テント張りの第一歩は地ならしから。
しかしこの地ならしは中途半端だったためにそれからの毎晩が地獄だった。
古里ヶ浜に到着したわれわれは、「わー海だー。とりあえず泳ごー」なんてはしゃいではいられなかった。天気が怪しい。とっととテントを設営しないと。何しろ、このメンバーの中ではテントを立てたことがある人は一人もいない。持ち主のおかでんでさえ、未経験者だ。時間がかかりそうだ、ということは容易に想定がついた。
アウトドアの本などを読むと、「テントなどは現地に行く前に一度組み立ててみること」という一文が必ず書かれている。そりゃそうだ、現地に着いて作り方がわかりません、とかパーツが足りませんじゃあお粗末極まりないからだ。しかし、5名の大人が寝ることができるような大テント、袋から取りだそうとして十秒もしないうちに諦めた。こりゃいったん広げちゃうとしまい方がわからんぞと。一人じゃとてもじゃないけど収まらないぞと。そんなわけで、当日まで放置されてきたのだった。その他の用具類も似たような境遇だ。
比較的広い砂浜のうち、どこをテン場にするか議論があった。海岸線に近い方がより平地だ。波打ち際の迫力もあるし、おかでんは「海寄り」のテント設営を主張した。しかし、慎重居士のばばろあが「大波が来たらどうするんや」と反対。議論の結果おかでんが折れ、砂浜の一番奥まったところ、端のところにテントを設営することになった。
ただしここは斜面が結構ある。そのままテントを設営すると、ずるずるとテントが砂スキー状態で滑りだしてしまう。言い出しっぺのばばろあが率先して地ならしを開始。数名がかりで、斜面の砂を平地にするという土木作業に着手することになった。まさか天幕生活一発目が土木作業になるとは思わなかった。
で、1993年当時の解説文において「毎晩が地獄」と記述されているのはなぜかというと、書いてある通り地ならしが完璧ではなかったのだった。どだい、無理ってもんだ。小さな折りたたみシャベルと手では平地化できん。「まあ、こんなもんじゃろ」という事でテントを張っちゃった訳だが、当然斜面は残ったままだ。昼間はそれで何ら問題ないのだが、この安易さが顕在化するのが夜、寝ている時だった。寝ている人間が、重力に従って下にずり落ちていく。5名が川の字になって、斜面に対して水平に寝ることができればまだ良いのだが、このテントの場合3名水平、2名垂直という寝方にならざるをえなかった。で、時間の経過と共に坂の上にいる垂直の人が水平3名に向けて転がってくる。水平3名も、上からの圧力に加えてやっぱり重力の力で下にずれていく。そして、最後に一番坂の下にいる人がもみくちゃになる。
このテントの場合、「寝返りをうつ」と同時に、「ちょっとずり上がって位置を修正する」という行為を常に習慣づけないと、下の人に迷惑をかけることになる。だから、気を遣うし、気を遣ってもやっぱり押しつぶされるし、結構悩ましかった。
迫り来るちぇるのぶ。
偉大な生き仏であらせられるので、後光が差し込んでらっしゃる。
アリガタヤアリガタヤ・・・
別にどうでも良い写真なので説明割愛。
テント設営完了を記念して一枚。
テント設営がよっぽどうれしかったのだろう、2枚同じ構図で写真を撮影している。
見ればわかるとおり、テントが相当傾いているのが分かる。常識的に考えて、この斜度で寝袋に入って寝たら、絶対に転がるということくらいわかりそうなものだが、当時はわからんかった。
テントを作っていて発見というか、驚きだったのは砂地なのでペグが刺さらないのね。せっかくペグ用のトンカチを持って待ちかまえていたのだが、使う機会が無かった。こういうのも無知がなせる技。
宿泊用のテントの出入り口から出てすぐのところにかまどを作り、そのかまどを挟んで向かいに小テントを設営した。こちらは、各自のザックや食材、各種用品をしまう倉庫用だ。
テントの回りには、一応浸水防止ということで溝を掘っておいた。砂地でのテントにおいてあまり意味がないような気がするが、「テント設営とはそういうものだ」と思っているんだからそうしたまでだ。
夕方になってから大雨が降り出した。
料理長のばばろあは雨を気にしながら夕飯を作っている。
ちなみにこの日の夕食は味噌煮込みうどんだった。
テントとかまどを設営後、水くみ部隊が出発した。すぐ近くに小学校があるので、水の確保は容易・・・と思われたが、行ってみてびっくり。水道は全部蛇口が取り外されているか、針金で固定されていたのだった。
「キャンプ客が水を持っていくので、使えなくしたな?」
これはさすがに想定外だった。冬の下見の時には無かった事象だ。確かに、水は島民にとって貴重なもの。ふらりとやってきたキャンパーにじゃあじゃあと使われるわけにはいかなかったのだろう。
それにしても困った。ここで水が確保できないとなると・・・
「確か八代神社に水があったぞ」
