朽ちていく建物、護られる建物
2017年春。おかでんは珍しくやる気を出していた。むらっ気のある性格で、テンションが高いときと低いときに周期性があるのだけど、ちょうどテンションが上がり調子の時と春の訪れとが重なったからだ。
「ゴールデンウィークあたりに、アワレみ隊で一発なにかカマすか」
何かやる、といえばアワレみ隊活動しかあり得なかった。
30年来のつきあいになるアワレみ隊一派だけど、最近はすっかりその活動が控えめになってしまっている。お互い40歳を越え、気力体力財力の余裕というのが20代の頃と比べてなくなってきているからだ。もともと全国に散らばっているアワレみ隊メンバー、「ちょっくら会おう」というだけでも一騒ぎだ。これまで、長野界隈で蕎麦食べ歩きだのキャンプだのができていた方がむしろ凄いくらいだ。
ばばろあに至っては、長野でアワレみ隊活動をするために「前日のうちに名古屋入りし、しぶちょお宅で一泊し、それから当日を迎える」なんて有様。さすがに彼ももうこういう強行軍は難しい、と言っている。「アワレみ隊で集まるなら、名古屋以西にしてくれ」と。
日本において最大の都会である東京だけど、アワレみ隊においては「辺境の地」。
そんなわけで、なかなか活動ができていなかったのだが、このまま「なんとなく自然消滅」させるにはあまりに惜しい。僕らの「若気の至り」の集大成がアワレみ隊だからだ。組織とか人付き合いっていうのは、意識して続けないとどんどんじり貧になる。「親友だから、いつでもどうにでもなるさ」なんて甘く考えず、ちゃんと会う機会を作らなくちゃ。
で、あらためてアワレみ隊で集まるならどうする?となったとき、やはり「離島」というキーワードを軸に据えるのが一番収まりが良かった。「キャンプ」なんて軸にすると、資材運搬の問題が非常に大きいし、「温泉」とか「蕎麦」とかいったらきりがない。しかも集まろうとしている時期は、泣く子も黙るGWだ。下手な観光地や都会にはいないほうがいいだろう。
早々に賛意を表明してくれたばばろあと僕とで、検討を進めていく。
「トカラ列島」「五島列島」「甑島」「壱岐・対馬」「隠岐」
といった中国地方~九州地方の島々が候補として出てきた。一足飛びに「台湾」という提案もあったのだけど、これは今後の宿題として、先送りにした。今年4月、4年だか5年だかの長期海外赴任から戻って来たジーニアスが、「台湾なら俺も参加したいが、GWは帰国直後でいろいろあるので参加できない」と言ってきたからだ。ならばジーニアスが落ち着いてからでよかろう、というわけだ。
唐突に「台湾」と思うかも知れないが、東京、愛知、大阪、山口・・・と散らばっているアワレみ隊において、むしろ海外現地集合・現地解散の方がやりやすいという事情もあった。成田、中部、関空、福岡といった国際空港から飛行機で台湾へは容易にアクセスできる。むしろ、鹿児島からフェリーにのって翌朝到着、なんていうトカラ列島の方がよっぽどハードルが高い。
「なんかすげえところ来たぞ!」というワクワク感を感じるならば、やっぱり秘境中の秘境であるトカラ列島、「祈りの島」として列島中いたるところに教会が点在している五島列島が素晴らしい。
トカラ列島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E5%99%B6%E5%96%87%E5%88%97%E5%B3%B6
五島列島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6
そんな中、敬虔な・・・というか、むしろ敬虔すぎてギャグの領域ではないか?というくらいのカソリック信者、蛋白質が参加を表明してきた。彼は毎週末地元の教会に通い、時間が許せば一日二回もミサに出るというような男だ。だったら、「五島列島教会巡りの旅」がよろしかろう、という話になった。
念のために蛋白質に行きたい場所を聞いてみたら、五島列島で構わないという。しかし、「ついでに遠藤周作文学館に行きたい」とも付け足してきた。えっ、遠藤周作?
そういえば、マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の「沈黙」(隠れキリシタンの弾圧を目の当たりにした宣教師の話)をハリウッドで映画化し、つい先日公開されたばっかりだっけ。
これを契機に、すっかり蛋白質は遠藤周作ファン(というか、正確に言うと「遠藤周作の『沈黙』ファン)になっているらしく、遠藤周作文学館というキーワードが出てきたのだった。
えーと、それってどこにあるの、というと五島列島の対岸、長崎市の北側だ。あー、こりゃあ五島列島とセットで行くには結構キツいぞ。

旅の計画は遅々として進まなかった。とにかく五島列島は計画が立てにくい。なにげに島一つが結構デカいし、「列島」の名にふさわしくいくつもの島が連なっている。当然島を巡っていくためには船を使わなければならないし、島内の移動はレンタカーが必要だ。さらには、島内にたくさんある教会を巡ろうとすると、全く目処が立たない。
前日夜、全員が博多に集合し、24時ちょと前に博多港を出発するフェリーに乗って五島列島を目指す。そして早朝五島列島に到着・・・まではイメージが付くのだけど、さてそこからどうする・どうなるがさっぱりだ。
検討を促進させるために、「NPO法人長崎巡礼センター」というところに連絡をとり、「五島巡礼手帳」なるものを取り寄せた。値段は1,200円。これは、五島列島にある全53カ所の教会の紹介がされているだけでなく、スタンプラリー用の台紙にもなっている。スタンプラリー!・・・もう何を考えているか、わかるね?
長いつきあいのばばろあは当然僕の目論見に気がついていて、
「全部回るの、無理で?中には一つの教会に行くだけでホンマ1日潰れてしまうような所もあるんで?」
と言ってきた。それはその通りで、さすがの僕でさえも「完全制覇!」というのは最初から諦めていた。でも、この巡礼手帳を見て、教会ごとに特色がある建物にワクワクが止まらない。「これは美しい!」という教会だけでも、ベストセレクションとして訪れておきたいものだった。

ちなみになんで五島列島に教会がたくさんあるのかというと、もちろん信者が多いからなのだけど、明治時代になって禁教令が解かれキリスト教が解禁されると、これまで隠れキリシタンとして先祖代々耐えてきた人たちが嬉しくなっちゃって、この喜びを是非!と教会をこしらえたのだという。なので、サイズは小さいながらも、どれも気合いが入りまくった立派な教会だらけだ。よくもまあ、離島の集落単位でこんな立派なものを作れたものだ、と呆れるレベルだ。
よくわからんなりに旅の計画を練ってはいたが、そんな折、参加表明をしていたもう一人、しぶちょおが諸般の事情により参加できないということになってしまった。本人、とても悔しがっている。そりゃそうだ、五島列島なんて一生のうちに一度いくかいかないか、という場所なので、アワレみ隊企画として教会巡りで島内をウロウロしちゃったら、もう次がないかもしれないからだ。
だったら五島列島もまた今度にしようや、とばばろあから提案があり、結局離島企画は取りやめとなった。というのも、五島列島ツアーだと3泊は確保しなくちゃいけないし、移動と宿泊に結構お金がかかる。なんやかんやで、10万円くらいは費用としてかかってしまいそうだからだ。さすがにこれだけの巨費を費やすからには、参加希望者全員が集まれるときの方がいいに決まってる。
・・・で、結局ここで思い出されたのが、
「そういえば蛋白質、『遠藤周作文学館』に行きたいって言ってたな」。
結局、長崎に行くことになった。
あれこれ調整した結果、今回は3泊4日の旅、参加者はおかでん、ばばろあ、蛋白質の3名、行き先は長崎/佐賀ということになった。
ざっくりとした旅程はこうだ。
[1日目] 長崎集合。 午前、高校の修学旅行で訪れた長崎市街を再訪し、「昔はどうだったっけ?」と思い出す旅。 午後、軍艦島上陸ツアー。
[2日目] 午前、長崎市街観光、遠藤周作文学館。 午後、外海エリアの教会を巡りつつ、「日本最後の炭鉱があった島」池島へ。
[3日目] 午前、池島炭鉱ツアー。 午後、嬉野温泉へ。湯豆腐。
[4日目] 未定。佐世保に行くか、吉野ヶ里遺跡の方に行くか。 解散は新鳥栖駅の予定。
「軍艦島(端島)」と「池島」、両方の炭鉱の島を巡る旅ということになった。すなわち今回は「祈り」と「掘削」がテーマ、というわけだ。
軍艦島のツアーはもちろん大人気で予約が取れなかったのだけど、執念でキャンセル待ちをゲットすることができた。池島も、島内に宿が取れて一安心。
池島というのは軍艦島と比べて知名度が低く、知らない人も多いと思う。しかし、実はメジャーになりすぎた軍艦島なんかよりもよっぽど興奮が止まらない島として、僕らは以前から目をつけていた場所だ。今回、その両方を訪問することができて、本当にラッキーだ。
池島とはなんぞや、という話はおいおい説明していく。
3泊目に嬉野温泉泊というのはちょっと場所としておかしいのだが、僕が嬉野温泉に泊まったことがない上に名物である「温泉水で煮込んだ湯豆腐」を食べたいと所望したので、ばばろあがセッティングしてくれた。ばばろあは、今回ほとんどの旅のコーディネートをしてくれ、本当に助かった。
「GWじゃし、大陸からよぉけ人が来とるけぇ、全然宿が取れんのよ!どこもアウトで、ようやく取れた嬉野温泉の宿は、『熊本地震の影響で温泉の配管が壊れて、お湯が出ません。風呂は外の共同浴場を使って下さい。そして素泊まりのみです』っていうところじゃったで」
ばばろあが目を丸くしながら熱く解説してくれる。3泊もの宿を確保するのに、結構手こずったらしい。
さあ、アワレみ隊2017、全員43歳の中年独身男性による旅が始まる。
2017年05月02日(火) 1日目

06:17
我ながらビックリするくらいの早朝に、羽田空港にいる。
朝6時17分。
今日はまだ平日。有給休暇を取得し、この日からアワレみ隊の旅が始まる。
本来であれば、「この日の夜までに全員博多に集合。深夜のフェリーで五島列島に行くぞー」という予定だった日だ。しかし五島列島計画が潰えた後も、そのままこのド平日である5月2日が旅行の初日となっている。
というのも軍艦島のツアー予約が取れたのが、この日の午後だからだ。GW中だなんて、当たり前だけどツアーの空きなんてありっこなかった。平日だからこそ、滑り込みセーフでツアー予約が取れたんだ。ならばこの日から、しかも早朝から東京を発つしかあるまい?
とはいえ、この日は朝4時半起床。笑っちゃうしかない。これから3泊4日の旅行だぞ?体力持つのかね、ホント。
蛋白質は居住地である大阪を昨晩のうちに出発し、深夜高速バスで長崎入りを果たすのだという。今頃、高速道路をひた走っていることだろう。朝8時には長崎に着くという。
山口のばばろあは、前日も休みをとっていて、昨晩は佐世保に泊まったらしい。なんで佐世保?・・・いや、疑問に思う必要はない。行動派の彼が動き回るのは、「城跡」か「砲台跡」巡りと決まっている。きっと、佐世保界隈にまだ見ぬ砲台跡を発見したのだろう。
ばばろあは、長崎空港に到着する僕を車で拾い上げ、長崎駅まで運んでくれることになっている。そこで蛋白質と合流する。

06:18
この時間に羽田空港に到着していられるって、いいよな。眠いけど、朝この時間から旅先に向けて移動できれば、昼前から現地で大暴れできる。昼飯はご当地グルメで!なんて言わず、なんなら遅い朝飯をご当地グルメで!とすることだってできる。
しかも、早朝の便は昼間よりも値段が安い。いいこと尽くめだ。
東京界隈に住むなら、「早朝の新幹線・飛行機に乗ることができる場所」がええのぅ、という思いを新たにした。究極的には品川界隈、っていうことになるんだろうけど、さすがにあそこは住みにくそうだ。ビジネス街すぎる。

えーと、今回乗るのは、06:55のソラシドエア長崎行き。ソラシドエアに乗るのは初めての体験だ。
宮崎に本社がある航空会社で、昔は「スカイネットアジア航空」って名前だったよな。いつの間にか「ソラシドエア」という微妙にカッコいいような可愛いような名前の会社になっちゃった。エアドゥやスターフライヤー同様、単独での経営が難しかったのでANAの出資を受け、予約発券システムなどはANAのものを使っていると聞く。
やっぱり、ガッチリとマイル制度や予約システムを固めているJAL/ANAには勝てないってことだな。そりゃそうだ、マイルがたまりもしない航空会社など、使うのに躊躇してしまう。
それでも今回ソラシドエアを使ったのは、東京発で長崎に最速で着く便がそれだったということと、案外お値段が安かったと言う理由だ。
18,790円。
「安くないだろ馬鹿」と言われそうだが、いや、長崎に行く飛行機って、余裕で2万円を越えてくると思っていたのでこの金額が燦然と輝いて見えた。ただし朝7時前に羽田を発つという、都内在住でも乗れる人が限られてしまうような便だけど。

さすがソラシドエア、飛行機は沖止めだ。成田空港のLCC同様、ボーディングブリッジは使わない。バスで、ターミナルから離れたところにぽつんと駐機している飛行機に向かうことになる。
羽田空港第二ターミナルにおいて、「500番台」のスポット名が付いているのは、バス乗り場ですよっていうことだ。

06:37
501番ゲート、長崎行き。まだ改札を開始していない。
自動改札機の奥すぐのところに、空港内を走りまわるバスが待機している。
ソラシドエア、ANAのシステムを使っているだろうから、いわゆる「SKiPサービス」(スマホ画面などに表示された二次元バーコードを自動改札機に読み取らせるチケットレスサービス)が使えるのかと思ったが、使えなかった。極力余計な機能はANAから拝借せず、コストを下げているのだろう。

バスの待合所に、そば・うどんを扱っているANA FESTAを発見。
朝飯抜きで、昼に長崎で胃袋フルスロットル!ということを考えていた。しかし搭乗手続きはまだ始まっていないようだし、ここで「転びキリシタン」ならぬ「転びアワレみ隊」。蕎麦をつるつるッと手繰っておく。栄養をつけておかなくちゃ、これからの長丁場をフルパワーで動き回れないってば。
「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」
(遠藤周作「沈黙」)
このとき食べた蕎麦の記録はこちら。


06:54
搭乗開始となり、あわてて食べかけの蕎麦をすする。優雅な朝ごはんのつもりが結構あわただしくなった。もっとも、たぬきそばを食べて「優雅」なんて嘘に決まってるんだけど。
バスに乗って、沖止めの飛行機に向かう。笑っちゃうくらい、遠い。
こんなに遠くまで駐機スペースがあるのか、と驚かされるくらいだ。
スルスルとバスがターミナルから遠ざかっていき、エアドゥやソラシドエアの飛行機が見えてきたな、と思ったら、さらにその最果ての地まで案内された。

07:00
なにしろ、これだ。
飛行機の中から撮影した写真だけど、はるか向こうにエアドゥの飛行機が何機か見え、羽田空港第二ターミナルはかすんでしまうくらいの遠方だ。(写真右奥にあるのだけど、小さくなりすぎてぜんぜん見ていない)
てっきり、このままバスで長崎まで行っちゃうのかと思ったぜ。
「機材の都合上、飛行機は利用できなくなりました。つきましてはこのままバスで皆さまを長崎までご案内します」
とかなんとか言って。

2016年の熊本地震を受けて、登場口にはくまモンが「がんばるけん!くまもとけん!」と旗を振っていた。
くまモンは力強い顔をしていて、頼もしい。
こういう表現、いいな!と思った。むしろ、「支援してください」というスタンスより、応援したくなる。
ただ残念ながら今回のアワレみ隊の舞台は長崎県・佐賀県だ。熊本の頑張りはまた今度、応援させて欲しい。

ソラシドエア、初搭乗。
そら豆色をした座席カバーが印象的。
普段乗っているANAと比べてシートが分厚い気がするけど、気のせいかもしれない。見慣れないので、ついきょろきょろしてしまう。やめろ、いい歳をしたおっさんがきょろきょろすると、不審人物だ。

09:08
観念して、あとはもうずっと機内で寝ていた。なにせ、朝が早すぎだ。ちょっとでも寝ていないとこのあとの3泊4日がしんどくなる。
ドリンクサービスがあったようだけど、寝ていたのでどんなものがあるのかわからなかった。
目が覚めたのは長崎空港着陸のため高度を下げ始めたところだった。
長崎空港といえば、大村湾の海の中にある海上空港。大村にあるボートレース場の上空を飛び、海に突っ込むかのような見え方で空港に着陸した。
アワレみ隊、長崎上陸!
個人的には、長崎県に足を踏み入れるのは高校2年生の修学旅行以来だ。そういえば、「最近ぜんぜん行ってないなぁ都道府県ランキング」では今回の訪問地・長崎/佐賀がベスト1位(26年ぶり二度目)だ。ちなみに同率1位で鹿児島県があるので、今回の旅で鹿児島県が単独1位に躍り出ることになる。まってろ、いずれ行くから。開門岳登りに行くから。

09:12
長崎空港ターミナル。
大きな鐘楼がそびえているデザイン。教会が多い土地柄を反映してのことだろう。
まさかあれが管制塔・・・なわけ、ないよな、さすがに。鐘風の建物のなかに管制官がひしめいているわけはない。

空港の近くで待機していたばばろあと合流するため、しばらく待つ。
エントランスには、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 世界遺産登録を実現しよう!」というのぼりが立っていた。
あれっ、そんな名前だったんだ。
五島列島の教会群を世界遺産にしよう、という動きがあるのは知っていたけど、あれは「隠れキリシタン」の史跡ではない。どうしちゃったんだろう。
調べてみたら、以前は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称で世界遺産登録をしようとしていたんだけど、あれこれあって、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に変更されたらしい。単に教会があります、というだけだったら、キリスト教社会であるヨーロッパの人からすると「当たり前やんけ」ということなのかもしれない。それじゃ弱いので、「弾圧を受けながらも信仰を続けた」ということに主眼を移したのだろうか。

「天正少年使節のまち 大村」
と書かれた看板が空港前に掲げてあった。おー、そういえばそうか。というか、そうなのか。
天正遣欧少年使節団なんて、学校の歴史の授業で覚えたっきりだ。それ以降20年以上、ひたすら脳の奥深くに沈殿したままですっかり忘れていた。そういえば習ったなあ。ジュリアンとかマルチノとかそういう人だったよな(やっぱり記憶が曖昧)。
こうやって忘れられていた記憶が呼び覚まされるんだから、町おこしなり地域活性というのは愚直なまでに基本に忠実でなければならんということだな。
・・・で、「天正少年使節のまち」にはなにがあるの?え、使節団の4名の像?そいつァいいや(棒読み)。
飛行機の中から見えたボートレース大村のほうがよっぽど興味深いけど、いずれにせよ今回大村市はスルーだ。ばばろあと合流して、すぐに長崎へGOだ。

10:06
ばばろあと会ったのはいつ以来だろう?
「おう」
「よう」
といったそっけないあいさつでの再会となった。今更の腐れ縁なので特に気恥ずかしさなどはないけど、さりとていったい何から話せばよいのやら、状態のお久しぶりだ。
「最近、どう?」
と聞くには「最近」の幅が広すぎる気がする。後で思い出してみたら、2013年の神島再訪のとき以来だった。

まず、車内で今回の旅について再確認を行った。予約のほとんどをばばろあ任せにしてある今回の旅なので、内容の再確認をしておく必要があるからだった。
アワレみ隊のメーリングリストを通じて蛋白質には旅のリクエストやこれまで立てた計画の同意を求めていたのだけど、彼からはほとんど反応がなかった。今回の長崎行きについては、信心深い蛋白質が喜ぶような内容(長崎の教会巡り等)にしたいと思っていたので、リクエストがなかったのはちょっと意外だった。というか、ちゃんとメールを読んでいたのかどうかも怪しい。
アワレみ隊のメンバーは、いくら「親兄弟の次に付き合いが長いヤツら」とはいえ、住んでいる場所も、職業も、収入も、家庭環境もバラバラだ。「昔のよしみで、阿吽の呼吸で通じ合う」なんてことはない。ニュータイプじゃないんだし。
価値観や金銭感覚の違いというのはもはや決定的で、たとえばどういう店でメシを食うのか、どういう宿に泊まるのかというのはちゃんと事前にすりあわせをしないといけない。最大公約数でみんな納得、というのはなかなか難しい。
その点、ばばろあに手配を任せると気が楽だ。彼のセンスと僕のセンスは結構違うのだけど、十分僕の許容範囲にある場所をチョイスしてくれる。さらに、僕とかがゴネても、「ええじゃん、これで」という彼独特の強引さで話がまとまるので、それはそれで話が早いな、と僕は思っている。
僕だったら、「折角なんだから宿メシを堪能したい。一泊二食付き、温泉宿がいい」なんて考えるが、ばばろあは違う。彼は日本各地の砲台跡巡りで日々旅を重ねているので、「宿泊は素泊まりで構わない、メシはスーパーの惣菜でオッケー」という考えがある。蛋白質は・・・どうなんだろう?このあたりがよくわからない。なので事前に聞いておきたかったのだけど。まあ、連絡なきは良き知らせ、ということでこの旅については賛同しているのだろう。
蛋白質から、前日夜に大阪を出た深夜高速バスは無事に長崎駅に到着したという連絡が入った。
ばばろあから
「我々が長崎市街に到着するまで、路面電車の一日乗車券でも買って浦上天主堂とか見て回ったら?わしらと合流したあとは軍艦島行って、次の日は長崎を発つことになるけえ、見たい教会とかあるんじゃったら初日の午前中に行っといた方がええで」
と伝えてあったのだけど、どうもそこまでの気力はなかったようだ。
「駅前のネットカフェに行ってシャワーを浴びます」
と言う。さすが43歳、夜行バスの直後にウキウキで観光、しかも一人で、というテンションにはなれなかったらしい。
しかも彼の場合、4月29日、30日と広島に帰省し、大阪に戻り、5月1日は何食わぬ顔で仕事をこなし、その日の夜にまた移動を開始し、今日5月2日に長崎だ。恐るべきことに、広島帰省も夜行バスを利用しているので、「一人水曜どうでしょう」状態。どれだけバスが好きなんだ。というか、これはさすがに若者でもキツい。
4月28日 夜行バス泊 4月29日 実家泊 4月30日 夜行バス泊 5月01日 夜行バス泊 そして今日長崎、ここから3泊4日の旅。家の布団ではぜんぜん眠れない日々。
きっと、隠れキリシタンの弾圧に思いを馳せ、自らもその苦しみを少しでも追体験しようとしているに違いない。そういうことにしておこう。
ちなみに蛋白質と合流したら、案の定というかなんというか、彼の目の下が若干黒ずんでいた。ああ、クマが出来る一歩手前じゃないか。旅の初日なのにアンタどうなってるんだ。しかし本人は「シャワーを浴びてすっきりした」と余裕の発言だった。顔は疲れていたけど。

10:17
長崎駅はJR長崎本線の終着駅だ。レールはどん詰まりになっていて、旅情を感じる。
高校の修学旅行の際、この駅前で福砂屋のカステラを買った記憶がある。バスガイドさんに「どこのカステラがおいしいんですか?」と聞いたら、「福砂屋だ」と教えてくれたからだ。カステラといえば文明堂しか知らなかった僕にとっては初耳のメーカーで、なんだか通な商品を買った気になって高揚したものだ。
その福砂屋は当然今でも長崎駅前のビルに入っているのだけど、四半世紀も前のことなので全く様子が変わってしまっていた。といっても、そもそもぜんぜん当時のことを覚えていない。
今回の旅は、「修学旅行に行った場所を巡り、当時の記憶を呼び起こす」という目的もある。実はアワレみ隊、昨年秋に奈良界隈の旅を行っている。僕は都合がつかず不参加だったのだけど、ばばろあ、蛋白質、しぶちょおが「中学校の修学旅行の地・奈良」を探検した。今回はその第二弾、という位置づけだ。
「でも、そもそもどこのホテルに泊まったかさえ、覚えていないんだが」
「わしも」
「わしも」
全員一致して、宿泊したホテルさえ覚えていなかった。どのあたりにホテルがあったか、ということも記憶が曖昧だ。駅前だったような気がするけど、その程度の記憶では、「当時泊まった宿」の確定は無理だった。
修学旅行のお約束といえば、消灯時間以降に繰り広げられる、「夜更かしをする生徒 VS 見回り先生」の構図だ。悪事が見つかった生徒が廊下に正座させられている、なんて姿は風物詩ともいえるレベルだ。
一方僕がいた班はというと、僕の発案により「先生の裏をかくぞ!」と早々に就寝していた。22時前にはきっちり明かりを消し、本当に寝た。・・・そのかわり、深夜2時に起き出し、そこから朝までカードゲームやボードゲームをやっていた。朝6時過ぎ、起床時間になって「先生が来るぞ!」の声であわててゲームを片付ける、という日々だった。
そういう記憶は残っているものの、後の記憶は相当曖昧だ。前日雲仙から移動してきた我々は、長崎で半日の班ごと自由行動が付与されていた。そこで、中華街で昼メシを食べ、グラバー邸やオランダ坂に行ったのは覚えている。浦上天主堂とか平和記念公園には行っていないし、出島跡にも行った記憶はない。何をやっていたんだろう??
久しぶりの長崎散歩で記憶がフラッシュバックしてくれるといいな、と思っている。さてどうなるか。

10:30
ばばろあの車は、まず今晩の宿の提携駐車場に向かった。いったん車を停め、そこからいろいろ歩いて見て回ろう、という段取りだ。本日のメインイベント、「軍艦島上陸ツアー」は14時から3時間で、それまで3時間ちょっとの時間がある。
駐車場の前には、情報密度がやたらと多い通りがあった。電柱と電線が多いのに加え、飲み屋を中心としたお店の看板が連なっているからだ。
このあたり、夜歩くと風情がありそうだ。
東京にはこういう風景、減った気がする。東京の繁華街だと、雑居ビルとして天高くそびえてしまうからだ。このように「3階建て程度の建物が連なる飲み屋エリア」って、案外少ないのではないか。思わずものめずらしくてきょろきょろしてしまった。

「おい蛋白質、これも教会か?」
「ちゃうわ!『スナック』って書いてあろうが」
「そうなのか。でもこういう名前がつくのは長崎ならでは、なのかな?」
「さすがにそれはないと思うけどねぇ・・・」
ちなみにマリア様信仰があるのはキリスト教の中でもカソリックの特徴だ。プロテスタントにはその考えはない。あくまでもキリストだけを信仰するという考え方らしい。
「おかしいじゃないか、三位一体説で父と子と精霊は一体である、というのはともかくとして、マリア様を信仰する根拠はなんだ?神様なのか、あの人も」
「いや、マリア様はこちらの言葉を神に『取次ぎ』してくれる、とされているんだよ」
「ええ?取次ぎ?なんだそれは、口利きみたいなものか」
たとえが下品だな、と自分でも思うが、「取次ぎ」という概念は予想外だった。どうやら、自分の祈りをマリア様が一緒になって祈ってくれる、みたいな意味合いもあるようだ。
だから、日本の仏教のように、大日如来とか薬師如来とか、いろいろな仏様がいて、それぞれ信仰対象となるというのとは違うっぽい。マリア様は畏敬の対象ではあるけど、信仰の対象というわけではない、という理解でよいのだろうか。
「このお店の中に入ると、生きたマリア様が出迎えてくれるんだろうな」
とかいろいろ思いついたことがあったけど、口にはしなかった。信仰と絡む話なので、あんまり茶化していい話題ではない。

この日の宿泊先、「ホテルマリンワールド」。
名前からして、海沿いにあってヨットハーバー併設、というリゾートホテルを想像していた。しかし、場所は内陸だし、リゾートホテルとも違う。
出島跡からさほど遠くない場所にあるので、昔はここも海だった・・・その頃からある宿に違いない・・・とか妄想たくましくしたけど、別にどうでもいいか。

ホテルは丘の中腹にあり、駐車場があるところからはエレベーターでいったん5階まで上がる必要がある。5階がフロントで、そこから上がホテルだ。
天窓、ギリシア建築風の柱といった装飾が施された廊下を歩く。景気が良かった昭和時代に建てられたのかな?と思っていたが、開業したのは2012年だという。えっ?まだ5年しか経っていないの?
それにしてはずいぶん味わい深いんだけど、昭和回顧趣味だろうか?

10:37
確かに、フロントに行ってみると壁やらカウンターが新しい。年季が入っくすんだ感じのホテルとはぜんぜん違う。新しい、というのは本当らしい。
その割には、なんだろうこの貫禄は?
・・・調べてみた。僕、我慢するのが苦手なので。調べちゃった。
この建物、昔は「マリンワールドビル」という雑居ビルで、なんと100店舗以上もの飲食店が入居していたんだそうだ。マジか!この巨大ビルが雑居ビルだったの?そりゃあすげえ。外観では、最初っからホテル用に作られたとしか思えないのに。
で、テナントが減っていき、空部屋が目立ってきたので、中華系資本が建物を買い取ってホテルにリニューアルしたんだそうだ。へー、びっくりだ。それでホテルの開業が2012年、ということなんだな。なので建物自体はもっと古い。
それにしても、長崎って景気がすげー良かったんだろうな。100店舗以上入居できる巨大雑居ビルが丘の上におっ建ってしまうくらいなんだから。三菱重工の造船マンなんかが夜な夜な飲み歩いていたのだろうか?

10:47
荷物をフロントで預かってもらい、身軽になった我々は町歩きを開始した。
歩き始めてまもなく、病院が見えてきた。何の変哲もない病院なのだけど、なんだかちょっと違和感を感じる。気のせいだろうか。
蛋白質が、
「これ。ほら、『十』の字がちょっとヘンだと思わん?」
と言う。言われてみれば確かにそうだ、なんだかバランスが悪い。横棒の位置が上にずり上がっている感じ。
「あ!そうか、これって十字架なのかな」
「ここの病院、キリスト教系なのかもしれんねえ」
なるほど、面白いな。

10:48
「やや!ここにも十字架が!これもキリスト教系か?」
「違う違う、十八銀行っていったら明治時代からある銀行だぞ。さすがにこれはキリスト教ではないぞ」
「紛らわしいな」
「どこも紛らわしくないだろ」

「グンニーモ?」
「んぶんぶ」
折角だから、「営業中」と縦書きされた札も、「中業営」としてほしかった。
「自動車の車体に、逆向きで会社名を書くってのは今でも時々みかけるけど、喫茶店でこれって意味があるのか?」
「レトロ感があるんだろ」
「んぶんぶ、が?」
「グンニーモ、いいじゃないか」

10:52
「蛋白質、これは教会か?」
歩いている途中で見つけた、重厚な建物。
「いや・・・さすがにこれは違うと思う。教会らしさがない」
「じゃあなんだろう?こんな大げさな建物、教会くらいしか思いつかないんだが」
遠巻きに眺めていたら、蛋白質が「あっ!」と叫んだ。
「あのシャッターの上に赤いランプがある!これ、消防署だ」
「えええ?これが消防署?なんでこんなに大げさなんだ」
あとで知ったが、正確にいうとここは新地用水ポンプ場、という場所だった。
さすがに長崎とはいえども、ちょっと歩いただけで教会に行き着く、というほどではない。

10:58
オランダ坂にやってきた。
石畳の風情がある、長崎を代表する観光地のひとつ。急な坂だけど、歩くのに難儀するというほどではない。
「高校時代ここを歩いたはずなんじゃけど、全く覚えとらんねえ」
うん、確かにオランダ坂を訪れたのは全員共通の認識なんだけど、たぶんいろいろな観光地巡りの途中の「通過点」扱いで、大して思いいれもなかったのだろう。
確かに、「風情」なんて言葉を臆面なく言えるようになったのって、30歳を過ぎてからだと思う。10代の洟垂れ小僧の分際で、この坂のよさは理解できなくて当然だ。「単なる坂」にしか思っていなかったと思う、当時は。

オランダ坂を上ったところに、洋館が建っていた。「東山手十二番館」というらしい。「ほほう」と唸りながら遠巻きに眺めていたが、入場無料ということだったので中に入ってみることにした。
これから3泊4日の長丁場だ。初日午前の今から、あちこちの観光地で入場料・入館料を払っていたら、いくらお金があっても足りない。最初はどうしても慎重になる。

11:00
十二番館からオランダ坂の先を見たところ。
正面左の丘にある白い建物に、聖火台のようなものが見える。避雷針にしては変な形だ。
「なんだかあの塔、途中で折れているように見えるな」
「白いし、観音様かな?ナントカ大観音って名前の像が日本のあちこちにあるよな」
「ああ!マリア様だ!あれはマリア像だ」
蛋白質がぽんと手を打つ。えっ、あんなところにマリア様?
確かによーく見ると、それがうつむき加減のマリア様だということがわかった。いや、でもまだ観音様という可能性も捨てきれないぞ。
その疑問に白黒はっきりつけたのが、この建物が「海星学園」という学校であったということ。蛋白質はそれを知りにっこりと微笑み、「ほらみてみぃ」と言う。
「海星、ってマリア様のことなんよ」
えええ?そうなの?どういうことだ。
「航海中における海の星のように、我々を導いて下さるマリア様、という意味でね」
ということはあの学校は女子高なのだろうか、と思ったが、男女共学だった。あれっ、そういうものか。でも、運営母体は「マリア会」で、まさに学校の名前どおりだった。

11:03
長崎はアップダウンが激しい町だ。山が迫っていて平野部が狭く、しかも発達した尾根が長く伸びている。お陰で道路が複雑に入り組み、町がややこしいことになっている。
地図をみただけでは直感的によくわからない。だからこそ、町歩き好きにはたまらないエリアだと思う。歩けば歩くほど、いろいろな発見があるだろう。
今いる東山手十二番館やこれから訪れるグラバー邸といった洋館は、見晴らしの良い丘の上にある。
「武器を売って儲けた人たちはこうやって人々を見下ろしていたんだよ」
と言いながらここからの景色を眺めていたら、自分も悪人になった気になる。
一方蛋白質はというと、現在地が把握出来ず四苦八苦していた。手元のスマホで地図を表示させ、「ええと、南があっち・・・」
ばばろあが即座に「ちゃう。こっち」と違う方向を指さす。蛋白質は、「ええと、あれがコレだから」と言いながら、スマホをぐるぐると回し始めた。
「えっ、蛋白質って地図を読むとき、地図を回す人だったの?」
「そう。最近特にわかりにくくなってきて」
「まだボケる歳じゃあるまいに。東西南北の絶対感覚がないのか」
「それがないんよ~」
と苦笑しながら、スマホの向きを変えながら確認していた。結構大変そうだ。端から見ていて「スマート」、ではない。

この後我々はグラバー邸を目指し、その後山を下って大浦天主堂に行く段取りになっていた。見晴らしの良いこの地から、場所を目視確認しておく。
「案外距離あるな?どうしたもんかな」
この後の時間が気になるばばろあが、やきもきする。
「大浦天主堂、行ってる暇がないかもしれんで?ここからグラバー邸までここを下って谷に下りて、そこから向こうの山の上までいかにゃならんのよ」
確かに遠い気がするけど、ここからタクるわけにもいかない。
「まあいいか、最悪大浦天主堂からタクシー捕まえれば軍艦島ツアーの乗り場にはすぐ行けるだろ」
ばばろあは頭の中で素早くシミュレーションをする。一方の蛋白質は、相変わらず場所の特定に苦戦中。
「おい蛋白質見えるか正面の建物が。どうもトンガリ屋根が2つ見えるんだが、あのどっちかが大浦天主堂だと思うんだよ」
「どれが?」
「ほら、正面に」
「えーと」
「いや、スマホ見るんじゃなくて、まず目の前の光景をだな」

ばばろあが蛋白質を熱血指導中。
「それにしても不思議だな、なんでトンガリ屋根が二つもあるんだ?」
しかも、そのうち一つは、なにやら巨大な入母屋造りの和風建築にくっついているように見える。なんだあれ。和洋折衷か。
そこでようやく蛋白質のスマホが役に立ったのだが、どうやら正面に見えるトンガリが大浦天主堂で、その手前にたまたまお寺があるのだった。重なって見えるだけで、場所はちょっと離れていた。さすがに「一階はお寺、二階は教会」なんて建物は長崎とはいえ存在しないだろう。
そしてもう一つのトンガリは、大浦天主堂すぐ近くにある「大浦教会」なんだという。え?教会って隣接するような場所にあるものなのか?宗派が違うのだろうか。

11:14
なにやらオランダ坂は若い女性の往来が多い。インスタ映えするので撮影に来た観光客です、というわけではなさそうだ。見ると、オランダ坂の脇に女子大学があった。そこの学生さんたちだった。
「活水女子大学」という名前で、なんだか不思議なネーミングだ。それもそのはず、「活水」とはヨハネによる福音書4章10節にある
イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
を由来としているからだ。へええ、ここにもキリスト教。長崎にいると、本当にいたるところがキリスト教だ。キリスト教のテーマパークのようだ。

洋館を見ながら、先に進んでいく。このあたりは洋館が多い。

11:33
オランダ坂をそのまま進み、いったん谷に下りる。
途中、「東山手洋風住居群」という場所があり、洋館がまるで一戸建て分譲団地のように並んでいるのを見学したりした。住居群から坂の下を見下ろすと、そこには明るい色をした屋根の孔子廟。もう、何がなんだかごちゃ混ぜだ。さらにはキリスト教文化があちこちに息づいているわけで、とても面白い。
谷を下りたところには、路面電車の電停があった。石橋、という名前らしい。ちょうどここが終点になっていて、線路がぶっつりと途切れていた。
「線路の終点って、ロマンだよな」
心底そう思うのだが、この考えに賛同してくれる人ってどれだけいるだろうか?
さっき、JR長崎駅でまさに線路の突き当たりを見たばっかりなので、今日はなんだかロマンが満ちあふれている。ロマンポルノだ。いや、全然違うけど。どさくさに紛れて何を言い出すんだキミは。

11:35
グラバー邸がある山にはここから取り付くことになるのだけど、遠方からも目立つ怪しいアーチ状の建物が見えていた。どうやらここにはエスカレーターか何かが備わっていて、階段をヒイヒイ言わなくてもスイーっと上に行けてしまうらしい。すげー。
その途中ループ橋のようなものがあるが、あれは歩道らしい。車いすの人向けに、バリアフリーで上まで登れます・・・というわけではなさそうで、おそらく展望台的な意味合いの方が強いんだと思う。推測だけど。

おう、「グラーバースカイロード」という名前なんだな、ここ。
グラバー園までこれでぐいーっと行ける。あれ?斜行エレベーターなの?これ。それは随分お金をかけたものだ。
「一体いくらかかるんだろう」
と思いながらエレベーターホールまで行ってみたが、料金所は存在しなかった。なんと、無料らしい。
「すげえな、無料かよ」
「無料にでもせにゃ、観光客は山の上まで登ってこないんじゃろ」
「そうか、で、エレベーターで客を引き上げてから、グラバー邸のところで入場料をいただいてペイ、という仕組みか」

エレベーターは1基しかない。なので、既に出払っている場合、戻ってくるまでに随分と時間がかかる。これ、観光客が多い時期なんて長蛇の列ができるんじゃあるまいか?「混んでいるから、歩いて階段を登ろう」と気持ちには今更なれない距離と斜度なので、ひたすら待ち続けるしかない。

さすが斜行エレベーター。矢印表示が「上」と「下」ではなく、「左斜め上」と「右斜め下」だった。
「この山は5階建てなんだな」
「まさか途中で下りられるわけないよな?」
「途中で下りてどうすんだよ」

しばらく待って、ようやくエレベーターに乗車。エレベーターはさほど大きくないので、こりゃあ混むときは混むぞ。GWみたいな時は。って、あれ?今ちょうどGWか。その割にはさほど混んではいない。平日だからだろうか。
エレベーターには円い窓がついていて、そこから潜水艦に搭乗している気分になりながら外を眺めることができる。
外では、階段で頑張ってはみたものの、途中で力尽きて苦笑いをしている人を何人か見かけた。頑張れ、頑張れ。僕らはお先に失礼しますけれど。

