弊息子タケが東京で生まれたのち、半月を経ていしとタケは静岡へと旅立っていった。静岡はいしの実家があるからだ。
いしは当初、「里帰り出産」を希望していた。一方の僕はというと、「子どもが誕生した直後のかけがえのない期間、自分がノータッチというのは嫌だ。今後責任ある父親でありたいし、子どもとはできるだけ一緒にいたい」と言って妻の里帰り出産には反対していた。
でも、そういう駆け引きは、コロナの流行を前に吹っ飛んでしまった。事実上、里帰りでの出産が難しかったからだ。
いしが出産を検討していた静岡県内の病院の場合、県外からの里帰り出産する場合、妊婦に対し2週間実家で待機してからの受診を求めていた。2週間!
分娩のときだけ、「じゃあお願いします」と病院に行くわけにはいかない。当然、事前に東京の紹介状を持って病院に検診を受けに行く必要がある。このため、最低でも4週間は静岡にいる必要があった。出産ギリギリまで仕事をするつもりだったいしにとって、この長期帰省は都合が悪かった。
2020年には、岩手県の病院が里帰り出産で帰省後数日しか経っていない妊婦を受け入れ拒否したという事件がおきた。病院は「感染症に対して院内の受け入れ体制が整っていなかった」ということだが、破水して救急搬送されてきた妊婦を受け入れなかったというのは医療としてとても大変な判断をしたことになる。
2020年、2021年というのはそういうご時世だった。なので、静岡の病院だけが臆病だったというわけではない。
妊婦が2週間の待機期間というなら、いしの退職日時を前倒しにするということで対応できる。彼女は契約社員なので、退職すると即給料ゼロになるけれど。一方、もう一つの問題が僕の側だ。「子どもが生まれた!」というとき、我が子に会いに行こうとすると、僕もその2週間前から静岡の実家で大人しく過ごしていなければならないからだ。
いくらテレワーク中心のワークスタイルだとはいえ、いつ生まれるかわからない子どもに備えて2~3週間前に静岡入りするというのは厳しい。出社しなければならない日もあるし。
そんな経緯があって、いしは東京で出産することとなった。実際、子どもが生まれる24時間前には神奈川県の三崎港でマグロ料理を食べるアクティブさだった。
いしとわが子は出産後3泊4日を産婦人科で過ごし、その後数日を自宅で過ごしたのちに助産院に居を移した。産後ケアを受けるためだ。
この助産院は家族の入場制限がなかったため、僕は毎日自転車でその助産院に通い、数時間を母子とともに過ごしてまた一人帰宅する生活を送った。いしの助産院生活は数日に及んだ。
そしてその後、晴れていしは実家へと帰ることになった。「里帰り出産」ならぬ、「里帰り産後ケア」だ。
子どもの1ヶ月検診があるため、その前日までを静岡で過ごすことになる。
コロナの流行から早1年。まだまだ人流に対する人々の警戒は強い。東京の人々は、「人が行き来するのはしょうがないよね」という気分にだんだんなってきているが、それ以外の道府県のひとびとはまだ納得していない。
特に、毎日ニュースで報じられる新規感染者数において、東京都が一番多いことから「東京からくるやつはウイルスを持っているのではないか」と強い疑惑の目が向けられる。
静岡だってそうだ。今回の帰省に関してはあんまり人の目に触れないようにしないといけない。
2021年03月24日(水) 1日目
里帰りのため、東京駅へ。
予めPCR検査を受け、陰性であることを確認してある。
2021年3月時点では、街中のあちこちにPCRまたは抗原抗体検査を無料で受けられる場所はなかった。自治体が設置した数少ない検査センターを予約し、そこで検査をする必要があった。
この当時からつくづく不思議だったのだが、検査を受けてから結果が出て、そして実際に県またぎの移動をするまでの間にタイムラグがある。検査が陰性、というのはあくまでも移動の1日前、2日前の状況でしかない。直近で感染しちゃった場合はどうするんだ?