誰かがそんなことを言い出し、2名が片道40分+石段の八代神社まで水くみに出かけていった。往復1時間半の長丁場だ。どこの発展途上国だ、というありさま。折りたたみできる、袋状のウォータージャグは20リットルの水を入れる事ができる。すなわち、満タンにしたら20キログラム。とてもじゃないが40分の道のりは無理なので、キャリーカートを引きずって出かけていった。
まあ、リアカーを返却するために集落にいく必然性があったので、ちょうどよかったのだが。
初日であるため、野菜類が散乱している。
ちなみにカボチャは翌朝、フナムシのエサと化してしまい捨てる羽目に。
荷物用テントの入り口におかでんのセクシーなヒップが見える。
調理主任ばばろあがテントのひさし部分で夕食を作っている。初日からかまどをフル回転させたかったところだが、この雨ではとてもじゃないが無理。雨天用に持参したコールマン・ピーク1ストーブを使っての調理となった。このピーク1ストーブは後に「労働(ノドン)2号」と呼ばれるようになったものだ。
調理は完全にばばろあ主任に一任(主任、といわれておきながら部下がいない)されていたので、残りの隊員はテントの中で料理ができるのを待ちわびる、という構図。
味噌煮込みうどんには、集落で調達した油揚げが使われたのだが、これが結構美味かった。この島で作ったものではないから、鳥羽から運んできたもののはず。でも、意外なおいしさ発見だった。これにはばばろあ調理主任ご満悦。後日、調達部隊に追加購入のリクエストを出していた。
夜、何度も起きる羽目になった。熟睡とはほど遠い状態。
眠れなかった理由は2つある。
- 「斜面の上から人がずり落ちてくる」ために圧迫された。そして自分自身も何度もずり落ちているのを修正した。
- 波の音がすごく間近に感じられ、波にさらわれるのではないかと気になった。
(1)については既に述べたとおり。斜面にテントを設営したものだから、寝ている人間は素直に重力に従って低い方へ低い方へと移動していった。初日夜にして思い知らされたので、次の夜からは寝る位置をローテーションにした。そうでないと、寝やすい場所・寝にくい場所があるからだ。
(2)波の音は昼間も始終聞こえていたのだが、いざ真っ暗な中でテントという密閉空間にいると、特に音が大きく感じられる。沖合には消波ブロックの堤防があるし、それほど波はきつくないし、テントのある場所まで波が来るなんてあり得ないはずだ。でも、なんだか襲われる気になった。
ようやくその環境にも慣れ、なんとか眠れるようになった・・・と思ったら、空が明るくなってきた。
テントの生地は薄い。太陽が昇ってくると、普段文明まみれの部屋の中で夜明けを迎えるのとは全く違った次元で明るくなる。何しろ、360度全部が明るくなるのだから、寝ていられない。自然は偉大だ、目覚ましなんて必要がない。夜明けと共に、起きる。至って健康そうな感じだが、寝不足気味での2日目の朝となった。
1993年07月27日(火) 2日目 くもり(強風)
まだ朝6時だというのに、さっそく薪割りに精を出す。
早朝に力仕事をやっつけてしまわないと太陽が照りつけてくるのだ。
朝真っ先に起きた人がまずやることは、かまどに火をつける事だった。2日目朝からこの風習が定着したかどうかは記憶が定かではないが、朝イチでかまどに火をつけるという作業はとても重要だった。
なにしろ、「原則食事はたき火で作る」ルールになっている。かまどに火がないと何も始まらない。そして、朝は一晩中の潮風で木や焚きつけ用の枯れ草が湿気を帯びているので火がなかなかつかなかった。早く朝食で空腹を満たしたければ、早く火をおこすこと、それしかなかった。
食事で、「火を通さなくても食べられるもの」なんてのは存在しなかった。全て、加熱調理を前提とした食材ばかりの持参だ。保存性を考えると当然の結果だ。
というわけで、一人が火をおこしている間に、調理主任ばばろあは朝食の準備を開始し、残りはたき木として使えそうな流木拾いと薪割りに散らばっていった。
ちぇるのぶが中心となり、あちこちから木を拾ってくる。大きなものを引きずってくれば大層なお手柄だが、それそのままだとたき木としては使えない。ノコギリで切断し、ナタでたたき割るという作業が必要だった。キャンプ用品一式の中には、ナタとノコギリが1組になってウエストホルダーに収まっているものを2セット用意しておいた(後に「ナターシャ」と名付けられた)。それがフル活用だ。
ちょうど砂浜の中に、コンクリートブロックがむき出しになっている場所があったので、そこを土台にしてガツンガツンとナタで木を砕いていった。ナタはともかく、ノコギリ担当は結構な重労働で、あっという間に腕がくたくたになった。
しかし、1日3食たき木で調理し、なおかつ夜にはキャンプファイヤーをやろうと画策しているわれわれにとって、このたき木作りは最も重要な作業といえた。誰も文句一つ言わず、作業を続けた。
ひと仕事した後の朝食は最高である。
ワイルドにナイフを使ってジャガイモを食う。
野外生活はこうでなきゃ、ね。
作業を続けているわれわれに、調理主任ばばろあから「朝食できたでー」の声がかかった。
浜辺での朝食。
このフレーズだけ聞くと、とて優雅に感じるが、実際はそんなものではない。