11:42
グラバースカイロードを上りきったところ。
やあ、一気に開放感ある景色になった。
というかなんだこりゃ。まるで平野がごとく、山の斜面であるべきところに建物がびっしり植わっているぞ。
「長崎は坂の町」とは聞いていたけど、確かにこりゃあ・・・凄すぎる。
ここまでミッチミチに家が詰まっているということは、コイツァものすごい人口が住んでいるに違いない。軍艦島どころの騒ぎじゃない人口密度に違いない。
・・・えっ?長崎市の人口、42万人?あれ、思ったより少なかった。ここまで斜面を切り開くフロンティアスピリットがあるくらいだから、よっぽど土地が足りないのだろうけど。恐らく、単に「平野がほとんどないから、斜面に住まざるをえない」というだけなんだろう。

11:45
大浦天主堂が眼下に見える。まってろ、あとで行くぞ。
「こりゃあもうタクシーで軍艦島ツアーのところに行くしかないな、昼飯は手続きを終えてからだ。場合によっちゃあ、昼飯抜きじゃね」
ばばろあが時計を気にする。あれっ、気がついたらもう正午近い。13時20分までに受付をしておく必要があるので、あと1時間半くらいだ。確かにこれからおちおちメシを食べてる場合じゃ、なさそうだ。

11:46
グラバー園入口。グラバー邸を始めとし、いろいろな洋館があるこの丘広範囲を「グラバー園」とし、公園として整備していた。・・・有料で。
ああそりゃそうだよね有料だよねと。
グラバー園、修学旅行のときも訪れたはずだけど、どうだっけなぁ?お金を払った記憶はないので、ここの入園は学校が払ったんだと思う。自由行動で各自自腹だったら、多分訪れていないと思う。
だって、現に40歳を過ぎた「遅すぎた青年」たちが、
「うお、有料だぞ、どうする?」
なんて顔を見合わせているくらいで。
一方ばばろあはというと、カネを払って当たり前だろ、とばかりにぐいぐいと中へと入っていった。かっけー。僕も入園料610円にビビらない大人に早くなりたいです。

お金を払って中に入る。
「素晴らしいな、鯉が泳ぐ池があるよ」
お金を払った以上、最大限楽しまないといけない。なので、どうでもいい「鯉」に驚いたり褒めたりしてみる。こういう意地は、本当に人生の中で本当にエネルギーを使う。やめとけ。

山の斜面にぽつぽつと建物が点在するグラバー園だが、その最上部にあるのが「旧三菱第2ドックハウス」だった。
「見ろ!グラバーよりも、最後は三菱の方が偉かった、というわけか!」
と思ったが、この建物はその名前のとおり三菱造船のドック脇にあった船員宿舎を、ここに移築したものだった。元からあったわけじゃない。
久しぶりに3人揃っての写真。
赤の他人からしたら、「いい歳こいたオッサンの写真」に過ぎないだろうが、僕らからしたら30年来の親友。オッサン化していくのも、お互い平等な「進化」であると思いつつ、その進化論を記録として留めておく。

11:59
グラバー園の中に、「祈りの泉」という場所があった。
山の斜面を石組みで整地し細工を施し、水が壁面を伝わるようにしてある。
「どうだ蛋白質、祈りを見事に表現していると思わないか?」
「うーん、どこがだろう?」
蛋白質が唸り声を上げながら、解説と泉とを見比べている。
「隠れキリシタンの苦悩と救いがテーマだぞ。まさに今回の旅で蛋白質が学びたかったことズバリじゃないか」
「いや、そうかもしれないけど、さすがにこれでは」
「祭壇下部の荒々しい陶板は地下に隠れた信者の厳しさを象徴します、って書いてあるよ」
「そんなの、作者がそう思ったならそうなのかとしか・・・」
「まざまざと見ちゃダメだ、感じるんだ」

さすがに信者である蛋白質であっても、「なるほど!それはごもっともだ!すげえ!ジーザス!」みたいに手を叩くことはなかった。まあ、そりゃそうか。彼は「敬虔」ではあるけれど、「盲信」しているわけではないので。
12:01
旧リンガー邸。
このグラバー園には、グラバー邸のほかにリンガー邸、ウォーカー邸、オルト邸といった外国人さんたちの洋館がある。
「このあたりは西洋人に人気の高級住宅地だったのかな?」と思ったが、単にグラバー園を整備するにあたって移築してきたということだった。
リンガー、というからには、長崎ちゃんぽんでおなじみの「リンガーハット」と関係があるのだろうか?リンガーさんの帽子、という意味に違いない!
・・・まじか?今適当に言っただろ、お前。正直に言え。
はい。適当でした。
でも半分は当たっていたのでびっくり。リンガーハット社のオフィシャルサイトで確認したら、長崎を代表する大商人であるリンガーさんの名前にあやかったんだという。でも待ってくれよ、リンガーさんの肖像写真を見ると、全部つるっパゲ丸出しなんですが。帽子、かぶってないんですが。
これが大いなる誤解で、「ハット」というのは「小さな家」という意味なんだそうで、「リンガーさんの小さな家」が「リンガーハット」の由来だという。へー。
あれ?ということは、宅配ピザチェーンの「ピザハット」というのは、ピザの小さな家ってことだろうか?いや、あれは違うな、ロゴマークに帽子の絵が描いてあったはずだ。じゃあ、江戸幕府が制定した「ブケショハット」は?・・・違う違う、それは「武家諸法度」だ。

12:04
入園した時にもらった、「これでキミもグラバーさんになれる紙」を顔につけ、記念撮影。最近はいろいろ考えているものだねえ。こういう「SNS映えするもの」を入場券と一緒に渡すあたり、時代の流れに沿っている。

12:06
旧オルト住宅。お茶の輸出で財を成したイギリス人、オルトさんの家。
この界隈に移築している家は、開国とともに来日して成功した人のものなのでいちいち立派で、デカい。感覚が麻痺してしまう。
入口のところに青いTシャツのばばろあが立っているが、それと比べてこのひさしの位置の高いことよ。
当時の日本で「豪商の家」といっても、天井の位置がここまで高いというのはあまり見たことがない。当時の日本じゃ、お寺くらいじゃないか?こんなに高いひさしは。
なんて無駄な作りなんだこの家は!?と当時の人はビックリしたにちがいない。

12:10
おっと、今度は21世紀の僕らがビックリする番だ。「西洋料理発祥の地」という看板が出ているぞ。
「あれ?西洋料理発祥の地って・・・山猫軒じゃなかったっけ?」
随分記憶が混同している。「山猫軒」というのは、宮沢賢治「注文の多い料理店」に出てくるお店の名前だ。あれも確かに洋食屋だけど。
日本人初の西洋料理コック、草野丈吉のレストラン「自由亭」を移築したものだそうだ。今は2階が喫茶店になっている。
当時の西洋料理ってどうなっていたんだろう。調味料もなけりゃ、肉もなかなか手に入らない。だいたい、胡椒で肉を味付けました、っていうだけでも調味料慣れしていない日本人は「うわっ、なんだこれは!スパイシー!」と叫んだかもしれない。いや、さすがに「スパイシー!」とは言わないとは思うけど。
「隠し味に味噌を使っています」くらいの裏技はやっていそうな気がするけど、どうなんだろう?むしろその最初期だからこそ、愚直なまでにオリジナルな西洋料理を出していたかもしれないし、よくわからない。

どんどん階段を下っていく。
最初に一番高いところからスタートしているので、下りていく一方で楽だ。これ、逆方向からやってくる人は大変だ。お年寄りには酷な観光地といえる。金比羅さんに詣でるようなものだ。
と思ったら、ちゃんと動く歩道が別の場所に完備されていた。そりゃそうなるよな。

12:11
これが旧グラバー住宅。
ベタベタな観光地なので、建物そのもののうんちくは割愛。
アワレみ隊メンバー同士の性格や立ち位置がよくわかる構図の写真。
ばばろあはこういうとき、常にぐいぐい前へ進んでいく。後ろを振り向かないし、躊躇はしない。蛋白質はその後に続く。そして最後に僕は全員の顔色をうかがいつつ、カメラを手に最後尾を勤めている。

旧グラバー住宅の中に、「150年前の西洋料理」という紹介があった。先ほどの山猫亭・・・じゃなかった、自由亭で扱っていたような食べ物がこれ、というわけだ。

「なんか茶色いな」
「ああ、全体的に茶色い」
「豪華!・・・と一瞬思ったけど、どうなのこれ」
三人揃って、人様の料理に難癖を付ける。すいません、そんなことをやっちゃあいけないんでしょうけど。
「お皿が素っ気ない、というのが当時の限界なんだろうな」
「一人一つずつ、吸い物椀みたいなのがあるんだな。和風の器だけど、下が洋風でチャンポンになってる」
「で、あのフタをとると中から茶碗蒸しが出てくるのだろうか?」
いちいち興味津々だ。

茶色い料理その1。
「タルトみたいなのがあるけど、色が悪いな。これはリアルにこんな料理だったのか、それとも食品サンプルが劣化してこういう色になってしまったのか」
解説を見ると、「かぼちゃやにんじんを使ったタルト」なんだそうだ。なるほど、カボチャではこういう色になるだろう。当時の、苦心して料理を作っていた様がまざまざと想像できる。
その奥には「ラーグー」、多分今で言うところの「ラグー(煮込み料理)」がある。鳥、椎茸、葱を煮込んだものだそうだ。西洋料理で「椎茸」って食べるんだっけ?東洋独特のキノコだと思っていたけど。これも、食材がないから「ジャパニーズポルチーニ茸」とかなんとか思い込んで、なんとか作ったに違いない。涙ぐましい。

「こんな料理って、日頃から食べてたのかな」
「さすがに毎日は無理だろ」
「だよなあ、そもそもご飯もパンもないぞ、このテーブルには」
ばばろあとひそひそ話をする。
こういう料理を食べながら、ワインをぐいぐい飲んで過ごしていたのだろうか。体を悪くしてしまいそうだ。もっと野菜を食べなさい、と思うけど、どうなんだろう?大根とかサツマイモを食べたいと当時の西洋人は思っただろうか?

グラバー住宅の玄関から、長崎湾を眺める。いい景色だ。

12:24
展望台には、双眼鏡が設置されていた。それを見た蛋白質、
「おお!双眼鏡があるぞ!折角だからね、旅のお約束だからね、これはやっておかんと」
ととても喜んでいる。
「100円玉、入れるところがあるはずなんだよね。あれ・・・?あ、あったあったこれだ」
100円玉投入口を発見して蛋白質はむしろ「我が意を得たり」と目を輝かしている。そして財布をまさぐり、100円玉を探し出した。
「え、100円入れるの?」
「お約束はやっておかんと」
ばばろあと僕は顔を見合わせる。「100円取るのか!相変わらず観光地はいい商売やってるよなあ」と苦笑しながらスルーするのがこの展望台双眼鏡のお約束だと思っていたのだけど、むしろ「100円払うというお約束」を喜んでいる人が身近にいたとは。
「どうだ、見えるか?」
「うお、何か目の前に邪魔する物が!」
「おっさんおっさん、やめとけ。わずかな時間しかないんじゃけえ、邪魔したら可哀想じゃろうが」
僕が双眼鏡の前に立ちふさがるという「お約束」をやって、ばばろあからたしなめられた。

グラバー園の展望台正面には、三菱重工の造船所があり、護衛艦が二艘停泊していた。
一方の蛋白質はというと、たまたま僕が遠い山の上に仏舎利塔らしきものを見つけたので、その捜索に気を取られていた。
「蛋白質、あの山の上に白いものが見えるんだよ」
「どれ?・・・よくわからん。ええと、もっとこっち?」
「そっち。あんなところに白い人工物があるといえば、仏舎利塔なのかなあ?と思うんだけど、確認できるか?」
「どれだろう・・・」
しばらく探す蛋白質。
「ああ、あったあった。あれはなんだ、仏様がいるぞ?」
「えっ、仏舎利塔に?」
「いるぞ、塔の中にいるのが見える」
とかなんとかやりとりしているうちに、時間がきてしまい双眼鏡停止。
「ああー!」
結局彼は、100円を払ってひたすら仏舎利塔を眺めていたということになってしまった。

グラバー園内

グラバー園内
石を組んだだけのアーチがあって、思わず一同感嘆の声を上げた。石の重みだけでバランスがとれていて、これが接着剤のようなもので固定されているわけではない。長崎の観光名所のひとつ、眼鏡橋と同じつくりだ。近くでみるとすごいものだな。

12:30
グラバー園の出口にあったお土産物屋。
軍艦島Tシャツが売られていた。誰が着るんだよ、これ。そして誰が買うんだよ。「軍艦島!!」なんて書かれているぞ。あと、軍艦島キャップとか、誰が買うんだよ。謎過ぎて、何度も疑問型で文章を書くぞ。ホント。
ただし、右側のTシャツはちょっと欲しくなってしまったのは内緒だ。東海林さだお風の絵で、ちょっと味わいがある。ただし、これを見て「ああ、軍艦島をおもしろおかしく表現したんだね」と気づく人がどれだけいるだろうか?
「変な軍艦巻きだなあ」と思われて終わりな気がする。
グラバー園を出ると、そこは観光客向けのお土産物屋さんが並ぶ通りになっていた。びいどろがたくさん売られていて、ぺこんぺこんと音を立てている。
ここでフラッシュバックした。ああ!そうだ、長崎土産としてびいどろを買って自宅に持ち帰ったぞ!と。
最初は嬉しくて、ついついペコポコ鳴らしていたんだけど、当たり前だけどすぐに飽きた。そんな懐かしい思い出。
ちなみにセットで思い出したのが、雲仙で買ったお土産が「かにみそ」だった。荒波と大きなカニが描かれたパッケージで、大ぶりな容器だったことを覚えている。高校2年生のころなんて、酒のお供になる珍味、「かにみそ」は食べたことがないし見たこともない。しかし、一匹しかわずかしか取れない稀少品であるということは知っていた。
「稀少品のかにみそが、こんなに大きな容器で!しかも安い!」と興奮して買ったっけ。しかし家で開封してみたら、「たっぷりのお味噌と、カニをほぐした身が少々混ざったもの」だったので仰天した。そりゃあ安いわけだ。「カニの味噌」ではなく、「カニ&味噌」だったというわけだ。大人って怖いな、と青年おかでんは思った。
さらについで話をすると、同じく雲仙で買った土産が「湯の花」だったんだけど、見事にこの湯の花で家の浴槽が傷んでしまい、大変気まずい思いをした。温泉成分が強すぎたらしい。雲仙には嫌われているらしい、僕。

12:34
グラバー園を下ったところに、大浦天主堂がそびえていた。
修学旅行の時にグラバー園に行ったのだから、当然ここにも立ち寄ったのだろう。しかし、「立ち寄った」という記憶すら全く残っていない。そうなると、修学旅行って本当に「修学」の意味があったのだろうか?と考えてしまう。同級生との思い出作りにはなったかもしれないけど、肝心のその「思い出」さえ曖昧だし。
つくづく思うのは、こういう旅の記憶ってのはちゃんと記録として残しておくべきだなと。最近はデジタルデータで保存するのは簡単なんだし。
よく、「観光地で写真ばっかり撮っているヤツは馬鹿だ。写真を撮るのに夢中で、それしか目的がない。心にしっかりと刻めばそれでいい」と偉そうに語るヤツがいるけど、僕はそれには反対の立場だ。もちろん言いたい事の本質は全く「その通り!」と思う。でも悲しいかな、人間の記憶ってすごく弱いのよね。すぐに忘れてしまう。しかし、写真があれば記憶を呼び覚ますきっかけになる。
写真を撮ることが目的化してしまうのは良くないと思うけど、記憶の補助として写真を撮るというのは、むしろ賛成だ。僕がこのサイトをやっているのは、まさにそういう「記憶の補助」としての写真を一般公開しているに過ぎない。(なので、決めッ決めの、カッコいい写真というのは全くない。ぱっとカメラを出し、1秒で撮影、1秒でカメラを片付けるという撮り方をしているからだ)

それはともかく、「うおっ」と思わず声を上げてしまったのは、この施設には拝観料がかかるという事実を知ったからだ。しかも、600円。うまいとこ、つくなあ。1,000円だったら諦めるし、300円だったら無条件で払う。でも、600円というのは、「払うか、払うまいか」と悩んだ末ギリギリ払っちゃう値段だ。そういえばさっきのグラバー園もこの値段だったな。
「どうする?入る?」
お互い顔を見合わせる。建物が立派だし、外から眺めるだけでも十分満足度が高い建物だ。中に入っても、所詮は教会なので何十分も滞在できるような場所ではない。
「まあ、折角だからねえ・・・」
結局、「折角だから」という観光地における殺し文句が口から発せられ、中に入ることになった。ホント、観光地っていうのは、この「折角だから」という言葉に感謝しなくてはいけない。

大浦天主堂を下から見上げたところ。金色に「天主堂」とい文字が光る。
「天主、というのはイエス・キリストのこと、でいいのか?」
蛋白質に、念のために聞いておく。
ラテン語の「ゼウス」が日本語で訛って、「天主」になった、というのが正解らしい。つまり、キリスト教における「神」だ。
ええとややこしいな、キリストは神なんだっけどうだっけ。「三位一体」だから、父と子と精霊は一緒?だとすると天主=神=キリスト、ってことか?
やめだやめだ、このあたりは下手な解釈をここで書いても嘘になりそうだ。
「ゼウス」と聞くと、ビックリマンチョコのキャラクター「スーパーゼウス」を条件反射で思い出してしまう。あの素っ頓狂な顔を思い浮かべると、なんだか微笑ましくって敬虔な気持ちにはなれなくなってしまう。

マリア様がお出迎え。そういえば、「白いマリア様」以外を見たことがない。処女懐胎でイエスを産んだ、清廉の象徴ということで「白」を用いているのだろうか?このあたり、蛋白質に聞いておけば良かった。きっと意味があるのだろう。
その点、日本仏教における路傍のお地蔵さんって「灰色」だよな。日々信仰すること自体が大事なのであって、外見の色には拘らなかったのだろう。お地蔵さん一体を立派にすることよりも、ずらっと並べて「数で勝負」っていう節が日本人にはある。
大浦天主堂は、幕末にフランス人宣教師が長崎に駐留するフランス人向けに作った教会だったが、浦上の隠れキリシタン15名がこっそりやってきて、信仰を告白したということで「信徒発見」の地として知られる。日本では禁教令があってキリシタンはもういない、とされていたのに、実は長崎には多くの隠れキリシタンが存在していた!という事実はバチカンまで届き、時の教皇をも喜ばせたという。
「めでたし、めでたし」で話が終わるのかとおもったが、後日談を調べて見るとそうでもなかった。時はまだ禁教令が解除されておらず、このあと浦上の信者たちは弾圧を受け、拷問を受けたという。その数、3,000人以上だというから一体どれだけ「隠れ」てたんだと驚かされる。それだけ信仰というのは深く人間の心に根ざす、ということだ。
天主堂内の写真撮影は禁止。これは国宝の建物だから、というだけでなく、どこの教会も同じ。
かたわらに、マリア像がある。「信徒発見」の際、浦上の隠れキリシタン15名は神父に対し「私の胸、あなたと同じ」と信仰を告白したのち、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたという。戦時中に被爆しているため傷んではいるけど、その時のマリア像が現存している。
キリスト像を祈らせて欲しいと願ったのではなく、マリア像を望んだというのが興味深い。長年潜伏している間に、信仰の対象がマリア様にシフトしていったのだろうか?神父のような信徒を導く人がいないし、発覚を恐れて聖書の類はほとんどなかっただろう。そもそも識字率が低い当時だと、聖書があったとしても読めない人の方が多い。口伝で江戸時代を乗り切ったのだから、随分オリジナリティのあるキリスト教になっていたのではないかと想像するが、どうなのだろうか。このあたりの話は、当然ながら大浦天主堂のパンフレットには載っていない。

12:42
大浦天主堂を出て、微妙な顔をする僕の顔にすぐ蛋白質が気がついた。
「おかでんも気がついたか。聖体がここにはなかったな」
そう、大浦天主堂には聖体のありかを示す赤いランプが、祭壇には見当たらなかったからだ。
「たぶんここではミサをやっていないと思う。だからすぐ隣にもう一つ、教会があるんじゃないかな」
カソリックにおいてミサを執り行う上では、聖体(てっとり早く言うと、パン)が必須となる。参列した信者に神父が与える,という儀式があるからだ。その聖体を置く場所には、聖体ランプと呼ばれる明かりが24時間灯っていて、ミサが行われていない時に訪れた信者は、このランプに向けて祈りを捧げることになる。
今回の旅で訪れた教会のどこだったか、「信者でない人がミサ中に聖体を受領しないでください」といった注意書きが書いてあった。聖体を頂けるのは、信者に限定される。僕自身何度となくミサに参列したことはあるが、もちろん一度たりとも「聖体」を食べたことはない。間近で見たことさえない。遠くから見る限り、せんべいのような姿形をしていて、いわゆる普通のパンとは違うようだ。
「あのパンは一般でも買うことができるんだよ」
「えっ、そうなの?ご自宅でも聖体を食べることができるのか!」
買わないけど、気になるといえば気になる。
「いや、買えるのは単なるパンだ」
「??」
「聖変化させて、初めて『聖体』になるの。それまではただのパン」
何を言っているのかよくわからなかったのだが、つまり、『聖変化』なるプロセスを経て、「ただのパン」はイエス・キリストの体と同一になるということらしい。キリスト教信者において、この「聖変化」したパンは既にパンではなく、主の肉体そのもの、ということになる。「主の体という概念」というなまっちょろい話ではない。「そのもの」だ。
なるほど、そりゃそうだ、キリスト教の信者さんだって普段からパンを食べる。それは「単なるパン」だ。聖体というのは、全く違うものだということだ。
こうなると、ミサが執り行われる教会にも行ってみたくなった。大浦天主堂のすぐ向かいにある教会にも行ってみた。こちらは「カソリック大浦教会」という。
「一階に土産物屋がテナントで入ってるぞ?」
観光地らしい俗っぽさもある。

「ああ、ほら、これこれ!」
蛋白質がにっこり微笑んで振り返る。彼が指さす先には、教会の掲示版があった。ミサのお知らせなどが貼ってあった。
「教会といえばこれなんだよ。必ずこういうのが入口のところにある」
それにしても、人の気配がない。こちらは観光地ではないからだ。れっきとした、信者のための施設。入って大丈夫だろうか。
「大丈夫、教会は原則いつでもオープンだから」
信者である蛋白質がいるから心強い。はっきりいって僕とばばろあは「観光」だけど、蛋白質はれっきとした「信仰」だからだ。
珍しく彼が率先して中に入っていき、居合わせた教会の方に確認をとっていた。オッケー、とのことで中に入らせてもらう。
広いお堂の中で、静かな時間を過ごす。蛋白質は最前列までいき、黙想をしていた。
教会を出てきて、蛋白質が晴れやかな顔をしている。
「お祈りができて良かった」
そうか、それは良かった。ここ数日、夜行バスの連続で心も体も休まるときがなかっただろうから。

12:49
「それはそうと、急がんと」
ばあろあが時計をちらっと見る。軍艦島上陸ツアーの出航は14時。メシ喰って、ツアーの手続きを行って・・・という時間を考えると、もう余裕がない。
「路面電車で移動しようかと思ったけど、こりゃタクシーだな。割り勘にすれば大してかからんじゃろ。いったんツアーの手続きを済ませてから、残りの時間でメシを喰おう」
御意。では車が走る通りに出よう。
道中、ビルの向こう側へ突っ切れる、トンネルのような通路があった。その通路には「真言宗大谷派 妙行寺」と書いてある。どうやら、このビルの向こう側にお寺があるらしい。
「ああ!思い出した。さっきオランダ坂のところで見た、入母屋造りのデカい建物ってこのお寺だったんだ!」
ビルの中に参道があるって、斬新だな。

車の通りに向かう道。観光客が大浦天主堂とグラバー園に向かう際の目抜き通りということになる。
左の建物がカソリック大浦教会。カソリックの教会で、一階部分にテナントが入っているという作りのものは初めて見たので驚いた。

12:51
「おう、なんだこれは」
看板にマリア様の絵が描かれているな、と思って読んでみたら、
「フランスよりルルドの水 届いております」
と書いてあった。
ルルド、といえば難病も治るとされるわき水が出る場所だ。カソリックの巡礼地として世界的に名高い。
・・・が、その水をこうやって日本でも買えるのか。
「これってご利益、あるのか?現地に行ってこそナンボじゃないの?」
「うーん」
蛋白質はそれ以上語ろうとはしなかった。
というか、「ご利益」という言葉を使う時点で、キリスト教的ではないものの考え方だな。

12:57
車道に出たらすぐにタクシーが見つかったので、軍艦島ツアーの受付までダイレクトに運んでもらった。わずか5分。あっという間だ。
道中、運転手さんに「どうです?GWの景気は」と聞くと、「あんまりですねえ」とのこと。まあ、この手の話題を運転手さんに振ってみて、「もう、ウハウハっすよ!」と答えた例は一度もない。バブル期でもない限り、常に「微妙な景況感」というのがタクシー業界の常なのだろうか。
長崎から出る軍艦島のツアーは、4つの会社が実施している。それぞれ特徴があるので、どれが良いのか見比べてみるといい。個人ブログなどでも、4つのツアーを徹底比較しているサイトがある。ただし、世界遺産であるということもあり大変な人気だ。現実的には「空席があって、予約が取れるツアーに参加」ということになるだろう。
4つのツアーはそれぞれ発着場も集合場所も違う。間違った場所に行ってしまい、慌てることがないように気をつけないといけない。タクシーで行き先を指示した際も、正しく場所が伝わるように気をつけた。

今回利用する「軍艦島上陸クルーズ」は、1日2回のツアーを実施している。午後は14時出航なのだけど、受け付け開始は13時からだ。ツアー参加にあたっては誓約書を書かなければならないので、自宅で誓約書をプリントアウトしていない人は、13時20分までに受付を済ませるように・・・と指示を受けていた。誓約書準備済みの人は、13時40分までに受付だったと思う。
13時前に受付場所である事務所に入ろうとしたら、「受付はまだはじまっていないので、外で待っていてくれ」と指示された。しかも、壁沿いに一列に並ぶようにと言われた。細かいな、と思ったが、その理由はすぐにわかった。
まだ出航前だというのに、どんどん人がやってくる。うお、我々はたまたま早く到着しちゃっただけだけど、確信犯的に早く来る人もいるのか。
待っている間、クルーズの航路を示す地図を確認しておく。
軍艦島、というのは長崎市街からはけっこう離れている。長崎からツアー各社が就航しているのは、単に観光客の利便性を考慮しているからで、軍艦島から近いから、というわけではない。
湾の最奥にある長崎港から出港し、伊王島の横をすり抜け外海に出て、いったん軍艦島の手前にある「高島」に立ち寄る。ここも軍艦島同様、炭鉱の島だった場所で、炭鉱資料館が存在する。そこで炭鉱について学んだあと、軍艦島へ。このツアーでは実際に島に上陸することができる。そして長崎へと戻る、という3時間コースだ。
以前の軍艦島は一般人立ち入り禁止だった。しかし最近は、観光客が安全に歩ける歩道が島の一部に整備され、公認ツアー参加者に限り上陸が認められている。それでも一日あたりの上陸人数制限があるはずだ。軍艦島に上陸できる、というのはとてもラッキーなことだ。
ツアーによっては、軍艦島には上陸せず、島周辺をぐるっと回るだけ・・・というものもあるので注意が必要だ。船に乗ってから「えっ?上陸できないの!」とびっくりしないように。

13:04
受付が開始となったので、誓約書を書く。

受付の段取りが書かれた掲示。

受付終了後、我々が受け取ったもの。
「軍艦島上陸クルーズ」と書かれた、首からぶら下げるストラップ。そして軍艦島のチケット。なんだこのチケットは?
どうやら、どのツアーであっても、軍艦島に上陸するためにはこのチケットが必要となるらしい。300円となっているこのチケット代は、軍艦島の維持整備のために使われるのだろう。
というわけで、ツアー代金はクルーズ料金3,600円+端島見学施設使用料300円=3,900円、ということになる。

13:06
手続きを早々に済ませたので、昼飯を食べることにする。長崎ならではの食を!なんて贅沢にお店選びができるほど時間はない。この界隈でお店を探さないと。
「暑いねー」
ばばろあがつぶやく。なんだ藪から棒に。
「ちょうどこの真向かいに、『生ビール半額』って書かれているお店があるんよ」
「おう、そういうことか」
「既に結構歩いとるからね?」
「いいね、飲んじゃえよ」
「でも残念、さっきの誓約書に『酒を飲んだ人はダメ』って書いてあったんよ」
「ああ・・・」
でももっと残念なお知らせが。ビールはともかくメシだけでも、とお店に突撃したら、お店の営業は夜だけだと。ありゃ。別のお店を探さないと。

13:08
「あそこに立て看板が見えるぞ!あれは飲食店に違いない」
はるか遠くに、飲食店のメニューボードとしてよく使われる立て看板を発見した。遠いなあ、と思いつつも歩いて行ってみた。あんまりここで昼飯を悩んでいたら、時間が足りない。
「あれ」
「おう」
てくてく歩いて辿り着いたそのお店は、ウエディングドレスのお店だった。
「全く僕らに縁が無いお店じゃないか!」
諦めて次のお店へ。

13:09
途中見かけた、路地。海沿いから一本入った道。
びっしりと並ぶ小さな中層階ビル。そして空を覆うような電柱と電線。とても印象的な光景。
東京界隈では、こういう光景はちょっと記憶にない。

13:12
ようやく見つけた、ラーメン屋でお昼ご飯を。むしろ、ラーメンの方がさっと料理がでてきてさっと食べられて、ちょうど良かったと思う。

13:28
ラーメン屋さんなのに「日替わり定食」なるものがあったので頼んでみた。700円。
出てきたのは「生姜焼き定食」だった。お味噌汁のかわりにラーメンがまるごと一杯付いてくるというガッツリっぷり。いやー、これで700円は安いぞ?というか、なんでラーメン屋で生姜焼きがあるんだ?という嬉しい大誤算。
ラーメンは当たり前のように豚骨スープ、というのが「ああ九州に来たなあ」という気にさせられる。

13:48
食後、指定された船着き場へ向かう。
岸壁には、「軍艦島上陸クルーズ」と書かれた、黒と赤の船が停泊していた。
「あちゃあー!もう人が一杯だ!」
「嘘だろ、まだ15分近く前だぞ?」
見晴らしが良さそうなデッキ席は既に人が鈴なりだ。遠目でも、これ以上人が乗れないのは明白だった。
「折角、さっき『船のどっち側に座れば景色が良いんだろう?』って議論してたのに~」
道理で、13時の受け付け開始時点で人がわんさかいたわけだ。僕らはその後優雅にランチを喫食していたけど、他の人たちは早々に船着き場に行き、いい席を確保しようと行列していたに違いない。

「おい、わしら乗れるんか?」
デッキ席のみならず、船内の席も人また人。座れる気配が全然しねぇ。
まさかつり革につかまって立ち席、というわけではなさそうだが、バラバラに座ることになるっぽい。それは残念だ。もっと早く着いておけばよかった。
ちなみに「ブラックダイヤモンド」とは、「炭」の別名だ。これから炭鉱の島に向かうので、そういう船の名前にしたのだろう。

軍艦島のリーフレット。受付時にもらったもの。軍艦島の歴史などが簡単にまとめてある。

12:53
結局我々はほぼ最後の乗船となり、操縦席と客席の間の通路にかろうじて座る場所を確保できた。
進行方向とは逆に向いている&タラップがあるため、ご覧の通り視界は非常に悪い。

在りし日の軍艦島の写真。
端島、通称軍艦島はもともと岩礁に過ぎなかった。しかしその周辺に良質な鉱脈があるということで開発が進み、岩礁周辺を埋め立てつつ発展していった「炭鉱のための人工の島」だ。
1910年当時の写真は、その岩礁がまだしっかり見えているが、右側の1959年頃の写真では、ほとんど岩礁が見えなくなっている。これは別に岩礁が壊されたからではなく、周囲に建物が建ち並んだために隠れてしまったに過ぎない。
狭い人工島に何千人もの人が住むために、密集した高層マンションが建ち並び、その様が遠くから見ると軍艦のようだったので「軍艦島」。

14:04
船は軍艦島に向け定刻出航。
・・・しかし、景色がやっぱり見えない。
ガイドさんがあれこれ周囲の景色について解説をしているのだけど、スピーカーが我々のいる通路には設置されていないため、あまり聞こえない。かろうじて聞こえる一部の単語を頼りに、右を見たり左を見たり。

14:05
というわけで、かろうじて風景を見ている蛋白質。
ベンチ席のすぐ隣には別の方も座っている。なので、身を乗り出して景色を見ようとすると邪魔だ。なので、「見たいけど、タラップの隙間からしか見えない。身を乗り出したいけど、隣の人の邪魔になる」という状況に悶悶とし、縮こまって外を眺めている図。

14:06
船の進行方向右側に、若干不格好なクレーンが見えてきた。これはグラバー園などからもよく見えるクレーンで、「ジャイアント・カンチレバークレーン」という名前がついている。
三菱の造船所内にあり、現役で動いているものだけど、これも世界遺産。
「えっ、世界遺産?」
いったいどこに世界遺産が潜んでいるか、油断も隙もあったもんじゃない。これから行く軍艦島も世界遺産だけど、目の前にも世界遺産があったとは。
昔は、世界遺産を巡る旅というのは対象がごく少なかったから「よし、全部回ろう!」という気にもなった。しかし今じゃ、狭い日本でもいたるところに世界遺産があって、しかも一つ一つが(歴史的意義はともかく)小粒なので、さすがにありがたみが薄れてしまっている。
「どうせ新しい観光名所を作りたいっていう地元の思惑でしょ?」と薄ら笑いを浮かべて、世界遺産という言葉を眺めてしまう始末。(これはかなり偏見に満ちている、よくない物の考え方であると自分でも思う)
しかしこのジャイアント・カンチレバークレーン、見る人が見ると大変に素晴らしい遺産なのだそうだ。100年以上も前のものが現存し、しかも今でも現役で動いているというのが凄いし、この手のクレーンは今では世界を見渡してもほとんど残っていないのだそうだ。
そういえば、原爆や空襲の被害に遭ったはずなのに、まだ動いているというのはとんでもない強靱さだ。あらためて考えてみて、「戦前からの大型機械が未だに動いています」ってあんまり記憶にない。なるほど、確かにこれはすごい。こういうのを「稼働遺産」と言うらしい。納得だ。
ちなみにこのジャイアントカンチレバークレーン、「ハンマーヘッド型起重機」というカテゴリに入る機械らしい。ハンマーヘッド!言われてみれば、カナヅチに似ている。

14:07
しばらくは三菱重工長崎造船所の景色をお楽しみ下さい、状態。
こいつぁいいや、軍艦島までひたすら海を突っ走るだけじゃなく、港の町・長崎を海の上から楽しめる。まさに「クルーズ」だ。軍艦島に興味がない人でも、乗る価値はあると思う。
目の前に、巨大な冬瓜みたいなのが乗っかった船がある。LNG船だろうか?そしてその後ろには三菱のマークが目立つ建物。

14:09
軍事機密とかあったもんじゃない。護衛艦が停泊していても丸見え。
いや、「見られたぐらいでアウト」な情報って、そもそも軍事機密じゃないな。
むしろ、専守防衛の組織である自衛隊の場合、周辺国に自国の装備を見せびらかし、「攻めてくるなよ?攻めてきたらコイツで反撃しちゃうからな?絶対来るなよ?」とPRしておかないといけないのかもしれない。
それはともかく、戦時中に戦艦武蔵が建造されたドックを通過。護衛艦か駆逐艦かわからないけど、現在は灰色の船を作っている真っ最中。あそこで働いている人は、身辺調査を公安にされたり、日本国籍でないとダメとか制約があるのだろうか?