・・・そういうこともあるから、病院は「2週間は自宅待機して、それから受診しなさい」というスタンスを取るわけだ。
「そんなバカバカしいこと、やってられるか。2週間自宅待機したという虚偽申告で済ませよう」と思えばいくらでもできる。しかし、その結果自分からウイルスを撒き散らしてしまうと社会的にすごくまずい。
生後半月の子どもは、さすがにPCR検査は受けていない。マスクもつけずにホギャアホギャアと泣いて積極的に呼吸をしていらっしゃるので、ウイルスを往来させる可能性はあるのだが、そんな心配をしだしたら新生児にとってこの世の空気はウイルスだらけだ。心配していてもしょうがない。
新幹線は11号車の指定席を確保しておいた。近くに多目的室があるからだ。
中を見たことがなかったので、一体どんな多目的なことができるんだ?と思って覗いてみたら、案外普通だった。卓球台があったり、マッサージチェアがあったりという多目的ではなかった。
でも、シートを倒せばベッドを作ることもできるらしい。道理で広い空間が確保されているわけだ。この空間でヨガができます、というわけではないのだな。
弊息子タケを見守る僕。
まだ体重は3キロ足らずでちっこい。
あんまり一人の人間としての実感はない。あと、「目に入れても痛くない」的な愛着というのも、びっくりするくらいない。思ったより自分は冷静だな、と思う。
この後、タケが泣き始めたため、いしとタケは先程の多目的室に向かって、静岡駅に近づくまで帰ってこなかった。
この当時、外出先で授乳をするなんて大変だ!ということでわざわざ多目的室に向かっていたが、その後しばらくすると母子ともにすっかり慣れてしまい、人前でもケープのような布をさっと羽織り、その下で授乳をするようになった。
なので、結局僕は新幹線の多目的室で時間を過ごす、という経験がないまま今に至る。
いしの実家に母子を送り届けたのち、静岡駅に戻ってきた。
コロナのご時世なので、義父母とご飯を一緒に食べる、なんてことはできる状況ではなかった。ご挨拶をして、ちょっと過ごしたら僕はそそくさと退却だ。結婚して1年半、まだいしの実家に泊まったことはない。
この後の僕の行動だが、対外的には「すぐに東京に帰る」ということになっている。しかし実際は、静岡で一泊して翌日はテレワーク、その後帰京という段取りにした。
せっかく静岡までやってきたんだし、ちょっと寄り道しようというわけだ。とはいえ、今日は仕事を休みにしたので、明日は働かないと。なので、仕事用のパソコンは静岡に持参してある。
ホテルにチェックインする前に、静岡駅を探検してみる。この駅は結構多くのお店があるので、探検しがいがある。
「なんだか妻子を見送って気が抜けたので、甘いものでも食べて気を取り直そう」ということで、お茶屋さんが営むカフェに入ってみた。静岡といえば言わずとしれた茶処だからだ。
しかしメニューを見てびっくり。
「宇治抹茶パフェ」「祇園生八ツ橋パフェ」という文字がメニューに並ぶ。
改めて店名を見てみると、「上辻園 京都・宇治茶」と書いてあった。あっ、しまった、宇治茶のお店だぞここは。静岡駅にあるお店だから、静岡茶のお店だと勝手に思い込んでいた。ほっとしすぎで、油断しすぎた。
ということで、「一体何をやっているんだろう」と言いながら、宇治抹茶パフェを食べるパパ歴半月のおかでん。見たか息子よ。これが父の生き様だ。
この日の宿は、静岡駅の近くにあるビジネスホテル、「くれたけインプレミアム静岡駅前」。
コロナの影響もあり、旅行業界全般がとても不景気だ。なにせ「不要不急の移動は避けろ」と政府や自治体から言われている状況なので、観光旅行は当然としてビジネスの出張も以前と比べて減っている。そのおかげで、ホテルの宿泊料金は以前と比べて下がった。
今回、僕がわざわざ静岡で一泊しようと思ったのは、宿代が案外安かったからだ。このホテルの場合、大浴場付き、朝食付きで税込6,600円。
とっとと東京に戻っていればこの6,600円の支出はゼロなので、高いといえば高い。でもまあ、こうやって僕が一人でホテルに泊まるのは滅多にないし、今後はますますないだろう。なので、一泊することにした。
宿泊予約サイトには、こんな売り文句が書いてあった。
このご時世、ステイするべきなのか?ゴーするべきなのか?
それでも動かなければならないお客様に期間限定プランをご用意!
当ホテルではしっかりとしたコロナ対策を実施し、
ゴーはせずホテルにステイして
皆様のご来館、
心より、
心より、
お待ち申し上げております。
はい、僕は東京から静岡にゴーして、そして今これからステイします。
宿の前には、「美味しいフォー」「ベトナム料理」とかかれたのぼりが立てられていた。ホテルのメインダイニングがベトナム料理を扱っているのはちょっとおもしろい。
チェックインして、ホテルの中に入る。
ビジネスホテルの廊下の写真って、撮ったところで大して意味はない。でもつい撮ってしまうのは、このピンと真っ直ぐに伸びた廊下、両脇にある扉、と四角だらけの空間が面白いからだと思う。
部屋の中。
幅160センチのダブルベッドが一人用として使える。贅沢だ。
そしてこの部屋の特徴は、お仕事ができるデスクとチェアがバシッと設置されていること。この設備があるから、数多い静岡駅前のホテルの中でもここを選んだ。
壁際にわずかばかりのカウンターテーブルがあるホテルの部屋が一般的だが、壁を目の前に仕事をしたくはない。もう少し目の前に開放感が欲しいので、この間取りは気に入った。
忘れちゃいけない、明日はテレワークなんだ。ついウキウキしてしまって、仕事に穴を空けるのはまずい。テレワークをやるからには、自制心を持ってそれなりのアウトプットを出さないと。
(つづく)
コメント