朝食:じゃがいもをホイル包みにして、直火にくべた「焼き芋」。以上。
至ってシンプルだ。というか、シンプルすぎる。3日目の朝もジャガイモだった。4日目の朝も5日目の朝もジャガイモだった。さすがにたまりかねて調理主任に抗議申し上げたが、
「これだけの食材でどうしろというのか」
「これ以上手間をかけさせるな」
と逆襲された。確かに、限られた食材と重量・容量の中ではぜいたくを言ってられない。
全員ナイフを持参しているので、ナイフを使って食べる。ただ、実際に使ってみたらあまり意味がない行為であると気がついた。そのままかじりついた方が早い。でも、せっかく持ってきた以上は使わなくちゃ、と全員必死になってナイフを使っているのがいじらしい。しかし結局、4日目くらいになると誰もナイフを使わなくなった。テーブルナイフと違って、ほんまもんのナイフなので非常に危ない。刃先が口のそばでちらちらしていたら危険。
「限られた重量・容量」という割には、テーブル代わりに使っている鉄板の上にインスタントコーヒーの瓶がどかんと置いてある。これはちぇるのぶが大のコーヒー党であり、「朝はコーヒーが無いとダメ」と強固に主張したからだった。確かにコーヒーは毎朝全員で飲んだが、こんなでかい瓶は不要だったな。今だったら、小振りなジップロックかタッパウェアに移し替えて容量削減に努めたんだろうが、そこまでの知識と経験は当時誰も持ち合わせていなかった。
料理長のばばろあ以外は全員ナタとノコギリを手に木材をばらす仕事をせねばならない。なかなかの重労働だ。
朝食・・・といっても、おやつを食べたような胃袋の状態ではあるが・・・が済んだら、また木々との格闘に没頭する。誰も海で泳ごうぜ、なんて言わない。とにかく、作業優先だ。感心するくらい、全員真面目に仕事を黙々とこなしていった。
木を切るという作業が新鮮であり、それ自体に楽しみを感じていたというのが主要因だったと思う。しかし、それとは別にじりじりと照りつけてくる日差しが気になって仕方がないという現実があった。何しろここは砂浜、日差しを遮るものは何もない。一気に気温があがっていく。早い段階で作業を終わらせないと、熱中症で倒れる事間違いなしだ。とてもじゃないが、午後にできる作業ではない。まだ気温が上がりきっていない午前中にしかできない。
汗だくになりながら木を拾ってきたり切ったりしている4名だが、一人ばばろあだけは単独行動をしていた。調理主任=偉い人、という発想は椎名誠の「怪しい探検隊」から引き継がれており、薪作りの重労働は免除されていたのだった。その代わり、鍋釜類と全員分の食器を洗う義務が生じる。一人、波打ち際にたわしとスポンジを持って食器洗いにいそしんでいた。
「いいなー、涼しげで」とわれわれは羨望のまなざしで、その後ろ姿を眺めていた。
しかし、この食器洗いが結構なくせ者。たき火で調理しているため、鍋底に真っ黒なすすがこびりついているのだった。これが邪魔くさい。すすは若干粘り気を帯びているため、鍋底をうっかり触ろうものなら手にべったりとすすが付いた。そしてその手でお皿を触ると、皿にもべったりで洗い落とすのに一苦労二苦労。
食器を洗い終えても、油断は禁物。すすに触れないように気をつけてテントサイトまで運び、その後は砂がかぶらないように慎重に場所を選んで食器類を置かなくてはならない。周囲は一面の砂。常にわれわれを砂の脅威がついてまわった。何もかもが砂まみれになる。特に濡れた皿なんてのは格好の餌食だ。砂からいかにわれわれを守るか、というのはこの天幕合宿では重要なテーマだった。
食材・食器関係を砂から守るのは当然として、特に寝室であるテント内への砂の持ち込みは固く禁止された。全員がサンダル履きなのだが、何の気無しにサンダルを脱いでテントに入ると、どうしても砂を道連れにしてくる。だから、テントに入る際には必ずぞうきんで足をぬぐう事、というのがルールとなった。
荒天を見上げ隊の将来を案じるおかでん隊長。
足下の廃材は数時間後全て薪としてバラバラにされた。
曇り空だが、相当暑い。おかでんは水着一枚になっての作業だった。汗で濡れたシャツが体に張り付くという不快な事象はこれで回避できたものの、この格好で木材を運ぶと、ささくれだった部分が肌に刺さって痛かった。作戦失敗。
この「海パン一丁」の格好でも、腰からナイフをさげることを忘れていない。当時、ナイフがよっぽどうれしかったのだろう。それにしても今から見ると物騒な格好だ。
砂浜を探せば流木は見つかるのだが、大物は砂浜から上がった丘の上に転がっている傾向があった。多分、砂浜の清掃ボランティア活動があって、波打ち際にあった流木を高いところまで運び上げたのだろう。
しかし今度はわれわれが砂浜に下ろす番だ。結構な大きさの廃材が転がっていたので、有り難く全部頂戴する。
この作業は10時頃まで続けられ、ほぼ1日分のストックができたと判断し打ち止めにした。翌日以降も、「朝5時頃から作業開始、途中朝食を挟んで10時まで続行」というスケジュールだった。
今夜のおかずを釣り上げた!