14:10
「すごい差があるな」
丘の上に巨大な、屏風のようなマンション。そして丘の中腹に民家が密集している。何か押井守の世界に出てきそうな構図。
マンションは風光明媚だとは思うけど、車が必須だと思う。ちょっと買い物に行こうと思っても、自転車ではしんどい。ちなみにこのマンション、2004年築。3LDK67平米で1,850万円。おひとついかがでしょう。

14:12
ガイドさんの喋りが若干聞き取りにくいのに加え、我々は進行方向とは逆向き、さらには視界が非常に悪いところに座っている。常にガイドさんの解説から時差があって、その景色を見ることになる。なぜなら、ガイドさんは進行方向の前方に見えてくる景色について、先回りして解説しているからだ。
ガイドさんの解説から遅れて1分ないし2分くらい経って、ちらっと隙間からそれらしき景色が見える。
「多分これだよな?さっき言ってたのって」
「じゃろうねえ」
推理ゲームと化している。

14:12
船は、「女神大橋」という橋の下をくぐっていった。
とても高さがある橋だ。無駄ともいえる橋脚の高さだけど、豪華客船でも下をくぐっていけるように、という配慮なんだそうで。
そういえば、東京でもレインボーブリッジを豪華客船が通過できないので、東京ビックサイトの先に新しく客船ターミナルを作るとかなんとかって話があったな。横浜も、ベイブリッジをくぐれない客船対策で、大ふ頭を新しく別の場所に作るとか。豪華客船対策に全国各地余念がないな。
そもそも東京のレインボーブリッジは、当時の豪華客船の代表格「クイーン・エリザベスII世号」が通過できるように高さを考慮して作ったものだ。しかし豪華客船の巨大化は留まるところをしらず、レインボーブリッジの都合なんてお構いなくデカくなっちゃった。
いずれ、船が独立国家を宣言するようなことが出てくるんじゃないか?今、既に1つの船でお客さんだけでも3,000人以上収容するものがいくつもある。ちょっとした自治体だ。

14:15
あーッ!
そんなことを考えていたら、笑っちゃうくらい巨大な豪華客船が見えて来た。
しかもこれ、三菱造船が慣れない豪華客船事業に手を出して大失敗をしてしまい、経済ニュースとしてはかなり大きく取り上げられた曰く付きの船「アイーダ・ペルラ」ではないか!!
世界的な豪華客船クルーズ企業として名高い「コスタ」の傘下、アイーダ・クルーズからの受注で2隻の客船を手がけた三菱重工。しかし、度重なる納期遅延で累計2,450億円もの大赤字を計上してしまった。本来なら、ここで培ったノウハウを糧に、豪華客船を量産していって赤字を解消するべきだった。しかし、そんな体力が残っていないほど消耗してしまったらしい。この目の前に停泊する「アイーダ・ペルラ」をもって、三菱重工は客船事業から撤退、という結論になっている。もったいない・・・。
でも、どこかの中堅国家予算くらいの大損失をやってしまったからには、もうどうにもならなかったのだろう。

それにしてもデカい。常識的なデカさではない。マンションや商業ビルと比べたってデカいので、もうこれはノアの箱舟ではないか、という規模だ。世の中の全部の動物を収容できるんじゃないか?と妄想してしまう。
だって見てくれよ、どれだけ部屋があるんだよこれ。1階の高さが低く見える。
12万5000トン。中には映画館やダンスホールがあるのは当たり前として、なんとビール醸造所まであるというのだから呆れる。
船はドックの外に出ており、しっかりと浸水していた。最終点検でもやっているのだろうか。
・・・と思ったら、なんとこの翌日5月3日に、スペインに向けて出航していったのだという。この船を見ることができたのはラッキーだった。
この船を作っていたのは、三菱重工長崎造船所香焼工場。
三菱の造船所はあちこちにある。
一カ所にまとめた方が効率が良いだろうに、と思う。あちこちに工場がバラけていると、資材や人材の融通が面倒だろうに、と。・・・でも、あれだけデカい船を延々と時間をかけて作るわけだから、「融通」なんて概念はないのかもしれない。もう、船を作り出したら当分かかりっきり。

香焼工場のドックは100万トンドックだという。
「えっ、100万トン?」
思わず隣にいるばばろあに確認してしまったくらいだ。
「ちょっと待て、僕ら広島にいる時、マツダの宇品工場に『1万トンバース』があります!って誇らしげに習ったよな。で、車を運ぶ巨大な1万トンの船を見てびっくりしたよな。あれが100隻入るサイズなの?このドック?そんなにデカい船ってあるの?」
「実際に100万トンの船を作るんじゃなくて、ドックの中を分けたりすることも出来るんじゃろ」
だとしても、デカい。さっきのアイーダが12.5万トンだから、あれが8隻同時に作れるということか?ありえん。
聞くと、世界最大のドックなんだという。
やっぱりいずれは、「海上独立国家」を作るにちがいない。北朝鮮の脅威にさらされたら、ミサイルが届かないところまで移動するとか。

14:23
船上ではしばらく見どころがなくなったが、前方右手に島が見えて来た。沖ノ島と伊王島だ。橋で本土と繋がっているので、車でいくことができる島。
遠目で、教会の建物が見えた。
「おい蛋白質、教会だぞ教会!」
蛋白質に声をかけたが、写真を撮る間もなく通り過ぎてしまった。まるでシンデレラ城のような、白くて奇麗な建物だった。フォトジェニックな教会が、こんなところにひょっこりあるのだから長崎恐るべしだ。

14:30
船は軍艦島の手前にある、高島に近づいてきた。
高島も、隣の端島(軍艦島)同様に炭鉱の島として栄えたが、現在はもちろん閉山してしまっている。しかし、閉山は軍艦島よりも遅く、1986年だ(軍艦島は1974年)。
最盛期は端島・高島あわせて2万人以上が住んでいたというのだから、とんでもなく「都会」だったということになる。しかし今では、遠目で見る限りは静かな島だ。
地図を見ると、高島港ターミナルがあるあたりから南側は、不自然に平らであまり施設がないエリアになっている。おそらく、鉱山で掘り出したボタ(石炭と一緒に掘り出してしまった、利用価値のない石)を捨てて埋め立てていった場所なのだろう。
船はいったんここに立ち寄り、ターミナル近くにある石炭資料館を見学することになっている。これはとても嬉しい。
もともと、軍艦島のツアー予約ができなかった場合、我々は高島に日帰りで行ってくる計画だった。せめて軍艦島的な雰囲気を味わいたかったからだ。しかし結果的にツアーの予約はとれたし、高島にも立ち寄れたので一挙両得。

深夜バスで疲れが溜まっていたのだろう、蛋白質は壁にもたれかかってうたた寝をしていた。

14:36
そうこうしているうちに、船は高島港に到着。
船着き場の近くに、「たかしまフルーティートマト」とトマトの絵が描かれた倉庫があった。石炭という主要産業がなくなってしまったので、かわりにトマト栽培に力を入れているのだろうか。
そういえば、方や軍艦島は閉山の後無人島になった。しかしこの高島は閉山後もちゃんと人が住んで生活をしている。定期船も本土から就航している。この違いはなんだろう。恐らく、島の大きさ、なんだろうな。フルーティートマトを栽培できるような土地がある。一方軍艦島はというと、人の住むエリアか、鉱山か、しか場所がない。しかも不便だ。閉山してしまうと、そこに住み続ける理由なんて無かったのだろう。水や電気といったインフラを維持するのも困難だし。

14:36
船は高島港に着岸した。
閉山した炭鉱の島だけど、今でも人が住んでいる。定期便だって就航しているので、立派な港がある。ほら、桟橋のたもとには、ターミナルのビルだってあるぞ。
着岸する前、ガイドさんのアナウンスがある。
いったんここで上陸して、軍艦島のミニチュアジオラマ模型があるのでそこで解説を行うという。そして隣にある石炭資料館を見学したのち、船に戻っていよいよ軍艦島だよ、と。
あー、と思う。
何がって?そりゃあ、さっき乗船した際に我々が見たとおり。船内でいいポジションを確保するために、みんなモウ必死よ。
僕としては石炭資料館をじっくり見たい。でも、いいポジションも確保したい。・・・無理だろうな、一挙両得は。たぶん、石炭資料館なんてみんなほとんど見ないで、我先にと船に戻って、絶好のポジション取りをするだろう。場合によっちゃ、高島に上陸さえしない人もいるかもしれない。
なにしろ、これまではあくまでも「長崎⇒高島クルーズ」に過ぎない。これからが軍艦島本番だ。良い場所を取りたい!という気合も、ますます高まろうというものだ。
僕らももちろん良い席はとりたいけど、そこまでしてがっつきたくはない。「冷静に装っているオレ」という生きざまにプライドがある。内心穏やかじゃないけど。なので、「ああ、次もたぶん眺めが悪い今いる席なんだろうな」という諦めが既にある。
乗船前までは、「船のどっちがいいんだろうね?」なんてばばろあとわいわい話をしていたのに。
「時計回りで軍艦島をぐるっと回るのか、反時計回りなのか、それによって座る場所が変わってくるよな」
なんて話はどこへいった?もう、座れるだけで文句言いません状態。眺め?それすら既に諦めている。軍艦島にちゃんと上陸できればいいや。

時間が許すなら、ここ「高島」で半日ないし一泊くらいしてみたいものだ。たぶん、バリバリの観光地ではないので、数時間もいれば飽きてくると思う。でもむしろ、そういう「何もない島」のほうががっちり気持ちが安らいで気持ちいいだろう。
この島にはご丁寧に電気自動車のレンタカー(30分500円)や、電動アシスト付き自転車のレンタル(4時間未満500円)のサービスがあった。商売にはならない格安価格なので、島の外からやってきた観光客への便宜なのだろう。

14:37
一見なにもない島だ。
しかし、港の近くに、いかにもなアパートがずらりと並んでいた。炭鉱が営業していたころの名残なのだろう。今はここにどれくらいの人が住んでいるのだろう?
Googleマップで高島の衛星写真を確認してみたが、特に「炭鉱の余韻」は見当たらなかった。閉山後、完膚なきまで鉱山施設は撤去してしまったらしい。今となってはもったいない話だ。炭鉱跡、というのは観光資源になりえる。
とはいえ、昔は九州のあちこちに炭鉱があったわけで、ぜんぜん珍しくはなかったのだろう。閉山したから撤去。ごく当たり前のことだ。
たとえば21世紀の今、「スーパー銭湯がありましたが、倒産して閉鎖しました」という場合、やっぱり建物や温泉をくみ上げるポンプは壊すだろう。それと一緒だ。ひょっとしたら100年後くらいになれば、「スーパー銭湯!そんな珍しいものをなんで壊しちゃったの?文化遺産になったのに・・・」なんてことになるかもしれない。たぶんならないと思うけど。

14:39
船着場から歩いてわずかのところに、「石炭資料館」があった。
思ったよりも小さい、二階建ての建物だ。
軍艦島が世界遺産になって、こうやってたくさんの観光客が訪れるご時勢。折角だから、ここに大きくて立派な石炭資料館を作ってもいいと思う。軍艦島の話からはじまって、炭鉱関連の展示をもろもろ。そして高島も炭鉱の島だったのだから、坑道探検ツアーをやるとか。
・・・と思ったが、そういえばさっき乗ったタクシーの運転手さんが「長崎市街にも軍艦島の博物館がある」って言ってたっけ。軍艦島デジタルミュージアムとかいう名前の施設。長崎市街に博物館ができてしまっているなら、いまさら高島に新たな施設を作るのは難しそうだ。惜しい。
ちなみにその軍艦島デジタルミュージアムだけど、繁盛っぷりを聞いてみたら運転手さんは「入場料が高いからねえ・・・」と苦笑していた。調べてみたら、入場料1,800円!Oh・・・
「軍艦島行きのツアーに参加したかったけど、予約が取れなかった」という人にとっては払える値段かもしれない。でも、ツアーに参加して、さらにその予習復習でより知識を深めよう、と思っているならこの値段はイタい。

石炭資料館の脇の屋外に、あずまやのようなものがあると思ったら、これが軍艦島模型。
ここでガイドさんが軍艦島上陸前に島の概要を説明するという。船の乗客全員が模型の周囲に張り付く。

14:40
軍艦島模型。
学校のグラウンドがある北側から眺めたところ。

軍艦島の東側。
掘り出してきた石炭を貯めるスペースが広がる。そして手前に船着場。ここが唯一の、外界との交流口。模型のとおり、船着場で上陸した人は、鉱山施設の下をトンネルでくぐっていくことになる。
鉱山施設の奥にそびえる屏風のようにあるのが岩山で、これがもともとの「端島」の正体。岩山の周囲を埋め立てていって、岸壁で取り囲まれた「軍艦島」ができていった。

島の東側から南部分を眺めたところ。
右下に先ほどの船着場がある。
南側は鉱山施設が立ち並ぶ。
火の見やぐらみたいにみえるところが縦坑で、この地下深くに坑道が広がっている。

軍艦島、南側から。
岩山の左手、すなわち島の西側エリアにビルが密集している様子が伺える。これが、軍艦島を有名にした光景。
日本最初の鉄筋コンクリート高層マンションだったし、当時は日本最高の人口密度を誇る場所でもあった。あれ?世界最高だったっけ?どっちだったか覚えていない。

軍艦島、西側から。
いかにビルが密集しているかがよくわかる。建蔽率容積率完全無視。そりゃそうだ、ここは完全に私有地で、外界から独立している世界だ。しかもこれができたのは、建築基準法なんて知ったことかという時代だっただろうし。
右下に入母屋作りの建物があるが、これはお寺。その手前の青い屋根は、映画館。ここに超過密で人が住んでいたわけだから、生活に必要なものだけでなく福利厚生的なものまで何でも揃っていたという。
エレベーターがない当時、住みやすさでいったら低層階だと思うだろうが、実際には偉い人は上層階、臨時工員などは低層階というすみわけがあったそうだ。というのも、これだけビルが密集しているので、低層階まで太陽の光が入ってこず、薄暗い上にジメジメするからだ。
じゃあ高層階の人たちは、毎日ヒイヒイ言いながら階段の上り下りをしていたのかというと、横のビル同士、連絡通路でつながっていて、水平移動をするためにわざわざ1階まで降りないといけないというわけではなかったそうだ。

僕は10年以上前からだろうか、この軍艦島に惹かれ続けてきた。世界遺産認定前後からのブームになる以前からこの島について調べるのが好きだった。
産業遺産としての軍艦島も面白いが、建築という観点での軍艦島もとても面白い。そして社会学的なアプローチでも面白い。どういう切り口でも、すごく興味深い対象だ。
なので、東京電機大学阿久井研究室の「軍艦島実測デザインサーベイ」の取り組みなんて大好きで講演や展示を見に行ったことがあるし、昭和を代表する写真家の一人、奈良原一高が軍艦島閉山前の人々の様子を撮影した写真も大好きだ。そういえば、はるか昔、(既に廃墟となった)軍艦島を舞台としたエロゲーもやったことがあったな。これは大して面白くはなかったけど。
語りだすと非常に長くなるけど、ここでは書かない。調べようと思えば、今やwebでたくさん情報がある。又聞きの僕がここであれこれ書くことはあるまい。
模型を前に、みんなでガイドさんの解説を聞く。

14:47
軍艦島のミニチュア模型の説明が終わったら、ツアー客はうわーっとその場を立ち去っていった。我々が呆気にとられるくらい、あっという間に、だ。
「ああ、やっぱりみんなブラックダイヤモンド号に戻って、眺めの良い席を確保したいからなんだろうな」
「どうする?完全に出遅れたぞ」
「もう開き直って、じっくり展示を見ていこうぜ」
というわけで、ミニチュア模型横に展示されている、石炭を運搬するための2トントロッコをじっくりと観賞するわしら。

周囲にはもうほとんど人が残っていない。僅かに、のんびり屋さんがミニチュア模型をしげしげと眺めているくらいだ。
折角の展示物なのに、ほとんど相手にされていない。
そりゃそうか、ツアー客は「世界遺産」であり「珍しい光景」の軍艦島が見たいのであって、「当時の石炭採掘の仕組み」について、工業的な観点での興味はないのだろう。
おっと、そうこうしているうちに、石炭資料館を見終わった人たちが足早に船着き場に戻って行き始めたぞ。早いなあ、僕らこれから石炭資料館の中に入るんだけど。

本当なら、この高島に一泊してのんびりしたいくらいだ。でもそれはさすがに無理なので、今回のツアーには入っていない。
安心しろ、明日の夜は炭鉱の島だった「池島」で一泊だ。こっちで存分に在りし日の栄華に思いを馳せよう。
こちらの展示は、鉱夫さんたちが現場に向かうのに使ったトロッコ列車だろう。木の座面と背もたれで、幅が狭い。地下トンネルを走るものなのに、天井がついている意味ってあるんだろうか?と思うが、地下水が上から降ってきて「冷たい!」とならないようにするための工夫だろうか。

14:52
石炭資料館に入る。
展示されている黒い塊、これが「塊炭(かいたん)」。これを掘り当てるために、九州北部のあちこちで鉱山が開かれ、男達が潜っていったわけだ。
埋蔵量はまだまだあるのだけど、なにせトンネルを掘って掘って掘りまくって、地上からかなり深いところまで坑道が続いている状態だ。効率が悪すぎる。2日後の池島で聞いた話だけど、1日3交替制で鉱夫は働いていたけど、実働は5時間程度だったという。地下に潜ってから、採掘現場に辿り着くまでの「勤務時間内通勤時間」が片道小一時間かかるからだ。
これじゃ、採算があわない。結局、ダイナマイトで爆破して露天掘りをしているような外国の炭に太刀打ちできず、今じゃ日本で採炭している鉱山は全滅した。「資源枯渇」ではなく、「割に合わなくて」というのがグローバル化というか、なんというか。

今我々がいる高島の航空写真。
港が二つあるけど、我々がいるのは島の下側に防波堤が伸びているところ。
島右側は山があって、いかにも「島」という形。でも、左側が不自然に平らで、直線。人工的に島が拡張していったからだろう。
すぐ隣の端島が「軍艦島」として名高いのに、同時期に操業していた高島は全く知名度がない。他の軍艦島ツアーだと素通りするくらいだ。特に観光資源としても、鉱山跡や住居跡を巡るようなものはないようだ。鉱山、というのは完全に過去の歴史として、今は今なりに生活をしているからだろう。
むしろ、軍艦島のように時間が止まったまま取り残されている方が珍しい。

石を熱心に観賞する蛋白質。
このあたりは、鉱山で使われたいろいろな工具が展示されている。
一つ一つ見ていけば十分楽しいはずだ。しかし、さすがに我々も若干「早く船に戻らなくちゃ」という気がするので、落ち着いて見ていられなかった。
既にこの資料館にはほとんど人がいなくなっていたけど。

軍艦島の紹介もあった。
軍艦島を上から見て、どこにどういう建物があったのかを示す地図。こういうのをじっくり読むだけでも楽しい。本当に、楽しい。
理想としては、5年刻みくらいに、軍艦島がどう拡張して建物が増えていったか、時系列で見せてくれたらいいのだけど。
今や廃墟となって無機質な鉄骨とコンクリートだけになっているけど、ここには人の営みがあったし、だからこそ合理的な理由があって建物が建てられ、配置されているわけだ。「どうしてこういう形になったのだろう?」って考えるだけでも楽しい。
ちなみに、青色の建物は鉱山関係で、緑色の建物は居住関係だ。船着き場は青くて丸い建物が示されている下のあたりにあり、そこから時計回りに島の左端までの間に遊歩道がある。
島の核心部ともいえる、マンション密集エリアには全く入れないし、近寄ることもできない。崩壊の危険があるからだ。上陸しても、見ることができるのはごく一部、さわりの部分に過ぎない。
とはいえ、昔は全く上陸が認められていなかったのだから、歩道が整備されて上陸できるようになったのは大きな進歩だ。
以前、軍艦島の専門家たちによるパネルディスカッションを聞きに行ったことがあるのだけど、そのときある教授が語った一言がとても印象に残っている。
「軍艦島は、今が見頃です。」
これは、別に紅葉のように「今がちょうど一番美しい時期だ」という意味で言っているのではない。島の建物は急速に劣化が進んでいて、みるみる崩壊している状況。なので、今見ておかないと、数年後にはもう今の姿は残っていないですよ、という意味だ。
なんとか保存する、という議論ももちろんあったそうだけど、さすがに規模が大きすぎてコストがとんでもないことになる。数百億円かけても保存できるかどうか怪しく、あとはもう朽ち果てていくのを見ていくしかないそうだ。実際、過去と今の写真を対比して見せてくれたが、この10年くらいでもかなり外観が変わってしまっていることがはっきりとわかる。
「昔は名前の通り軍艦の形をしていたんですが、今はもう、軍艦の形ではなくなってきていますね」
という話をしていた。それで僕が焦って、「死ぬまでに軍艦島に行ければいいや」という考えを改め、早々にこの地を訪れようと考えを改めたわけだ。そして今回実現に至る。

高島炭鉱は三菱による開発だったので、岩崎弥太郎の像がデデーンとそびえていた。
何を指さしているのかよくわからなかったけど、とりあえず同じポーズで記念撮影。
・・・いかんな、歳のせいなのか、ポーズがうまくとれていない。右端の蛋白質はほぼ真似ができているんだけど、真ん中のばばろあは右手が挙がっておらず水平を指さし、左のおかでんは手を掲げているものの背中をのけぞらせていて、やっぱり肩が上がっていないことがバレる。
四十肩をやった右肩だからなあ、とこの写真を見てため息をついてしまう。これがアワレみ隊2017。

15:01
他のツアー客から随分遅れて、船着き場に戻ってきた。15時5分に出航する、と指示を受けていたので、これでも少しは早く戻ったほうだ。
遠目で見ても、船には既にみっちりと人が乗っている。当たり前だけど、この船では特等席にあたる「デッキ席」は鈴なりだ。今更我々が入る余地なんてない。
軍艦島の上陸に関しては、他社のツアーと連携をとっていて、時間の割り当てがちゃんと決まっているらしい。軍艦島の船着き場には一隻しか停泊できないし、島内の遊歩道だって決して広くはない。交替で上陸しないと大混乱だ。
で、我々のツアーは15時半から1時間、時間が与えられているのだそうだ。15時半までは島の周囲で待機、ということになる。
ガイドさんからは、「島を反時計回りでぐるっと回ります」と丁寧に説明があった。どっち向きに船が動くかによって、座るべき席が変わってくるからだ。しかし、ガイドさんは
「軍艦島、といっても、実際に軍艦に見えるポイントというのは限られています。そのポイントに着いたら、船の向きを変えますので、どの席からでも写真撮影できますのでご安心ください」
とのことだった。なんでも、軍艦島を見るやいなや、「うわあ!本当だ!軍艦みたい!」と言っちゃう人が多いそうだが、いやいや、その角度からじゃ全然軍艦に見えませんから、という現実があるらしい。

15:05
「あれっ」
どうせほぼ最後に乗船した我々のことだ。先ほど座っていた、眺めがよくない通路席を覚悟していたのだけど、既にそこには船客がいっぱい。どうやら、ガラス越しの船内席よりも、屋外の通路席の方がよいと思ったらしい。
いやいや、そこって引き上げられたタラップが壁のように景色をふさぎ、全然見えないですよ・・・?と思ったが、お陰で船内のちゃんとした座席に空きがあった。ありがたく座らせてもらう。
もちろん、ガラス越しに軍艦島を撮影するというのは、写真写りが悪くて残念ではあるけれど。しかし、通路席よりはマシだ。

15:15
いよいよ軍艦島が見えてきた。
遠目でも、異様な光景にぎょっとする。直線的な島影は、見たことがない景色だ。山があります、崖があります、浜辺がありますといった、いわゆる普通の島とは全く違う。

船着き場には別のツアー船が停泊していた。まだ上陸まで時間があるので、反時計回りに船は軍艦島を周回しはじめた。
これは島の北側の景色。
百葉箱のようなものが見える。端島神社だ。あのあたりはもともと端島を形作っていた岩礁で、手前の大きなビルがあるあたりは埋め立て地だ。
神社の左側に見える、岩場の上に建つ建物は3号棟職員住宅。「職員」、すなわち三菱の社員が住む場所だ。ここでは「職員」と「鉱員」(実際に炭鉱に潜る人たち)ははっきりとわけられていたらしい。職員住宅は高い場所にあり、鉱員住宅は低いところにある。

引き続き島の北側。
白っぽい大きな鉄筋コンクリートビルが、朽ちている。
これが70号棟、端島小・中学校。小中学校併設とはいえ、かなり大きい。少子高齢化社会の現代から考えると、こんなに学校がデカいことにただただ驚かされる。
70号棟にすぐ隣接する、黒っぽい建物は65号棟(鉱員社宅)。軍艦島最大の建物。最上階には幼稚園があった。
思わずしれっと眺めてしまうけど、65号棟は9階建てだ。1945年から建てられ、増築を繰り返し1958年に完成したというけど、当時こんなデカいのをよく作ったなオイ、と呆れる。今でこそ小さな廃墟島だけど、当時は国のエネルギーを担うとても大事な場所だったからこそだ。
建物は西に向けてコの字型になっていて、この「コ」の字の内側から撮影した写真がすごい迫力だ。ネットで探せばあちこちで見つかるだろうから、一度みてみることをお薦めする。日本の景色とは思えないくらいだ。
各部屋のベランダはコの字の内側に向いているのだけど、柵が木でできていて、未だに残っているところがある。鉄で柵を作ると、塩で腐食してしまうので木で作られているからだけど、むしろ「木」のほうがちゃんと残っているというのは皮肉な話だ。

写真左が65号棟、そして右側の低い建物が69号棟(端島病院)。
この島にしては珍しく低い建物。さすがに病人に「階段を使え!」というのは酷だと思ったのか、低い。写真ではよくわからないけど、端島病院に併設される形で68号棟(隔離病棟)があるようだ。
隔離病棟、と聞くとなんか恐ろしい病気のような印象を持ってしまうが、昔のことなので「結核」の患者がいたのだろう。

しつこく、同じところの写真を撮ってる。
何しろ、ちゃんと撮影できているのか、デジカメの小さな液晶画面でのプレビューではよくわからない。ええい、連写だ!あとで写真を選別すればよい!とばかりに撮影しまくり。
というわけで、小中学校と65号棟を引き続きお楽しみください。
それにしても建物が密着している。地震が起きたら、壮大なドミノ倒しが発生しそうだけど大丈夫だろうか?

建物が折り重なるように建っているので、どれがどれだかよくわからなくなってくる。特に、写真にしてしまうとなおさらだ。望遠で撮影していることもあり、遠近感が失われてべちゃっとした構図になる。
奥が65号棟、手前が69号棟の病院。右端手前の白っぽい建物が68号棟の隔離病棟だと思う。
となると、隔離病棟の奥に見えるのはまた別の建物で、67号棟(鉱員合宿(単身))か。

あらためて写真を見ると、しつこいな。また小中学校を撮影している。

船は軍艦島西側にむかいはじめた。ここから先が居住エリアの核心地。
正面に65号棟、左手前に68号棟(隔離病棟)、そこから海沿いに右側に向かって67号棟(鉱員合宿(単身))、66号棟(鉱員合宿(啓明寮))、61号棟(鉱員社宅)、60号棟(鉱員社宅)と続く。
「鉱員合宿」と「鉱員住宅」の違いがよくわからないのだけど、期間工と正規雇用の人と扱いが違ったということだろうか。そういえば、人が住むエリアの中では、67号棟が一番船着き場からも職場である鉱山からも遠くて不便だ。
ちなみに61号棟の地下には浴場、60号棟には購買所があるらしい。

24-70mmレンズなので、この望遠が最大。
船はもっと島の近くまで寄ってくれてもよいのに、近寄らない。多分このあたりは波が強いので、うかつに近づけないのだろう。
奥に65号棟、手前に67号棟、66号棟。

それにしても、端島神社の右側にある3号棟(白い建物)のそびえ立つことよ。4階建てなんだけど、崖の上に建つのでなんとも見晴らしが良い。職員住宅(しかも幹部)とは、かくも格が上なのだということを見せつけている。
この軍艦島は、海のまっただ中に急に存在する島。なので、天気が悪い時は猛烈に波が島を襲ったという。そのせいで、波しぶきが雨のように天から降ってきたらしい。だから、海抜が高いところこそ快適、というわけだ。
3号棟(職員幹部住宅)の右側には、5号棟(鉱長住宅)があるのだけど、目視では確認できなかった。木造2階建てだという。すげえ、鉱長ともなるとこの狭い島でも、2階建ての一戸建てに住めるのか!
一方、プロレタリアートの人たちが住む平野部では、右側海沿い白い建物が51号棟(鉱員社宅)、その奥にある大きな黒っぽい建物が「日給社宅」と呼ばれる、16号棟~20号棟。
1918年に建てられたものだというから、今から100年近く前のものだ。ボロボロにはなっているけど、まだ現存しているというのが驚きだ。当時、日払いの労働者が住んでいたのでこの名前になったらしい。
16号棟~20号棟は廊下で繋がっていて、櫛形をした一つの建物になっている。しかし櫛形は山側を向いているため、ここからはその様子は見えない。ほとんど緑がない島なので、この日給社宅の上に屋上庭園を造っていたらしい。
日給社宅の奥に、貯水タンクを兼ねた2号棟が見える。ここも職員住宅。

建物が折り重なっていて、もう何がなんだか状態。
何か一つ「これだ!」という目印を見つけて、そこから地図と実物を見比べていくしかない。
とはいえ、実際に船はそれなりのスピードで移動している。悠長に地図を確認しているような余裕は全くない。本当は、島一周に30分くらいゆっくりと時間をかけてくれれば最高なんだけど、そうはいかない。
岩山の上にそびえる3号棟、その手前に立ちふさがるように14号棟(職員住宅(中央社宅))、さらにその手前に8階建ての51号棟(鉱員社宅)、ええーと、あとはなんだ?パズルみたいじゃないか。すごくややこしい。14号棟は高い位置にあるけれど、5階建てだ。
地図は平面で描かれているけど、実際の建物は立体的に折り重なっているので特にややこしい。
51号棟の右側にある海沿いの建物が48号棟(鉱員社宅)。その奥には老人クラブや学校教員住宅、派出所、役場の人の家とかいろいろあったようだけど、もうこんがらがってわからん。それから、海からだと全部は見えない。
ちなみに51号棟の隣に公民館、映画館、お寺といった公共の建物が続く。48号棟の地下にはパチンコ店があったという。

島の西側から南側に向かっている最中。
50号棟(昭和館:映画館)や23号棟(泉福寺)があった界隈は崩壊してしまっている。もともと児童公園があった場所でもあるので、ここだけ広い空間ができている。
崖の中腹には、木造二階建ての7号棟(職員クラブハウス)があったらしい。夜な夜な宴会がそこで行われたのだろうか?
海沿い右側には、まるで防波堤のように長い31号棟(鉱員社宅+共同浴場+郵便局)がある。

船の中で殺到する人たち。
船の片方に重心が偏って、転覆するんじゃあるまいか。
この光景を見て、往年のプロレスを思い出した。ブルーザ・ブロディやスタン・ハンセンが入場する時の花道に群がる人たちの図。

ガラス越しだけど、頑張って撮影するばばろあ。

蛋白質も撮影中。
蛋白質は一眼レフカメラを持参している。

15:24
いったん船は軍艦島から遠ざかった。
南西の沖合で再度停泊する。
「ここからの景色が、一番軍艦に似ていると言われるものです」
とガイドさんから説明がある。
なるほど、右側に船の舳先があって、真ん中にブリッジがあって、ととても船をイメージしやすい。
軍艦島の左、実際には北側に「中之島」という小島がある。こちらは、軍艦島の人たちの公園であり、火葬場であり、墓地でもあったそうだ。なにせ、軍艦島には墓地など作る余地がない。お寺はあるのだけれど。

軍艦島だけを写したところ。
やっぱり、幹部宿舎である3号棟がそびえ立っている。

島の南側。
岩山のてっぺんに灯台があり、その奥に大きな貯水タンクがある。
掘ってきた炭とその他の砂利を選別する際、水に浮かべると「炭は浮くけど、砂利は沈む」という法則がある。なので、水というのは炭鉱には必須となるアイテムだそうだ。
灯台は白く新しく、島全体から見ると不釣り合いだ。これは、閉山後無人島になってからできたものだそうだ。操業中のときは24時間営業の不夜城だったわけで、付近を往来する船が「うっかり衝突する」なんてあり得なかった。しかし閉山後は真っ暗になってしまい危険なので、灯台が設置されたというわけだ。
しかもこの灯台、1975年に初代が設置された後、既に二代目だという。
灯台下の海沿いの建物が31号棟、その奥がこの島最古の建物である30号棟(旧鉱員社宅(下請飯場))。1915年に建てられた、日本最古の鉄筋コンクリート住宅。

あらためて、島の西側を。

島の西側から北側に向けて。

船はぐるっと軍艦島の南側を周り、東側にやってきた。灯台と、30号棟が見える。
左側の箱みたいな建物は、鉱山関係の建物。恐らく仕上工場の一部だと思う。このあたりは住居エリア以上に崩壊が激しい。

15:33
上陸が許可されている時間になったので、クルーズ船「ブラックダイヤモンド」は島東側の船着き場に近づいた。「ドルフィン桟橋」と呼ばれる桟橋だ。
なにしろ、防波堤なんて気の利いたものはない。しかも岩礁を無理矢理拡張して出来た島なので、周囲は海流が早いし水深は深い。浮き桟橋なんて作ったらすぐに流されるので、無理矢理固定式の桟橋を作ってある。海底からコンクリートで固められた桟橋だ。
そのせいで、天気が良くてもちょっとでも波が荒いとツアー船は着岸できず、上陸が果たせない日が結構あるらしい。ガイドさんは、「こんなに天気が良くて波がおだやかなのは幸運だ」としきりに今日のお天気を褒めていた。

15:37
ドルフィン桟橋から上陸。
さすがに観光客を迎え入れることができるように、このあたりの階段や手すりはちゃんと整備されている。

ドルフィン桟橋には、「無許可係船及び無断立ち入り禁止」という看板が大きく掲げてあった。
この軍艦島への上陸規制は、れっきとした長崎市の条例で定められている。勝手に上陸しちゃいかん。たとえば、ジェットスキーでやってきて上陸するのもNG。

軍艦島東側をドルフィン桟橋から眺める。
崖の上に3号棟住宅、右手奥に70号棟端島小中学校。
東側海沿いはずっと貯炭場などの炭鉱施設なので、今は広いスペースができている。

ブラックダイヤモンドから続々上陸する人々。
まるでトロイの木馬に潜んでいたギリシャ兵みたいだ。

15:38
ドルフィン桟橋からみた、3号棟職員住宅。
おや?よーく見ると窓にサッシが入っていることがわかる。他の鉱員住宅は木製の窓枠だったりするのに、職員住宅はこういうところでも扱いが違っていたのだな。
しかもベランダまである。ベランダから、貯炭場を見下ろす生活を送っていたというわけか。

15:38
海にせり出したドルフィン桟橋に繋がっている、軍艦島本体の岸壁は石積み。まるでレンガのように組んである。このあたりは軍艦島の中でも特に古いエリアなのだろう。ガイドさんに聞くと、明治期のものだという。

貯炭場があったあたりを眺める。橋げたのような柱が残っているくらいで、もともと何があったのかもうよくわからないレベルになっている。

ドルフィン桟橋から島に上陸するには、トンネルを経由しないといけない。これは昔と一緒。
さすがに崩落したらまずいので、トンネルは補強されている。それにしても、狭い。昔もこの程度の広さしかなかったのだとしたら、大きな荷物を運ぼうとしたらどうしていたのだろう?ソファとか。
・・・ああそうか、ソファなんてものは昔はなかったか。ちゃぶ台と座布団の時代だもんな。

トンネルの途中には分岐があって、左側に向かっていく穴は立ち入り禁止になっていた。
本来、この立ち入り禁止側のトンネルが昔から使われきたものだ。鉱山エリアの地下を通り、住居エリア(30号棟脇)に抜けていく。
しかし現在は住居エリアに立ち入ることはできないので、わざわざ新しいトンネルを掘り、貯炭場のところに出られるようにしてある。

15:39
地上に出た。
いきなり目の前に、コンクリートの建物がお出迎え。なんだろう、これは。窓がないので倉庫だろうか?
場所からして、炭を選別するための施設だったと思われる。
先ほど見た軍艦島ミニチュア模型だと、このあたりの建物には三角屋根がついているはずなのだけど、今や残っていない。コンクリートの箱だけが残っている。

建物の中。さすがに機材は持ち出したらしい。建物だけが取り残されている。

鉄道の高架橋の橋脚みたいなものがまっすぐ並んでいる。
これは、船に炭を積み込むためのベルトコンベアが走っていた場所。

15:40
第一見学広場と呼ばれる整地された広場にていったん全員集合。ここでガイドさんからの説明を受ける。

第一見学広場から見た、70号棟端島小中学校。手前に71号棟体育館があるはずだけど、ここからだとよくわからない。第四竪坑や変電所が70号棟の手前にあって、その廃墟が視界を妨げているからだ。
1階から4階までが小学校、5階~7階が中学校、そのうち6階は図書館などがあったらしい。屋上にはアーチ状の天井があったようだが、今や半分潰れてしまって、無残な姿になっている。

15:40
貯炭場から崖上。このあたりは石垣を組んで、崖崩れを防いでいる。
建物は残っておらず、コンクリートの基礎だけ残っている。炭車修理工場などがあったらしい。

アワレみ隊、軍艦島上陸。
蛋白質が「どこかで既視感があると思ったら、原爆ドームを見ているようだな」と言う。
なるほど、広島出身の我々からすると、廃墟の建物といえば真っ先に思い浮かべるのが原爆ドームだ。
蛋白質が浮かない顔をしている。
「どうした?」
「昔はここも栄華を極めたんだと思うと・・・」
いや、そこで神妙な顔にならなくてもいいだろ。別に戦争の激戦区だったわけでもないし。

15:41
第一見学広場から南側に、なにやら変な形をした建物が見える。
これが第二竪坑の坑口桟橋。ここから鉱夫たちは地下へと潜っていった。
この横に竪坑の櫓があったらしいが、現在は影も形も残っていない。

ガイドさんの説明を聞く一同。

岩山で島が東西に分断されているのだが、その東側、つまり貯炭場やドルフィン桟橋がある側の岩肌には歩道が設けてある。ドルフィン桟橋から地下トンネルを通り、地上に出るのが30号棟の脇。そこから島の西側を通っていくこともできるけど、岩山経由で島の北側の65号棟方面に抜けて行くこともできる。
建物の高層階に用事があるのか、低層階に用事があるのか次第で、ルートを使い分けるわけだ。島の建物はお互い連絡橋で連結されていたり、岩山に通路が繋がっているので、高層階同士でも水平移動は容易だったらしい。

島の南側にある30号棟。

ふさがれたトンネル。防空壕じゃあるまいし、なんだろう?と思ったら、石炭の選別でいらないと判断された砂利(ボタ)を捨てるためのトンネルだという。
貯炭場側の海に捨てたら、積み込み船が着岸できなくなってしまう。そのため、この岩山をくりぬきベルトコンベアを通し、島の西側の海に捨てたのだそうだ。
えっ、でも島の西側には住居が・・・。
というわけで、恐るべきことにマンションの横っ腹に穴を開け、その中をボタ運搬用ベルトコンベアが貫通していたのだそうだ。荒技。

遊歩道を伝って、島の南側へと移動する一同。

見ると、蛋白質が廃墟に手を合わせている。
いやいやいや、手を合わせる必要なんてないぞ?何やってるんだ、一体。
ただ、確かに「どういう表情をして写真撮影すればいいのか、難しい場所」ではある。ニッコニコでイエーイ、と撮影するのは憚られるし、かといってお通夜のような顔をするのも違う。
強制連行とか落盤事故とかいろいろ不幸なことはあっただろうが、あんまり陰気な顔はしなくて良いと思う。
でも蛋白質は、ずっとこの表情のままだった。というか、手を合わせているツアー客なんてこの人ただ一人だった。

15:52
第二竪坑の桟橋と、その奥に続く総合事務所。
ここから先島の南側も鉱山関係施設があったエリアだけど、主に事務所などがあった場所らしい。

16:00
歩道で島の南側をしばらく歩き、西側に回り込む。そこで歩道は打ち切りになり、第三見学広場があった。
この正面が魅惑のエリアだけど、近づくことすらできない。
・・・まあ、無理だろうなあ、と遠目でもわかる。ビルの間隔の狭いこと狭いこと。これじゃ、急に頭上からコンクリート片が剥離して落ちてきて、怪我するということだってあり得る。

というわけで、第三見学広場の柵ギリギリから撮影した住居エリア。
正面が軍艦島最古の建物、今年で築102年になる30号棟。隣が31号棟。二つの建物の間から、奥に位置する25号棟(職員社宅、宿泊所)がちらっと見えている。

30号棟アップ。
いやー、年月の経過とともに壁がこうも壊れるものなのだな。
とはいえ、1世紀が経過して、閉山して半世紀近く経つのに、まだこれだけの形を残しているのはすごい。頑丈に作ったものだ。
やっぱり一番の弱点は鉄骨のようで、鉄が錆びて膨張し、そのせいでコンクリートが破壊されていた。
この30号棟は、ロの字型の形になっていて、採光は建物の内側から行っていたそうだ。外に向けて大きく窓を開けると、風雨、さらには波にやられてしまうからだ。

30号棟と31号棟の間、そして奥の25号棟。25号棟に向かう階段が見える。
いやー、ワクワクするなあ、あそこを歩いてみたいけど、今は学術研究目的など、ちゃんと許可をとっていないと無理だからなあ。

31号棟はくの字に曲がった長い建物で、防波堤の役割も担っていたという。ガイドさん曰く、建物がくの字になっているのは、波の力を分散させるためだそうだ。
貯炭場から続くボタ運搬用ベルトコンベアはこの建物の横っ面をぶち抜いているんだけど、ここからはその穴を確認することはできなかった。

31号棟アップ。
窓枠が一部残っている。
この建物は、海沿いは内廊下になっていて、住居部は山側を向いている。「我が家はオーシャンビュー!」なんて気楽なことを言っていられる場所ではないので、敢えて眺めの良い海には背を向けている。
1階には郵便局、地下には大浴場があった。

ちなみに30号棟は共同トイレで、建物左に見える小窓がトイレ部分にあたる。
この30号棟に限らず、全て古い建物なので風呂トイレ共同は当たり前。風呂が部屋に備わっているのは、岩山の上の幹部宿舎だけだったらしい。
汚水は全て近隣の海に流していたわけで、「海に囲まれているから、岸壁から釣り糸を垂らせばすぐに今晩のおかずゲット!」というわけにはいかない。

仕上工場跡。
どういう役割を果たしていたのか、ガイドさんの説明があったかもしれないけど覚えていない。

16:08
30号棟をバックに、記念撮影。蛋白質はたまたま居合わせなかったので、ばばろあと二人で。
やっぱり微妙な顔になる。
周囲のツアー客もめいめい記念撮影をしていたけど、「イエーイ」なノリの人は皆無だった。

16:10
見学用の歩道は一本しかなく、船までは今きた道を戻ることになる。船に向けて戻る。
島の最南端に位置するところに、だだっ広い、四角いスペースがある。特に説明もなかったし、気に留めていなかったのだけど、ガイドさんが「ここはプールの跡ですよ」と教えてくれた。へえー。言われてみれば、プールっぽい。
プール、といっても恐らく真水は使えないだろうから、海水プールだっただろう。しかし、海水浴なんて到底無理な場所なので、こうやってプールがあるのは貴重だったに違いない。
北側にある学校脇にでも作る事ができれば良かったのだろうけど、場所の制約上学校とは対極の南に作らざるをえなかったのだろう。

