
床のアクリルは十分な強度があるから大丈夫、と書いてあるが、やっぱり怖い物は怖い。
「おい、十分な強度があるといっても、お前はダメだからな。体重があるんだから」
「ちぇっ、余計な事言うなよな。それにしても、今日スカート履いてきてなくて良かったー。下から丸見えじゃん、これだと」
「山にスカート履いて登るヤツなんていないだろ」
「あ、そこ突っ込む場所違う。お前男だろーッ、って突っ込んでくれないと」
「しらんよ、そんなの」
部屋のサイズは小さいものもあった。10名程度の団体さんの予約があったら、1グループまとめて収容できるようにしたんだろう。
この部屋は使われる予定がないようで、布団が片づけられれていた。
二階の最奥に、「診療室」という部屋を発見した。主要な山小屋には大抵こういう部屋があり、夏山シーズンになるとボランティアの医大生とドクターが交代で詰めている。
そういえば、診療室があるような山小屋に、シーズン中宿泊したことって無かったなあ。
ひょっとしたら、「今まで見たことがなかった、山小屋に詰めているドクター」を見かける事ができるかもしれない。見たからといってどうなるわけでもないが、ちょっとワクワク。
・・・?
誰も居ないんですけど。
部屋は、半分は普通の寝泊まりする用の畳部屋になっていて、残り半分に診療台や薬が陳列された棚があった。カーテンが閉まっていて、診療をやっている気配がない。診療台の下に置かれていた看板から、どうやらここは千葉大学医学部が面倒を見ているらしい。
「どうするんだろうな、夏山ピークの海の日三連休で診療しないっていうのは変だぞ」
「自分たちが怪我しちゃって下山しちゃったか?」
しばらく室内を興味津々で眺めていたら、宿泊客のオッチャンが通りすがりに「何やってるの?」と聞いてきた。
「いや、診療室ってあるんですけど、まだ誰もいないみたいなんですよね。不思議ですよね」
と答えたら、
「そりゃーまあ、まだこの山小屋オープンして1週間も経ってないもんな。15日オープンだから、ここ」
とヘヘヘと笑いながら通り過ぎていった。
いや、オープンがいつであっても関係ないと思うんですけど。
診療室から下におりたところが、お手洗いだった。以前、冷池山荘の洗面所は臭いが目に染みるほどだったようだが、改築に伴って随分と良くなった模様。
ただ、維持費がかかるようで、チップ制のお願いがしてあった。宿泊客はトイレ無料、通行人は有料というのはよく聞く話だが、宿泊客までチップを依頼しているのは珍しい例だ。
何やら、「サンレット」なるありがたいハイテクかつバイオな処理をおこなっている模様。
ここは、落とし便所ではなく、ちゃんとした水洗だった。で、その汚水は浄水ののち再利用をするという仕組み。何か、凄そうだ。
チップを何年分集めれば、こんな大がかりな仕組みが作れるんだろう。
試しにチップ入れをカラカラと揺すってみたが、どうも軽い音しかしない。1円や5円といった小銭処理場に使われてしまっている予感。
呆れたというか感心したというか、1階ロビーのすぐ脇には携帯電話の充電装置が置いてあった。最大同時8台まで充電可能、ときたもんだ。
そんなに充電したいヤツっているのだろうか?
一週間山を縦走しっぱなしなんですよー、もう携帯バッテリーピンチでねえ。
なんて人がいるならともかく、通常は1日、長くても2日の山歩きだ。バッテリが上がるなんて事、あるんだろうか。
と思って、機械をのぞき込んでみたら、ああ!充電中の携帯電話発見。やっぱり居るモンだなあ。
この機械の面白いところは、コインロッカーのような造りになっていて、充電中の携帯電話はロッカーの中に押し込んで、暗証番号を設定しておけばロックされて盗まれる心配が無い、という仕組みだった。
食堂に侵入してみる。
肩と肩がぶつかり合うくらいの位置関係で座席が並んでいた。まあ、これはどの山小屋も一緒。
同時に80名程度は食事ができそうなスペースだった。
水が貴重、という山小屋なので、料理にどんなものが出てくるかやや不安。本当に水が惜しい山小屋だと、皿を洗う水ももったいないので「皿の上にラップを敷いて、その上に料理を盛りつける」という荒技もやる。料理も、必然的に水をあまり使わなくて良いものになる。
夕食は17時から。相当早い時間の食事となるが、それでもまだ2時間ほどある。暇だ。
1階が、何やら美味そうな臭いに包まれていた。何事かと思ったら、下駄箱すぐ脇の部屋が自炊室になっていたのだった。
山小屋泊だが、自炊の人っていうのはある程度存在する。その人たちのために火を使って良い部屋を提供しているわけだ。
非常に香ばしい臭いがする。そっとのぞき込んでみると・・・。あ、焼肉焼いてる!
持参のガスバーナーで、生肉を焼いとる。そして、傍らには生ビールのジョッキが。
おおう、これは美味そうだ。
さすがの兄貴も
「ううむ、これは美味そうだ。ちょっとうらやましいぞ」
と無念そうな顔をしていた。山で肉焼いてビール。これはたまらんものがある。でも、山小屋の夕食では無理だろうなあ。豚肉の生姜焼きが出たことはあるが、大量生産で大量のお客さんを一気にさばくため、冷めていてシズル感のないものだった。熱々の肉、ってのは山小屋では無理。そこは、自分で汗を流して山の上に持って揚がらないと。
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