とりあえず責任を果たしたという安ど感が先行した一瞬であった。
釣れた魚は、べら。
10時でたき木作り作業を終えたのちは自由時間。午後の水くみ当番と、調理主任のばばろあ以外は特に予定は無しだ。ようやくここで、海に突撃。久々に泳いだ。消波ブロックの外は波が荒いが、内側は波が穏やかで泳ぎやすい。十分に満喫した。
また、「食材は自らの手で手に入れろ」と意気込んでいたおかでん、持参した釣り具で釣りを開始した。ばばろあから「植物性蛋白はお店の油揚げで取れとるからええけど、動物性蛋白が無いんよ。魚とってきてくれ」と言われていたので責任重大。当時はクーラーボックスなんて持って無かったし、持っていても保冷のしようがないので肉類は一切持参していなかった。現地調達でお魚を捕まえてくれば、これほど調理主任として助かることはない。
試しに、テント前の浜辺で投げ釣りをしてみた。キスくらいなら釣れるかもしれん。
しかし、海からの強い風の影響があり、投げた仕掛けはことごとく狙いからそれた。古里ヶ浜の中央には、デデーンと巨大な岩が海にせり出しており、われわれから「ジャイアントロボ」と呼ばれていたのだが、こいつばっかりが釣れた。つまり、海に仕掛けを投げ込むどころか、岩に仕掛けを引っかけてしまっていたのだ。しかも、1度ならずとも2度、3度と。これは情けない。がっちりとひっかかってしまい、何度も釣り糸を切断し、仕掛けを作り直す羽目になった。やばい、仕掛けが全滅しそうだ。
このままではいかん。ここでの釣りは、無理だ。「今晩のおかずを豪華にしちゃる」と宣言していた手前、引くに引けなくなって午後は釣り場所を変更。仕掛けを投げなくてもよく、垂らすだけで釣りができる場所・・・防波堤へと繰り出して行った。防波堤は、神島の港にある。水くみ部隊同様、片道徒歩40分で現地に向かった。いや、実際のところ防波堤は結構長いので、片道50分といったところか。
ここもまた日差しを遮るものが全くない場所。容赦なく照りつける太陽の中、釣り糸を垂らした。さんざん待った挙げ句、一匹ヒット。引き上げてみたら、ベラが食いついていた。小さい魚だったが、とりあえず「坊主」という汚名を着せられる事は無くなったので一安心。
その後も照りつける太陽の下で釣りを続けたが、結局釣果はベラ3匹だけに終わった。
時折強い風が吹く。
空を案じる蛋白質。
向こう側に新たなキャンプ客がやってきたので、各人必要以上にイライラしていた。
たった三匹で、一人一匹とまではいかなかったけど意気揚々と魚を携えて古里ヶ浜のベースキャンプに戻ってみると、テントの数が増えていた。今朝まではわれわれだけで砂浜貸切状態だったのだが、別のキャンプグループがやってきたのだった。その次の日になるとさらにテントの数は増え、「この砂浜は俺たちの物だ」くらいの認識だったわれわれを残念がらせた。
また、施設も整っていないこの離島の砂浜にわざわざテント担いでやってくるということは、100%間違いなく椎名誠にかぶれた人たちに違いない。同族嫌悪なんだろう、なんだかいやな気分になった。
ただ、一つ溜飲が下がったというか、申し訳なく思ったのは、ちょうどわれわれが小用を足すのに使っていた場所の上にテントが張られていた事だ。他集団のテントとはできるだけ距離をあけたい、と思うのは誰もが共通する認識。そうやってテントが砂浜の両側に広がっていき、砂浜のはずれ、岩場との境界線のあたりにテントを張る人が出てきたのだった。そこは、立ち小便場として好適地であり、実際使ってきた場所だった。さすがに可哀想だったが、今更苦労してパパがテント張って、子供大喜びな状態に水を差すのも悪いので触れないでおいた。ついでに申し添えると、小便の標的にされていた岩場は、夜になるとフナムシがびっしりと覆い尽くしていた。ヘッドライトが当たると、がさがさがさっと一斉に逃げる、かなりグロテスクな様子だった。きっと、その地にテントを設営した人たちは、夜になるとフナムシの襲来に悩まされたことだろう。
この日の水くみ担当だった奴(誰だったかは覚えていないが、多分しぶちょおとちぇるのぶ)が軽トラに乗って帰ってきた。何事だ?彼は、良い知らせと悪い知らせの両方を持って帰った。
まず、悪い知らせ。例のごとく片道40分かけて八代神社で水を拝領したご一同、帰り道はキャリーカートに水タンクを縛り付けて、転がしていた。しかし、20kgという重さにキャリーカートが悲鳴をあげてしまい、なんと土台の付け根が壊れてしまったのだった。さあそれからは地獄の行軍だ、20kgの水を素手で運ばないといけない。またタチが悪いことに、水タンクは箱型の硬い素材ではなく、ぶよぶよした水袋の形をしていた。だから、安定感がなく抱きかかえて運ぶということができなかった。ひたすら、片手で取っ手を握り何歩か進み、疲れたらいったんタンクを地面においてもう一方の手に持ち替え、という行為を繰り返すしかなかった。
そしてここで良い知らせ。そんな四苦八苦している様が、軽トラで通りすがりの島民の方に目撃されたのだった。哀れんでくれた島民のおっちゃんが、水くみ班を車に乗せて砂浜まで送り届けてくれたのだった。地獄に神を見た、というのはこのことか。
さらにありがたいことに、そのおっちゃんの計らいで翌日以降、毎日水を安定供給して貰える事になった。往復80分の水運搬業務から開放され、以降の日程は素晴らしく天幕生活が楽になった。
夕食に何を食べたかは覚えていない。ただ、ベラが当然供されたのははっきりと覚えている。なにしろ、自分で食べたから。小さい魚なので、全員に行き渡るように小分けにするほどの量がなかった。「もういいや、釣ったお前が食え」ということになり、おかでんには優先的にベラが与えられた。残りの二匹は誰かが食べたはずだ。