16:10
仕上工場と、その奥の30号棟。
このあたりの建物は全く残っていない。わざわざ壊したとも思えないので、長年の風雨で粉々に砕けてしまったらしい。

綜合事務所跡。

東からみた仕上工場。ぽつんと建っている。

30号棟、貯水槽、灯台。
30号棟の下半分をふさぐ形でコンクリートの土台が見える。ここには第二竪坑捲座があった。
捲座(まきざ)とは、採掘した炭を運び上げたり、鉱夫を地下に下ろすためのケージを操作する巻き上げ機があるところ。ちなみにこのケージ、分速480メートルだったというから信じられない。時速30キロ近くで垂直落下するんだから、体が浮き上がりそうだ。
先ほど見た、鉱夫たちが地下に潜っていく「第二竪坑 坑口桟橋」とはちょっと離れた場所にある。捲座そのものは竪坑のすぐ脇にある、というわけではなさそうだ。

綜合事務所跡。

鉄骨が錆びてボロボロになっている。

綜合事務所は、レンガで装飾されていた。レンガ造りの建物、というわけではなく、コンクリート造りの表面をレンガで化粧していたようだ。

思惑ありげな建物の形ではある。二階部分に渡り廊下があったり。
厳重に装備を固めた鉱夫さんたちがここを歩いていたのだろうか?当然、身支度をするロッカールームなどがこのあたりにあったはずだ。
風呂はこの建物にあった、とガイドさんから聞いた。みんな真っ黒になって地下から戻ってくるので、奥さんであっても自分の旦那が判別できなかったという。
そして、風呂に入って身ぎれいになってから、ワイシャツに袖を通しぱりっとした身なりで帰宅していくというのが炭鉱マンのプライドだったという。

セルフタイマーで、綜合事務所前で記念撮影。
デジカメの液晶画面を覗き込んだ通りすがりの女の子たちが、「バッチリです!最高のアングルです!」と大絶賛するので、苦笑しているところ。決して「カメラ写りがいいように笑っている」わけではない。
綜合事務所前は第二見学広場として整備されている。我々がいるあたりは昔第三捲座があったらしいが、その気配はもう残っていない。瓦礫がある程度だ。

ドルフィン桟橋に戻る。
何を撮影したのか、あんまり覚えていないので写真が重複している。また3号棟を撮影しているが、さっき撮ったぞこの写真。
歩道が岩山の急斜面に沿って、左から右に伸びているのがわかるだろうか?そして、3号棟に向かって階段がある。この歩道を右へと進めば65号棟、左へ進めば30号棟。

第一見学広場にあった、軍艦島の写真。
西側から見たところ。

こっちは東側から。

さて、船に戻ろう。トンネルをくぐって、ドルフィン桟橋へ向かう。
トンネルの上には、昔荷揚げ用のクレーンがあったらしい。

ドルフィン桟橋から3号棟。いちいちあの家は目立つ。
ドルフィン桟橋はこれで3代目だそうだが、2代目は作ってから2年で壊れたそうだ。それくらい、海が荒いということだ。

16:25
船は出航。あとは長崎へと戻るだけだ。
崖にそそり立つ端島神社を見上げる。

65号棟、小中学校の手前にレンガ作りの三角屋根を発見。あれが第四竪坑捲座跡。もっぱら、換気口として使われていたらしい。

さあこれで軍艦島は見納めですよ、ということで写真を撮りまくる。
結局、軍艦島接近時と離脱時が70号棟端島小中学校の側なので、小中学校の写真ばっかり撮影していた。小学校を撮影しまくるなんて!変態!いや違う違う。

弁護しながら、ラスト小学校。

今回は、デッキ席が確保できたので屋外。軍艦島を背に、我々は長崎港へと向かっていった。

16:26
遠ざかっていく軍艦島。
いやー、本当に貴重な体験ができた。ありがとう!
それにしてもここまで栄枯盛衰というものを実感したのは初めてだ。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・というのはまさにここだった。
大自然にしろ人間の営みにしろ、エントロピーというのは有限だと思うのですよ。今こうやって我々はインターネットとかスマホとか、いろいろ便利なものを享受している。だからこそ廃れるものがある。「廃れるものがある」ということはむしろ何か新しいものが勃興しているからだ、と僕はポジティブに考えている。
もちろん、ここをふるさととして住んでいた人としては、閉山とともに島を去らないといけなかったのは辛い体験だっただろう。だから、あんまり外野の人間が「ポジティブ」とか言うのはよくないわけで、その結果なんだか神妙な顔付きになってしまう。
そういう「微妙さ」もまた、新鮮な体験だった。

16:28
島民の墓地兼公園の役割を果たしていた中之島の横を通過。春になると島のてっぺんに桜が咲くので、花見に訪れていたそうだ。
端島(軍艦島)、高島ともに炭の鉱脈が地下に眠っていたのに、なんでこの中之島は無人島のままなのだろう?炭鉱の島にならなかったのだろう?と不思議だ。あとで調べて見たら、ここも炭鉱はあったそうだが、わずか9年で閉山してしまったそうだ。

16:32
高島にいったん立ち寄ります、というアナウンスがあり、船は高島に戻ってきた。ちょっとだけ停泊して、すぐに出航。何があったのかわからないが、軍艦島上陸時にもぎった上陸チケットの半券を事務所に提出するなどの事務手続きがあったのかもしれない。あくまでも推測だけど。

16:41
高島をあとにする。
団地が並んでいて、「えっ、島なのに何で?」と不思議になる光景だ。
軍艦島の団地はボロボロの廃墟になってしまったけど、高島の団地は現在進行形で健在だ。

16:48
船は沖ノ島の沖を通過中。往路発見した教会を今回はちゃんとロックオン。撮影しておいた。
蛋白質にこの教会のことを伝えたら、喜びいさんで撮影していた。軍艦島の時よりも気合いが入っていたようだ。
カトリック馬込教会、という。まるでお城のようにとんがった屋根のてっぺんには、十字架がある。まるでテーマパークの建物みたいだ。または、お菓子の城。
失礼ながら、よくもまあ小さな島でこんな荘厳な教会が建てられるものだ。信者の数は限定的だというのに。・・・えっ?この島の住民の60%がキリスト教徒?そりゃあすごい、日本でもっとも「キリスト教信者率」が高いエリアなんだそうだ。

長崎の港が近づいてきたとき、またもや海沿いに教会を発見した。行きの時には気づかなかった存在だ。
カトリック神ノ島教会。これもまた、白くて気高さを感じさせる建物だ。長崎の教会は本当に奇麗だな。
・・・おや、教会の手前・・・海の中の岩の上にも白い何かが見える。何だろう、あれはマリア様だろうか。
望遠レンズで確認していた蛋白質が「マリア様だ!」と声を上げる。へえ、海の中にマリア像ってこともあるのか!
よく見ると、マリア様は教会の方ではなく、沖の方を見つめていらっしゃる。恐らく、航海の安全を願う意味合いがあるのだろう。東京湾大観音みたいなものか。例えが強引だけど。

17:02
長崎の港が迫ってきた。
すぐ脇を、白い船が通り抜けていく。日本郵船のロゴ・・・かと思ったけど、なんか赤い帯が一本多い。これ、九州郵船のカーフェリーだった。五島列島と長崎を結ぶ便だ。
アワレみ隊が五島列島企画をやった場合、この船に乗っていたかもしれない。

三菱重工長崎造船所のドックを通過。

ドック大好きばばろあは三菱重工の写真を撮りまくっていた。

17:09
長崎のシンボルの一つ、稲佐山が見えて来た。あの山のてっぺんから見た夜景が「新世界三大夜景」の一つだとかなんとか。
明日の午前、あの山の上に行ければ行ってみよう。

17:15
軍艦島上陸クルーズ、無事終了。長崎の船着き場に戻ってきた。
クルーズ船「ブラックダイヤモンド号」とともに記念撮影するアワレみ隊。
男3人で記念撮影なんて、色気もへったくれもないのだが、後日これらの写真を見たばばろあが「やっぱ記念撮影は必要じゃね」とつぶやいていた。
単なる観光地の写真だったら、プロが撮影したものがネットにいくらでも転がっている。見たけりゃそれらを参照すればいいし、なんなら自分でそれらの写真をスクラップして(私的利用の範囲内で)自分のPCに保存しておけばいい。
結局、「観光名所で自分たちが写り込んでいてナンボ」なんだと思う。すっげえ当たり前のことだけど、今更そう思う。だから、三脚を立ててセルフタイマーでオッサン3名が記念撮影、というのは見栄えが悪いけど、それでもやる。
だてに20年以上活動を続けているアワレみ隊じゃないぞ。1980年代からずっと時系列で「成長と、円熟と、老い」を見続けることができる。これって貴重なことだ。
それはともかく、「軍艦島上陸クルーズ」はとても良かった。他のツアーとは比較していないのでなんとも言えないけど、申し込んだ時点では「なんかチャラそうだな」という印象だったから、良い意味でその予想を覆された。
チャラそうだ、と思ったのは、ブラックダイヤモンド号という名前と真っ黒な船の外装がイキってる感じだったし、「軍艦島上陸クルーズ」というロゴが、ひび割れたコンクリートを模していて、それもなんか漫画的というか安っぽく見えたからだ。軍艦島を「ヒュー、なんか廃墟パネエっす!」って感じで紹介しそうな予感が・・・。いや、今だから言える、それらは全く杞憂だったと。
高島に上陸し、石炭資料館を見学できるツアーはここだけ。多角的に軍艦島を学びたければこのツアーがおすすめだ。
他にも、軍艦島に実際住んでいた人がガイドさんを務めるツアーがあったり、少人数でしっかりとレクチャーしてくれるツアーがあったり、それぞれに特色があるらしい。もしまた軍艦島を訪れる機会があるなら、別のツアーも利用してみたいものだ。

17:24
徒歩で宿に戻ることにする。その途中に「出島」があるので、出島に立ち寄る。
出島といえば、言わずと知れた「江戸時代、日本が唯一オランダに対して商取引を認めていた地」だ。小学生でも知っている、歴史の常識。
でもその割には、実際どんな施設が現存するのか、よく知らない。

「修学旅行の時に行ったはずなんじゃけどね、覚えとらんねえ」
ばばろあが言う。
僕は行った記憶がない。修学旅行ではばばろあと違う班・・・だったと思うけど、どうだったっけ。そもそも行ってないのか、それとも行ったけど、行ったことさえ覚えていないのか。
いずれにせよ、全く記憶にないのは間違いがない。確か、周囲はすっかり埋め立てられてしまい、町に埋没してしまって全く魅力がなかったはずだ。
前方に出島が見えて来た。
「おい、なんかそれっぽいのが見えるけど、デカいぞ?」
「あんなん、あったっけ?」
一同騒然とする。

看板がある。
「ややや、結構本格的にあるっぽいぞ」
「昔からこうだったっけ?」
「いやー、こんなんなかったと思うで。最近じゃろ?」
描かれている地図は、昔のものかな?と思ったがちゃんと周囲が埋め立てられている。現在の地図らしい。こんなのがあるのか!

「おい、通り抜けるようなレベルちゃうぞ?」
中を覗き込んだばばろあが甲高い声を上げる。
遅れて覗き込んだ僕も、蛋白質も、思わず「うおっ」と声を上げてしまった。
中には、まるで「日光江戸村」のような、時代劇のセットのような、昔風の建物がずらっと並んでいたからだ。

「いやいやいや、完全に油断していた。こんなん、宿に向かうまでの間にものの数分、だと思っていたのに」
ぱっと見ただけでも、この地を見てまわるのに10分20分レベルじゃ済まないことがわかる。
しかも・・・

「あっ、入場料金、とるのね」
これだけ立派に再興されてりゃ、そりゃそうなるよなあ。無料というわけにはいかず、大人1名510円なり。
かなり油断していた。出島に時間もお金もかけるつもりはなかったので、動揺する一同。

「とはいえ、入らないというわけにはいくまい?」
「だなあ、なんか今日一日であれこれ入館料でお金がかかってるけど、この光景を見て今更引き下がるわけにはいかないしなあ」
とはいえ、時刻は既に17時25分。観光施設なんだし、屋外だし、さすがにもう営業はしていないだろう?「やっぱ営業していなかったね、残念だったね、じゃあまたの機会に」と思って諦めようとしたら・・・あれっ、18時まで営業してるの?絶妙なタイミング。
「どうする?」
「入らないという理由が見当たらないな」
というわけで、結局入ることに。

いかんな、頭が切り替わらないぞ。さっきまで昭和産業遺跡の軍艦島を見ていたのに、戻るやいなや今度は江戸時代だ。でも、廃墟じゃなくて立派に再現されているんだから、もう何が古いんだか新しいんだか、さっぱり。

17:30
長崎オランダ村、じゃなかった、出島を観光中。
長崎オランダ村ってあったなあ、ハウステンボスの前身にあたる施設で、僕らの修学旅行で立ち寄った。全く内容を覚えてないけど。
本当に、今思えば修学旅行って何だったんだと思う。覚えているのは、夜、寝るか寝ないかで先生とバトルすることが中心。もし、この「修学旅行の定番:先生とのバトル」がなかったら、本当に何も覚えていないんじゃなかろうか。それを思うと、やっぱり先生って消灯時間を厳しく取り締まらないといかんな。子供達の思い出作りのためにも。

蔵やら商館やら、いろいろな建物が並ぶ。和風だったり洋風だったり、展示物があったり建物だけだったりいろいろだ。
さすがに軍艦島のときのように、「この建物は○号棟で、当時はこういう使われ方をして」と解説する気力は湧かない。江戸時代の話ともなれば、完全に「歴史教科書のはなし」であり、あんまり生活感を伴わないんだよな。ワクワクしない。

カピタン部屋。恐らく「キャプテン」がオランダ語になって日本語に訛ると「カピタン」なんだと思う。

タッチパネル画面で、往時のエピソードを紹介するなど、演出には手間暇をかけている。

おっと、今朝グラバー邸でみかけた、「江戸時代の外国人の食事」がここでも再現されているぞ。
「グラバー邸のと、似てるな」
「やっぱりこの程度が限界なのかね、当時だと」
つまり、全体的に茶色い。ところどころ彩りの野菜もあるけど、基本は茶色だ。
なんだか、これを見ていると「一番うまそうなのは、ろうそく」に見えてきてしまう。違う違う、それは食べ物ではない。

豚さんがうらめしそうに、頭を上に向けている。しかもリンゴをくわえて。
「この豚は食べるためのものだろうか?」
「リンゴ置き場としてしか意味がないんじゃないか?」
「いや、そもそもこのリンゴは飾りじゃないか?」
オランダ人商人のメシはさほどうまそうに見えなかったので、せめて豚肉に最大の関心を注いでいる状態。
母国から海路はるばる運んできた豚だろう。江戸時代、日本から容易に入手できたとは思えない。いや、ひょっとしたら途中中国に寄港して、中国から仕入れていたか?
いずれにせよ、ガリッガリに塩漬けにされて防腐加工されているはずだ。そのまま食べてもうまいはずがない。ミミガーのこりこりした食感がね、たまらんのですよ・・・なんてカピタンさんがコメントしていたとは思えない。

商館の窓から外を。
「小京都」と呼ばれるような古い町並みとは違い、なんか和モダンな感じ。なので古めかしい感じはほとんどない。

大砲。

大砲を「はへー」という表情で眺める蛋白質。
それにしても乱暴な話だよな、昔はここに鉄の玉を詰め込んで、火薬でその玉をすっ飛ばしていたんだから。鉄の玉が飛んできてぶつかったら痛いよね、建物に穴が開くよね、それはイヤだなよね、という発想。

一つ一つ建物を見ていくと、結構時間がかかる。
「外観だけ整備したハリボテ」というのはほとんどなく、特に気の利いた展示がない建物でさえもしっかり中を見せてくれる。作りは全部本格的だ。
歴史の教科書で出島の絵を誰もが見たことがあるはずだ。それを見ると、土地は狭く、建物は貧弱で、遠路はるばるやってきたオランダ人がこんなところに閉じ込められて可哀想に・・・と思ったものだ。しかし実際はそんなことはなく、そこそこ広かった。もちろん大運動会を開催するほどの場所はないけど、窮屈で発狂しそうになる、といったことはない。これは予想外だった。

出島の外。
本来はここに海が広がっていたはずなのに、今や何事もなかったように放送局と立体駐車場が建っていた。
テレビ局の建物に、「NIB」という略称が書いてあった。NIB?地方テレビ局は大抵アルファベット3文字の略称を使うけど、NIBって何の略だ。Nagasaki・・・えーっと、Iってなんの略だ?
調べてみたら、このテレビ局は「長崎国際テレビ」という名前だった。ああ!Nagasaki International Broadcastingの略か!
このテレビ局が、本当に名前通り「国際」的なのかはわからないけど、出島の脇にあるテレビ局が「国際」を名乗るのは楽しい。

18:02
当時の時計の復刻模型をしげしげと眺める二人。
ちなみに蛋白質、ばばろあは理系、おかでんは文系だ。
とはいえ、文系理系問わず、こういうメカを見るとワクワクしてしまうのは、若くても歳を取っていても一緒。
特にこの時計の場合、周囲をアクリル板で囲ってあり中身が丸見えになっている。外装の装飾は見えられないものの、中身のからくりがよくわかってとても面白い。
写真を見ればわかるとおり、それぞれの建物はかなり力の入った展示になっている。これで入場料510円というのはむしろ安いと思う。おすすめ。

いちいち建物を紹介していたらきりがないので省略。
出島には出入り口が二カ所あり、我々は入ったところからまっすぐ突っ切ってもう一つの出入り口から出ることにした。そうすると、ちょうど宿がある方角だからだ。
出入り口のところにある建物に掲示版があり、蛋白質における今回の旅行の主目的、「遠藤周作文学館」のポスターが貼ってあった。
「おお、これこれ!」
蛋白質が嬉しそうな顔をする。
現在、「敢行から50年-遠藤周作『沈黙』と長崎」展を開催中らしい。会期は5月21日まで。
「おい蛋白質、ギリギリ間に合って良かったな。沈黙展は5月21日までだったぞ」
「でも多分5月22日以降も『沈黙』の展示はやっとると思うで?なにしろあんな辺鄙なところに記念館を建てるんは、沈黙の舞台だったからじゃろ?沈黙を扱わんわけにはいかんじゃろ。おいそれより蛋白質、定休日は大丈夫なんか?」
ばばろあの指摘を受け、蛋白質が「あっ」と声を出してあわててスマホを取り出す。
「折角あっちまで行ったのに、定休日でした、って話じゃったら目も当てられんで。まあ、明日の夜泊まる池島に行く途中じゃけえ、別にええんじゃけどね」
「大丈夫!やっとっる!明日はちゃんと営業しとった!」
勝ち誇ったような声で蛋白質がスマホの画面を見せてくる。
「いや、見せんでええから。で、やっとるんじゃね?」
「やっとる。大丈夫」
「それはわかった。でも明日どうするんか考えとけよ?じっくりそこで見るんか、見ないんか」
実は以前からばばろあは、メールを使って蛋白質に「遠藤周作文学館でどれだけ時間をかけたいか?」ということを聞いていた。ここまで熱望している場所なのだし、彼自身の信仰ともからむ場所だ。ひょっとすると、半日でも滞在したいかもしれない。我々も折角訪れるからには館内を見学するけど、さすがに半日はいらん。30分程度で十分だろう。だから、蛋白質には「ずっといたいんなら、わしらその間別のところに行っておくけぇ」と伝えてあった。

出島のミニチュア模型があった。ミニチュア、といってもかなり大きい。
なんだ、歴史の教科書で見た図と全然違うぞ?結構な賑わいがあったんだな。

出島の町並み。まるで宿場町のようだ。
ただし全体的に奥行きはない建物。宿場町の商人の家なら、蔵があったりして間口の割に奥が深い家であることが多いのだけど。

18:28
出島を出ると、すぐそこが長崎中華街。そして正面に見えるのが今晩の宿、ホテルマリンワールドだ。ばばろあはつくづく良いポジションの宿を確保したものだ。
長崎駅とは離れたエリアだけど、駅前よりもこちらの方が賑わっている。何故ここまで昔の国鉄は線路を引っ張ってこられなかったのだろう?当時、「機関車の煙は汚い」とか「家畜が驚くからやめろ」とか反対運動があったのだろうか。

18:28
ホンマ宝石。
ニセモノは扱っていませんよ、という力強い宣言。宝石を買うなら是非ここで。
びっくりしたのが、「Amazon.co.jpからも発注OK」と書いてあったこと。あ、マーケットプレイスを使っているのかこのお店。というか、Amazonって宝石も扱っているんだな。実物見ないで宝石って買っていいものなのか!とびっくり。

18:29
「落ちないか?医院」
大丈夫です、3階部分ですけどしっかりした建物です。崩れて落ちる心配はないと思います。安心して開業してください。

19:01
ホテルに戻る。今回はシングル3部屋を確保してある。
「えっ、3人で一部屋じゃないの?」
蛋白質に聞くと、
「わし、最近いびきがすごいんよ。いびきで迷惑かけるわけにはいかんけぇ、別の部屋にした。明日(池島)もわしだけ別の部屋にしてあるし、明後日(嬉野温泉)も空き部屋があったらそうしてもらうつもり。安心せぇ、一人部屋にこもってやらしいことをするつもりはないけぇ」
いや、別にそこは心配していないけど、そうなのか。「大家族主義」アワレみ隊としては残念ではあるが、まあ、しょうがない。そもそも、このようなホテルにおいて「トリプル部屋」っていうのはなかなかなかったりもするし。

あれ。
中に入ると、ツイン部屋だった。
「えっと、何かの間違いかな?」
いったん外に出て両隣の部屋の様子を見ると、みんなすんなり部屋に入ってしまったようだ。ちゃんとツインで3部屋、確保されているらしい。ツイン部屋をシングルユースで、ということだ。
そうこうしているうちに、蛋白質が外に出てきた。
「散髪行ってくるわ」
「待て、今からか?」
「ああ、10分あれば終わるから集合時間までには戻る」
「何も今行かなくても」
先ほどホテルまでの道すがら、1,000円カットの散髪屋を発見した蛋白質、「散髪に行く」と言い出したのだった。ばばろあと僕が驚き、「なんで旅先で、わずかな時間で散髪?」と不思議がったのだけど、彼は「是非行く」という。
ばばろあから「やめとけ」と諭され、いったんは諦めたはずだったんだけど、結局彼は気を取り直して出撃していった。そんなに髪がうっとおしかったのだろうか。
それはともかく、ツインの部屋だ。
このホテルマリンワールド、どの部屋にも「<」(不等号)の形をしたガラスになっている。この不等号出っ張りガラスを一部屋にした場合、どうしてもシングル部屋にするにはスペースが余ったのだろう。なので、エーイとどの部屋もツインにしておいて、一人泊ならばシングルとして、二人泊ならツインとして、という使い方にしたっぽい。昔は飲食店雑居ビルだった名残だ。無理矢理ホテルにしているのでこういうことになる。面白いね。
館内の間取り図を見てみると、大浴場もやっぱりこの不等号の形のガラス張りだった。もともとホテルにする気なんてなかった建物をホテルにすると、あれこれ不思議な形になる。そういうのを踏まえて間取り図を見るだけでも結構楽しい。

テレビ。
半分壁に埋め込まれた形。これ以上のサイズのテレビは絶対に入れないぞ、という強い覚悟だろうか。今の段階でパンパン。

風呂場と、トイレと、脱衣場。ユニットバス。
トイレは、水を流すレバーはついておらず若干探した。正解は、タンクの上にボタンがあって、それをぐいっと押し込むことで水が出る。ボタンは二分割されていて、右半分が「小」、左半分が「大」。こんなの、見たことがない。
メーカー名は「COZY」だそうだが、聞いたことがない。
このホテルは中華資本だというけど、ひょっとしたら中国メーカーのものなのかもしれない。

我々がいる12階の間取り図。
中央部分に、円筒形の展望エレベーターが2基ある。あとは客室。
こうやって見ると、シングル利用をするには奥行きがありすぎる部屋だということがわかる。
かといって、飲食店時代だったときはどういう仕切りだったんだろう?ギザギザ窓二つで1店舗、くらいでスナック一店舗くらいか?

12階の自室からの眺め。眼下にばばろあの車が駐車してある駐車場、そして川の左側が中華街。突き当たりのあたりが出島だ。
正面に見える山が、湾を挟んだ対岸で、稲佐山。

19:25
案の定、蛋白質から「散髪屋が混んでるので、集合時間に間に合わない」という連絡が入った。そりゃそうだ、30分後に集合!っていうのに、散髪屋に行くヤツがいるものか。
さっぱりした蛋白質が、集合場所であるホテルのロビーに戻ってきた。壁に貼ってあるポスターを見ているが、襟足がすっきりしていらっしゃる。さぞやさっぱりしたことだろう。・・・ただし、洗髪なしの1,000円カットなので、短い髪がたくさん残っていてチクチクするとは思うけど。
蛋白質が眺めているポスターは、「教会を見学する際は事前に連絡してね」という注意喚起のものだった。教会に鍵がかかっていたりするので、事前連絡してもらえればガイドが対応しますよ、ということだった。
我々が明日訪れるかもしれない教会がポスターに書かれていたけど、実際に行くのかいかないのか、行くとしても何時になるのかがさっぱりわからない。なので結局連絡はしなかった。
なにせ、明日朝まず何をするの?ということさえ決まっていない。「昼、遠藤周作文学館に行って、夕方、池島に渡って一泊」ということだけが決まっている。アワレみ隊にしては行き当たりばったりすぎるが、それもこれも「蛋白質よ、お前は一体何が見たいんだ?」というのがよくわからないからだ。
昔っから変人キャラの蛋白質だが、歳を重ねるにつれてどんどん「謎キャラ」っぷりが強くなっている気がする。もちろん、意味不明な言動をするというわけではないけど、不思議なキャラクターではある。僅かな時間で散髪を強行するとか、そういうレベルで。
ただ、ばばろあも元からのキャラがより一層濃くなっている。人間、歳を重ねるとどんどん個性が強くなってしまうのだろう。独身だとなおさらだ。きっと僕自身も、以前と比べてクセが強くとっつきにくいキャラクターになっているに違いない。
あと20年もすれば、我々は「クソジジイどもの集まり」になっているのだろう。それはそれで、楽しみだ。
「お前、ええかげんにせえよ」「お前こそ人のことが言えるんか?」
なんてキャッキャと言いあいになるんだろうな、きっと。苦みばしったじゃれ合い。

19:30
ホテルから近い、ということもあり、中華街を見てまわることにした。
横浜中華街と比べて非常にこじんまりとしており、お店が面している通りは数本しかない。
何か良いお店があればここで夕ご飯にしてもいいね、という話はばばろあとしていたのだけど、そもそも全くあてにしていなかった。中華街で何を食べるんだ?麻婆豆腐とか野菜炒めとか?
もちろん、本格的な料理人が作るそれらの料理は、旨い。しかし、その技術料や食材費は高くつき、どうしてもお値段が「うわ!」と驚く状態になってしまう。四川料理店や湖南料理店といった若干特殊なジャンルのお店ならともかく、日本で一般的な広東料理店ならば・・・すまん、恥を承知で書く。「餃子の王将でいいじゃないか」、と。
特に我々ご一行、同じ出身高校とはいえ社会人になって早20年。財力の差というのは当然ある。「高いけどうまいもん喰おうぜ!」というのは、誰かがしんどい思いをする可能性がある。だから、「安いけれどもうまいもん」を探すのがみんなハッピーになる近道。
金銭感覚が近い会社の同僚とか、よく会う地元の友達というのとは違うのがアワレみ隊。結構、こういうところは気を遣わないといけないのが2017年のスタイルだ。

中華街に入ってすぐのところにあったお店。ソフトクリームを点灯で売っているのだけど、「ウェイパー味」のソフトクリームが売られていたので大笑いした。
「中華街一危険なご当地ソフト」だって。
どんな味がするのか、想像がつかない。いや、もちろんウェイパーの味なんだろうけど。
要するに、町の中華料理店で炒飯頼んだ時についてくる、スープの味がするってことだよな?それ、うまいのか?
だからこそ、値段のところに「挑戦料」と書いてある。旨いかどうかはお前が確認してみろ、というわけだ。やるなあ。
ちなみに初級で330円、上級で350円。
上級になると、ウェイパーの量が増えるってことか。なにそれ怖い。
いったんは通り過ぎたが、「あとでもう一度お店の前を通ったら、挑戦しよう」と思った。が、数分後にお店の前を通ったら、お店は閉まっていた。ありゃ、19時半閉店だったのか!

19:36
中華街の中にある、お土産物屋さん。
お菓子だけでなく、中華食材も扱っている。

店頭だけでなく店内にも山積みになっていた、「よりより」というお菓子。漢字で書くと「麻花巻」というらしい。

僕はこのお菓子のことを全く知らなかったのだけど、横浜中華街でも売っているらしい。しかし、本場は長崎で、長崎中華街定番のお菓子だという。
安くて量が多いので、職場に配るには最適だ・・・と思って買ってみた。後日職場で配ったら大好評だったし、僕自身食べてみたら「なにこれ!シンプルなのにうまい!」と驚いた。
この「よりより」、単に小麦粉とベーキングパウダーを捏ねて、紐状にしてねじって、それを揚げたものだ。ガチガチに硬く、歯が弱い人は歯が折れる危険がある。しかし、そんなよりよりをガリガリと食べると、かなりうまい。何でだろう、わざわざ通販したいくらいだ。
そんな傍らで、ばばろあは台湾の調味料「沙茶醤(さーちゃーじゃん)」を複数買い込んでいた。家で使うんだという。
「昔は凝った料理も作りおったけど、最近は面倒くさくなって。麺類、多いで」
と苦笑しながらばばろあが言う。麺類は汁物でもあり主食にもなるので、良いという。なるほどそういう考えがあったか。僕はほとんど自炊で麺類を食べないが、ちょっと試してみよう。

19:41
結局「これはいい」という決め手がなく、中華街をあとにした。下調べしていれば、ナイスなお店があったのかもしれない。でも、外見だけ見ても正直よくわからなかった。店頭にあるメニューを見るとビビるし。
横浜中華街は今やすっかり観光客向けになり、食べ放題のお店がやたらと存在する。しかも、2,980円食べ放題、くらいだったのが、過当競争に巻き込まれて「1,980円オーダーバイキング時間無制限」みたいな有様に。
もちろんそういうお店で、中華街ならではの高い技術と高級食材!というのは無理だ。腹一杯食べられるけど、味としてはバーミヤンと同等というお店もある。
昔の横浜中華街は、「折角観光で訪れたのに、高級店ばっかりでちょっと敷居が高い・・・せや!店頭の肉まんで済ませたろ!」という場所だった。その点、庶民でもちゃんとお店でご飯が食べられるようになったのは良かったと思う。
一方の長崎中華街は、悪い意味での俗化は進んでおらず、食べ放題!激安!といったお店は見当たらなかった。
ばばろあがホテルのフロントで夕食がとれるお店のお薦めを聞き込み調査していたので、そのお店を目指すことにする。
我々の宿泊地、ホテルマリンワールドが丘の上で光り輝いている。飲食店ビルだったときは一体どれだけ華やかだったんだろう、この建物。

19:45
長崎を侮ってはいかんな、と先ほどから驚きっぱなしだ。
いやー、繁華街が広い。繁華街、といってもドラッグストアとか携帯ショップとかそういうのではなく、飲食店街がズルズルと続く。バーやスナックのネオン街ではなく、一般的なお食事の店もかなり多い。
地方都市でここまで賑やかな繁華街ってどれほどあるのだろう。・・・あれ?全国各地を旅しているつもりになっていた僕だけど、「ご当地繁華街事情」ってのは全く疎いことに気がついた。旅行といって、山だったり温泉だったり、基本的に街中から遠ざかることしかしていないからだ。ましてや、スナックなんて僕には全く無縁だったし。

五島列島料理のお店。タイミングさえあっていれば、今日今頃は五島列島にいたかもしれない。
「あれ・・・?」
なんの気なしにメニューを見たら、鯨料理が書いてある。さっき、鯨料理専門店があったばかりなのに。しれっと稀少価値のある食材を投げ込んでくるんだな。
「長崎って鯨が有名で?」
「まじで?そうなの?知らなかった」
ばばろあから教えてもらって、初めて知った。道理で、あちこちで鯨料理がメニューにあるわけだ。
しかも、新発見だったのが、長崎は日本でもっとも鯨肉消費量が多い土地なんだそうだ。シーシェパードが聞いたら発狂しそうな場所だな。
調査捕鯨しかできない今でも、あちこちのお店で潤沢に鯨料理が提供されているというのはすごい。これは是非、長崎滞在中に鯨肉を食べなくては。

19:49
「思案橋」と呼ばれるエリアを歩く。
知らない町歩きというのは、本当に楽しい。
「あれっ、この時間でも個人商店が営業をやってるな?」と思って中を覗くと、酒屋さんだったりする。派手な形をした瓶のブランデーが並んでいて、恐らくスナックやパブといったお店に卸しているのだろう。
そういえば、スナックやバーでは、東日本はウイスキーを飲むのに対し、西日本になるに従ってブランデーを飲む比率が高くなるというデータがある。日本酒と焼酎の比率みたいに、洋酒でも日本の東西で差があるというのは面白い話だ。

19:50
ホテルのフロントで紹介してもらったお店、「雑魚屋」を発見。名前のとおり、長崎界隈の地魚を食べることができそうだ。ちゃんぽんとかトルコライス、卓袱料理といった長崎のグルメにも興味はあるが、今日はひとまず魚だ。昼間はクルーズをやったんだし。
あれっ、ここにも店頭に「くじらあります」の表示が。本当にくじらって、長崎では愛されているんだな。そして、観光客にとっても「折角長崎に来たんだから、鯨食べたいよな!」って思っているんだろうな。僕は全く知らなかったけれど。
いけすがあって、雑魚・・・とは思えない魚が泳いでいる。鯛だぞ、おい。また、「夜9時以降活魚割引」という看板も出ていて、おもしろい。えーと、時間はまだちょっと早いな、割引きには一足早かったか。
でも、ここならうまい魚が食べられそうだ。

19:55
「うひゃああああああああ」
端から聞いてて、大変に微笑ましいうめき声を上げて生ビールを煽るばばろあ。一方で蛋白質は瓶ビールを頼み、「うむ」と言いつつちびりちびりと。
なにせ今日はよく歩いた。オランダ坂、グラバー邸、軍艦島、そして出島から思案橋。その割に水分補給は少なかったので、そりゃあうまいに決まっている。
僕はノンアルコールビールをあおってご満悦。
でも残念なのが、ノンアルコールビールってお店で頼むと小瓶で出てくることが多いこと。大瓶を出してほしいし、ジョッキの生も出してほしい。業界全体、やる気が感じられん。そんなニーズがないからだとは思うけど、つくづく惜しい。

レギュラーメニューとは別に「本日のお魚情報」と書かれた紙をもらう。これが3枚に渡るんだから、かなり仕入れに拘っていることがわかる。いいねぇいいねえ、じゃあ上から順に。
やめなさい。食べきれるわけがない。そもそも値段を見ろ、3,000円超えなんてものもあるぞ。
さすが「雑魚屋」を標榜するだけある。聞き慣れないお魚だらけだ。
「あらかぶ」「三の字鯛」「キッコリ」「ユメカサゴ」「くちび鯛」「なべだい」・・・キッコリって、愛知万博かなにかのキャラクター名だったっけ?いや、それはモリゾーとキッコロだ。

とにかく何を頼んでいいのかさっぱりわからん。値段が4桁のものが結構あるし、ボリュームがどれくらいかもわからない。それ以前に、赤身なのか白身なのか黄身なのかさえわからん。いや、黄身は玉子のことだからさすがにこの中には入っていないと思うけど。
3人がかりでウンウン唸っていたら、店員さんがやってきて「すいません、メニュー間違えてました」といって3枚とも差し替えになってしまった。間違えて前日の「本日のお魚情報」を持ってきてしまったらしい。えっ、一から考え直しっすか。
それにしても「あおな」ってなんだろうねぇ。チンゲンサイみたいなものではなさそうだ、値段が値段だけに、やっぱりこれも魚なんだろうな。
ホウセキハタとかいうのも名前が気になるし、さてどうしたものか。

結局このあたりの「お値段3桁料理」っていうのが一番頼みやすい。量は少ないかもしれないけど、その分あれこれ注文ができるし、「分散投資」になる。大外れを引き当てても、他の料理でリカバーできる。

テーブルには、3種類の醤油差しがある。
「かけしょうゆ」「さしみしょうゆ」「ぽんず」。
ブブー、このうちの一つはウスターソースでしたー、なんてことはなさそうだ。
九州の醤油は甘いということで、関東の人間からしたら賛否両論ある。でも僕は甘い醤油も好きだ。北陸界隈も醤油が甘く、たまに食べるといいものだ。
えっと、で、このうちのどれが甘くてどれが甘くない醤油だ?あれ?両方とも甘い?