アウトドア、釣った魚、調理、となると当然思い描く図は「木の枝に刺した魚をたき火の側に突き刺し、あぶる」というものだった。ワイルド感ありまくり。ぜひ、自分もそうすることにした。
しかし、獲物は小さい。木の枝なんて刺せるレベルの大きさではなかった。これは断念。でも安心、ちゃんとバーベキュー用の金串をキャンプ用品一式に組み込んであったのだった。さっそく活かされる時が来たぞ、喜べ。
・・・んー。できあがったものはとても貧相な見栄えだった。それもそのはず、BBQ用の串は予想以上に短かったからだ。肉や野菜を刺して、焼き鳥のようにして網の上に載せるには申し分ない大きさなのだろうが、魚を貫き、しかも地面に突き刺すにはかなり長さが足りなかった。
「地面に突き刺さるかなあ」と心配になりながら、短い串先を地面に突き刺してみた。そして、もっと深く地面に差し込まないと串が自立しないぞ・・・と調整していたら、魚が頭から砂浜にダイブ。しまった、串を地面に刺しすぎた。頭が砂まみれの魚は、食欲を失わせる外観だった。ああ。ただでさえ、小振りの魚を串に刺して火にあぶるという行為が「動物虐待」的な印象を抱かせていたのに。
そういう後ろめたさを魚の神様が感じ取ったのか、「ならばいっそもっと派手に」と、かろうじて直立し調理開始となった魚がばたーんと砂地の上に倒れ込んだ。もともと不安定な砂浜。そこに、串先を僅かに突き刺すだけで直立させようとすること自体無理があった。慌てて拾い上げたが、せっかくの魚は頭どころか全身砂まみれ。塩ならともかく、砂はちょっと勘弁願いたい。
結局、半生な状態で食べる羽目になった上に、砂を払ったとはいえジャリジャリとした食感。お世辞にも美味いとは言えなかった。というか、はっきり言うが、まずかった。我がワイルドアウトドア道はまだまだ未熟なり。もっと鍛錬しないと。それこそ、砂を噛む思いで頑張らないと。
夜になってウミガメ襲来。
何を血迷ったか、われわれのテントをひっくり返そうとした。
結局、ちぇるのぶがウイスキー瓶でウミガメの頭をこづいたのが功を奏し、海へ戻っていった。
夕食を済ませ、テントの中でウィスキーをちびちび飲みながらおしゃべりをする。せっかくだから外で潮風にあたりながら話をすればいいのに、と思うが、当時は「テントの中にいる」というのが楽しかった。テントの中で、ランタンの明かりを囲みながらの会話。そのシチュエーションがうれしかった。
蛋白質がトイレのためテントを出て行ってしばらくして、テントの壁際、裏口に位置する場所に座っていたばばろあが後ろを気にしはじめた。「やめえや蛋白質」と外に向かって言ってる。「やめえって。はよテントに戻れや」。繰り返して注意するばばろあ。
「何だ?」
「いや、蛋白質が外から押してくるんよ」
「?」
妙ないたずらだ。
すると、表口から蛋白質が戻ってきた。
「今、テント押しおったじゃろ」
「いや、そんなことやっとらんで」
蛋白質からすれば、さっぱり訳がわからない。しかし、もっと訳がわからないのは当事者であるばばろあだ。
しかし、そんなやりとりを蛋白質とやっている最中にも、またテントをモゾモゾする感触があったらしい。「誰や!?」と言いながら、ばばろあがテント裏口のファスナーをあけて外に顔を出した。その瞬間、「うわ」と仰天した声。
「何だ?」
「カメだ」
「カメぇ?」
何がなんだかさっぱりわからない。ばばろあは呆然とした声。
ばばろあの後から外を覗きに行ったちぇるのぶも、「カメだ!」と驚嘆の声をあげた。
ばばろあとはテント内で対角線上にいたおかでんは、よくわからないが重大事件が発生したことは理解した。とりあえずカメラを持って表口から外に出た。そして、テントの裏側に回り込んでみたら・・・
わああっ、なんだこれは。巨大な、体を丸めた人間よりもはるかに巨大なアカウミガメがテントに突撃しているではないか!もそもそしていたのは、このウミガメがテントに頭突きしていたというわけだ。ありえんシチュエーションだ。なんなんだ、この島は。
しかも、テントが邪魔で直進できないと分かったらしく、今度は大きな両手をばっさばっさと振り、テントの下にトンネルを掘ろうとしはじめた。アワレみ隊テント、存亡の危機。
しばらく呆然と眺めていたわれわれ。あまりに常識の範囲を超えたでき事に対処不能だった。というより、この生き物に手を出してよいものかどうなのか。
「ウミガメって、確か天然記念物だよな」
「ああ」
「捕まえて追い払ってもいいんだろうか?」
「さあ?」
この頃、ウミガメが絶滅寸前です、とか卵を人工ふ化させてカメの子供を海に放流しました、なんてニュースをよく見かけていた。それが頭にあるものだから、この希少動物に手を出してよいものかどうか、躊躇してしまったのだった。
しかも、穴を掘っている。
「ひょっとして、産卵か?」
「テントの下でか!?それは困る」
希少動物様のご産卵となれば、掃いて捨てるほど存在するクズ人間の方がしずしずと引き下がるのが筋というもんだろう。しかし、何もよりによってこんなところで産卵を?
そもそも、テント裏口は海とは直角な位置関係にある。海からはい上がってきて、その先にたまたまテントがあったので追突というシチュエーションではない。明らかに、テントを狙ってこのウミガメは陸上で方向転換をしている。全く困ったウミガメだ。何が目的だ?
テントの外にいるメンバーでこのカメの対策について協議している最中、急にカメがテント下に潜り込もうと穴を掘るのをやめた。気が変わったらしく、進路を海へ。あれれ?
「何だ?どうした?」
すると、テントの中に残っていたちぇるのぶがひょっこり顔を出し、「ウィスキーの瓶でこづいた」と言った。
「おい!天然記念物になんてことをするんだ」
「いや、テントの布ごしにちょこんと押しただけよ?殴った訳じゃないから」
いずれにせよ、効果はてきめんだったようだ。さっきまでの熱心さがウソのように、ウミガメはその巨体をもっそりと動かしながら海へと方向転換していった。
「おかでん、写真!写真!」
あっ、忘れていた。写真を撮らないと。
webに掲載されている写真は、まさにカメがテント襲撃を諦めて海へと方向転換したところ。その巨大さがよくわかると思う。
思えば不思議なウミガメであった。
空を見上げると半月。確か産卵は満月の夜だったんじゃ・・・?
手前の岩に前途を阻まれ、大いに困惑しているウミガメ。
迂回に気づくまで1分近くかかった。
VIPを警護するSPのように、われわれはウミガメの後について行った。ウミガメはあれだけテントに固執したのに、すっかり忘れてしまったかのように海へと一直線。どういう心境の変化があったのだろう。さっぱり理解できない。
誰しもが「ウミガメの甲羅をタッチしてみたい」と思っていたが、希少動物であるが故にやっぱりそれはまずいんではないか、と全員遠慮した。ただ、見守るだけ。どれくらいデリケートな生き物なのか、さっぱり知識がない。触らぬ神にたたりなし、だ。われわれの無節操な行為がまた一歩、希少動物の絶滅を促進させた・・・なんて汚名を着せられるのはご免だ。
のっそり、のっそりと歩くカメ。暗いが、海がどこにあるかは本能的にわかるらしい。海へと進む。
・・・が、ちょっとしたアクシデントがあった。テントから真っ直ぐに海へと向かったまでは良かったが、目の前にはちょっとした岩が立ちふさがっていたのだった。その岩に行く手を阻まれ、「?」状態になっているカメ。今度ばかりはテントをひっくり返そうとしたように、軽く持ち上がる相手ではない。
写真は、岩に遮られて途方に暮れている状態のカメが写っている。テント側から撮影しているので、カメのお尻の白い部分が見えているのがわかるだろうか。青い服を着てヘッドライトをつけているおかでんが登っているのが、行く手を阻む岩。大した大きさではないが、カメだと乗り越えるのは無理。左右のどちらかに避けるしかない。
当然すぐに岩を迂回するものだと思ったが、カメはしばらくこの岩を克服しようとじたばたしていた。こいつ、頭が相当に悪いぞ。
見るに見かねて、「強引に甲羅をつかんで、カメの向きを変えてあげようか?」という提案があったが、やっぱり触るのはまずかろうということで静観することにした。
しばらくわれわれをやきもきさせたカメだったが、1分少々かかってようやく岩を回り込む事に気がついたようだ。相変わらずのマイペースのまま、岩を回り込み、そして波の狭間へと消えていった。
「何しに来たんだ、あのカメ?」
「さあ?」
さっぱりわからない。
きっと、この後、沖合の消波ブロックに行く手を遮られ、またもや「?」になっている事だろう。想像に難くない。
15年の時を経て、ネットで情報収集できる時代になった。ウミガメの産卵について調べてみたところ、こんな事がわかった。
ウミガメは産卵のとき砂浜に現れます。そのとき、主に以下のような順序をたどります。
(1)海中を泳ぎ砂浜に接近する。
(2)海から砂浜に上がる。
(3)砂浜を歩きまわる。
(4)カメの体が入るくらいの穴(ボディーピット)を掘る。
(5)卵を産み落とす穴(卵室)を掘る。
(6)卵を産む。
(7)卵室を砂で埋める。
(8)ボディーピットを埋める。
(9)波打ち際に向かう。
(10)海に入り海中に消える。このようにして親ガメは砂浜に上陸・産卵しますが、必ずしも産卵するとは限りません。ただ歩き回って海に帰ってしまう場合もあります。
(「福津市公式ホームページ」より引用)
「砂浜を歩く」という表現ではなく、「歩き回る」と表現していることから、結構派手にウミガメはマーチをするようだ。その際にわれわれのテントに直撃したようだ。テントはランタンで照らされ、漆黒の砂浜から浮かび上がるような見え方をしていたはずなのに、何でわざわざカメはテントにやってきたのかね。普通、「あっ、やばい、なんだか不自然なもの発見」と思って回避すると思うんだが。
また、1993年当時の文章では「満月の夜にウミガメは産卵する」とされているが、実際にはそのような事はないそうです。訂正しときます。
強風のためにフライシートが何遍も飛ばされた。
全員をたたき起こして幾度となく修復作業を行う。
フライシートがいつ飛ぶかという不安、ばたばたとなるフライシート、大きな潮騒の音でゆっくり寝ることができなかった。
写真は修復作業中の図。
一難去ってまた一難。
ウミガメ騒動が一段落したところで就寝となったわれわれに次なる試練が襲ってきた。強風だ。
さあこれが問題だ。こいつのために何度もテントから緊急出動する羽目になった。
テントの構図に詳しくない方用に説明しておくと、テントは、それそのものだと防水性に欠けており、雨に晒されていると居住空間内に浸水してくる。それを防ぐため、「テントの雨合羽」としてフライシートという布を一枚、テントの上にかぶせる。雨でなくても、夜露でも浸水してくるので、降雨の有無にかかわらず装着するのが普通。(ただし、登山用テントだと、ゴアテックス製でフライシート不要というものも多い。小型軽量化のため。ただし相当に値段が張る。)