ここから先は、あれこれ注文した魚料理の数々を写真でプレイバック。
魚の名前は聞かないでくれ、覚えていない。



ざっこ海老の唐揚げは特に人気で、おかわりをしてしまったくらいだ。お値段は手頃(580円)だったし。

忘れちゃいけない、鯨カツ。730円。
「値段の割に結構ボリュームがあるね!」
と喜んだけど、本来なら鯨肉ってもっと安くて手軽に食べられたはずなんだけどね。まあ、「ワシらが子供の頃は学校給食で・・・」なんて話をすると辛気くさいので、これ以上鯨の思い出を語るのはやめておこう。
「鯨肉食べたっていいじゃないか!」という議論において、その半分以上が「子供の頃食べたノスタルジー」というセンチメンタリズムだと思う。食べられないなら食べられないで、別に生活に支障はない食べ物ではある。超絶旨い、という食べ物ではないし。
・・・とはいっても、久々に食べると旨いんだよなあ、これが。ひっさびさだよ、鯨肉。やっぱり油と相性がいいよな、揚げるととてもうまい。
たしか僕が直近で最後にたべた鯨肉って、「ツチクジラの陶板焼き」だったと思う。あれはあんまりおいしくなかった。「陶板焼き」って、僕にとっては今まで旨い料理に出会ったためしがない鬼門だ。

天ぷらとかも食べる。



卓上では、キリスト教談義が熱心に行われている。もっぱらばばろあと蛋白質の会話で、僕は聞き役に回っていた。

21:26
夕食中アワレみ隊。
蛋白質はすっかり遠藤周作に感化されてしまっていた。ことある度に「ああ!それは遠藤周作もこう言っててな」と引用しようとする。しかも、かばんから遠藤周作の本を取り出し、該当するページを開き、ばばろあに「ほら、ここを読んでみ?」と差し出す。しかも、何度となく。
それをばばろあは一瞥し、
「お前、ちゃんと自分の言葉で喋れ。遠藤周作が好きなら、100回読み返せ。まだその程度じゃ好きとは言えん」
と本を一瞥したのち、返していた。
「今のお前は自分の都合のええところを読んでるにすぎんで。体調がええとき、悪いとき、いろんなときに読んでいるうちに、この人が何を言いたかったんかホンマにわかるようになると思うんよ。遠藤周作が好きならそこまでやれ」
僕は中学高校時代、北杜夫(どくとるマンボウ)と遠藤周作(狐里庵先生)のエッセイが好きでよく読んでいた。日がな一日、やることがないので鼻毛を抜いて原稿用紙に貼り付けていたら編集者から怒られた、とかそんな話。なので、むしろ遠藤周作の硬派な小説というのはほとんど縁がなく、彼らの会話には突っ込んで入っていくことができなかった。

23:03
夕食の後半はばばろあオンステージ状態。彼が薫陶を受けた山本七平(イザヤ・ベンダサン)による日本人論にはじまって、自分の職場から見た日本の縮図とかいろいろな話がマシンガントーク。彼だったら2時間くらいの独演会は準備無しで余裕なのではないか?と思えるくらい、喋り倒していた。
そういえば「最近どう?」みたいな身近な話はあまりしなかったし、「最近どんなテレビ見た?」みたいな雑多な話もほとんどなかった。そのかわりに新約聖書と旧約聖書が、とかそんな話を延々とやっているのだからアワレみ隊は独特な世界だ。
ホテルに戻ってみると、大浴場は23時でクローズだということに気がついた。ありゃー。ついつい夕食で話し込んでしまった。
部屋から窓の外を見ると、夜景がとても美しかった。東京の夜景とは全く違う。山という立体感がある地形があるし、大きなマンションがゴツンと固まって明かりを放っているのではなく、中~小規模の建物が一つ一つ、ばらけながら明かりを放っているのが美しい。
しばらくこの光景にみとれてしまった。

しかし一方で、目の前の景色はあんまり喜ばしいものではない。
なんだこの浴衣は。
浴衣があるのはありがたいんだが、帯の長さが完璧に短い。
帯を一回腰に回しただけで、残りの長さがこれだけしかない。これだと、帯を固結びにするしかやりようがない。一般的な帯の結び方は無理。
なんでこんな短いのか、信じられない。というか、よくもまあこんな帯が市販されているものだ。売る方も売る方だが、宿の備品として備える方も備える方だ。
・・・だが、あとになってこのホテルが中華資本だということを知り、納得した。宿のオーナー、日本の浴衣について理解がなかったのだろう。「所詮腰紐でしょ?短くても縛ることができれば問題ないでしょ?」という発想なのかもしれない。
24時前に就寝。
2017年05月03日(水・祝) 2日目

07:40
アワレみ隊長崎ツアーの2日目。今朝は朝8時にホテルのフロントで集合という約束。
窓から長崎の朝を眺める。

08:05
朝ご飯をどこで食べるか問題があった。
いったん、ホテル目の前の中華街に行ってみることにした。ばばろあが「粥なんてやってる店、ないかねえ?」という。
多分ないだろうねえ、という話をしながら中華街を歩いてみたが、案の定やっていなかった。朝から営業しているお店自体が、ない。
これは規模が大きい横浜中華街も一緒で、あれだけの店舗数を誇る横浜中華街でさえ、朝食を提供するお店はごくごく僅かだ。観光客向けの場所でもあるので、そんなに朝早くからお客さんはやってこない、ということなのだろう。
もしこの中華街が駅前にあるならば、通勤途中のお客さん向けに中華粥のお店なんて流行るとは思うのだけど。

08:25
僕がネットで調べた、朝から「焼きカレー」を出す喫茶店を発見したのでそこを目指す。ちょうど長崎の観光地として名高い「眼鏡橋」の近くでもあったし、都合がよかった。
途中、商店街を歩いていく。
開店準備をしているお店のところに、「バイキング」という文字が見える。
ばばろあが店員さんに「バイキング・・・やってます?」とダメもとで聞いたら、「お昼なんですよ」と言われあっけなく轟沈。

08:27
それにしても長崎恐るべし。昨晩思案橋で飲食店の多さにびっくりしたけど、アーケード付きの商店街もかなり立派なものがある。こんなに栄えている場所だとは知らなかった。
「おい、ドトールあるで?」
ばばろあから報告が入る。つまり、「朝飯なんてドトールでええんじゃないか?」というお誘いだ。
「いや、折角だから」
と言い、当初目標のお店に向かう。何が折角だかさっぱりわからないけど。焼きカレーは長崎名物でもなんでもないのに。
ドトールとかプロントの横を通り過ぎていく。

08:29
「フレンチちゃんぽん」を出すフレンチレストランがあった。
シェフが「いらっしゃいませー」とポーズを決めている看板が印象的。
気になるフレンチちゃんぽん、1杯850円。フレンチレストランとしては安い。しかし一体どんな味なんだろう?写真を見ると、ムール貝が乗っかっている。さすがにこのお店は朝からやっているわけは・・・ないよな。この時間から営業していたら、予定を変更して入店していたかもしれない。

08:31
「結構歩くねえ」
地図で見ると目と鼻の先のような場所だけど、思ったよりも歩く。しかし商店街は途切れることなく、アーケードがなくなってからもまだ続く。本当にたいしたもんだ。坂が多い町なので住みやすいかどうかはわからないけど、住んでいて楽しい町だと思う。

08:33
朝ご飯のお店を選んだ立場上、なかなか到着しないことに軽く焦りを感じていた。
「あともう少しだよ、あと数分」
「ほら、次の交差点を曲がればもう到着だよ」
と仲間を励ましながら、前へと進む。結局、中華街あたりを彷徨ってから30分くらいかけて、お店に到着した。
お店の名前は、「茜屋」という。朝からやっている喫茶店だ。
朝から営業している飲食店をネットで探した際、チェーン店系のカフェやファストフード店を除くと、比較的近場だったのがここだった。単なる喫茶店だったらさほどワクワクしないけど、このお店は焼きカレーが売りだという。焼きカレー!それはちょっと惹かれる。
朝から焼きカレーが食べたいかどうかはともかく、そういう「おっ!?」と思えるものがメニューとしてあるなら、ぜひ訪れたいよな。というわけでこのお店へ。

ここまでやってきて営業していなかったらショックだが、ちゃんと営業していたので安心した。店頭にはメニューがいっぱい。さて、何を食べようか。焼きカレーといってもいろいろな種類があるので、悩ましい。

店内はさほど広くなく、客は我々だけ。

最近、ノマドワーカーが跋扈する系のカフェばっかり行っているので、こういう「喫茶店!」というのは本当に久しぶりだ。狭い空間に情報量が豊富なので、ついソワソワして周囲を見渡してしまう。
モーニングは2種類。500円または600円。
何が違うのかとおもったら、Aセットだと目玉焼きがついて、Bセットだとスクランブルエッグなのだという。それ以外は一緒。スクランブルエッグのほうが100円安い、という値付けがおもしろい。

お得なモーニングも気になるけど、やはりここまで来たからには焼きカレーを頼まなくちゃ。
全メニュー、「小」「中」「大」の3サイズ用意されていて、そのときの腹減りっぷりにあわせて加減ができる。さあて、何をどれだけ食べてやろうか。

「ありゃ!」
メニューを裏返すと、クリームシチューもあることが判明。焼シチューだってあるぞ。
まいったなあ、朝だし、シチューとトーストの組み合わせってのいいなあ。
迷ってしまって困るので、これは見なかったことにしよう。

お店の壁面には漫画がびっしり。
久しぶりにこういうのを見た。それにしても、この手のお店に置いてある漫画というのはどこも似ている気がする。

蛋白質が頼んだ朝ご飯、Bセット500円。
コーヒーではなく牛乳。

ばばろあが頼んだスタンダードな焼きカレー。

僕が頼んだのは、春限定だという新たまねぎとトマトの焼きカレー(中)。
朝からカレーを食べたら、随分と体が温まって気力が湧いた。
そういえば、「腸は第二の脳だ」と言われるようになって久しいけど、腸を温めると鬱が治るという説を誰かが唱えていたっけ。で、腸を温めるにはスパイスが入ったカレーが最適とかなんとか。本当かよ。
真偽のほどはともかく、朝からカレーを食べて、「よっしゃ、今日も一日活動するぞ!」という気力がみなぎったのは間違いない。おいしい朝ご飯だった。さて、今日も頑張ろう。

09:17
時刻は既に9時を回っている。さすがに焼きカレーを朝食として選ぶと、調理にも食べることにも時間がかかる。とはいえ、未だにこの時点で「今日何をやる?」ということが全然決まっていない有様で、どうにでもなるだろう。
ひとまず、浦上天主堂に行く、ということだけは決まっている。それだけ。
ホテル前に駐車してある車をピックアップするため、いったんホテルまで戻る。
その道中、昆布屋があり、興味津々のばばろあ。

09:18
「眼鏡橋に行く前に、ここは寄らせてや」
とばばろあが熱望したのが、日之出饅頭店。木枠のショーウィンドウが目に付く、古い感じの和菓子屋だ。先ほどこのお店の横を通り過ぎた際、ばばろあが
「うおお、この店多分うまいで。あとで試してみんと」
と直感で感じ取っていた。ショーウィンドーのすぐ奥で、お菓子制作の作業中。職人さんの働きっぷりを見ると、購買意欲がかき立てられる。
しかし、その制作中のお菓子・・・らしきもの・・・が、なにやら見たことがない物体だ。豚の角煮かと思ったけど違う。コンニャク?いや、まさか。
ばばろあが、「あくまき」という食べ物だ、と教えてくれた。何それ?知らない。見たことも聞いたこともない。
九州地方、特に九州の南方面で端午の節句で食べられるお菓子だ、と教えてくれたが、一体何だありゃ?ぶるん、とした形で、しまりがあるようなないような。遠目でしか見ていないので、正体がよくわからなかった。初めて見る物体だったので、うまそうには見えなかった。
完成品は店頭のショーケースにも並べられていたけど、ガーゼのような白くて薄い布にくるまれ、両端を縛られ、とにかく怪しい外観だった。面白いお菓子があるものだねえ。
あとで調べたら、もち米を灰汁(あく)で炊いたものなのだそうだ。へええええ!だからあくまき、なんだ!

さすがに大きなあくまきは購入しなかったけど、とても値段が安いのでばばろあに釣られて僕も饅頭を購入した。かしわ餅70円、温泉饅頭のような茶色い饅頭60円。
眼鏡橋がかかる川に出て、橋の上で饅頭を食べる。ばばろあ、絶賛。
「あんこが旨いねえ。こういうあんこがええんよ、最近なかなかないけえね、こういうの。もっとありゃええのに。なんでないんじゃろうねえ」

09:22
眼鏡橋のちょっと上流にある橋。こっちも石橋なんだな。立派。

09:23
そしてここが眼鏡橋。
先ほどの日之出饅頭店からすぐ近くなので、饅頭食べながら眼鏡橋観光をするにはうってつけだ。
橋のたもとでは、若い女性たちが写真撮影に余念がない。一人が橋の上に立ち、のこりの仲間が橋の下から写真を撮っている。橋の上の人はジャンプしたり大はしゃぎ。いいねえ、楽しそうで。
一方我々アワレみ隊の記念撮影はたるんどるな。もっと彼女達を見習って、躍動感ある写真を撮らないと。観光地でキヲツケのポーズで写真を撮るなんて、団塊世代とやっていることが一緒だ。せいぜい、真面目な顔ではなく笑顔になった分、団塊⇒団塊ジュニアへの進歩が見られるけど。
しかし今こうやって目の前に展開されている、「躍動感ある記念撮影」というのとは次元が違いすぎる。僕らも、もっと跳んだり跳ねたりしなくちゃ。写真がブレるくらいに。

と、言ってるそばから記念撮影がこれだ。みよ、これが団塊ジュニアの現実だ!!
この写真は三脚の先にカメラを取り付け、カメラのチルト式液晶画面をこちらに向け、セルフタイマーで撮影したものだ。自撮り棒方式なのだが、なにせカメラと自分たちとの間で距離が短い。カップルや女の子同士なら、密着することでなんとか写ることができるけど、いい歳をした男同士それはイヤだ。適度な距離をお互い確保しながら写真撮影・・・となると、いくら広角24mmレンズであってもこれが限界だった。「イヤッホウ!」と躍動感ある動きをした瞬間に、誰かが写らなくなる。

09:29
眼鏡橋からホテルに戻る途中、小さな古美術屋があった。ばばろあが
「すまん、ちょっとだけ中を見させてくれ」
という。まだ開店準備中だったお店だけど、店員さんに許可を取って中へと入っていった。中には伊万里などの皿が置いてあったようだ。
しばらくしてばばろあが戻って来た。
「何か戦利品、あったか?」
「特にはなかった」
相変わらず彼はこういう骨董品が好きなのだな。以前、アワレみ隊で長野の蕎麦食べ歩きをやった際、蕎麦屋に置いてあった陶器の一輪挿しがどうしても欲しくなり、店主に頼み込んで売ってもらった・・・という逸話がある男だ。

「そういえば、あのときの一輪挿しはどうなった?」
「今思うとね、なんであんなん欲しかったんじゃろ?と思うわ。頼み込んで譲ってもらった手前申し訳ないので、お店に返しにいこうかと思ったくらいで」
あらら、そうなのか。
そういえば彼はオークションで、毒ガスマスクを蒐集するという趣味もあったっけ。それはどうなった?
「引っ越しの際に随分整理した」
あれっ、そうなのか。一時、ばばろあといえば毒ガスマスクというくらい、特殊な趣味の持ち主だったのに。
「かさばるんよ、あれ。使い道ないし」
まあ、そりゃそうだ。ゴムの部分が乾燥したり劣化してひび割れるので、真空パック状態にして保存しないといけないらしいし、案外デリケートなものだと聞いている。

09:34
アーケードがある商店街に戻ると、頭上に大きく「質屋という選択」という看板が。
なるほど!そういう選択肢があったか!
全く思いつかなかったぜ。お金に困ったら、質屋という選択を思いだそう!
金券ショップとかメルカリとかオークションとか、そっちばかり目に付くけど、そういえば質屋ってあったよね、と今頃になって思い出した。それくらい、今やすっかり存在を忘れ気味の位置づけ。・・・でも、質屋に入れるものなんてないぞ?

10:04
浦上天主堂を目指す。
教会には駐車場がない、ということだったので、駐車場手前のコインパーキングを見つけて駐車。
このコインパーキング、60分200円なのだが、一番奥のスペースだけ半額の60分100円になっていた。壁際で駐車が若干難しくなるのと、隣の敷地から木が突き出ていて邪魔だからだろう。敷地内の場所によって値段が違うコインパーキングなんて、初めて見た。

10:09
カトリック浦上教会。浦上天主堂ともいう。「うらがみ」と呼ぶのかとおもったら、「うらかみ」なんだな。気がつかないで、旅行中ずっと「うらがみ」と呼んでいた。
それ以前に、「大浦天主堂」と「浦上天主堂」、どっちがどっちか混乱してしまい、しばしば間違えた。両方とも「浦」が付く名前なので、間違えやすい。
教会はとても巨大で、ちょっとした丘の上に建っている。浦上教会へ通じる道はこの教会の正面からまっすぐ突き当たるのだけど、建物を目の当たりにした時は思わず3人とも「うおっ!」と声を上げてしまったくらいだ。それくらい、インパクトがある荘厳な建物。そして驚いたあとに笑ってしまい、「すげえなあ」と嘆息する。
原爆が投下された場所から近いのだけど、我々は原爆関連施設には立ち寄らなかった。

教会の入口に、「長崎大司教区 司教座聖堂」という表札が出ている。つまりこの界隈を管轄する中心地だ、ということだ。いわゆる「カテドラル」にあたる。
以前は大浦天主堂がその役割を果たしてたそうだが、戦後こちらに移っている。そういえばこの建物周辺には、大きな「カトリックセンター」や「大司教館」といった建物が並んでいる。地図を確認すると、さらに周囲には神学院が複数あり、周辺施設を含めるとかなり大規模なキリスト教村を構成していることがわかる。
さすが、「信徒発見」の15信徒の出身地だ。ある意味、日本における近代キリスト教の総本山的な位置づけなのかもしれない。

10:10
教会見学のマナーについて、という掲示がある。
教会内では静粛にしないといけないのは当然として、写真撮影も禁止されている。

10:11
イエス・キリストを抱いたマリア様がお出迎え。
目の前にある建物は信徒会館だろうか?

浦上教会。
こんな巨大な教会が日本にもあるのか!と驚かずにはいられない規模感。聞くと、信徒数7,000人を誇り日本最大規模なのだという。7,000人!?どうするんだ、日曜日のミサはいくら教会が大きくても人が溢れてしまうぞ。
いやご安心ください、ミサは土曜日19:00、日曜6:00、7:30、9:30、18:30の計5回やっとりますので。
へえー。
ミサというのは「日曜日の朝、一回だけ」だと思っていた。蛋白質は、「午後に外国人向けの英語ミサがあって、それにも出ることがあるので一日2回ミサに出ることもあるよ」と言っていたけど、この教会は日曜日だけで4回も開催されるのか。これだったら、「土日は旅行や所要でミサに出られなくって」という人でも安心だ。

10:13
昨日の軍艦島に引き続き、神妙な顔付きになっている蛋白質。
僕とばばろあは「観光地に来ました」というスタンスだけど、彼は自分の信仰に基づいてこの地に足を踏み入れている。真剣だ。

10:24
中に入らせてもらう。
ここは観光地として有名ということもあり、聖堂入り口には受付の人がいた。
一般の観光客は、参列者席の最後尾からしか見学ができないのだけど、信徒であれば中に入ることができるという。蛋白質は、受付の人に「○○教会から来ました、蛋白質です!」と元気よく告げ、キリスト教徒の証?らしいペンダントのようなものを見せ、中に入らせてもらっていた。
観光客向けのところには、神社のお賽銭箱のようなものが置いてあり、拝観料のかわりに献金をすることになっている。圧倒的規模感の建物に驚きつつ、少額ながら献金をした。
この建物は、原爆投下時に廃墟となってしまったのだが、その後再建され今に至っている。総レンガ造りで再建するわけにはいかないので、鉄筋コンクリートで作り、レンガパネルを表面に貼った作りになっているそうだ。
廃墟をそのまま保存していれば、広島の原爆ドーム同様に原爆投下のシンボルとして平和教育や観光資源の素材になったのに・・・と惜しむ声もあるそうだが、この地に「活きた」教会を建てることは過去の歴史からみても必須、という教会側の意向も踏まえ、瓦礫を撤去して再建の道を選んだそうだ。

10:55
遠藤周作文学館に向かう前に、稲佐山に行ってみることにした。
稲佐山に通じる道はぐいぐいと標高を上げていく。道中ホテルがあちこちにあり、よくもまあこんな急斜面にホテルを作るものだ・・・と呆れるが、展望がとても良いので旅館業としてはやりやすいのだろう。
途中、駐車場の分岐があった。
「稲佐山公園」の駐車場は無料、「稲佐山展望台」の駐車場は有料と書いてある。
もちろん無料の方がいいけど、僕らが行きたいのは展望台だ。「公園」から「展望台」までは結構歩くのだろうか?
えーい、と有料のほうを選んでみたら、30分100円だった。あ、安い。こっちを選んで正解だった。ただし、展望台の駐車場は40台しか駐車できない。数に限りがあるので、ピーク時は利用できないと思う。
展望台には、円筒形の茶筒のような建物が建っていた。

11:12
展望台の上から長崎を360度眺める。いやあ、いい景色だ。
ばばろあが、
「あの山の上に高射砲があって、それからこっちと、そっちにもあって」
と一つ一つ解説する。
「全部行ったんか?」
と聞いたら、行ったという。(「全部」だったか、「だいたい」だったかは覚えていないけど)
今は行かないの?と聞くと、「もうこの時期はダメじゃ。藪が茂っとる。勝負は草が生えるまでの秋から冬にかけて」と言う。
砲台跡というのは山の上にあるものだ。そしてまだ「その当時の痕跡が残っている砲台跡」というのは、宅地造成などで破壊されていない場所だ。となると当然、そこまで辿り着こうとすると藪漕ぎが必須となる。地図とコンパス、そして取り寄せた航空写真などをもとに道なき道をよじ登るのだからスゲーワイルドだ。百名山登山が趣味です、なんて言ってる僕なんかよりよっぽど強靱だし、タフなヤツだ。整備された登山道しか歩かない僕はヒヨッコに過ぎない。

「しかし、長崎を取り囲むように砲台があったのに、結局原爆投下は防げなかったんだね」
と水を向けたら、絶好調のばばろあは、さらに熱く語り続ける。
「高射砲なんて役に立たなかった、全然B29には当たらなかったと証言する当時の人がいるけれど、それは違う」
なんて話だけで数分。そこから当時の米軍の爆弾の話が数分、と続いていく。いやー、本当によく研究している。ライフワークじゃないか。
「そこまで調べているなら、本でも出してその知見を後世に遺したほうがいいんじゃないか?」
と聞いたら、
「砲台好き、というジャンルの趣味の人がどれだけおると思っとるんや?おらんで、そんなヤツ」
と言われた。なるほど確かにそうだ。あと、ばばろあが言うには、上にには上がいて、アメリカの公文書図書館にまで行って戦時中の資料を探すような人がいるそうだ。そういう人にはかなわん、と。
いずれ、「マツコの知らない世界」みたいにマニアが紹介される番組にお呼びがかかるんじゃないか?と思うが、戦争がらみでデリケートな内容にテレビ局が慎重になるだろうから、実現は難しいか。

11:04
「おっ、ここにも双眼鏡があるぞ!」
またもや喜びいさんだ蛋白質、財布から100円玉を取り出して早速投入していた。
ただ今、なんとかして大浦天主堂を発見しようとして苦戦中。
裸眼の我々はすぐに発見できるけど、超望遠の双眼鏡越しの蛋白質はみつけるのが大変。「ほら、アレが見えるだろ、あの右」「アレってなんだよ」という押し問答が繰り返される

ジャイアント・カンチレバークレーンを見下ろす。

「あれっ、豪華客船がいなくなってるぞ」
三菱重工長崎造船所・香焼工場に昨日はいたはずの豪華客船が姿を消していた。今朝、無事にスペインに向けて出港したらしい。我々が見ることができたのは本当に運が良かった。
「まさか、沈んでないよな?」
やめろ縁起が悪い。あれが沈んだら、損害が一体何千億円になるというんだ。

遙か沖合いを見ると、橋の向こう側に高島が見える。
高島の左側に小さな島が二つ並んで見えるけど、その手前が中之島、奥が軍艦島(端島)。かろうじて軍艦島も見ることができた。
さすがにここからだと軍艦っぽくはみえない。しかし、「言われてみればなんとなくカクカクしたシルエットかもしれない・・・?」くらいには見える。
まだ鉱山として営業していたころ、高島にしろ軍艦島にしろ、夜な夜な煌々と明かりが灯っていたのだろう。そのときの光景を見てみたかったな。

展望台から海沿いをぐるっと見渡していると、「なんだこりゃ?」という光景に出くわした。
別に変な建物ではない。マンションだ。ただし、やたらとデカイ上に数が多い。折りたたまれた屏風のように、並んでいる。
長崎市街からちょっと離れた場所で、通勤通学が決して便利な場所ではなさそうだ。それなのに急にあれだけのマンション群がそびえるというのはびっくりだ。
双眼鏡を熱心に眺めていた蛋白質に、あのマンションはなにものなのかを見てもらったが、「単なるマンションにしか見えん」ということだった。謎だ。
ただし、あらためて地図で確認してみると、バスに乗っていけば長崎市街まで遠いというわけではなさそうだ。あと、三菱の造船所に勤務している人にとっては、職場の裏手にあたる場所がこのマンションだ。ちょうど通勤に都合がよいのかもしれない。
稲佐山展望台をあとにしたアワレみ隊一同は、そのまま外海と呼ばれる長崎の沿岸部を北上していく。
今日はこのあとシーサイドドライブを続けていくだけだ。
途中遠藤周作文学館に立ち寄り、夕方までに池島行きの船が出ている瀬戸港に着けばいい。
遠藤周作文学館は、ちょうど長崎市街から瀬戸港に向かう中間地点くらいにある。
そして、瀬戸港はここ。
今晩のお宿、そして明日の炭鉱見学をする池島はここにある。ハデさでいえば軍艦島の方が上だけど、ここも以前から注目していた島。
日本で最後まで続いた炭鉱、ということで閉山してからの年月が他の鉱山跡と比べて浅い。なので、「現在と過去」をリアルタイムで見ることができるはずだ。
池島に行くには、前述の瀬戸港の他に、神浦港という場所もある。瀬戸港と比べて遠藤周作文学館寄りの場所にあるので、一見こちらの方が便利だ。しかし、一般的な池島の表玄関は瀬戸港という位置づけらしい。
ばばろあも、瀬戸港発着を前提に旅の計画を立てていた。しかし、このあと万が一予定が狂った場合、手前の神浦港発の船を使うことも想定しておかないといけない。
とはいえ、池島では明朝に炭鉱見学ツアーに申し込んである。なので、昼過ぎまでは池島に滞在する予定だ。無理に今日、池島を見て回る必要はない。焦らずに前へ進もう。
ばばろあはこのあたりで昼飯と食材の買い出しを想定していた。地図を見るとなにやら立派な埋め立て地がある。どうやら、長崎漁港がここにあるらしい。
お昼ご飯はともかく、なぜ「買い出し」が必要なのかというと、今晩の宿は素泊まりだからだ。メシ代を省いたというのではなく、素泊まりしかやっていない宿だからだ。「池島中央会館」と呼ばれる施設で、合宿所みたいな建物だ。島にはここしか宿泊場所がない。
島には僅かに食事がとれるお店もあるのだけど、閉店までに間に合うかどうかわからないし、営業しているかどうかも怪しい。何しろ、軍艦島同様炭鉱の島だったわけで、今や島のほとんどが廃墟になっていると聞いている。いつ「廃業しました」になっていてもおかしくはない。
というわけで、買い出しができる場所で買い出しを、というわけだ。
「大丈夫かね、魚とか買って腐らんかね?」
買い出し場所が宿まで遠いことを気にするばばろあだけど、クーラーバッグに氷をしこたまつめて持って行けば大丈夫だろう。あとは気合いだ。刺身を買うなら、刺身そのものも、俺たちも気合いだ。

12:08
魚市場のあたりをあてもなく走っていたら、なにやら「長崎水産食堂」という看板を発見した。渡りに船だ、ちょうどよさそうなお店があるじゃないか。
「観光客様大歓迎」と書いてあるし、今まさに営業中っぽいのぼりも立っている。GW中だけど営業してくれているとはありがたい。文句なし、即決で本日のお昼はここに決定。

水産食堂は朝6時から14時までの営業。さすが魚市場の食堂だけある。夕方はやっていない。
あと、魚はすぐ隣の魚市場で仕入れているので、魚市場がやっていない日は休業とのこと。
ということは、今日も魚市場、開いていたんだ?連休中、どうもありがとう漁師さん、市場関係のみなさん。
だったら容赦はいらねぇ、食べるぞ-。
ついさっき焼きカレーを食べたばっかりだけど。「どんどん時間が後ろにずれていく」アワレみ隊だけど、今日のお昼は違う。12時にお店に入るなんて珍しいことがあるものだ。

メニューは大まかにいうと、「刺身定食」「海鮮丼」「煮魚定食」といったところ。

ほかにももちろん丼ものとか麺類、定食類も取りそろっている。
しかしなんといっても観光客としては、魚料理が食べたいところだ。となると、先ほどの3種類の中から選ぶことになる。
刺身定食は900円。ただしいろいろオプションがあって、「特大アサリ味噌汁付」だと+300円、「鯛のあら汁付」も+300円、「甘鯛のから揚げ付」で+500円となっていた。
チクショウ、良い提案だぜ。ついついオプションを付けたくなってしまう。

店内には、大皿おかずコーナーもあるのが変わっている。
食べたい料理をテイクアウトにしてもいいし、その場で食べてもかまわない。テイクアウトにする際は、パックを用意してくれる。

扱っているおかず類。
魚が多く、焼いたり煮たり揚げたり様々。ハンバーグといった肉類もあるぞ。
ちょうどいい、今晩のおかずをここで買っていくのはアリだな。

あっ、くじらカツ発見。
本当に長崎では愛されているんだな、くじらカツって。
「それにしても不思議だな、僕らって子供の頃食べたのは決まって『鯨の竜田揚げ』だっただろ?鯨のカツなんて食べた記憶がないんだが」
むしろ長崎では、竜田揚げよりもカツの方がメジャーな食べ物っぽい雰囲気だ。
食べた限り、ビールのつまみとしてはカツのほうが向いていると思った。どうしても竜田揚げはしっとりするし、できが悪いと粉っぽさも感じるから。
というわけで、おかずの追加一品としてくじらカツをガリガリと食べ、うまかったものだから今晩のおかず用にも買い求めた。なんだ、くじらってすごくうまいじゃないか。再発見だ。

蛋白質の頼んだ料理。煮魚定食750円。本日の煮魚はサバだった。味噌煮ではなく、照り焼きにしてある。

一方僕がつい「うっかり」頼んでしまった、刺身定食に甘鯛のから揚げ付、1,400円。甘鯛がオプションでつくの?しかも唐揚げで?どんな料理だろう?と思って頼んでみたらこんな状態に。
本丸のはずの刺身より目立つぞ、甘鯛。
そうかそうきたか、丸ごと一匹、揚げたんだな。切り身かと思っていたので「うおっ」と思わず声をあげてしまった。
甘鯛といえばグジとも呼ばれる高級魚。若狭湾など日本海側で穫れる魚だと思っていたけど、長崎県でコンニチハ。
味は淡泊で水っぽさもあるけど、うまみがしっかりあっていい。

甘鯛に気を取られてしまったが、刺身定食の本丸はこれ。
7種類もの刺身が載って、900円なのだからさすが安い。ありがてぇありがてぇ。ご飯が1杯では足りないくらいだ。

オプションという名の魔力に引きずり込まれ、刺身定食に特大アサリの味噌汁を付けたばばろあ。大げさなお椀に入った味噌汁をすすり、「あああ」と声を上げる。
店内の掲示によると、
当店の料理は俳優山下真司さん・料理名人服部幸應先生・料理達人道場六三郎先生等ご来店され 絶賛を頂きました。
だそうで。なんでいきなり俳優の山下真司さんが?と思ったが、ああそうか、「食いしん坊!万歳」だ。

12:53
長崎水産食堂の向かいに、都合がよいことにスーパーがある。
「おっ、サティがあるじゃないか!ここで買い物していこうぜ」
後で写真を見て気がついたが、このお店「サティ」じゃなくて「ステイ」なんだな。道理で変だと思ったんだ、サティって赤い看板だったはずだから。
ここでパックもののお総菜や刺身、そしてビールなどの飲み物も買う。
「あれ?お前らご飯もの喰わんの?」
僕以外、ご飯パックを買おうとしないので聞いてみたら、二人とも「いらん」という。酒飲みだからだろうか。
「最近小食になってね、あんまり入らんのよ」
ばばろあが苦笑しながら説明してくれる。もともと彼は昔から大食漢ではなく、「うまいもんを少量ずつ喰えればそれでええ」という人だった。
「蛋白質は?ご飯いらんの?」
「なくていいかな」
彼は今日は、「ノンアルコールワイン」を店頭で発見したのが嬉しかったらしく、それを買っていた。
「ホンモノのワイン、買えばいいのに」
「いや、むしろこういう時じゃなきゃノンアルコールのワインなんて飲まんじゃろ?」
確かにそうかもしれない。居酒屋で「じゃあボクはノンアルコールワインで」とは頼まないだろうし、一人で家で飲みたい気分、という時に買うものでもない。「どんな味がするんだろうねえ」と仲間でワイワイ言いながら飲んだ方が楽しいだろう。
一方のおかでんは、ノンアルコールビールを買っておく。ノンアルコールビールも飲むけど、シメでご飯も食べる。
おっと忘れてはいけない、明日の朝ご飯も買っておかなければ。菓子パンがワゴンセールになっていたので、そこから見慣れない菓子パンを見繕っておいた。

13:37
買った食材の重さよりも、もらった氷の方が重いんじゃないか?というくらいクーラーバッグに氷を入れてお店を後にした。
次に向かったのは、カトリック黒崎教会。
遠藤周作文学館のすぐ手前にある、国道202号線沿いにある教会だ。
このあたりは「外海(そとめ)」と呼ばれるエリアで、一つ一つは小さいけれど味わい深い教会があちこちにある・・・はずだ。以前取り寄せた「五島巡礼手帳」さえあれば、全ての教会が紹介されているのだけど、あいにく今回の旅では持参しそびれた。かえすがえす、惜しい。
ばばろあが池島に行く時間を気にする。しかし、「通り沿いだから、すぐに終わるよ」といい、立ちよってもらうことにした。
肝心のクリスチャンである蛋白質はぼんやりしていて、「行けるなら行きたいねえ」程度のスタンス。むしろ僕が一番教会巡りをやりたがっている構図になっている。
それもこれも、巡礼手帳などを見て、教会の美しさに感化されたのと、なんといっても「スタンプラリー的要素」をそこに見いだしたからだ。

13:39
黒崎教会は丘の上に建っているので、国道202号線からははっきりと見えない。車を降り、坂を登ってみるとそこにはレンガ造りの教会があった。
「おお・・・」
思わず息をのむ美しさ。今日が晴れている、というのも良かった。
正面にはマリア様がお出迎え。黒崎教会のマリア像は、青いケープのようなものをまとっている。蛋白質は、まるでアイドルの追っかけカメラ小僧のようになって、このマリア様を激写していた。かなり自分の中でグッとくるものがあったらしい。あとで、「この写真、いいだろ?」と自分なりのベストショットを見せてくれた。確かにいい写真だった。
この教会には下駄箱がある。そういえば、教会によって「土足のままであがってよし」とするところと、「靴を脱いでお上がり下さい」というところに分かれている。もちろん西洋渡来のキリスト教なのだから、教会というのは土足が当たり前だろう。しかし日本に根付いた際、靴を脱ぐという考え方が混じったらしい。こういうのも、微妙に和洋折衷で面白い。

黒崎教会から海を眺めたところ。
この黒崎界隈が、遠藤周作の名著「沈黙」の舞台となったところ。蛋白質は感慨深そうに・・・というより、物憂げな顔でこの海を眺めている。
「今はこれだけ美しい海なのに、一昔前は弾圧があって多くの人が苦しめられたなんて・・・」
ばばろあと僕は、「お、おう」としか言えなかった。「そんな昔の話、今更気に病んでも」とかいうのは無粋というか、彼の信仰に対して失礼だ。彼にとって今回の旅は、自分と同じ信仰を持った人たちが昔ここにいた、ということに思いを馳せる意味がある。だから、我々がとやかく言う話じゃない。
一方のばばろあはというと、すっかりかすんでいる空を見ながら
「これ全部PM2.5なんで?本当ならもっとすっきり晴れとるはずなのに。みてみい、東の空の方が青いじゃろ。西にいけばいくほど白くかすむ。ええ加減にしてくれや、って思うでホンマ」
と大陸に対して抗議していた。

14:00
遠藤周作文学館到着。
黒崎教会とは目と鼻の先、岬の付け根に遠藤周作文学館はある。
現地付近は駐車場に入ろうとする車で渋滞ができていた。うそ!?そんなに大人気なの?信じられないのだが・・・。
唖然とする車中アワレみ隊ご一行様。
駐車場に誘導しているおっちゃんに聞いてみたら、ここは道の駅「夕陽が丘そとめ」であり、遠藤周作文学館はその奥にある、ということだった。
かといって、道の駅の併設施設というわけではなく、場所は独立している。
我々は道の駅の脇をすり抜け、遠藤周作文学館へと向かった。

「超巨大な建物だったらどうする?見るのに1時間じゃきかないくらいデカかったら、きりがなくなるよな」
と蛋白質には悪いが若干そういうのを気にしていたが、さすがにさほど広くはないようだった。館内図を見ると、右側の青色の部屋2室のみが展示室らしい。
さすがに作家さんの展示ともなると、展示できるものには限りがある。「直筆原稿」「執筆に使っていた机」「執筆にに使っていた部屋を再現」「好んで来ていた服」といったものが定番か。画家とはその点違う。

14:02
料金を払って、いざ館内へ。
「沈黙」の企画展開催中ということで、小説「沈黙」における登場人物の分析などが細かく図解されていた。なるほど、これさえ読めば原作を読まなくても大丈夫!というくらいだ。小学生の「読後感想文」ネタに困った時にはぜひここに・・・と思ったが、小学生にこの小説を理解させるのは無理だ。

遠藤周作文学館からちょっと先に行ったところに、「出津(しす)文化村」というエリアがあるらしい。教会があったり、明治時代、外国から派遣された神父さんが作った授産施設があったりするようだ。
なんとなくは事前知識として持っていたけど、あらためてこうやって地図をみるとがぜん興味が出てきた。船の時間を考えるとそろろそヤバいんだが、なんとか立ち寄っちゃおう。

「14時30分でいったん集合な?それでまだ見たりないとお前が思うんじゃったら、延長でええけえ。いったん14時30分ということで。それでどうするか決めよう」
「わかった」
ばばろあと蛋白質が話し合い、館内見学は30分間ということになった。
結果的に30分あれば一通り見て回ることはでき、我々は建物を出た。
そこには広い展望台があり、外海の海が一望できた。

14:38
遠藤周作文学館がある丘から北側を見ると、山の中腹に教会の鐘楼が見える。その近くには老人ホームにしてはやけに洋風な建物も見える(あとで調べたら、「聖マルコ園」というキリスト教系老人ホームだった)。どうやらあの界隈が「出津文化村」と呼ばれるエリアらしい。
今日、どれくらい時間の余裕があるかわからなかったのでここに立ち寄ることは想定していなかった。でもこうやって間近にあるのを見てしまうと、がぜん気になる。洗濯洗剤のCMに出てくるかのような、真っ白な色をした教会もとても気になる。
ちょっとだけ、ちょーっとだけ立ち寄ってみようか?
ほら、遠藤周作文学館とは目と鼻の先。車で数分の距離だ。
遠藤周作「沈黙」の碑もあるらしい。それだったら、「沈黙」好きな蛋白質にとってもぜひ立ち寄りたいだろう。
「船の時間、大丈夫かね?」
ばばろあが気にする。
「まあ、なんとかなるでしょ。もしダメなら瀬戸港ではなく神浦港という手もあるし」
「ほんまに大丈夫なんか?今日は神浦から行けても、明日池島から戻ってくるときに瀬戸港行きの船だったら面倒で?瀬戸からタクシーかバスかで神浦港に戻ってこんといかん」
「たぶん大丈夫だと思うんだよな、一応、便はある」
島に渡るとなると、薄いダイヤを常に意識しないといけない。タイミングがあわないと、ひたすら島に閉じ込められることになる。池島は今でこそ島民が激減してしまったけど、まだ2つの港から船はやってくるし便数もそれなりにある。
明日は池島から戻ってきたら、その足ですぐに嬉野温泉に移動する予定になっている。諫早湾の反対側なので、 ぐるっと湾を回り込むために移動時間は長い。なので、港の選択を誤ってモタモタしたくない、というのはばばろあも僕も共通認識だった。
「でもまあ、なんとかなるでしょ」
結局結論は、そういう曖昧な表現で片付いた。

14:39
一方の蛋白質はというと、カメラを抱えて物憂げな表情。小説「沈黙」はキリスト教弾圧の実話をベースとした話であり、まさにこの界隈での数百年前の出来事だ。「当時の隠れキリシタンは何を思ってこの景色を眺めていたのだろう」ということに思いを馳せていたのだろう。
この写真を見た蛋白質いわく、「久々に自分のベストショットだ」という。「ありがとう、こういう写真を撮ってくれて」と感謝までされた。
そういえば、彼から「ベストショットだ」と誉められたことは過去にも1回あってとても印象に残っている。アワレみ隊の第一回天幕合宿として神島に行ったときのものだ。


あれから24年。もう四半世紀も経つのか!!
24年前は三重県の離島を目指し、そして今回は長崎県の離島を目指す。相変わらず同じ事を続けていて、むしろうれしい。

14:50
結局出津文化村にやってきた。
出津は小さな漁港がある小さな集落だ。地図でざっと見ると、先ほど見えた白い教会のほかにもうひとつ別の教会があるらしい。しかも修道会が2つもある。
こんな田舎なのに!と驚いてしまう。田舎だからこそ、なのだろうか。
キリスト教という異文化が、こんな純・日本な田舎風景の中に溶け込んでいる、というのが信じられない。お寺のほうが似合っている光景だ。しかもキリシタンは長年弾圧を受けてきたのに。
「弾圧なんてぜんぜんザルで、運悪く見つかった人だけがひどい目にあったけどほとんどノーチェックだったんじゃないか?」
なんて、当時のクリスチャンに大変失礼なことを考えてしまうくらい、平凡な光景がここにはあった。平和だ、今はとても平和だ。しかし昔は信仰を守るためにかなりの苦労があったのだろう。だからこそ、未だにここに「祈り」があり、先祖から引き継がれている。
気が付いたら僕も先ほどの蛋白質みたいな顔つきになっていた。
写真は、出津文化村の駐車場から遠藤周作文学館がある岬を見たところ。

駐車場の脇に、遠藤周作の「沈黙の碑」があった。
石碑にはこう書かれている。
人間が こんなに 哀しいのに 主よ 海があまりに 碧いのです 遠藤周作
その「あまりに碧い海」というのを実際目の当たりにし、思わず全員「沈黙」してしまう。さすが遠藤周作、端的ですごい言葉を紡ぐなあ、と唸ってしまった。
蛋白質はいよいよ悲痛な面持ちにまでなってきている。まるでお葬式の参列者だ。
「おい蛋白質、お前が気に病むことはないんだぞ」
「当時の人たちの想いがいかほどだったか、と想像すると・・・(絶句)」
あんまり昔に思いを馳せすぎると、現代に生きる蛋白質自身が心労で倒れてしまいそうだ。それくらい、なんだか悲壮感が漂っている。昨日の軍艦島のときからそうだ。もっとも、軍艦島とこの外海とでは全く時代背景もできごとも違うのだけど。

まるでお墓に対面しているかのように、少し石碑と距離を取って物思いに浸る蛋白質。

14:54
出津文化村の駐車場(外海歴史民俗資料館の敷地)から、出津教会までの間は結構距離がある。
地図をあらかじめ見ていたので、「おや、ちょっと距離があるのだな」ということは分かっていた。だけど、折角だから教会に行きたいじゃないですか。間近で見たいじゃないですか。ということで、「距離がある」という事実のは見て見ぬ振りをしておいた。
で、あらためて出津教会に向かおうとしたら、案内標識に「400m」と書いてある。ありゃ、予想以上に遠い。しかも、アップダウンも結構ある道のようだ。1分で80m歩くのが普通なのだから、往復で10分かかるな。
「さすがに15:34の便にはもう間に合わんな、開き直って一本後の便でええか?」
ばばろあが時計を見ながら確認してくる。
「いいんじゃないか?次は1時間くらい後だろ?その分ここでゆっくりできる、っていうわけだ」
次の瀬戸発の船は16:27だった。15:34の便は高速船で、わずか10分で池島まで渡る事ができる。一方16:27の便はフェリーで30分かかる。宿に到着できるのは17時を大幅に回る時間になりそうだ。
「どうせ明日は炭鉱ツアーが朝遅い時間からでしょ?だったら島内観光はそれまでにできるんだし、今日はもう池島に到着して、銭湯にでも行ければ御の字ってことで」
池島は炭鉱の島だったこともあり、銭湯がまだ現存しているという。炭鉱マンが、そして島に住んだ家族たちが愛した湯船に浸かってみたいものだ。
「いや、でも案外銭湯は早く閉まるかもしれんで?なにせもうあんまり人がおらん島じゃけえ」
確かにそれはそうだ。とはいえ、目の前の出津教会を見ないわけにはいくまい。
「蛋白質、どうする?」
「そうねぇ、折角ここまで来たんだし教会には行ってみたい・・・かな」
当たり前過ぎる回答を当たり前のように引き出し、これにて出津教会に行くということが決定された。さあて、片道400m、歩いていこう。
【注意】出津教会をはじめとする長崎の教会群は、見学を希望する際は事前に連絡を求めています(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンターを参照のこと)。今回我々は運良く見学することができましたが、ルールに則るようにしてください。

14:56
400mもの先の教会に行ってみようという気になったのは、遠藤周作文学館から見えた真っ白な建物が印象的だったからだ。しかし、それだけでなく、駐車場から教会までの道中、「ド・ロ神父記念館」「旧出津救助院」といった施設があるからだ。それが200m先だということなので、ちょうど中間地点。「うわ、面倒だ!」となったらそこで折り返せばいいや、という気持ちがある。
教会への道は「ド・ロ神父の里道」と名付けられていて、遊歩道のような小径になっている。
途中、トンガリ屋根のあずまやがある。「憩いのパビリオン」というらしい。その中には先ほどから頻繁に出てくる「ド・ロ神父」なる人物の紹介がされていた。フランス人神父で、まだキリスト教が解禁されていない明治元年に来日し、それ以降この地でキリスト教の布教と住民の授産に多大なる功績をもたらした偉人だという。
「ド・ロってことは、名字はロなのか?」
どうでもいい次元の低いことが気になる自分が恥ずかしいです。
ド・ロ神父のフルネームは「マルコ・マリー・ド・ロ」という。名前がマルコで、ミドルネームがマリーで、名字がド・ロということになるのかな?

14:57
ド・ロ神父の里道を歩いていると、道の脇になにやら意味深な建物が建っていた。敷地の中に何棟か古い建物が並ぶ。瓦屋根なんだけど、なんだか白い。なんとなく沖縄の家を見るような印象を受ける。
ここが「旧出津救助院」という施設らしい。

あ、瓦屋根の先に十字架がある。やはりここもキリスト教関連施設なのだな。
一般的にキリスト教のイメージというのは洋風だ。そりゃそうだ、西洋の宗教だもの。だから、瓦屋根に十字架、というのはちょっとした驚きを感じる。
でもこれで驚いてちゃいけない。この近くに「サン・ジワン枯松神社」という神社があって、そこでは宣教師サン・ジワン神父を祀ってあるんだぞ。もう何がなんだか状態だ。そんな不思議な神社があることをあらかじめ知っていれば、絶対に訪れていただろう。しかし知ったのは東京に戻った後で、後の祭り。

14:58
丘の上に、出津教会が見えてきた。
「マジか!水平移動するんじゃなくて、いったん下ってからまた上がるんか!」
思わずぼやいてしまう。
とはいえ、いまさら引き返す気は三人とも全くなかった。当初の僕の頭の中では、「場合によっては遠くから教会を眺めて、『はい、出津教会を満喫しました』ということにする」というのもありだと思っていた。
しかし、あらためて実物を間近・・・といってもまだ距離はあるけれど・・・を見てしまうと、ついつい魅入ってしまい、行かずにはおれなかった。
不思議な建物だ。西洋のお城のようだけど、瓦屋根でもある。行かなくちゃ!

15:00
出津教会までの石段を登っていく。
砲台巡り愛好家である前は山城巡りを趣味としていたばばろあは、教会手前の崖に作られた石垣を見て驚きの声を上げていた。
「蛋白質、見てみい。こんなん普通素人だけで作ろう思ったらかなり大変で?時間も金もかかる。こんな何もないような集落でこれだけのものを作るって、すごいことだと思うで」
確かに。
ド・ロ神父という傑出した偉人が長年滞在し、地域の発展に寄与したとはいえ、彼一人で作業をしたわけではない。信徒からの人的、金銭的な支援があってこその賜物だ。
「昔はここにどれだけ人が住んどったんかしらんけど、今と大してかわらんじゃろ。それでこの石垣とか教会で?そんな裕福な土地とも思えんし、どれだけキリスト教が信仰されてたんや、ってことじゃね」

15:01
カトリック出津教会。
教会の前には広場があり、駐車場となっている。しかしこれはミサなどに参加する信徒専用であり、観光客は利用できない。
青空、ということもあって、白い壁が特に映える。美しい教会だ。
基本的に教会はどこも美しい。いや、正確にいうと「カトリックの教会は美しい」というのが正しい。プロテスタント系の教会や小規模な宗派の場合、オフィスビルの一室が教会ということもあるので、なんとも評価のしようがない。おそらく、そういう宗派の人たちは、「教えこそが大事なのであって、華美に装飾にこだわるのはまやかしという考えもあるのだろう。仏教だって、そういう考え方の違いが宗派ごとにあるし。

変わった作りの教会だ。
一般的に教会というのは天井が高く、室内空間の広さを強調するものだ。そのほうが神聖感が出るという効果があるからだろうが、ここは平屋建てだ。建物の大きさの割に、やたらとぺしゃんこ感がある。
どこかで見たことがある光景だな・・・と思ったら、ああそうだ、山小屋だ!山小屋がまさにこんな作りだ。
ちょうどガイドさんとなる信徒の方がいらっしゃったので話を聞いてみたら、このあたりは海からの風が強いので、低い建物にしているのだそうだ。
「建物の設計はすべてド・ロ神父がおやりになったんですよ」
と教えてくれ、この建物独特な工夫点をあれこれ教えてくれた。窓は水が中に入ってこないように、外側に向けて傾斜がつけられているとか、白い外壁は日本の技術である漆喰をつかっているとか。
「でも、実際に建物を作るのは、地元の信者なわけで、ほらこのあたりの釘の打ち方はけっこう雑です」
なんてのも教えてくれる。いやいやいや、素人を動員してここまでの建物ができてしまうって、信じられないぞ。なんという情熱だ。
壁はものすごくぶ厚い。窓を閉めなくても雨が入ってこないようにする工夫だろう。しかし、結局風雨が強いときには雨が振り込んでくるようで、ブラインド風の雨戸が外にとりつけられている。
そこでばばろあがあることに気がついた。
「この雨戸、不思議じゃね。普通、雨戸って片方からしか閉まんのよ。でもこの雨戸、窓を中心として、左からも右からも閉められるようにレールが長く設置されとる」
些細なことだが、確かに言われてみればそうだ。雨戸自体は一枚なので、こんなに雨戸に自由度をもたせる必要はないはずだ。
ガイドさんにこの疑問を問いただしたばばろあだったが、ガイドさんは苦笑して
「さあ・・・そこまではわからないです。言われてみればそうですね。でも、そんなこと聞かれたことも、意識したこともなかったです」
と仰っていた。
ばばろあはその後もしつこくこの謎を解明しようと、首をひねっていた。

ツインタワー、いや、トリプルタワーだ。こういう形をした教会は初めて見た。どれが鐘楼だろう?
教会そのものの屋根の前後に、2つのタワーがある。奥の塔には十字架、て前にはマリア様。
あともう一つ、建物とはど区立した塔があって、こちらは・・・イエス・キリストかな?両手を広げて、「どこからでもかかってきなさい」ポーズをとっている。リオデジャネイロの山の上に建っている像とおなじっぽい。
この教会は、マリア様の鐘楼がある真下が正面玄関になる。しかし建物の両脇何カ所かに、小さめの入り口もあった。
「蛋白質、これは信徒さんがミサのときに出入りする場所か?」
「たぶんな。あんまり見たことないけど」
「便利だよな、一度にどーっと帰ろうとしたとき、出入り口が混雑しなくて済む」
そういえばこの教会は土足禁止だった。下駄箱があるので、靴を脱いで建物の中へと入る。ミサを執り行う神父は一体どういう足元なのだろう?裸足、ということはさすがにないだろうけど、サンダルだったらちょっとラフでおもしろい。

エリアサイネージのご案内、という看板があった。
スマホやタブレットでこの施設の紹介を見ることができますよ、ということだ。
「ほー、すごいなあ、時代は進んだなあ」と思わず感心してしまったが、よく考えてみれば単にwebサイトがありますよ、というだけのことだった。物理的な看板は省略しました、詳しくはWebで!というわけだ。
時代の流れだな、だんだん観光地もこうなっていくのだろう。そのかわり、動画コンテンツとかVRによる施設紹介といった新サービスを来場者に提供できる。

15:16
出津教会をあとにする。教会直下の崖下に何かあずまやがあるね、と見てみたら、古井戸だった。ああ、ここには地下水脈があったのか。
その傍らに、何か白いものが見える。あ、ここにもマリア様が。
「ちょっとまってて!」
そう言い残して蛋白質はマリア様のところに立ち寄り、なにごとか対話をしたのち写真を撮影していた。
彼、昔は写真部に属していたこともあるんだし、このまま「マリア像専門カメラマン」として世界を股にかけてもいいんじゃなかろうか。

15:19
瀬戸港から出る池島行きの船は15:34発。もう間に合わないので、開き直って次の
の16:27の便に乗ることにする。ここからだと、たぶん30分もあれば瀬戸港に到着することはできるだろう。ということは、ここにいられるのはあと30分。
ゆとりができたので、先ほど通り過ぎた曰く有りげな施設に立ち寄ってみることにした。
瓦が独特だ。コンクリートのようなもので固めてある。強風で飛ばされないようにするためなのだろうけど、あまり見たことがない作り。

看板には「旧出津救助院」と書いてあり、この界隈一帯の施設を総称しているらしい。
ド・ロ神父が貧しい外海の人々のために作った授産施設だという。パン、そうめん、マカロニなどを作っていたというのだからすごい。そうめんは落花生油を混ぜているので、独特の風味でオツなものらしい。
後で知ったのだけど、「ド・ロさまそうめん」という名で今でもそのそうめんは作られ、販売されているらしい。しまった!それを知っていれば、手に入れたのに。せっかく「ド・ロ神父って誰だ?」と関心を持ったのだから、お近づきの印にたべてみたかったな。
ちなみに敷地内にはマカロニ工場跡がある。明治時代、マカロニって誰がどうやって食べたのだろう?長崎にいる外国人を対象にしていたのだろうか。

15:21
鰯漁のための網を作っていたという建物が「ド・ロ神父記念館」になっていたので、入ってみることにした。入館料300円。
この建物は重要文化財に指定されている。
えー、地味だけど、これも重要文化財なのか!もうね、価値のインフレがすごすぎて、どういう肩書をもっていればすごいのかどうか、わからなくなってきた。「世界遺産」という肩書が一応一番偉そうな感じ。その概念がでてきたおかげで、「重要文化財」というのはちょっと目立たなくなってきている気がする。

建物の入り口を塞ぐように壁が立っている。入り口に強風が入らないようにするための目隠しだ、という説があるとかないとか。
独特の石積み塀で、この塀のことを「ド・ロ塀」というらしい。「泥塀」じゃないぞ、「ド・ロ塀」だ。
平たい石はこの界隈で採れる「温石(おんじゃく)」というもので、これを使った石塀そのものは以前からあったそうだ。しかし石同士を接着するための赤土と藁が溶けやすく脆いので、ド・ロ神父はか医療を加え、石灰などを使ってより強固な壁を作り上げたのだという。それが、「ド・ロ壁」。
何者だよこの神父様。布教に来た人じゃないのか?まるで「青年海外協力隊」みたいじゃないか。技術者か?建物のデザインから建築、そして材料まであれこれ知識を持っているのには驚きを通り越して呆れる。
施設の人が教えてくれたのだが、ド・ロ神父はもともと貴族の出だったそうだ。しかしフランス革命があり、神父の父親が「これからは貴族社会の時代ではない」と悟り、若かりしド・ロ神父にいろいろな技術を身に着けさせたのだという。それがまさか地球の裏側、日本のしかも長崎の集落で役立つことになるとは。
わざわざ石版印刷機をフランスから自腹で輸入し、印刷を行ったりもしていたそうだ。そういう遺品が施設内に展示されており、アワレみ隊3人揃って「へええええ」と感嘆しっぱなしだった。

記念館の向かい側も救助院なのだが、こちらも別途入館料がかかるという。おっと、どうしたものかな。でも今更「見ません」というわけにはいくまい?300円払ってド・ロ神父に思いを馳せる時間、続行。
ばばろあはすっかり前のめりになっている。
「わし、最初は教会とかあんまり興味なかったんよ。蛋白質が喜ぶならそれでええかな、って思いよったんじゃけど、ええね!おもろいわ。ド・ロ神父すごいわ」
ばばろあの趣味である「砲台巡り」は、建築とも絡んでくるジャンルだ。なので一連のド・ロ建築を見ているうちに、がぜん盛り上がってきたらしい。

この施設にはガイドさんがいて、わざわざ我々のために施設を案内してくれた。お陰でいろいろな話を聞かせてもらえて、とてもおもしろかった。

石垣。大改修が入ったそうだが、石垣左側のほうが昔のもので、右側が補修後のもの。右側のほうが新しいのに、石積みが荒い。昔ながらの左のものは、平らな小さい石がびっちりと詰まっていて美しい。執念すら感じる出来だ。

授産施設だった建物の中を見せてもらう。
そうめんを作っていた状態を再現してある。ほかにも、当時使われていた機材が保管されていた。
ところどころに鉄骨で補強がされていた。さすがに昔のままだと耐震ができないからだろう。

出津教会に向かう途中、この授産院の上から建物を見下ろした際に気になったものがある。
なんだろう、と近くで見てみると、レンガで作った煙突だった。ああ、煙突か。
一瞬そのまま納得してしまったが、よく考えると和風の建物なのに煙突、しかもレンガというのが面白い。和洋折衷だ。

というわけで、釜が据えてあるおくどさんも、レンガで作られているのだった。へえー。
煙突は斜めになっていて、外に煙を排出している。二階を吹き抜けにしてしまうと、二階のすペースが確保できないから、という配慮だろうか?
ここまでガイドさんに説明してもらっていたら、ガイドさんが
「二階もあるので、二階も紹介しますね。そっちはシスターのほうがいいので・・・おーい、シスター!」
ここからシスター登場。
あ、いや、そろそろ僕ら、船の時間が・・・と気になったが、もうこうなると引き下がれない。話自体とても面白いし。

16:00
ガイドさんに変わって現れたシスターに連れられ、二階に上がる。
二階は、まるで教会のような雰囲気だった。椅子がずらっと並ぶ。
「ここは昔は修道女が寝泊まりしていたんですよ。ふとんをずらっと並べて」
へえー。
壁の下部が引っ込んでいて、押入れのようになっている。朝起きたら、寝具はそのスペースに仕舞っていたのだそうだ。

シスターに昔の話をいろいろ聞かせてもらう。これもまたとても面白い。面白いんだが、時間がそろそろ本当にやばい。
きさくなシスターは、部屋の隅に置いてあったオルガンの蓋を開け、演奏してくれた。これもまた、ド・ロ神父が輸入したものだという。100`年ものなのにまだ現役なのか!
それにしても昔のオルガンだからか、家具調だ。かなりごつい。鍵盤の下に、まるで引き出しのようなものがついている。
「これには変わった機能がついているんですよ」
シスターが嬉しそうに教えてくれる。昔のオルガンだ、せいぜいからくり人形がついていて音楽に合わせてくるくる回る程度のハッタリではあるまいか?
誰もがこのシスターの謎掛けに正解が出せないまま、シスターの様子をうかがう。するとシスター、鍵盤の下の引き出しっぽい部分をがちゃんといじった後に鍵盤を一つだけ押した。
ファーン
あれっ、和音がなってる!
シスターはもう一度別の鍵盤を一つだけ押す。ファーン。今度もそうだ。
「和音が自動的に鳴ってくれる機能なんですよ」
それはすごい。どういう仕組みなんだこれは。おそらくシンプルな、メカニカルな設定でそうなっているのだろうけど、これなら演奏が下手な人でもそれっぽい音楽を奏でることができる。
試しに蛋白質が適当に賛美歌のフレーズを弾いてみたが、ちゃんと音楽になっていた。こんな機能、今のオルガンにあるのだろうか?いやー、昔のオルガンで驚かされるとは思わなかった。
とか言ってるうちに、本当にもうアウトだ!時間切れ!いや、もう完全に間に合っていない。シスターとはまだあと10分でも20分でもお話を聞かせてもらいたかったのだけど、船の便が迫っているんだ!ごめん!
シスターに謝りながら、救助院を後にした。
現在の時刻は16:06、瀬戸港発のフェリーは16:27。あー、完全に間に合わないやつやー。まず駐車場まで、歩いて結構距離があるし。
「予想外におもしろすぎて、話を切るに切れんかった」
早足でばばろあが言う。
「もう瀬戸には間に合わんから、手前の神浦から出る船に乗るしかないだろうな」
「何時なん?」
「16:25」
「厳しいのぅ、でもこっちなら間に合うかもしれんか。今日はええかもしれんが、明日は大丈夫なんか?」
「明日、13:17に池島発の神浦行きフェリーがあるんよ。それに乗ればバッチリよ。むしろ瀬戸発着よりこっちのほうが便利よ?」
「池島の炭鉱ツアーの案内で、『帰りの便は14:17の瀬戸港行きをご利用ください』って書いてあったけど大丈夫か?」
「それ、たしかに僕も読んだ。でも、多分間に合うと思うんだよなあ。ツアーの紹介を見ると、一応所要時間2時間らしいし。しかも実質90分で、食事時間30分っぽいぞ。だったら、ツアーが11時に始まって13時には終わるはずだから、なんとか」
「まあ、どっちにせよ瀬戸港のフェリーには今更間に合わないから、神浦を目指すしかないか・・・」
我々は方針転換し、神浦港を目指すことにした。

16:17
神浦港に到着。ナビがなかったら素通りしてしまいそうな、ちょっとした漁港だった。定期便は池島に向かう1日7便しかないので、もちろんターミナルなんてものはない。
神浦港から出る池島行きの船は、「16:25頃」と時刻表に書いてあった。事前情報によると、直前にならないと船はやってこないし、のんびりしていたら船は定刻を待たずに出発してしまうこともあるそうだ。あらかじめ乗る気マンマンの態度を示しつつ、船着き場に待機していないといけない。
一応、間に合った。
これなら16:27発瀬戸港発の便にも間に合ったんじゃないか?と思えてくるが、欲張ってはだめだ。慣れない場所なので、駐車場がどこにあるのか、チケットの購入はどこか、船はどこに停泊しているのか、なんてバタバタしているうちに出港時間が過ぎてしまう。神浦からの便に間に合っただけで、儲けものだと思わなくちゃ。

船着き場の前には、「ホテル外海イン」というホテル兼レストランがあった。

神浦。
ここでいう「神」とはキリスト教なのか?と地図を確認してみた。ド・ロ神父が作ったというもう一つの教会、「大野教会」は地図で確認できるが、それよりもお寺とか神社が目立つ。さすがに地名まで影響をおよぼすほどキリスト教は強くないか。明治に入るまでご禁制だったわけだし。

16:18
写真を撮っているおかでんを尻目に、ばばろあは一人で桟橋まで行き、そこにいた人に池島行きの船について確認をとっていた。もしここが神浦港ではなかったら、もしここが神浦港でも、渡船乗り場が別だったら大変だ。
「池島行き?あの防波堤の先から出るんだよ、ほら今ちょうど出港するところだ」
なんて、目の前で船を見過ごしてしまうというのは悲劇を通り越して喜劇だ。
ばばろあが戻ってきて、
「ここでええそうで。行くで」
と僕を急かす。

16:19
渡船、というのはたとえで使った表現だったけど、本当にそれっぽい船が待っていた。これ、よく岩場に釣り人を連れて行くのに使うような船だ。
進栄丸、という。立派に神浦~池島を結ぶ定期航路を担う船だ。ちゃんとダイヤにも船名が書かれている。「船がドック入りしているので、急場しのぎで漁船を借りてきました」というわけではない。
漁業の傍ら、船を提供している・・・というわけでもなさそうだ。この進栄丸は神浦と池島を毎日5往復している。

16:20
運賃350円を乗船時に船員さんに払って、乗り込む。小銭は用意しておいたほうがよさそうだ。「1万円札しかないんですけど」というのは、多分困る。
「うわ、マジかよ」
思わず声を上げてしまうような狭い扉から船の中に潜り込む。普通に座れば大人3人程度のベンチシートが向かい合わせになっている。
「道理で便数が多いわけだ。池島って島民の数は少ないはずなのに、やけに便数が多いな?と思っていたんだけど、船自体が小さいんだな」
もちろん、この船とは別に、高速船もフェリーもある。とはいえ、今や人口わずか150名程度しかいない、0.9㎡の小さな島だ。神浦と瀬戸、2つの港から船がやってくる事自体がすごいことだし、便数が多いこともすごい。昔の名残なのだろうか。

16:38
客は結局我々だけで、チャーター船の状態となった。狭い穴蔵のような船室なので、他の団体がやってきたらどうしようかと思ったが、杞憂だった。
それにしても船がかなり揺れる。波は穏やかな日だと思うが、小さな漁船クラスの船が高速で突っ走るのだから、時にはトビウオのように空中を飛び、時には横に揺れる。
船の舳先に向けて窓があるのだけど、座っている限りは空しか見えない。立ち上がろうとすると、頭が天井にぶつかる。そもそも、船が暴れているので立ち上がるのは危険だ。
こりゃー、長時間乗ってると酔うぞ・・・と少しだけ心配になる。遠くを見ることができれば酔いにくいけど、それができない。視界は狭い船室しかないので、揺れをモロに見てしまう。
「プライベート・ライアン状態だな。ノルマンディー上陸直前の連合国軍の気分だ」
「船から降りた途端に銃撃されるのか」
「メーディーック(衛生兵)!って叫ばないと」

16:41
ほとんど何も見えないまま、「あ、減速したな・・・」と思っているうちに池島到着。
「危ないところだった、あと10分もこのままだったら酔っとったで、わし」
ばばろあが苦笑する。
確かにそうだ。所要時間15分程度。天気が良くてこれだから、天気が悪いとどうなることやら。

おおう・・・
船着き場周辺は入り江になっているのだけど、船着き場の対岸の山腹には鉱山施設が見える。もちろん、今は使われていない廃墟だ。
そして海沿いには、石炭の積み出し港の跡が残っている。
これが池島なのか。
軍艦島のように、すでに「歴史遺産」になってしまった世界とは全く違う。まだ、「今」と地続きになっている世界を目の前にし、僕はかなり興奮した。
半年ほど前、鉱山の面影を求めに栃木県の足尾銅山跡をさまよったことを思い出した。あそこもそれなりに廃墟と現役住居が残っていて味わい深い。しかしこっちはスケールが違う。すごい!これはすごい!
池島港。

16:41
池島の船着き場から、団地が見える。炭鉱がまだ閉山していなかった頃は、この島に大勢の人が住んでいた証だ。最盛期の1970年には7,776人が住んでいたというが、2001年の閉山時2,100人を経て今や150人程度。少なくなってしまったものだ。逆に、150名とはいえまだ住んでいる人がいるということが昨日見た軍艦島とは違う。
軍艦島の場合、炭鉱専用の人工島だったわけで、閉山してしまえば居続ける理由がなかったのだろう。一方で、軍艦島(端島)のお隣の高島も炭鉱の島だったけど、閉山後の今でも人は住んでいる。この池島もそう。もともと島としてちゃんとした土地があるなら、漁業をやるなりなんなり、やりようがあるのだろう。
とはいえこの島、「新鮮な海の幸を提供する漁師料理の店!」みたいな気の利いたお店はまったくない。あるのは1店舗だけ。しかもそこは18時にしまってしまう。島民のための赤ちょうちんもスナックもない。いくら炭鉱ツアーの観光客がやってくるとはいえ、観光客+島民の規模では商売が成り立たない。それくらい、限界集落もいいところの場所。週に何度か、トラックによる移動販売車がやってくるという。
目の前に見える団地は、軍艦島のものとは全く違う。あちらが密集し殺気立っているのに対し、こちらは若干のんびりとした配置だ。そこまで土地に困っていたというわけではないのだろう。その証拠に、高層アパートではない。目の前のアパートは4階建てだ。

「池島を探検しよう」
と銘打たれた地図。0.9㎡しかない島とはいえ、アップダウンがあるし思ったよりも広い。
今我々いる船着き場は、地図の一番上、入り江の先端だ。赤い字で「現在地」と書かれているところにいる。
ここは今となっては入り江だけど、昔は大きな池だったらしい。それで「池島」。なんでこんな島に池があったのか謎だ。
その池を深くして、外海と繋げて、石炭の積み出し港と船の発着場にしたのは人間の力技。なにしろ炭鉱を何十キロも掘り進める技術がある集団だ、池を港にしてしまうことだって当然できる。

池島ウォークマップ、というのが無料で配られていたのでゲット。
ただしこれをじっくり読んだのは宿についてからで、それまでは池島がどういう作りになっているのかほとんど理解していなかった。宿もどこにあるのかさえ、まともに理解していなかったくらいだ。
蛋白質がぼんやりしていて、何日目にどこに宿泊するのかさえよく理解していなかったわけだが、僕自身がなんとなくしか状況を理解していなかった。仕事が忙しくて、旅行についてあれこれ調べる暇がなかったからだ。

あとになってこうやって写真やら地図を見て、「ああなるほど、そういうことか」と島の状況を理解する。撮影した時点では、全く理解できていない。
特に、「池島ウォークマップ」は二次元に描かれているが、実際は起伏がある島なのでもう少しややこしい地形をしている。なので、航空写真と平面地図を見比べて、ようやく島の全貌を実感できる。
そんな状態なので、てっきり宿は船着き場からすぐの場所だと思っていた。当たり前の話だけど、ほとんどの島において街の中心地というのは、港のそばだ。絶海の孤島のような厳しい環境の島なら、港と集落は別という場合があるけれど。
・・・しかし、目指す島唯一の宿「池島中央会館」はここから徒歩で20分くらいはかかるのだという。えっ、そんなに?
地図を確認すると、その名に偽りなしで、まさに池島の中央にある建物だった。
今いる船着き場から見える廃墟鉱山の、裏側。
しかも、山を登っていかないといけない。やー、こりゃ面倒だ。

16:43
船着き場の脇に「池の口」という名前のバス停があり、「そとめ」とかかれたコミュニティバスが停車していた。驚いた!この島にはコミュニティバスが走っているのか!
「乗れるんなら乗せてもらおうぜ」
ということで、運転手さんに声をかける。
「中央会館に行きたいんですが」
「まだ出発まで数十分あるから、歩いたほうが早いよ」
ありゃ、そうですか。どうやら、このあとやってくる船と接続するらしい。進栄丸の乗客向けには運行ダイヤがないというわけだ。
「それにしても住民がほとんどいない島なのに、成り立つのかね」
いや、成り立つわけがない。だからこそのコミュニティバスだ。これを民間会社が自発的にやるなんてことは、どうやっても無理。
長崎市営で、地元のさいか交通が委託を受けている。1日34便、約20分間隔の運行。狭い島なので、島の端から端まで、途中立ち寄りがあっても10分で到達する。

16:46
コミュニティバスが利用できなかったので、自分自身の足で中央会館を目指す。3泊4日分の旅行荷物に加えて、今晩と明日の朝用の食事を抱えている。もちろん飲み物も。そのせいで3人とも荷物が多く、足取りが重い。
しかもよりによって船着き場は島の最果て、入り江を塞いでいる岬の先端にある。まず入り江をぐるっと回り込むだけでも遠い。
「なぜもう少し便利の良いところに船着き場を作らなかったのか・・・」と思う。
池島の写真を見ると、昔は入り江の奥に船着き場があったらしい。しかしある時から現在の不便な位置に移転しているわけで、ちゃんと理由があるのだろう。おそらく、石炭を積む船の運行の邪魔にならないように、ということだろう。

入り江に沿って立つ団地の脇を歩いて行く。
港にもっとも近い場所、ということで今となっては一等地だ。昔は職場である坑道の入り口に近いほうが「職住隣接」だっただろうけど。
このあたりは「第三公住」と呼ばれるエリアで、主に協力会社(下請け会社のこと)の宿舎になっていたそうだ。炭坑に直接雇用されていた人は住んでいないので、やはりここは「格下」扱いだったというわけだ。
軍艦島の、どす黒くなったアパート群とは違い、まだクリーム色がいきている。くたびれてはいるものの、人が住んでいる家というのはこういうことだ。人がいなくなると、途端に建物はへばる。

って、うわあ!
完全に油断していた。この団地、人が住んでいると思っていたけど、廃墟だぞこれ。
ベランダの柵が風化してしまい、全くなくなっている部屋がいくつも見える。そういうところは、窓に板を貼り付け、風雨でガラスが割れないようにしてある。
それ以外の家も、柵代わりのトタンが割れてしまっているところもある。
「すげえ!こんな身近に廃墟が!」
なんて大声を出してしまったが、よく見るとまだ窓にカーテンがついている家がある。どうやら、住んでいる人もいるようだ。そりゃそうだ、ちゃんと有人島なんだから。どこかには住んでいる。
あんまり「廃墟だ!廃墟だ!」とはしゃいだら、住んでいる人に失礼なので気をつけないと。
かといって、軍艦島のときの蛋白質みたいに、神妙な顔をするというのも違う気がする。この池島は閉山した炭鉱の島、ということを売りにしているわけだし。
あああ、またもや、どういう顔をしていればいいのか難しい場所にやってきたな。

16:48
しばらく入り江沿いを歩いていると、バス停があった。「桟橋前」と書かれている。ここに昔は桟橋があったからだ。島の玄関口跡。
今はその面影はない。ばばろあが
「これが『みなと亭』じゃろ。電動アシスト自転車を借りられる場所」
と教えてくれた。ああ、言われてみればそうだ。ただし、いわゆるレンタサイクル屋のように、店頭にずらっと自転車が並んではいない。ぱっと見、営業している店舗にさえ見えない。
池島に現存する、わずかなお店の一つ。
電動アシスト付き自転車を借りると便利だとは思うけど、今回はパス。歩いて宿を目指す。

16:49
「みなと亭」を通り過ぎると、おや?これはまだ新しい建物がある。「池島開発総合センター」という文字が見える。どうやら公民館的な位置づけの建物らしい。
もちろん炭鉱が開いていた頃のものではなく、閉山後に作られたものだろう。閉山しても人はこの島に住み続けるわけで、だからこそ行政が地域振興にお金をかけなければならない。これまでは、炭鉱の会社が率先して福利厚生や生活のパイプラインを担ってきたのだろうが、閉山してしまえば何も残らない。

総合センター周囲は協力会社向けの公営住宅が並ぶ。特に奇抜なデザインということもなく、4階建てのクリーム色、と相場が決まっているようだ。昭和40年代に建てられたらしいので、まだ半世紀程度の築年数ということになる。
ちゃんとメンテナンスすればまだまだ現役で人が住めるが、さすがに住んでいる人自体が少ないので老朽化が隠しきれない。
この建物は、ベランダの柵が腐食して落ちてしまっているところ、トタンで覆っているところ、まだピカピカする新しい柵に交換されているところといろいろある。つい最近まで人が住んでいたのだろうか。ざっと見る限り、人の気配がない建物だ。
そりゃそうだ、この島には大小合わせて一体いくつのアパートが建っているのだろう?島民人口が150名だとして、一人ずつアパート1棟に住んでも余りがあるんじゃないか、という状況。当然、無人化したアパートがそこらじゅうにあるはずだ。取り壊したアパートだって、あるはずだ。
こういう建物をジロジロ好奇の目で見てよいのかどうか、一瞬戸惑う。人が住んでいたら悪いし。かといって、全く興味なさげに素通りするのも、池島観光にやってきた意味がない。
ここで、通りすがりの車が我々を呼び止めてくれた。「乗っていきなさい」と。島民の方らしい。ありがたくお世話になり、車で一気に池島中央会館まで運んでもらった。

16:54
池島中央会館。
港があるエリアからぐーっと坂を登っていった先にある。港から見て鉱山の裏手側は、山を切り開いて比較的平らな高台になっている。そこに港界隈よりも遥かに広大な居住エリアが広がっている。中央会館はそんな居住エリアの入り口に近い場所にある。
建物は3階建て。研修施設という雰囲気。島唯一の宿泊施設で、素泊まりのみの受付となっている。
しかし、ここが昔は800名規模の映画館だったと聞いてびっくりした。そんな面影はどこにも残っていない。
せっかくたくさんのアパートが開いているのだから、そこに短期から長期まで、滞在者を受け入れればいいのに・・・と思ったが、そこまでの需要はないのだろう。この小さな中央会館一つで十分、というわけだ。
実際、池島といえば周囲4キロ程度の島内をぐるっと散策するのに数時間、炭鉱ツアーに参加して2時間あれば十分といえる規模だ。なので、長崎から日帰りで事足りる。我々のように一泊して炭鉱ツアーに挑む、という方が少数派だ。
でももったいないと思う、宿泊してじっくりと島時間を過ごす、というのが醍醐味だと思う。僕らは島内一泊といってもほとんど駆け足だったけど、できることならあともう一日は滞在したかった。そのかわりやることがないので、ひたすらのんびり過ごす、という時間の費やし方になるけれど。

池島中央会館の一角に、「松濤苑」と書かれた入り口があった。「和風レストラン・仕出し」と銘打っている。昔はここでレストラン兼、中央会館宿泊客への食事の便宜を図っていたのだろう。もちろん今は営業していない。窓から見える障子が物悲しい。
明日のお昼ごはんは炭鉱ツアー中に食べることになるけど、「炭鉱弁当」なるお弁当を注文してある。これは、先ほど見た「みなと亭」が作っているはずだ。
今、池島に残っているのは、飲食店では「かあちゃんの店」1店舗だけ。売店としては、池島開発総合センターの裏手に一店舗、あともう一店舗あると聞いている。角打ちできる酒屋があったけど2014年閉店、スナックも同じく2014年に閉店してしまっている。つまり、「物を買う」ことができるのは、島に3店舗しかなく、あとは自販機だけだ。これでも閉山してまだ16年。いくら軍艦島のように無人にはならなかったとはいえ、現実はかくも厳しい。

16:55
中央会館1階のフロントでチェックインをする。

ばばろあが手続きを行っている間、管内案内図を眺める。
1階はフロントと大会議室、そして松濤苑跡地。2階は大中小3つの会議室と、調理教室がある。この調理教室で宿泊客は自炊をしても良いそうだ。
3階が宿泊部屋になっていて、7室+大きな部屋の研修室。つまり、1晩につきこの池島は8組の宿泊客しか受け入れられない、ということだ。島唯一の宿泊施設がここなんだから、これが現実。
そんな中、我々は2部屋を確保していた。「いびきが気になる」というばばろあが一人部屋、残りの2名が二人部屋だ。

中央会館の使用料金表。
時間単位で会議室などを使うことができるのだけど、誰がどのように使うのだろうか。
宿泊客は、「一般」「中学校の生徒」「小学校の児童」で値段が異なっている、というのが面白い。宿でこういう料金体系というのは、見たことがない。おそらく、修学旅行や社会科見学で訪れる学生たちへの配慮、ということなのだろう。ちなみに「一般」の区分になる我々は、3,384円。歯ブラシやタオルが付いてこの値段だから、かなり安い。商売としては成り立っていないと思う。

中央会館のフロントにおいてあった、手書きの池島マップ。
ちょうど島の中央部分に僕らはいる。
島の右半分、船着き場がある池島港までのエリアに鉱山がある。しかしここにある第一立坑は閉山前は使われておらず、もっぱら島の左端にある第二立坑が使われていたそうだ。なので、地図によっては第一立坑のことを「排気立坑」と記してある。

16:58
3階の部屋に入る前に、2階に立ち寄る。調理教室に冷蔵庫があるということなので、そこに飲み物やお刺身を入れておくためだ。

2階調理教室。
あ、なるほど。「調理室」ではなく「調理教室」という名前になっているわけだ。学校の家庭科の教室みたいなアイランドキッチンがあった。

そんな調理教室の片隅に冷蔵庫があったので、荷物を保管させてもらう。
食器棚には食器類が備え付けてあるので、必要に応じて使えて便利。
便利、とはいっても、飲食物のすべてを島の外から持ち込んでいるわけで、それを思えば便利ではないのだけれど。
本当なら、島にお金を少しでも落とせると良いのだけど・・・。落とそうにも、落とす場所がほとんどない。

17:00
池島中央会館3階。宿泊部屋が並ぶフロアになっている。
扉はショック吸収の仕組みがついていないので、開け閉めするとき気をつけないと「バターン!」と大きな音を立てる。

ばばろあが一人で泊まる302号室。一人部屋。
すでに布団が敷いてあった。

そして蛋白質と僕が寝泊まりする301号室。二人部屋。
質素な部屋だけど、掃除はちゃんとされていて何ら不自由なく過ごすことができた。しかし、夜になると蚊の襲来を受け、やたらと痒かった。
「そういえばGW期間中、八丈島に行ったときも蚊にさされまくってびっくりしたことがあるな」

ひょっとして、離島では早い時期から蚊が跋扈するのだろうか?「島とうがらし」というのがあるように、「島蚊」というのがいて春先が活動のピークなんじゃあるまいか?
ばばろあが
「そんなことあるか。単に茂みに近いところにおる、というだけじゃ」
と僕の考えを一蹴した。なるほど、そういうことか。

17:02
部屋の窓から外を眺める。
我々がやってきた港とは逆、島の奥に通じる道を見やると・・・おや、大きな建物が見える。建物の作りからして、学校っぽい。ドーム屋根の体育館らしき建物も見える。
かなり巨大であることがわかる。それだけ昔は子供の数が多かった、ということだ。あとで地図を確認すると、「池島小・中学校」だという。そういえば、タワーマンションが林立する東京湾岸エリアで、小学校不足が深刻・・・なんてニュースを見たことがあるな。昔は炭鉱、今はタワマンか。時代は変わったものだ。
この学校は2017年時点ではまだ現役で、数名通っている児童がいるそうだ。しかしその子どもたちが卒業してしまえば、廃校ということになる。一度廃校になってしまえば、再開というのは難しいだろう。島の生活がこれでまた一つ消えていく。