テント及びフライシートは、布地の頂点ごとにペグと呼ばれる金具で地面に固定される。このペグ固定がないと、風が吹くとテントが動く。ひどい風の時にはテントが浮き上がる。倒れる。
で、われわれはというと、ペグダウンをしていなかった。砂地なので、ペグを地面に刺せなかったからだ。
その結果が早速出たのがこの日の夜だった。フライシートはテント本体の四隅にフックで引っかけてあるだけなので、強風で煽られたらあっけなくフックが外れた。テント本体は、人間5名が寝て重量があるので特に問題なし。さようならフライシート。
フライが飛ばされたらすぐにわかる。それまで暗かった天井が、急に明るくなるからだ。深夜であっても空は星明りで若干明るいので、この違いは明確だった。そして、完全に吹き飛ばされないで一部のフックだけがテントとつながっている場合、バタバタバタ・・・と強風に煽られて大げさな音が立つ。なんとも人を小馬鹿にしているじゃあないか。
「フライシートが飛んだぞ、それ」
と、天井が明るくなると一斉に全員で外に飛び出してフライシートをかけ直した。しかししばらくするとまた飛ばされる。アホみたいにまた全員で直す。抜本的対策を打とうと思っても、フライシートのフック部分に加工を施す余地はない。飛んだら、元に戻す。ひたすらその繰り返し。
結局、数回にわたる全員出動があった後、再度フライシートが飛んだ時には誰も起きてこなくなった。いい加減うんざりしたようだ。仕方がないので、おかでん一人でフライシートを直す。テント所有者/購入者としては、初回キャンプにてフライシートが飛ばされて紛失、というのは最高にイヤなシチュエーションだからだ。他の隊員と比べて必死度が違う。
しかし一人での作業2回目にして遂におかでんまでもがバカバカしくなってしまい、「浸水してきてもいいや、何度も起こされるよりまだマシ」とフライシートを自らの手で外し、石のおもしを載せてテント脇に放置してテントに戻った。これでようやく安眠を得た。
1993年07月28日(水) 3日目 晴れ
ただでさえ日焼けで顔がひりひりするのに、追いうちをかける。
意外と砂は堅く、脱出するまで5分を要した。
ウミガメ騒動と強風騒動の動乱の一晩が明け、この日も早くから全員が行動を開始した。「暑くなる前に流木拾い+たき木作り」をしなくちゃいけないという事もあるし、明るくて寝ていられる状況にないということもある。でもそれだけではなかった。太陽の光を浴びたら、テント内の室温は急上昇する傾向があった。テント表口裏口共にメッシュ地にしていても、蒸し風呂状態。これなら、どんな寝不足の人でも我慢できずにテントから逃げ出すだろう。
この日も朝食はジャガイモだけを食べ、ばばろあは波打ち際に食器洗い、残りの隊員はナタとノコギリで木を切り刻んでいった。
椎名誠の「怪しい探検隊」がそうであったように、われわれも「夕食の食器洗いは翌朝になってから」という不文律を踏襲した。だから、食器洗い担当のばばろあは、たとえ朝食が「ジャガイモをホイルでくるんだもの」だったとしても朝は気合い入れて鍋釜皿を洗う必要があった。
この日も10時くらいでたき木作りは終了。暑くてやってられなくなったという事情もあるが、3日目にして手際が良くなったため、たき木のストックが随分と増えたという要因もある。
テントサイト界隈の流木はほぼ取り尽くしたので、流木・倒木調達の行動範囲はだんだん広がっていった。その分労力と時間を要してしまったが、それを上回る生産性向上だったということだ。
「たき木調達班班長」という肩書きが与えられていたちぇるのぶは、適材適所とはこのことか、と一同が驚くくらい探査能力が特に優れていた。「どこにあったんだ、そんなデカい木が?」という上物を引きずってくる事多数。おかげで、天幕合宿中に「燃やす物が無くて途方に暮れる」ということとは無縁だった。
写真は、たき木作り後の自由時間中に撮影されたもの。砂浜でのキャンプってのがうれしくて仕方がなかったので、「砂浜の定番、やろうぜ」と言い出して実現したのがこれ。砂の山に体を埋められるというもの。
初めての体験だったが、これが結構な拷問。簡単にすっぽ抜けるものだとばかり思っていたら、びくともしない。身動きがつかないことを良いことに、ちょうど股間に相当する部分に、男性器をかたどった砂を盛りつけられ写真に収まるという恥辱プレイに甘んじる事になってしまった。
身動きがつかないので、やりたい放題。
「黒ひげ危機一髪」のように、どこかを突き刺せば飛び出てくるんではないか?という勝手な推測のもと、シャベルやら竹竿やらいろいろなものを刺されまくった。
昼も12時を回るとどうしようもなく暑くなる。
日陰がどこにもないのだ。
雨天用の傘が意外なところで大活躍したりする。
タープなんて気のきいたナイスなアウトドアグッズなど、当時は知る余地が無かった。たとえ知っていたとしても、荷物がこれ以上増えるのは勘弁だったし、そもそも「そんな軟弱な日よけなど使えるか!ボケ!」と叫んでいたに違いない。
まだ年齢が若いということもあって、日焼けを怖がるなんてモヤシ野郎だ、太陽よ直接かかってこいや、という意気込みがあった。
写真では、雨傘で僅かな日陰を作っている蛋白質の姿が映っている。太陽がいやなら上着を着れば良いのに、と思うかも知れないが、別に彼は日焼けを嫌がっているわけではない。単に、太陽光が暑くてたまらないだけだ。