って、うわあ!
びっくりした。目線を学校から逸し、窓の正面を見たら、そこに廃墟のアパートがあったからだ。木々が周囲を覆い、森に還りかかっている。
廃墟・・・だよな?さすがにあれは。
軍艦島で見たアパートと同じ、黒ずんだコンクリート外壁。港周辺のアパートとは全く生活感が違う。
よく見ると、窓が木枠だった。サッシではないのか。それだけ時代が古い、ということだ。いや、待て、後ろに見えるアパートはサッシが入っている。大きな窓なのに風雨で割れた形跡がないし、比較的新しいものだろうか?ということは、まだあの建物には人が住んでいるのだろうか?
一体この島にはどこにどのように人が住んでいるのか、さっぱりわからない。そもそも、この島にどんな産業があるのかが不明だ。
もともとここは三井松島産業が所有する鉱山だけど、2001年の閉山後は炭鉱技術の伝承研修を扱う「三井松島リソーシス」と、金属くずや廃プラスチックなどのスクラップをリサイクルする「池島アーバンマイン」の2社が残った。三井松島リソーシスは明日の炭鉱ツアーの主催社でもあり、現存する。しかし、「池島アーバンマイン」は2016年9月、破産してしまった。さすがに、離島に材料を運び込んで、加工して、また本土に送り返すという手間とコストを考えると割に合わなかったか。
この破産によってさらに島民の数が減ったはずだ。先程見せてもらった地図にはまだ鉱山エリアの一角に「池島アーバンマイン」と記されているが、今はもう何もやっていない。
となると、この島は「三井松島リソーシス社員」と、ほんの僅かな店舗の店員さんと、学校の先生と、簡易郵便局の局員さんと、その他、島の維持に必要な人少々、ということになる。漁船らしきものが池島港に停泊していたので、ひょっとしたら漁業や岩礁への渡し船で生計を立てている人もいるのかもしれないが。
住むなら断然港に近いほうが便利だけど、こうやって島の真ん中エリアに施設があったり、さらにこの奥には飲食店である「かあちゃんの店」が現存して営業している。ポロッとさりげなく、人が住んでいるのだろうきっと。敢えて人を避けて住んでいるわけではなく、昔からずっと住んでいるうちにご近所さんがどんどんいなくなった、ということなのだろう。
合理化のために引っ越しして住まいを集中させる、という計画はあったのだろうか?
みんなアパート住まいだから、「この部屋に愛着があって、今更引っ越しできない!」という反対はあまりなさそうなのだけど、そう簡単な話ではないか。

池島中央会館の3階には、浴室もある。
男女別には別れていないので、女性が入るときには「女性入浴中」と書かれた札をぶら下げておく必要がある。あと、使用するためにはボイラーのスイッチを入れないといけないので、あらかじめ会館の職員さんに伝えておく必要がある。

湯船は2つ。
右は源泉かけ流しで、左は加温した温泉・・・というわけではなさそうだ。ここは温泉は出ない。
おそらく、宿泊客が多いときは湯船2つともを利用して、客が少ないときは一つだけを使う、というコンセプトなのだろう。たとえば宿泊客一人のときに、これだけの大きな湯船に豪勢にお湯を貼られたらもったいない。水もエネルギーも、すべて島の外から運び込んでいるのだから貴重だ。

浴室にはカラン、ボディソープにシャンプー・リンスも完備。自分でもってこなくてもOKなところが便利。
ただし、ここから徒歩5分のところに往時を偲ぶことができる公衆浴場があるという。我々はそちらのお世話になるつもりなので、このお風呂を使うことはなかった。

洗面所。
使っていいのかどうかは聞いていないのでわからないけど、洗濯機も置いてあった。
ドライヤーもあるので、女性も安心。そういえば、カップルも宿泊していたな。
「工場の夜景が好きな女子、なんてのがいるけど、廃墟女子っていうのもいるのかねえ?」
「多分男の趣味だろ。それにしてもすげえな、こんなところに彼女を連れてくるなんて」
こういう何もない宿泊施設の利用にオッケーを出したり、廃墟や炭鉱を見ることに興味を持つような女性は、男性からするととてもありがたい存在だ。いい彼女をゲットしたじゃないか青年よ。

トイレ。さすがにこちらは男女別だった。

17:22
日没になる前に、公衆浴場に行くことにした。なにせ街灯などないので、夜になると真っ暗になってしまう。
チェックイン時、「懐中電灯が必要ならありますので」と言われていたが、さすがにその前に島内観光がてら、行ってこよう。

17:23
ほとんど人が住んでいないし、往来もない島なのに信号機があるぞ?と思ったら、そこが池島小・中学校。学校授業の一環として、信号機を設置したのだろう。「赤信号のときは、止まれ」とか「右見て、左見て、また右見て」という交通の基本動作は、この島にいる限り習わないと身につかない。
児童がほとんどいなくなった今でも、ちゃんと点灯している。授業のときだけ点灯させればいいのに、と思ったが、「あっ信号だ!青だろうか赤だろうか?」と一瞬身構える癖、というのを身に着けさせるためにも常時点灯なのかもしれない。
全校児童数名とはいえまだ現役の施設。さすがに、ここはまだ生活感を感じさせる。
それにしても掃除はどうしているのだろう?児童数に対して、敷地の広さが尋常ではない。日ごとに掃除場所を変えたって、全部回るのにかなり時間がかかってしまう。

17:25
真新しい看板があるな、と思ったら「公共トイレマップ」だった。親切だ。
この島には6カ所にトイレがあるそうだ。公衆トイレとしては1カ所だけで、残りは公共施設や店舗のトイレを使わせてもらうことになる。
島内散策のために訪れた観光客が、トイレに困らないようにという配慮はありがたい。

意外なことだが、この島には銭湯が2カ所現存する。逆に言えば、アパートの各部屋には風呂が備わっていないのかもしれない。
とはいえ、島民の数の割に銭湯が多い。
一カ所は、港の近く、池島総合開発センターの近くに「港浴場」の名で営業している。そしてもう一カ所が、我々が今目指している島中央部にある「東浴場」だ。閉山前はこの他、8階建てアパートの1階に「西浴場」があったという。それとは別に、職員浴場、第二坑道の建物内にも浴場があった。
それにしても、なんだこの圧倒的なインパクトの光景は。ツタ系の植物に完全に覆われてしまったアパートが並ぶエリアに差し掛かってきた。これは・・・さすがに人は住んでいないよな?
アパートの階段に通じる入り口は、木の引き戸になっていた。歴史を感じる。金属だと潮風で劣化するから木を使っているのか、それとも昔は木の引き戸が当たり前だったからなのかは不明。
先ほど中央会館のフロントで見せてもらった、「池島マップ」を撮影してあったので、それをデジカメの小さな画面でチラチラと見ながら場所を確認する。ええと、東浴場に向かうには、「池島ストアー」のところを左に曲がらないといけないんだけど・・・
なんか、目の前に広がるのは廃墟アパート。行き過ぎたんじゃあるまいか。いくらなんでも、この先にお店やら公衆浴場があるとは思えない。
ちなみにこの建物は105号棟「池島寮」。100番台のアパートは職員用のアパートで、番号が大きくなるに従って住む人の役職と、部屋のグレードが上がるそうだ。係長以上が住む家は風呂付き。それ未満は、共同浴場通いとなる。
※この島には「職員」という人たちと「鉱員」という人、そして「協力会社」という人がいる。
池島寮は、独身の職員向け住居。

少しだけ戻る。
そういえば、何か団地とは違う建物が見えていた。よく見ると、「長崎市設食料品小売センター」と書いてある。あー、地図上で「食料品小売センター」と書いてあるやつか。
この中に、島唯一の飲食店「かあちゃんの店」があると聞いているが、さて、やっているだろうか?

お。館内は電気がついているぞ。営業しているらしい。
そういえば、先ほど車で送ってくれた人が、「今晩は『かあちゃんの店』で食べるの?」と聞いてきたっけ。

長崎市設食料品小売センターの中に入る。
入ってすぐのところに「かあちゃんの店」があり、入り口正面にはちょっとした食料品と日用品が売られていた。
売られているのは、これだけ。
ううむ、と思わず唸ってしまった。人間、最低限の文明的な生活を営もうとするとこの程度でやっていけるのだな、と思ったからだ。もちろんここにあるだけでは不足だろうが、「これだけは置いておかなくては」というものが、ここに凝縮されているのだろう。
棚8段のうち、スナック菓子が2段を占める。そしてカップラーメン、袋麺が3段。日本人の主食であるコメは、生米としては売られていない。「サトウのごはん」形式で売られている。
あれ?肉とか野菜はどこだろう。
ひょっとしたら、別のところに冷蔵棚があって、そこで生鮮食料品が置いてあったのかもしれない。冷やかしで入った我々なので、長居はしなかったので見落とした可能性がある。
建物は広いのだけど、ベニヤ板で仕切られてしまいほとんど使われていない。そして今いるエリアも、シャッターが閉まっているところが多い。
昔は行商人が本土から100人ほど毎日やってきてここで物を売っていたそうだ。なるほど、民間スーパーじゃないんだな、この建物は。だから「長崎市設」なんだ。長崎市は行商人に場を提供していた、というわけだ。
しかし閉山して人がいなくなったこの島では商売が難しく、行商人の高齢化も相まって次々と規模縮小。今や「かあちゃんの店」だけになってしまった。

その「かあちゃんの店」だけど、朝8時から18時くらいまで営業しているそうだ。不定休、客がいないときは早じまいしてしまうこともあるとか。
「しまった、飯はここにしとけばよかったな」
ばばろあがぼやく。僕も正直、ちょっと悔しい。
今日の日程上、ひょっとしたら船に乗り遅れてしまい島への到着が大幅に遅れる可能性があった。そのため、18時「頃」と言われている閉店時間に間に合う自信がなかったし、そもそも不定休なのでやっていない場合もあり得る。島に来て何もなかったら、飢えを凌ぐ手はずがもう何もない。自販機でジュースを買って飲むしか、残されていない。そういう危険性があったので、食事はすべて本土から運び込んだのだった。
日持ちする食料ならば、「今日はかあちゃんの店のお世話になって、買ってきた食料は明日にでも食べよう」と機転をきかせることができた。しかしなにしろ、買ったのはお刺身だ。キング・オブ・なまもの。明日の朝食べるのでさえ、よろしくない。「うーん」といいながら、この場を立ち去るしかなかった。ちなみにかあちゃんの店はしっかりと営業中だった。
今こうやって文章を書いていて気がついたのだが、営業は朝8時からだというなら朝飯をここで食べればよかった。朝飯は各自菓子パンを買っていたのだけど、そんなものは保存がきく。池島の大スペクタクルな光景に圧倒されて、そこまで頭が回らなかった。
ちなみにこのかあちゃんの店、「うどんとそばと、丼ものと、とんかつ定食くらいならあります」というよくありがちな定食屋とは一味ちがう。人気メニューとして、長崎ご当地グルメである「トルコライス(900円)」が鎮座しているから全くあなどれない。
しかも、ちゃんぽん(750円)や皿うどん(750円)といったメニューもあり、観光客を歓喜させる内容になっている。いいなあ。トルコライス、人生で一度も食べたことがないんだ。池島で食べてみたかった。

せっかくだから何か買おうか?とも思ったが、極めて日常的な商品しか売られていないので観光客が買うものは何もなかった。さすがに便所掃除用の洗剤を買っても仕方がない。「あっ、ウチで使っているのと同じヤツだ!」とは思ったけど。
小売センターをあとにする。
「それにしてもおかしいな、確か『池島ストアー』を目印に曲がるはずだたのに」
そして現実を目の当たりにした。
地図上で「池島ストアー」と記されているその地は、跡形もないさら地だった。

17:29
「東浴場」を目指して歩いて行く。
このあたりはアパートの密集エリアだ。鉱員とその家族が生活を営んでいたわけだが、今や廃墟だ。あ、いや、まだ人が住んでいるかもしれないから、「廃墟」と言い切ってしまってはまずい。
かあちゃんの店があるくらいだから、この近くにも人は住んでいるはずだ。いくらなんでも、誰も住んでいないところにお店は出さないだろう。

この島のアパートの多くは4階建てだった。5階以上になると、階段での昇り降りがしんどくなるからだろう。もちろん昔の建物なので、エレベーターなんてものは備わっていない。
それを思えば、軍艦島は容赦なくアパートが高層化していたのですごい。土地がないんだからしょうがないじゃなか。歩け歩け、というわけだ。池島はまだ土地に若干の余裕があったので、こうして4階建てのアパートで済んでいるし、整然とした区画整理で団地が形成されている。
傷んだ建物ではあるが、部屋によってベランダのサッシが新しかったり古かったり、様々だ。人がモザイク状に抜けていったからだろう。一斉に建物の住人全員が抜けたわけでなく、長い月日をかけて徐々に人がいなくなっていったことが伺える。新しいサッシの家だって、今はもう誰も住んでいない。
こういう建物の場合、どのフロアに住むのが一番贅沢なんだろう?最上階の4階は見晴らしがいいけど階段の昇り降りがしんどい。かといって1階だと草木が迫ってくる。防犯という点ではこの島なら問題ないだろうけど。結局2階に住む、というのが一番よさそうだ。

13号棟。
アパートを一つ一つ見ていけば、建造年月によって個性があるのだろう。しかし、ざっと通り過ぎた程度ではさほど「おや?」と思えるほどの特徴は気づかなかった。どの建物も、必要最低限のシンプルな作りになっている。
この建物はベランダに対して窓が2つ。2DKの間取りだ。多くの鉱員用住宅では、6畳と4畳半の部屋にダイニングキッチン、という間取りだったらしい。一家が住むにはかなり狭い。
ちょっと変わっているのが、ベランダで隣の家との境に、収納スペースがあるということだ。木の扉が付いている。あと、窓はサッシになっているものの、木の雨戸が備わっている。サッシにしたのは後世のことで、最初のうちは木枠の窓だったのかもしれない。

東浴場は公園を右に曲がったところ、と地図には描かれてあった。
先ほど道を間違いかかったこともあるし、気をつけないといけない。しかし、我々が歩いている道には、公園らしきものが見えてこない。しまった、また道を間違えたか?と一瞬身構える。
なにしろ、参考にしているのが手書きの地図だ。縮尺とか方角がデフォルメされて描かれているだろうから、気をつけないといけない。
と思っていたら、おや?何か公園っぽい入り口がある。
しかし、その入口の先は、単なる茂みだった。これは公園だろうか?

17:30
結論から言うと、この茂みが公園で正解だった。建物でさえ植物に覆われるこの土地なんだから、公園なんてあっという間に植物ワールドになってしまう。
このあたりは電線だけでなく、パイプも空中を伝っている。
「発電所でできた蒸気をこっちまで運んでるんよ」
ばばろあが教えてくれる。
港から中央会館に向かう途中に発電所があるのだが(車でビューンと通り過ぎたのでこのときは全く見ていない)、そこでは商品にならない微細な石炭を使って海水を沸かし、蒸気でタービンを回して電気を作っていた。同時に淡水も作っていて、国内初の海水を淡水にする設備が備わっていた。このお陰で、外海からの海底上水道パイプを使わなくて済んでいた。むしろ逆で、周辺地域が干ばつになったときは造水機で作った水を送り出していたというのだから驚きだ。
発電の際には蒸気もできるので、それがこうやってパイプで島内を巡っている。蒸気の熱を使って各施設で湯を沸かしたり、暖房や工場の動力にも使っていた。
なぜ地中化していないのか不思議だが、地下にパイプを掘るよりも設置やメンテナンスが楽だったのだろう。
もちろん今は発電所は稼働していないので、このパイプも中身はカラだ。

17:31
東浴場到着。
銭湯というより、公民館といった風情の建物。
建物の入り口に、親子連れがいた。この人達は中央会館の宿泊客ではなかったので、島民かもしれない。ということは、子どもたちは数少ない小学校の児童、ということになる。このあたりに住んでいるのだろうか?

入浴料金は格安で、1回100円。
運営母体はどこだろう?昔は炭鉱施設の一部だったのだろうが、今となっては過去の話。営利目的でやっている金額ではないので、長崎市が引き継いでいるのだろう。炭坑が営業していたときは、入浴料は無料だったというのだからすごい。
営業時間は16時から21時。3交代制で仕事をするのが炭坑なのだから、風呂だって24時間営業にしてもいいのに・・・と思うが、蒸気で湯を沸かす音がかなりうるさかったため、短い営業時間にせざるをえなかったそうだ。

銭湯の中に入る。
男性と女性に入り口が分かれており、その真中に番台がある。しかしこの番台からは更衣室は見えない作りになっている。昔ながらの銭湯とは若干違ったスタイル。
小銭がなかったので千円札を出したら、番台のおばさんは困った顔をした。100円玉はないか?という。持ち合わせがなかったので、蛋白質から100円を借りた。
入浴料100円というこの浴場において、1000円札だなんて高額紙幣。お釣りをいくら用意しても足りないので、小銭持参は必須マナーだ。

広い更衣室。
なんでこんなに広いのだろう。昔は真ん中にソファとか置いてあったのだろうか?それとも、鉱夫たちの装備品などを置けるように、棚を大きく・広く設置していたのかもしれない。

東浴場の浴室。
広い浴槽が真ん中にある。しかし、奥の方半分は浴槽が潰されている。おそらく、入浴する人が減ったので、浴槽サイズを半減させたのだろう。
あと、壁際に小さく細長い浴槽のようなものがある。ザブンと浸かるには小さすぎるので、ここは汚れ物を洗ったりする場だったと思われる。
シャンプーとボディーソープは備え付けられていないものの、番台で貸してくれる。なのでタオルさえ持参していればOKだ。

「なんかこのお湯、のぼせやすい気がするんよね。気のせいだとは思うんじゃけど」
「ばばろあ!それはわかったから、湯船に入れ。今から記念撮影するんだから」
「ええじゃん、ここにおっても」
「お前の股間が丸出しなんだ。それをあとでモザイクをかけにゃならんこっちの立場にもなれ」
「かまわん、かまわん」
「なんで友達のチ●コ写真を拡大しながら、修正をしなくちゃならんのか・・・」
そんなわけで撮影された写真がこれ。さすがに修正済みだ。
昔っからばばろあは風呂での写真撮影時に股間を出すことがある。アワレみ隊旅行の定番ともいえる。昔なら、そういう写真を見ながら全員で爆笑して、「もー、ばばろあったら!見えちゃってるぞ!」と手を叩いていたものだ。しかしさすがにそんな写真を保存するわけにもいかず、修正する手間が面倒ということもあって、今では「股間丸出し写真」のたぐいはほとんど撮影していない。
最近は自分のPCの写真フォルダの内容が、自動的にGoogleフォトにアップロードされる仕組みにしてある。他人と写真共有する上でとても便利なのだが、股間のキノコが写っている写真をGoogleのサーバにあげてしまうと、Googleから「ポルノ」とみなされてアカウント剥奪という処分を受ける可能性がある。なので写真の修正は大事だ。

18:15
のぼせて脱衣所で放心状態のアワレみ隊御一行様。

18:16
東浴場の入り口に設置されている自販機。
取り扱い飲料の数が少ない。その数、7種類。これだけボタンがあるのに。
あれこれ種類を用意しても売れないし、頻繁に補充できないので同じ飲み物をたくさん在庫しておこう、という考えがあるのだろう。これならそう簡単には売り切れないぞ、というわけだ。
それにしても、一番の売れ筋は缶コーヒーなんだな。ジョージア「至福の微糖」が上一段すべてを占拠している。
侮れないのはリアルゴールドだ。こういう厳選された品揃えにおいてもちゃっかり居場所を作っている。ということはこいつ、売れているというわけだ。やるなぁ。

18:17
宿に帰る前に、もう少しこのあたりを探検してみる。
こちらのアパートも、先ほどの13号棟と作りは一緒だ。しかし早い段階で住人がいなくなったようで、荒れ方が進んでいる。ベランダの柵も、新しくなっているところはない。8号棟。

18:19
アパートの一部屋に、何やら後づけのホースが伸びているのが見えた。コンクリートの灰色に対して、青と、ピンクと、灰色の3本のホースは目立つ。なんだろう、これは。

その建物の1階部分。木の扉。103号棟。
おっと、その左側に湯沸かし機が設置されていた。明らかにもともとあったものではない。そしてそこから、3本のカラフルなホースが伸びていた。
なるほど、3階の住人がお湯を使うために引っ張ったホース、というわけだ。
おそらく発電所が止まるまでは、各住戸にお湯が供給されていたのだろう。しかしお湯の供給が止まってしまったので、自己解決したというわけか。

広がる団地、伸びるパイプ、覆う草木。
人の気配が全くない。もちろんこのどこかに人は住んでいるのだろうが、建物に対して人口密度が低すぎる。とても不思議な光景だ。
このあたりは1桁番台のアパートが連なる。おそらくこの島でも最古参の部類に入る鉱員アパートなのだろう。

ばばろあが
「もう帰ろうで、人が住んどるんじゃけえ、あんまりよそもんがうろついちゃいかんと思うで」
と主張する。僕は隅から隅まで観察したいのだけど、ばばろあがそう言うので諦めて帰ることにした。この先もう少しいけば、三井松島産業のクラブハウスだった建物があったのだけど。
この建物は今後どうなっていくのだろう?いくら風化するとはいえ、5年10年で倒壊はしないだろう。お金をかけて三井松島産業がこの建物を取り壊すとは思えないので、このまま時間をかけて、ゆっくりと、ひたすらゆっくりと壊れていくのだろう。
数年に一度、定点観察すると興味深いと思う。しかし、くちていく建物を自分の老いと重ね合わせて見てしまい、とてもさびしい気持ちになりそうだ。
そもそも、10年後、20年後の池島は有人島なのだろうか?日帰り炭鉱ツアーは相変わらず行われると思うが、無人島になっているかもしれない。

部屋によってサッシが違う。4階左端の部屋は、窓枠が小さく区切られていてちょっとおしゃれ。しかし、ベランダの柵はなくなっている。

静かな団地。見渡す限り我々しかいないし、音もしない。

アンテナが立つこの建物は、住宅ではなさそうだ。窓の形が違う。
電話局だろうか?それとも役場の派出所かなにかがあったのだろうか?
池島は、軍艦島と違って研究が進んでいないようだ。ネットで調べても、建物ごとの詳細な記録というのは出てこない。せっかくまだ現役の島なのに、と思うが、逆に現役の島だからこそ研究対象になりづらいのかもしれない。
後で書籍を読んで知ったのだが、これは当時「女子寮」だったそうだ。知らなかった。
ちなみにこの建物の左側には、今でも現役の「長崎市立池島診療所」がある。廃墟に近い建物に取り囲まれても、病院はやっている。

18:28
団地エリアを抜け、池島中央会館に向けて戻ってきた。
コミュニティバスが通る、この島のメインストリートに出てきた。
右奥に池島簡易郵便局の建物が見える。正面は、これまで見てきた団地とは違う2階建ての建物が建っていた。なんだろう、これは。

「新店街」とかつては呼ばれていたエリア。
「チョーコー醤油」などと書かれたホーローの看板が二階の柵に掲げてある。その隣は「美容」と書いてある。おっと、シャッターに「電気商会」の字も。どうやらこのあたりは住民の生活に必要なお店が並んでいたらしい。
もちろん今となっては一軒たりとも営業していない。でも、車が停車していたり、シャッターが上がっている店舗もあるので、中にまだ人が住んでいるかもしれない。

18:31
中央会館に戻ってきた。
中央会館前の自販機は、東浴場と違って品揃えが充実していた。それでも、最上段にコーヒーが並んでいるのは一緒。池島ではコーヒーが大人気っぽい。

18:35
中央会館の1階にある大会議室。
前方には舞台があり、昔ここが映画館だった余韻が残っている。

会議室後方は池島の歴史を知ることができる資料館のようになっていた。これ幸い、とここでお勉強をしていく。
これまでほとんど池島の知識がなかったので、さっき歩いてみてもどこに何があるかわからないし、この島の歴史だってよくわかっていない。遅まきながら、勉強しなくちゃ。知りたいことがいっぱいありすぎる。

白い服が展示されていた。
えっ、鉱夫ってこんな白い服を着ていたの?と驚く。炭やら砂埃やらで真っ黒になるだろうに、こんな白い服を着る意味ってあるのだろうか。自動車メーカーのホンダは作業用のツナギが白いけど、それと一緒だろうか?
・・・と思ったら、鉱山救護隊の服だった。鉱山といえば落盤、爆発、ガス充満など危険と隣り合わせ。こういう救護隊も当たり前だけどスタンバイしていたというわけだ。

松島炭鉱(株)の歴史、というデータがある。
池島炭鉱は3つの炭鉱の中でもっとも歴史が古く、そしてもっとも最近まで操業し、出炭量がとても多かった。良質の炭鉱だったらしい。あと、強制労働といった負の歴史を抱えていないのも、戦後開業の炭坑ならではだ。

「小中学校、アパート群完成間近」と銘打たれた白黒写真。
小中学校は奥にぽつんと離れた場所にある建物だろうか?だとすると、まさにこの写真のアパート群は、先ほど僕らが見てきた「緑に埋もれていく建物」だ。写真を見ると、造成したばかりなので草木がまったくない。瓦礫が転がっているくらいだ。この殺風景な景色から、よくもまあ今のような緑地化・・・人間が望まない形だけど・・・になったものだ。
写真中央上の、まださら地の部分が東浴場あたり。
昭和53年まで1,200戸が建設されたそうだ。ちなみに池島の人口が最大の7,776人になったのは、昭和45年(1970年)のことだ。2001年閉山とはいえ、人口ピークはその30年も前だったということになる。僕が生まれる前だ。
そりゃそうか、2001年の閉山までフル稼働で出炭して、いきなりブレーカーを落とすように「はい!今日で終わり!」ということはありえない。緩やかに閉山に向け、人員整理や規模縮小が行われていたのだろう。

池島港に停泊する石炭船の写真。

池島港の船着き場から、対岸の石炭を積み込む港が見えたが、当時は写真のように石炭が山積みになっていた。どんどん船に積み込んでいかないと、山が崩れそうだ。
ジブローダーというのは、貯炭場に積み上がった石炭をかき集め、ベルトコンベアに載せるための機械。

そして、ジブローダーによってベルトコンベアに載せられた石炭は、石炭積み込み機を経由して船へ。

「現在の池島(2000年頃)」と書かれた写真。
池島港を見下ろす位置から撮影している。どうやら、貯炭場の上にある、選炭工場上部から撮影したものだ。
あれっ、船着き場が見えるのだけそ、そのすぐ脇にもアパートが立ち並んでいる!?
ここ、もちろん先ほど歩いた場所だけど、何もないさら地だった。島の玄関口なのに、なんで何もない空き地なんだろう?と不思議だったのだけど。既に取り壊された後だったのか。
放置されているだけでなく、取り壊しされた建物もあるのだな。しかしなぜ港周辺を壊したのだろう?傷みが激しくて、倒壊の恐れがあった・・・とか、たまたま住民が全員いなくなったので、取り壊した・・・とか、島の玄関口なので人が住んでいない空き家を残しておくのはよくないと思った、とか・・・理由はよくわからない。

こちらは書籍。炭鉱全盛時代の池島、と銘打たれている。
あ、こちらの写真も港付近に団地がある。
島の右側が不自然なコブ状に膨れ上がり、海に突き出ている。これはボタを海に捨てていった結果だ。もともとの島の形ではない。第1埋立区域、と呼ばれている。
港がある入り江から一段高い高台に、アパート群が見える。我々がいるのも、ここ。小さく小中学校があるのが校庭の形ではっきりとわかる。

これは先ほどの写真とは逆(南側)から空撮したもの。
先ほどの写真では手前に見えていた池島港が、奥に見える。
これはすごい。異様な光景だ。島なのになんでこんなに団地があるんだ?と知らない人が見たら驚くに違いない。
アパート群の中に、赤い屋根の建物が見える。これがさきほど入った、「かあちゃんの店」がある建物。・・・いや、赤い建物は2つ並んでいるな。もう一つのほうが、今やさら地にされてしまった「池島ストアー」なのだろう。かなり大きかったことが伺えるけど、今や何も残されていない。

池島の立体地図。
建物がずらっっと密集していたことが伺える。

島に関するお勉強を終え、驚いたり感心したり嘆息したりしながら部屋に戻ってきた。まだ現役の島だからこそ、奥が深い。軍艦島の廃墟もすごいが、むしろこの池島のほうがすごいんじゃないか?
本当の廃墟になってしまうまえに、「有人島」であるうちに池島は探検したほうがいい。無人島になってしまったら、廃墟が存在していることが当然になってしまう。それでは意味がない。現役の島だからこそ、「うわっ、アパートが緑に飲み込まれてる!」という驚きと、諸行無常を感じ取ることができる。
今がまさに「見ごろ」なのかもしれない、池島は。
夕食の準備を始める。「かあちゃんの店」でトルコライスを食べなかった分、ここであれこれ食べよう。

フカ(サメ)の湯引きがあったので、酢味噌をかけて食べてみる。
この手のもので美味いのに出会ったことがないのだけど、ひょっとしたら長崎のフカはうまいかもしれん・・・とチャレンジした品。
「うん、いまいちじゃね」
ばばろあがくちゃくちゃと噛みながら一言。うん、僕もそう思った。
ふかの傍らにはえんがわ。

水産食堂で買った鯨カツもお目見え。3皿分も買い込んだので、みっちりと詰まっている。昼に食べたんだし、そこまでしなくても・・・とも思うが、なにせ美味かったんだからしょうがない。そして次回いつ食べることができるやら、と思うと、ついつい買い込んでしまったのだった。
その横には蛋白質のリクエストで、かき揚げが置いてある。・・・なんでかき揚げ?
蛋白質は、スーパーでしきりにきょろきょろしていた。彼が言うに、
「玉ねぎ料理を探しているんだ」
とのこと。何を言ってるんだ?意味不明だ。しかも、
「折角外海にやってきて、遠藤周作の世界に触れることができるわけだし」
と謎なことを言っている。そのどこが「玉ねぎ料理」なのか、いよいよわからない。シンプルに「血液サラサラにしたいんです」とか言えよ。
「いや、遠藤周作の『深い河』で、イエス・キリストのことを『玉ねぎ』と表現しているんだよ。だから今回それにちなんで玉ねぎ料理を食べてみよう、と思ったんだ」
へえー。だからかき揚げなのか。まさかの展開に遠藤周作先生もびっくりだ。でも確かに、スーパーで売っているお惣菜で、確実に玉ねぎを食べることができるのはかき揚げだ。

乾杯。今日もよく歩いた。昨日も歩いたが、健康なうちが華だな。特にアワレみ隊が愛してやまない「離島散策」なんて、足腰が弱るとてきめんに難しくなる。
ばばろあがビール、蛋白質がノンアルコールワイン、そして僕がノンアルコールビールを掲げる。

「蛋白質、飲めるクチなんだから本物のワインでもいいのに」
蛋白質が、まるで本当のワインを飲むかのようにちびちびと「ワイン風味のぶどうジュース」を飲む。
「いや、案外これも本格的だぞ?アルコールが入っていないのに酔ったような気がする」
「本当に酔ってもいいのに」
「最近疲れているんで、酔ったらすぐ寝てしまいそうだわ。今日は飲まんでええわ」
彼はさほど酒が強いわけではない。大学時代、腕に貼るアルコール耐性のパッチテストを受けて、皮膚が赤くなった!ということを何度も何度もアツく語っていたっけ。「だから俺は酒が弱いんだ!」と胸を張る。

今日も昨日に引き続き、ばばろあの独演会状態。とにかく、こっちが相槌を打つ限りは彼が延々としゃべり続けるのには驚いた。「~だと思わん?」と時折聞いてきたり、「~と思うんよ。」と同意を求めてくるので、それに対して「そうだねぇ」と返すと、そこからばばろあはさらに話を続けていく。憂国の人として時には問題提起をし、時には残念がり、ひたすら話は続いた。
どんな話題の展開だったか忘れたが、ばばろあが蛋白質によからぬ提案をした際、蛋白質は「失せろサタン!」と大きな声を上げて一蹴していた。さすが蛋白質、とっさに出る言葉も大げさだ。
ちなみに蛋白質は昔っからいちいちオーバーアクションをとる。特にそれが顕著なのが「なるほど!」と思った時だ。わざわざ手をポン!と打ち、「なるほどポーズ」を内外に見せ付ける。わざとらしい身振りをするところが愛すべきキャラだ。
会話は延々と続いたが、12時前になってお開き。解散となった。
ばばろあは部屋に戻る際、「さてこれから寝る前にちょっと仕掛けてこないとな」と言う。何かと言うと、持参したタブレットでゲーム「艦これ」をやらなくちゃいかんのだという。旅行先でもやるの?と驚いたが、彼は照れ笑いを浮かべながら
「数日間家を留守にしている間、放置しておくわけにもいかんのでね」
という。なんのこっちゃ。僕は艦これをやらないのでよくわからん世界だ。
「いやね、わしだって最初はこんなんやる気、なかったんよ。もともと軍事ものとか艦船とかは詳しい方じゃけえ、『何を今更!』って思っとったんよ。じゃけど、いざやってみると・・・おもろいねえ、これが」
艦これが世に人気となって早数年、遅まきながらばばろあは現在進行形で没頭中。
「3階じゃとWi-Fiがうまく入らんのよ。これから1階行って来るわ。明日の朝もやらんとな」
と独り言を言いながら、彼は自分の部屋へと戻っていった。夜の見回り、お疲れさまです。
さて僕らはゲームなんてないことだし、とっとと寝よう。明日は炭鉱ツアーに参加後、大移動して佐賀県の嬉野温泉行きだ。
2017年05月04日(木) 3日目

3日目の朝を迎えた。
天気は晴れ。GWといえば天気が悪い、という印象が強烈に植えつけられているので、お天気続きだとむしろ拍子抜けさえする。やっぱり、2001年のお遍路が「7日中6日、雨だった」ということが大きい。

ばばろあはこの旅行のことを「トラウマだ」とさえ言っているくらいだ。
池島小・中学校の奥に、灰色の大きなアパートが立ち並んでいることに気が付いた。あそこが、池島の名所ともいえる「8階建て高層アパート」なのだろう。今日はこのあと、あそこまで見に行く予定だ。

一方、海側はこんな感じ。右手に見えるのは松島。もともとはここに炭鉱があったわけだけど、閉山後この池島に移ってきて石炭を掘っていたことになる。

301号室の隣にある「研修室」を覗いてみた。
畳敷きの広い部屋で、洗濯物が干してあったりアイロンが置いてあった。
団体の宿泊があるときはこの部屋で寝泊りするのかもしれない。今日は使われていない。

小・中学校とは逆方向を見ると、やぐらが立っていた。あれが第一立坑(排気立坑)のやぐらだろう。まだ風雨に晒されて倒壊しないまま現存しているのだな。
軍艦島には立坑のやぐらは全く残されていなかった。こんな塔、錆びるしゆがむし、人の手が離れたらすぐにダメになってしまいそうだ。しかしこうやってまだ残っているのは、閉山から16年しか経過していない賜物だろう。
鉱山が出炭しはじめた当初は、ここから人の出入りも炭の運搬も行っていたそうだ。しかし後年、人の出入りが島の西部にある第二立坑に移り、炭もベルトコンベアを使うようになったため、この立坑は排気のための穴として機能していたそうだ。
深さは639メートル。海面からは548メートルの地下。そこまで、最大時速54kmのケージに乗って乗り降りしていたのだから怖い。絶叫系アトラクションなみのスピードじゃないか?54km/hって。
ケージは3段になっていて、それぞれの段に人やモノが積み込まれる。それが2つあり、井戸のつるべのように片方が地上に上がればもう片方は地下に、という動きになっていた。

二階に、「第三会議室」という場所があった。扉が開いていたので中を覗き込むと、ここも一階の大会議室同様に池島関連の展示がされていた。

鉱山の島として大開拓する前の池島。
あっ、池島港となっている場所が、島の名前どおりに「池」になってる!本当に「池島」だったんだ、ここ。不思議なものだ。
当時は「鏡池」と呼ばれていたらしい。
写真を見ると、当たり前のことだけど島は急峻な山で構成されている。人間様の都合のよいように、山のてっぺんが平らな高台にはなっていない。ということは、このあたり一帯、大規模に造成して平らにしたのだな。炭鉱のためにそこまで島を大改造しやがりますか。

会議室を見渡す。長机とパイプ椅子。

朝ごはんを食べる。
3人ともバラバラに食事をとっている。僕みたいなセンチメンタリストは「みんなで揃ってご飯を食べたほうがいい」と考えるが、ばばろあは逆で、「朝飯なんてすぐに済むんだから勝手に各自の都合で食べればいいじゃないか」という発想だ。そのため、今朝はめいめいが黙々とメシを食う。
僕は、昨日のスーパーで買った菓子パン2個を食べる。
菓子パンなんて普段全く食べないので、「こんなパンがあるのか!」と驚きながらの食事だ。それにしてもカロリーが高そうだな、と思って袋の裏面を見て後悔した。見るんじゃなかった、と。
そのくせ、「デミグラスダブルバーガー」とか「ビスケパン」とか、名前を聞いただけでハイカロリーが予見されるものを敢えて買ってしまった。「めったに買わないんだから、今回くらいはカロリーには目をつぶろう」と。

08:42
朝ごはんを食べたのち全員集合し、池島中央会館を出発した。
荷物はまだ置いてある。チェックアウト前に、第二立坑、8階建て高層アパートなどがあるエリアまで歩いていこうと考えているからだ。
そして、中央会館の人から「小中学校の裏にある四方岳(よんぽうだけ)のてっぺんからは、島を一望できる」と聞いていたので、そこに行ってみることにした。
本格的な登山となればさすがに遠慮したいが、四方山はちょっとした丘だった。あれならすぐに山頂に行けそうだ。

08:48
学校の裏を歩いて山に向かう。
学校の校舎、これはまだ児童がいる現役のものだ。さすがに手入れがされている。
そんな校舎の壁に、標語が貼ってあった。
父さんの 肩をたたいて ご安全 母さんに 明るく優しく ありがとう あいさつは 笑顔でかけると いいきもち 思いやり いっぱいもとうよ あふれるように
この島では、「こんにちは」にあたるあいさつ言葉が「ご安全」だ、と昨日の夜中央会館の展示品で学んだ。そうか、炭鉱マンの間だけでなく、子供たちもこの言葉を使っていたのか。
「ご安全!」
いい響きだ。僕らも使いたいものだ。

校舎の脇を通って、山に向かう。
山の中腹に神社があるはずだ。その参道でもある。

08:49
ありゃ、校舎の裏手にもアパートが広がっているのか。
こちらは道路が既にはっきりとしていない。草原に団地が広がっているかのようだ。人から完全に放棄され、立ち入らなくなった場所なのだろうか?