テントとかまどの間に、すのこが見える。どこかから拾ってきた廃材だが、これが調理・食事時にはテーブル代わりになった。やはり、テーブルは必要。物を地面に置くと、全てが砂まみれになる。砂浜キャンプの教訓だな、「まず、テーブルになるものを探せ。」と。
そのテーブルすのこも、今は上に何も置かれていない。全てのものは荷物用テントに丁寧に格納されているからだ。テーブルができたからといって安心してはいけない、風が吹いて砂が巻き上がる事だってある。
そんなわけで、全体的にずぼらな天幕合宿にもかかわらず、砂対策だけは非常に慎重だった。
しぶちょお、ばばろあがたまらずテントに逃げ込む。
ばばろあは猛暑のなか火を焚いて昼飯を作ったため、完全にノックアウト状態に。
飯も食わずに伸びてしまった。
海で泳ぐのにいい加減飽きたら、あとに残されるのはただひたすら「灼熱」。この照りつける太陽の下で、さらに火をおこして食事を作るなんて正気の沙汰ではない。でも、火を使わないことには「食材」が「食事」に化けないので、火をおこさざるをえない。
きっと、2008年の今、同じシチュエーションだったらばばろあは「こんなクソ暑い中火なんておこせるか!ガスストーブ使えばええじゃん」と言うだろう。でも、1993年当時では、まだ椎名誠の影響力が強かったこともあり、キャンプ経験が無かった事もあり、「食事はたき火で作るものだ」という認識しかなかった。結局、ガソリンストーブが使われたのは雨が降った初日夜だけとなった。本当に「雨天専用」の扱いだった。
ちなみに、テントの中は日陰で涼しそうに見えるが、実際は外よりも蒸し暑かった。モスグリーンのフライシートはさんさんと照りつける日光をすばらしく効率よく吸収した。テント内はさながらビニールハウスだ。直射日光が当たらないだけまだマシ、といえるが、悲惨さは外にいるのとどっこいどっこいといえた。
この日はサビキ釣り。
魚を釣っても魚体を触るのを怖がるおかでんに代わってちぇるのぶが針外しの大役に命じられた。
これが当たり役で、どんなに複雑に針を飲み込んでいようと、一瞬に外してみせた。本当にうまい。
倒れているばばろあとしぶちょおを砂浜に残し、おかでんはまた徒歩40分で港にやってきた。今日も防波堤で釣りだ。何しろ時間が有り余っているので、片道40分くらいの道のりは全然平気だ。
昨日は一人一匹ずつ魚を食べることができなかった事を反省、サビキ釣りに切り替えた。そもそも、釣りエサも投げ釣り用の釣り具も底をついていたので、どのみちサビキ釣りをせざるを得なかったのだが。
サビキ釣りとは、
1~3メートル程の幹糸に3~12本の釣り針が木の枝のように付けられており、その針にビニール(スキン系)や魚の皮(魚皮系)、鳥の羽などを巻きつけてある。魚はこのハリをエサと間違い食いつく。
(中略)
通常、サビキカゴを連結してまき餌(アミエビなど)をカゴに詰めて竿をしゃくる方法で魚を仕掛けの近くに寄せて釣り上げるが、撒き餌無しでも魚が食いつくこともある。主な対象魚はアジ、サバ、イワシなど。防波堤での釣りや、湾内での少し沖目での投げ釣りに用いる。
(wikipedia「サビキ」より引用)
というもの。
まき餌など当然持ち合わせていないので、仕掛けをそのまま海に投げ込んだ。まあ、釣れなくても時間つぶしにさえなればいいや・・・くらいの気持ちだ。しかし、その無の境地が良かったのだろう、ばんばん釣れ始めた。入れ食い、と言って良いでしょうこれは。
前日の釣果べら3匹とはうってかわって、本日は入れ食いだぜ。
あじ、さば、いわしが釣れて釣れて・・・。
この写真を見よ、四匹同時に釣れたすごい状態になっている。
小さい魚は惜しげもなくリリースされた。
スゲー自慢しているが、実際に釣れた魚はどれも小振りだった。「小さい魚はリリース」と書いているが、小さい魚ばかりのうち、さらに小さい魚を海に還しただけだ。
ただ、相当釣れたのは事実で、急きょ魚お持ち帰り用の容器をその場でこしらえたくらいだ。魚を持ち帰る手段を想定していなかったあたり、いかにこの釣りに対して期待も根気も持ち合わせていなかったかが伺える。
ちなみに、作った「容器」は、1.5リットルペットボトルの半分のところをナイフで切っただけのもの。ペットボトル下半分が、「魚入れ」となった。クーラーボックスなんてあるわけないので、鮮度は保証しません。この酷暑の中、釣ったそばから魚は傷む。まあ、食べるまで数時間しか要さないから多分大丈夫でしょう、ということで。
このペットボトルに海水を入れ、そこに釣り上げた魚をぽんぽん入れていった。しばらくするとペットボトルは魚で満ち溢れてしまい、魚は頭を下にして直立不動状態でぎゅうぎゅう詰めに。まるで満員電車のようだ。われわれはその光景を見て「折檻部屋」とこのペットボトルに名前を授けた。
そんな事情もあって、小さな魚はリリースせざるをえなかったのだった。
純粋にレジャーとして釣りを楽しめたし、実績も作ったということで意気揚々とテント場に帰還した。
本当はこの日、おかでんが水くみ当番だったのだが、前日の「怪我の功名」で島民の方から水が供給されていた。水くみの手間はほとんどかからず、楽させてもらった。
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