そんな団地の傍らには、青い何かが見えた。中学校のプールだ。小学校のプールは、体育館の裏にあるという。
島ではあるけど、潮流が早いために海水浴は禁止されていたそうだ。なので、泳ぐときはプールだけ。しかも海水プールだ。このあたりは軍艦島と事情が一緒だ。

08:50
鳥居が見えてきた。ここから本格的な神社っぽい。参道はしっかりとしていて、朽ちた様子はまったくない。

階段を上ってすぐのところに、池島神社があった。
島民から現在進行形で信仰されている神社だけあって、きれいに保たれている。
おやしろ、というよりも「大きなあずまや」的なつくりになっている。四隅にある柱で天井を支えているだけで、壁がないからだ。向こうが透けて見える。
山の神様である大山祇命と伊耶那美命を祀っている。島の開発の際に複数の神社が統合したため、神様が合祀されたためだ。

08:53
ここからさらに上を目指す道がどこにあるのか、ちょっと探したけど見つかった。学校から登ってきた石段のすぐ近くに、細いコンクリート道があった。
ただしこの道はちょっとした急斜面で、直登。わざわざ、安全確保のためにトラロープが張ってあるくらいだ。

08:54
コンクリートの道を登ったら、大きな貯水タンクに突き当たった。四方山がこの島では一番高い場所になるので、ここまで水をいったん上げて、そして各家庭や施設に水を供給していたのだろう。
「タンクがある場所が山頂じゃないから気をつけて」
と中央会館の人には教わっていた。このタンクの脇に、さらに上に登る道があるのでそこを登ればすぐ山頂だ、と。ここからだと眺めが悪いので、もう一段上を目指さなくちゃ。
言われるままにタンクを時計回りに回り込むと、上に登れる道があった。

08:55
四方山山頂が見えてきた。既に到着していたばばろあが写真撮影をしている。
風が強いせいだろう、木がまったく生えていない。草だけだ。これは展望がよさそうだ。
08:56
「見てみい、すごいで」
先に四方山の山頂に着いていたばばろあが声をかけるので、振り返ってみたらこの光景。

うわあ・・・なんだ、これ。
兵どもの夢の跡、というのが目の前に展開されていた。見渡すかぎり、ほぼ廃墟。視界の片隅に見える学校だけが現役で、あとは全部コンクリートの置物だ。
正面に、屏風のようにそそり立つのが「8階建て高層アパート」群。池島の象徴とも言える建物だ。このあと、あの建物の近くまで行く予定だが、遠くから見てもものすごい存在感だ。
これが全部、昔人が住んでいて賑わっていたんだぜ・・・
そして今、誰も住んでいないんだぜ・・・
信じられない。
そもそも、東京23区内に住んでいる僕は、「無人になった建物が放置されっぱなしになっている」という光景を見る機会が滅多にない。そんな土地があったら、すぐに売却され、再開発されるからだ。もちろん人口減で空き家率が全国的に増えているのは知っているけど、身近なところで空き家や廃墟に慣れ親しんでいない。
だからこそ、こうやってガツンと廃墟を見ると、唖然としてしまうのだった。
炭鉱の島・池島だから廃墟があるんだ・・・なんて他人ごとじゃない。この光景は明日の日本全体の光景でもある。そしてそれは現実的に迫ってきる話だ。そういう「予感させるリアル」がこの光景にあるからこそ、ゾッとする。

8階建てアパートをズームしたところ。
さすがに8階建てだと、上層階に住んでいる人の昇り降りがしんどい。なので、背後の丘にある道路から5階部分に渡り廊下がつながっていて、そこからも人が出入りできるようになっている。つまり、4階建ての建物が縦に2つ、連結されている形だ。
そんな構造が、ここからの眺めでもよくわかる。
アパートの隙間から、5階部分の渡り廊下がちらっと見えている。
場所によって色が違う、というのが面白い。
右側の建物は、港付近にあったアパートと同様のクリーム色をしている。しかし、左側の建物は下半分がクリーム色、上半分が「いかにもコンクリート!」な灰色だ。廃墟カラーとでも言おうか。
左の建物のうち、上のほうが築年数が古い・・・なんてことは物理法則上ありえないので、おそらく「もともと灰色だったけど、ひび割れとか水漏れがあるので大規模修繕で外装をクリーム色に塗り直した」のだろう。
左上の部分が塗り直されていない、ということは、大規模修繕をした時点でそのエリアには人がすでに住んでいなかったのかもしれない。

8階建てアパートから視線を左に向けていったところ。
足元に学校の校舎がちらっと見え、校庭も見える。そしてその奥にずらっと並ぶアパート。ここは昨日、「かあちゃんの店」を経由して銭湯に入るために散策したエリアだ。
なので、うっかり「見渡す限り全部廃墟」とか言ってはいけない。この界隈はまだ住んでいる人がいる。

ズームしたところ。
「かあちゃんの店」がある小売センターと、アパート群。鉱員住居のアパートだ。
「池島ストアー」があったとされる場所は完全にさら地。かなり大きな建物があったことが伺える。あとで池島の過去を伝えるwebサイトを探してみたら、池島ストアの建物自体は10年くらい前までは残っていたようだ。しかし、毎年いくつもの台風にさらされる九州なので、建物の劣化が早い。ボロボロになって危険なので、壊したのだろう。
その他の建物が廃墟になっても残っているのに対し、この池島ストアーだけは壊しているところをみると、よっぽど危なかったのかもしれない。
昨日、かあちゃんの店界隈のアパート群を見て「廃墟だ!すごい!」と興奮したものだが、8階建てアパートを見たあとだとまだまだ全然こちらは整然としている。

なにしろこの迫力だもの、8階建てアパート。
アパートの背後に、第二立坑がちらっと見えた。
第一立坑のようにやぐらの形をしていない、変わった形だ。しかし、立坑独特の大きな滑車はついている。これで地中深くに潜っていったのだな。

8階建てアパートと、かあちゃんの店の間にも4階建てのアパートは建っているのだけど、そのあたりは緑に覆われていた。
早い段階で人がいなくなったからなのか、それともこのあたりだけ日当たりが良いとか土地の状態が良いとかで、植物が繁殖したのだろうか?
かなり剛毛になっている。アパートが迷彩塗装状態だ。ここから狙撃されても、きっとわからない。

かあちゃんの店、銭湯、団地・・・とさらに視線を左に向けていく。正面に見える低い建物は、宿泊した池島中央会館。その奥には、団地ではない、工業的な三角屋根が見えてくる。
あそこが、池島炭鉱閉山後にリサイクル事業を手がけていた「池島アーバンマイン」の跡地となる。閉山前は、電気工場と仕上工場だった。工場のあらゆる機器の整備を行っていた場所だ。ベルトコンベアを始めとし、あらゆる製品のほとんどが既製品ではなく池島用オリジナルで、しかもほぼすべてが国産だったそうだ。
あのあたりから「連卸」と呼ばれる斜坑が地下に伸びていて、地中から石炭を運び上げていたはずだ。閉山時に現役で利用されていたという第二立坑は、人を運ぶ程度の施設に見える。8階建アパート周囲をダンプカーがひっきりなしに行き来し、石炭を運んだようには見えない。なので、石炭はこっちから陸揚げしていたのだろう。
そして、視野を遮るように、斜めに一直線に伸びる灰色の建造物が見える。ホースのように見えるが、コンクリートで固められた通路のようだ。窓もついている。空港のボーディングブリッジみたいだ。
これは「新ベルト」と呼ばれていた長距離のコンベアで、連卸から運び上げた石炭を山の上の選炭工場まで運び上げる施設だ。石炭を運び上げるのに、わざわざ屋根付き設備なのだから贅沢だ。濡らしたくないのは、石炭の品質が落ちるから・・・というよりは、機材が錆びるのを嫌って、だろう。

08:58
いったん池島の集落に背を向けて西北方面を見る。ひたすら青い海。・・・いや、うっすらと大きな島影が遠方に見える。あれが五島列島だ。

島の西南には、小島がある。
蟇島(ひきしま)。池島から3km沖合いにある島で、よく見ると大小2つの島からなる。
無人島だけど、何か人工建造物がちらっと見える。
第二立坑から潜った鉱夫たちは、トロッコやらマンベルトと呼ばれる装置で海底奥深くまで進んでいったのだけど、実際に採掘していたのはあの島のもっと向こうだったらしい。恐ろしく、遠い。「通勤時間」がかかりすぎて、これじゃ作業効率が悪すぎる。
しかも坑道の距離が長くなればなるほど、落盤や爆発事故のリスクが高くなるわけで、そういうことも閉山理由の一つなのだろう。
ちなみに島にある人工建造物は、排気立坑だ。巨大な扇風機が取り付けられているようだが、そこまで細かいディティールはここからは確認できなかった。なお、この扇風機のシャッター開閉は池島の第二立坑から無線で行われていたそうだ。

池島の北側には、大きな松島がある。
元はといえばここから石炭を掘り始めたわけだが、開発技術が未熟で水没事故を起こしてしまい、短期間で閉山してしまった。しかし、未だに「三井松島産業株式会社」という名前で会社が継続しているように、松島という名前とブランドはこの界隈では現在進行系だ。
今日、炭鉱ツアーを主催してくれるのも「三井松島リソーシス」という会社だ。「池島リソーシス」ではないのがちょっと不思議。
松島の玄関口となる港やメインの集落はこちら側ではないので、人の気配というのはあまりわからない。しかし、白い煙突のようなものが大きくそそり立っているのが見える。灯台にしてはデカすぎるので、何かと思ったらJ-POWER(電源開発)の松島火力発電所だった。
100万KWの発電能力を誇り、こいつだけで長崎県全域の電力を供給できちまうんだそうだ。で、そのエネルギー源は、よりによって「石炭」。もちろん、松島や池島からはもう石炭が採れないので、輸入石炭を使っている。
形は違えど、未だに「石炭の島」として松島は現役なんだな。

09:05
蛋白質が全く山頂に上がってこない。三人の中で最後尾だったとはいえ、遅れるにしてもほどがある。
ばばろあがしびれを切らし、
「おい、何やっとるんや!?」
と足元の貯水タンクあたりに声をかける。すると、貯水タンクあたりから蛋白質が
「どうやって登ればいいんか、わからん」
と情けない声を上げてきた。
「タンクの横に道があるで。そこから登ってこいや」
「いや、もうわからん」
「わからんことあるか。すぐ見つかるけえ、ちゃんとタンクの横まで行け」
「もうええよ、ここで待っとる」
ここでいらっときたばばろあ、ちょっと語気を荒らげ、
「山頂まですぐなんじゃけえ、ちゃんと探せや。登ってこい、アホ!」
と怒鳴った。大きな声でやりとりをしなければならないほどの距離ではない。普通の音量でやりとりができる程度の距離だ。それでも蛋白質は道がわからないし、登れないという。いや、声がする方向に向かっていけば、自然と道がわかると思うんだが・・・。少なくとも、上に登れば山頂に着く、というのは幼稚園児でもわかる道理だ。
「頭がぼんやりしてて、よくわからんのよ、もうここでええわ」
「まっとれ、迎えに行く!」
ばばろあが貯水タンクのところまで下りていった。
「知るか、勝手にやってろ」
と突き放さないのは、この山頂からの眺めが圧倒的であり、これを見ないで帰るという選択肢は絶対にありえないからだ。「道がわからないから諦める」にしてはあまりにもったいない。
ばばろあが苛立ったのは、「この光景を見ずして、お前はあっけなく池島を立ち去ろうというのか?」という理由でだ。ちなみに貯水タンクからでは、木々が茂っていて何も眺めはない。貯水タンクマニアでもない限り、来るだけ無駄な場所だ。
すぐにばばろあが蛋白質をキャッチし、山頂に戻ってきた。ばばろあにお説教されながら。目と鼻の先の距離だ。
「ほら見てみい、ばばろあはお前にこれを見せたかったんだぞ」
蛋白質が振り返ると、そこには島を一望する光景が広がっていた。
「おお」
我々から遅れること数分で、彼も若干テンションが上った。

09:07
四方山山頂でしばらく時間を過ごしたのち、下山する。
山頂から貯水タンクに向かっていく道。若干木が倒れ込んでいるのであるきにくいが、足元はしっかりしているので道をロストすることはない。そもそも、もう目の前にタンクの周囲に張り巡らしてある柵が見えているくらいで、タンクから山頂はすぐだ。
夏場はもっと下草が茂るだろうから、少し道がわかりにくくなるかもしれない。その点は注意だが、「タンク左脇から山頂に出られる」ということさえ知っていれば、道に迷うことはない。何しろ、「上を目指せば山頂」なのだから。

09:15
八階建てアパートの真下までやってきた。山の上から見下ろしてもすごい光景だったけど、下から見上げてもやっぱりすごい。なんだこりゃあ。
独特のデザインだ。これまで見てきた池島のアパート群は、企業が提供するアパートとしてはよくありがちな、機能性重視のシンプルな建物だった。しかしここだけは何やら形が変わっている。一言で言えば、凸凹が多い。
人っ子一人いなくなり、廃墟となった今、その凸凹が一層の凄みを感じさせる。
この建物は、太陽が高い位置にある真っ昼間よりも、朝夕のほうが陰影がくっきり出て写真映えすると思う。

唖然とした表情でマンションを見上げる蛋白質。

5階部分が背後の山と接続しているということもあって、5階の構造は他の階とちょっと違う。
ひさしのようなものが出っ張っている。

そして、背後の山から伸びている渡り廊下。
「あ、ひさしのようになっているのは、外廊下だったのか」
「そういうことか!」
3枚前の写真に写っている建物は、5階部分の廊下は外に突き出ているもののコンクリートで覆われている。しかしこちらの建物はそうなっていない。まさかコンクリートがごっそり落ちたとは思えないので、この建物は鉄柵が取り付けてあったのだろう。しかし、鉄柵が傷んで消滅してしまい、今や廊下からそのまま飛び降りることができちゃう構造になってしまっている。

このアパートには木の雨戸が備わっていたらしい。退去時に雨戸を閉めていったようだけど、時間の経過とともに破れてしまいボロボロだ。
雨戸、というのは一軒家に備わるものだと思いこんでいたので、アパートにあるのを見てびっくりした。
もちろん窓はサッシではない。

「蛋白質、このマンションは独特な作りをしているんだけど、それが何かわかるか?」
ばばろあが蛋白質にクイズを出す。もちろん、言うまでもなく5階部分が裏山からアプローチできる作りになっているという構造だ。
蛋白質名人、「うーん」と唸ったまま考え込んでしまった。あれっ、昨日から一連の池島学習をしてきたのに、覚えてないの?
「このアパート、エレベーターは付いとるか?」
「昔だからついとらんじゃろ」
「それじゃったら、上の階の人はどうしてたんじゃろうか?」
「うーん」
「日々の生活、大変よね?」
「まあ、たしかにそうだけど・・・」

「あ、見えちゃった」
悩んでいる蛋白質が、道端にある解説看板に気がついた。そこにはちゃんと答えが買いてあった。
昭和45年の炭鉱最盛期、池島の人口は約8,000人近くまで増えていました。住まいを確保するため、池島には多くのアパートが立ち並んでおりますが、ここのアパート群にはエレベーターが設置されていません。そのため、エレベーターを設置するかわりに地形の高低差を利用し、4階部分と5階部分に廊下と通路橋を設置することで、8階の住人は1階から8階まで、階段で上がらなくてもいいような作りになっています。この「8階建てアパート」は、アパート用地の確保が難しい中で、多くの従業員の住まいを確保するのに苦労・工夫してきたことを物語る、池島ならではの炭鉱関連遺産です。

「つまり、こういうことだよな?」
と蛋白質は、解説を読みながら何やら手をもぞもぞさせている。
「こうなって、ここがこうだから・・・」
どうやら、自分の頭のなかで、この8階建ての建物を立体的にイメージしているらしい。しかしそれって身振りは必要なのだろうか?
で、しばらくして、蛋白質はポン!と手をたたき、
「分かった!」
とにっこり。ばばろあから
「遅いわ!」
と言われていた。

09:17
「あれっ!」
「あれっ?」
思わずみんな声を上げてしまった。それは、くすんだ光景しかない中に、突然カラフルなものが見えたからだ。
コミュニティバス。こんなところにもやってくるのか!
ちょうど道がロータリーになっていて、その片隅に小屋があり、バス停の看板が出ていた。意外だった。
「このあたり、人が住んでいないだろ?・・・いや、住んでいるのか?」
思わず目の前の8階建てアパートを見上げてしまうが、どう見ても人が住んでいないっぽい。それ以前に、建物の手前には立入禁止の柵があり、物理的に人が住むのは無理だ。
「ちょうどいい転回場ってことでここにバス停があるんだろうな」
おそらく、「かあちゃんの店」からこっち側は誰も住んでいないはずだ。それでも、いちいちスイッチバックで転回するのは面倒なので、ロータリーがあるここまでやってきているのだろう。どうせ、車だと1分もあればここまで来ることができる。全体のダイヤには全く影響しない。
運転手さん、いるかな?と思って覗き込んでみたが、いなかった。まさか放棄されたわけではないだろうから、出発時間になるまでどこかで休憩をしているらしい。
バス停の名前は「神社下」。
神社、というのは先ほど四方山に登る途中にあった、池島神社のことだろう。ちょっと場所が違う気がするけど、「アパート下」という名前にするわけにもいかないのでしょうがない。

我々は神社下バス停からもっと先へ進んでいく。一本道が島の西に向かって伸びているので、行けるところまで行ってみようというわけだ。
道路は途中でぐるーっとヘアピンして、東側に向けて折り返す。その折り返したところにゲートがあり、そこから先は立ち入り禁止になっていた。
この先が第二立坑跡だ。
8階建てアパートと第二立坑の間に、昔は火葬場があったらしいが、面影はなにも残っていない。

第二立坑。
滑車が2つ、縦に並んでいる。
あそこから日々、炭鉱マンが地下深くに潜っていったのだろう。一日三交代制で24時間操業だから、深夜でもこうこうと明かりが灯っていたはずだ。
三交代制の人たちが大勢住む島なので、一日中常に誰かが起きている一方、常に誰かが寝ている島でもある。
池島の写真をあちこちの文献やwebサイトで見てみると、アパートの中に「とうちゃんをねかせよう」という標語が掲げられている写真があった。昼間とはいえ、アパートの廊下をドタドタと走り回ったり、大声を上げるのはやめよう、というわけだ。昔の池島の子供たちは、独特なマナーがあったというわけだ。
ちなみに3交代というのは、
一番方 06:00-14:00
二番方 14:00-22:00
三番方 22:00-06:00
という割り振りになっていたそうだ。

第二立坑前のロータリーには、女神像がある、と地図に描かれている。見ると、確かにそれっぽいのがあった。僕のカメラではこれが限界。
「どうだ蛋白質、お前のカメラだと女神は見えるか?」
「おお、見える見える」
カメラがぶれないように、フェンスにもたれかかってカメラを固定しながらズームで撮影する蛋白質。今回の旅では、マリア様だけでなく池島の女神様も写真撮影成功。
ところでこの女神様って一体なんの神様だろう?ギリシャ神話?ちなみにお名前は「慈海」という。なんだ日本人じゃん。

09:26
第二立坑は遠目で眺めておしまい。さすがにフェンスを乗り越えて中に入り込むような真似はしない。しかし、あの建物の中がどうなっているのかはとても気になる。
鉱山見学というのはあちこちでやっているけど、最大の見せ所は坑道内に入ることだ。しかし、それだけじゃなくて、「鉱夫たちのたまり場」とか「立坑のケージ」とか、そういう鉱山におけるバックヤード的な部分というのももっと知りたい。
お金がかかってしまうので実現は無理だろうけど、せっかくの池島なんだし、いろいろな設備を修復・復旧させて「池島の炭鉱暮らし」の一連を再現するようにできないものだろうか?
住居の中にも入れて、仕事場のロッカールームにも入れて、身支度して装備点検を受けたり、立坑を見たり、夜のスナックがあったり。島全体をテーマパーク化する。
しかし、これだけすごい島なのに、GWなのに、来島者は少ないし宿泊場所は「池島中央会館」一つで事足りているのが現状。いくらリアル炭鉱ライフを再現するテーマパークを作っても、儲からないだろうなぁ・・・。惜しいなぁ・・・。
そんなことを考えながら、道を進む。
今度は、8階建てアパートの裏手に伸びる道を歩くことにする。ここからなら、5階部分へのアプローチが間近に見えるはずだ。
少し坂道を登っていく。

09:28
八階建てアパートの裏手に5階建てのアパートが建っている。白い建物だ。
この島の中では一番高い位置にあるアパートということになる。ひょっとしたら軍艦島同様、偉い人が住んでいたかもしれない。・・・と思ったが、この建物のナンバリングは20番台。職員ではない、鉱員のためのアパートだ。
そういえば、この島で鉱山長のような偉い人はどこに住んでいたのだろう?一戸建てが与えられていたのだろうか?今回見そびれてしまたが、この5階建てアパートに沿って歩いていった先に所長の家はある。鉱山関係施設では唯一の一戸建てだ。しかし、あくまでも社宅であり、マイホームではない。
軍艦島のように、詳細な地図があまり残っておらず残念だ。・・・と思ったら、この旅行が終わってすぐに池島について詳細な解説をした本が発売になった。「池島全景 離島の《異空間》」という。
この本はとても素晴らしい。写真も豊富だし、解説が詳細だ。池島のネイティブではないのに、よくぞここまで取材できたな!という渾身の内容。今となってはもう立ち入る事がかなわない場所での撮影も行っていて、資料的価値がとても高い。
もし池島に興味があるなら、ぜひ手にとってみるべきだ。池島に行くすごく良い予習になるし、既に行ったことがある人は「ああ、あれはそういう意味だったのか!」と謎解きの復習になる。
Kindleの電子書籍版よりも、ページを自由にペラペラできる紙媒体のほうがおすすめ。

09:29
8階建てアパートの5階部分につながる渡り廊下。もちろん今は有刺鉄線で塞がれ、中に入ることはできない。
「このアパートだと、何階に住むのが一番いいんだろうね?」
素朴な疑問を口にする。
「ん?」
「ほら、1階から4階までって、目の前に山の斜面が迫ってきてるんだぞ。見晴らしが悪いし、虫が入ってくるだろうし」
「だったら、5階に住むのが一番正解かのう?」
バス停は1階にある。あと、池島ストアーなり小売センターなりに行くのだって、1階が便利だ。なので、いくら5階から道路に出られる!といっても、便利さは限定的だ。だったら、5階というのが1階にも行けるし、道路にすぐ出られるしで便利なのかもしれない。
ちなみにこの建物の1階には、公衆浴場もあった。

8階には、ボロボロになった渡り廊下がつながっている。日常利用のため、というよりは、火事などが起きた際の避難路だったのではなかろうか?ちょっと作りが弱っちい。
あの橋、数年後には落っこちそうだ。もうすでに穴がところどころに開いていて、危ない。

渡り廊下と、アパート。
昔の団地アパートの作りなので、階段の数が多い。1つの階段に対して、1フロア2戸。
今なら、大規模マンションなら階段は建物の真ん中または端っこに1つあり、そこから長い廊下が伸びて家が連なっているのが当たり前だ。なぜ昔のアパートはこういう「一つの建物に階段がいっぱい」の作りをしていたのだろう?何か合理的な理由があったはずだけど、よくわからない。
ただ、このいわゆる「2戸1階段」方式のおかげで、山側にも学校側にも、両方に窓を作ることができて開放感は十分だ。共用廊下がないからこそできるメリットだろう。

8階建てアパートの一部には、ツタ系植物が侵食を始めていた。
このアパートも、じきに緑に埋もれていくのだろう。

09:31
8階立てアパートの背後に対してまっすぐ突き刺さるように、海から道が伸びていた。
なんだろう?この道は。
この先は崖になっていて、海にストーンと落ちるはずだけど。実は小さな港があって、ちょっとした荷物の積みおろしなんてやってたのかもしれない。いちいち港からここまでは遠いし。
それにしては狭い。車が通ることを前提に作っているとは思えない。
その割には、なにか看板らしきものが頭上に掲げられている。ちょっとミステリアス。行けるところまで行ってみよう。

おや!
看板には、緑十字のマークと、池島を象徴するあいさつ「御安全に」の言葉が。
こんなところにこの言葉があるということは、さては第二立坑へのショートカットルートだな?これは。
8階建てアパートに住んでいる人たちが車道沿いに通勤するとなるとぐるーっと大回りだ。歩行者専用ショートカットルートを作ったとしてもなんら不思議じゃない。

両側の山、細い道、御安全にの標語、そして背後の青い海。
とても美しい光景なので、みんなカメラを取り出して撮影していた。
ただし僕のカメラだとダイナミックレンジの調整がうまくいかず、海は真っ白になって潰れてしまった。

「御安全に」看板から振り返ったところ。8階建てアパートが正面に見えるが、その手前に掲示板があったと思われる木枠が立っていた。
おそらく、鉱山を行き来する人たちがここでいろいろな告知を読んでいたのだろう。

「御安全にゲート」をくぐり海に向かってみたら、そこには階段があった。階段はうねりながら右へと向かっていき、第二立坑の建物の背後にアプローチしていた。なるほど確かにこれは便利だ。
「あの建物の中はどうなっていたんだろうね?」
「全く想像がつかんな」
比較的近いところから建物を見ても、中身の想像がつかない。当然大浴場もあったと思うが、それすらどこにあったのか、わからない。

09:39
「御安全に」ゲートから元の道に戻り、しばらく進んでいくと今度は公園らしきものがあった。ここには展望台があるという。
中央会館の方は、
「第二立坑が見える程度で、大したことはない。それよりも四方山のほうが眺めがいい」
と仰っていたが、一応自分の目で見ておかなくちゃ。
敷地内に、炭鉱でなくなった方の慰霊碑があるので、そちらにもごあいさつ。

09:40
おっと、これが展望台だな。
シンプルな作り。

展望台からの眺め。
おお、第二立坑がよく見える。すごいな、小学生が思い描く秘密基地だ!カッコイイ!
少なくとも「悪の巣窟」には見えない。あれは正義の味方がいる場所だ。何か地球の危機が訪れたら、あそこからビューンと秘密兵器が飛び出してくるんだ。すげええええ。
ちなみに先ほどの「御安全にゲート」は、右側の白い建物の脇にある。
こういう南側に面したアパートは、シーサイドビューで開放的である反面、荒天時(特に台風時)のダメージが大きかったそうだ。なので決して上等な場所だったわけではない。

09:41
展望台は、池島そのものを楽しむにはほとんど役に立たない。第二立坑が見えるだけだ。しかし、海と島は楽しめて、気持ちいい。
第二立坑からずーっと坑道が伸びていたという蟇島。地図で島の名前を確認したのだけど、よくわからない漢字で読み方さえわからなかったが、後で「ひきしま」と読むことを知った。「ひきがえる」を漢字変換すると「蟇」。
さすがにあそこに人が住むという発想にはならなかったらしい。鉱脈から近いので便利!とはおもうが、人が住んだり石炭を選別して積み出すには狭すぎる。
でも、それを思えば軍艦島っていうのはとんでもない島だったんだな。岩礁でしかなかったところを無理やり埋め立てて人が住んだのだから。軍艦島が成り立つなら、当然目の前の島だって同じことはできるはずだ。
・・・でもそれをやらないのは、そういう時代じゃなくなってきたからなんだろう。大げさに島を造成するよりも、坑道を池島から伸ばしたほうが楽だ。
でも、そうこうしているうちに石炭なんて輸入すればもっと楽だし、石油のほうが便利だし、ということに世の中がなっていって、閉山になっちゃった。

池島の南側に見える、岩礁。穴がぽっかり開いているのが特徴的で、外海のかなり遠くからでも目立つ。
「島なのに、おおきな池があった」池島といい、このアーチ型岩礁といい、このあたりの岩は独特な作りらしい。そういえば、ド・ロ壁は、このあたり独特の「平らな岩」を積み重ねて固めたものだったっけ。
穴が空いている岩礁は「大角力(おおずもう)」という。その左が「母子島」、母子島の背後に見えるのが「小角力(こずもう)」

09:45
展望台をあとにし、中央会館に戻る。チェックアウトしなくちゃ。
緑が生い茂る団地。
特に、蒸気が通っていたパイプが道路脇にずーっと伸びているのが独特で、印象的な光景を形作っている。

09:48
小学校前の横断歩道と信号。
信号はいつも青。なにしろ、交差点じゃないから。歩行者用ボタンを押したときだけ、赤になるのだろう。

09:55
荷物を受けとり、チェックアウトする。
池島中央会館の前で記念撮影。
さて、これから歩いて池島港だ。10時45分に炭鉱ツアー集合、となっているので、それまでに島内散策をしつつ現地に向かおう。
中央会館の方は、地図上で港の途中にある建物を指差し、
「ここにいけば大丈夫、受け付けてくれるから」
とおっしゃる。いや、集合場所の港から離れているんですけど、そんな適当でいいんすか?
「だいじょうぶ」
はあ、そういうものなのか。港地区にある、「開発センター」。

09:56
いずれにせよ、港方面に向かうことは一緒だ。港へ向かう。
まずは中央会館脇の道を歩いて行く。昨日見た、電気屋や理髪店が並ぶ長屋風建物の裏手だ。
ここにはボウリング場がある。昨日、車で送ってくれた島の人におそわって仰天したものだ。すげえ!と。
写真左の黒っぽい建物が、そのボウリング場。

09:57
「やや!ボウリング場だけじゃないぞ!」
看板には、「スナック エーワン」という文字と、「雀王」の文字が。飲み屋はともかく、麻雀屋もあったのか。
でも、そりゃそうだよな、島でずっと、娯楽がないまま生活は難しい。息抜きができる施設は必要だ。

そしてその極めつけが、ボウリング場。
色あせてしまっているけど、壁にはボウリングのピンが描かれている。
ボウリング場なんて、この島で自然発生的に建てられるはずがない。きっと、鉱山会社が福利厚生施設として運営したものだろう。
で、そのボウリング場の建物内にジャン荘とスナックがある、ということは、それらも「官営」な施設だったのかもしれない。
まあ、驚くことはないか。米軍基地に行くと、基地内にボウリング場も飲み屋もなんでもそろっている。それといっしょ。

長崎市の派出所があった。
今だったら、港の近くに派出所を設けたほうが便利だと思うのだけど、どうなのだろうか?

09:58
前方に、第一立坑のやぐらが見える。迫力!これだけで飯が何杯でもイケるビジュアル。
第二立坑がシュッとしたデザインで近未来的なのに対し、こっちは荒くれっていう感じがして、むしろかっこいい。西部劇みたいな。
あの界隈は立入禁止だし、炭鉱ツアーでも足を踏み入れない場所だ。
炭鉱ツアーは一日二回、午前と午後行われる。午前の部のひとは、引き続きオプショナルツアーとして午後、島内案内をしてもらうこともできる。僕らは午後、島を後にしないといけないので残念ながらオプショナルツアーには参加できない。
できることなら、一日がかりで徹底的にこの島を紹介してほしいなあ。企業秘密で見せられない、というものはないだろうから、あとは見学者の安全が確保できるかどうか、だ。

09:59
我々は港へ向かって一直線、というわけではない。敢えて脇道に逸れてみる。
昨日、港から車で中央会館に送ってもらった最中、ハンドルを握っていた島の人がここを通り過ぎる際に
「この谷間に、昔は飲み屋がいっぱいあったんだよ」
と教えてくれたからだ。
えっ、こんな谷間に?
それはなんの変哲もない、狭い谷だった。谷、というのも大げさなくらい、里山でよくありがちな「尾根と尾根の間の、くぼみ」。
車で通り過ぎる際にチラっとみただけでも「嘘でしょう!?」とびっくりしてしまうくらいの、狭くて急な場所だった。そんなご冗談を。
これだけ島を開拓し、平らに土地をならし、造成したというのに。飲み屋街が谷間?そんな馬鹿な。
Googleマップで見ても、この谷間の飲み屋街は道路として描かれていない。衛星写真で見ると、ようやく発見できる程度だ。つまり、Googleさんが道として認めていないくらいの、狭い道。
そんな道にこれから分け入ろうと思う。
8階建てアパートを見たとき以上にワクワクする。

10:00
「いやいやいや、こりゃ結構急な坂だぞ。酒を飲んで酔っ払っていたらここを登るの、かなりキツいぞ」
思わず声を上げてしまうくらいの坂を下っていく。軽自動車でギリギリ通れるかどうか。いや、無理だな。徒歩限定だ。
なんでこんなところに?と昨日島の人に聞いたら、「炭鉱ができる前から人が住んでいたエリアだった」ということだ。
しかし、よりによってこんな狭くて急な谷に住まなくても・・・と思う。

折り重なるように立ち並ぶ住宅が見えてきた。
ドミノ倒しをしたら、海まで倒れていくんじゃないかというくらい、立体的かつ密集して建物が建っている気配。
「へえーーーー。こんなところにねえ。。。」
「しかし、飲み屋って感じではないぞ?」
「そうだな、普通の民家っぽい」
民家だとしても飲み屋だとしても、いずれにせよここに作らなくってもいいじゃないか、と思う。その疑問を口にしたら、ばばろあがこんな予想を立てた。
「丘の上は炭鉱の土地じゃけえ、営業できんかったんじゃろ。もともとここに住んでいた人が店をやろうとすると、その周囲でやらざるを得ないんじゃろう」
なるほど。米軍基地の周囲に飲み屋街ができるのと一緒か。それなら納得だ。

「うわあ!」
思わず声が出た。というのも、最初に出迎えてくれた家・・・建物?は、倒れる寸前だったからだ。木造の家ということもあり、ぐにゃりと歪んで後ろに倒れ掛かっている。そして背後からは植物が迫っている。
昔のここは何だったんだろう?飲み屋という気配ではない。地元住民の家だろうか。
このあたり、まだ住んでいる人がいるようなので発言には気をつけないと。廃墟だ廃墟だと言っていると、怒られる。実際、このあと地元の人とすれ違った。
飲み屋とは明らかに違う、でも民家とも違うシャッターが連なる建物もあった。おそらくパチンコ屋だろう。この谷には、飲み屋だけでなくパチンコ屋もあったそうだ。

10:01
狭い路地。急な坂。なんでこんなところに、と驚きながら下っていく。
草に覆われた家、崩れかかった家、そうでもなさそうな家。
「おっ、この家は生け垣をきれいに刈っているぞ。ということはまだ人が住んでいるんだろう」
と思ったら、単にツタが家の壁にびっしりと張り付いているだけだった。

いま来た道を振り返ったところ。
ごらんの急坂。
いくら肉体勝負の炭鉱マンとはいえ、酒を飲めばただの人だ。この坂を登って帰るのは面倒だっただろうな。非番のときにここまでやってきて、普段は家で飲んだりしていたのだろうか?
そもそも、3交代制の仕事場だ。「日が暮れたから飲む時間」という、「9時6時のサラリーマン」の感覚とは違うだろう。どういう飲み屋の営業スタイルだったのか、そしてどういう客の飲みっぷりだったのか、当時の文化を知りたいものだ。
この写真の奥に、「多分パチンコ屋だろう」と推測した、シャッターが並ぶ建物が見える。青い屋根の建物だ。もしパチンコ屋だとしても、規模はとても小さい。というか、民家に毛が生えた程度だ。

「あー、これはだめじゃね、もう完全に壊れてる」
一人どんどん先へと進んでいくばばろあが立ち止まり、写真を撮りながら何やら喋っている。
追いついてみると、そこには「旅館」と書かれたガラス戸の建物があった。ガラスは割れ、ひさしは崩れかかっている。もう片方のガラス戸には「美松」と書かれている。それが宿の名前だろうか。
こんな谷間に、旅館があったとは。どういう客が泊まったのだろうか?周囲はネオン街だっただろうに。釣り客?それとも、鉱山に用があるビジネス客?さっぱりわからない。
いずれにせよ、「旅館」といっても非常に小さな建物だ。たいして客は泊まれない。広々とした土地なんて、そもそもこの谷にはない。

旅館界隈が一番の「繁華街」ということになるのだろう。
いかにもスナック、クラブといった雰囲気の扉をもつ建物が並んでいる。
扉には「長崎県公安委員会 届出済」と書かれたシールが貼ってある。
奥の建物は「千代」という看板が出ていた。マダムの名前だったのだろうか。そんな千代さんは今いずこ。もう閉山して長いし、まだご健在だろうか?

「千代」の脇から先を見たところ。道は地形にあわせてうねっている。
この集落の栄華をまだ知る人というのは現存するわけだから、聞き取り調査などして記録に残してもらえないだろうか?こういう谷間に飲み屋街があるという事自体がすごく貴重で興味深いし、炭鉱の島における飲み屋界隈の文化というのは、もう日本では存在しない。今後忘れ去られるものなので、記録に残すなら今しかないのだけど・・・。
坑道とかトロッコとか残すのは、観光資源として派手で目立つから集客になるけど、もっと地味な、日常生活の記録ってなんとか残せないものだろうか。

10:02
スナックマキ。
島内で最後まで営業していたスナックだという。2014年2月閉店。ただしこのお店は、閉山後元いたお店が退去したところを、居抜きで借りたものらしい。なので、閉山後に開店し、そしていまはもう営業していない。
「最後まで残っていただけあって、他と比べるとちょっとは老朽化が抑えられているかな?」
少なくとも植物に侵食はされていない。閉店から丸3年。

10:02
郷地区と呼ばれる界隈の探索は続く。
「探索」といっても、道は海に向かっていく一本しかないので、そこを下っていくだけだ。さすがに建物と建物の隙間に入り込むような真似はしない。誰も住んでいないとはいえ、不法侵入だから。
池島最後のスナックだった「マキ」の入口脇には、急な階段が取り付けられていた。二階には、スナックの店員さんが住んでいたのだろうか?
階段を登ってそのまま扉がある。踊り場のような場所はないので、結構怖い。出入りするとき、うっかり転がり落ちてしまいそうだ。
そんな場所を確保するのさえ惜しいくらい、狭い土地なのがこの谷。

マキの裏手には、完全にツタに覆われてしまった建物。ここも二階につながる外階段がある。
階段をこれ以上急にすることはできなかったらしく、1階入口に向かう道を塞ぐ形で階段が横切っている。狭い狭い。
この建物はなんだったんだろう?普通のドアブザーが入口についているので、商売をしている家ではなく民家だったのだろうか?

ここは入口が倒壊してしまい、中が丸見えになっている。ベニヤ板やブルーシートで覆わないのは、この島で悪さをするヤンキーとかいないからだろう。廃墟で一番懸念されるのが、その建物で悪さをする人が出没することだが、この島ならその懸念がない。
ここもパチンコ屋だろうか?

「防犯システム設置」のステッカーが貼ってある建物。冗談みたいだ。
もちろん、今やこれも廃墟。
サッシの引き戸で、スナックっぽい雰囲気ではない。縄のれんと赤ちょうちんでもぶら下がっていたのかもしれない。
昔のこの界隈の様子を写した写真というのを見てみたかった。

これはスナックっぽい建物。
ああいう飲み屋というのは、外から中が見えてはいけないという不文律があるのだろうか?洞窟のような、暗くて狭い空間でないと駄目、みたいな。
この建物はわざわざ建物表面にパネルのようなものを貼りつけ、のっぺりとした外壁にしている。そのほうがカッコイイのだろうか。

こちらもスナック系のお店跡と思われる。
やっぱりパネルを貼ってのっぺりさせている。しかし、上を見ると瓦屋根。このギャップが面白い。もともとは和風建築だったんだけど、
「せっかくスナックをやるならちょっと洋風な建物にしないとカッコつかないよね」
とかなんとかで、パネルを貼って、ランプみたいな照明を入口につけて頑張ってみたのかもしれない。

おっと、これはもう完全に個人宅だな。お店ではない。
結構立派な瓦屋根で重厚。
しかし・・・人は住んでいなさそうだ。雨戸がぴったり閉じている。しかし、ガス給湯器だけは比較的新しい。
ガス給湯器の前に、コンクリートで作った風呂桶のようなものが置いてある。これは多分防火用水か防火用砂が入っていたものだろう。以前、僕の実家の前にも置いてあったのでわかる。火事になったら、ここに入っている水か砂をかけて消火する。
建物が密集しているエリアだし、狭い店内で火気を扱ったりするとなると結構危険だ。火事への備えはちゃんとしていたのだろう。

10:05
ここまでくればもうネオン街ではなくなってきたようだ。振り返ってみると、建物密集地は一区切りついたっぽい。
でも、石垣があるところを見ると、空き家になってさら地にした場所というのもあるようだ。
視線の先に、第一立坑のやぐらが見える。

おっと!
真っ赤なポスト。
どきっとする。色あせたものばかりを見てきた中で、現役のものが急に現れたからだ。
このポスト周辺に住んでいる人なんて、果たして何人いることやら。ほとんどいないはずだけど、昔の名残で現存するポスト。毎日ゆうびんやさんが回収に来ているのだろうか?

斜面が緩やかになってくると、現役の民家が見られるようになってきた。
道路幅も広くなってきた。家の作りも、土地が確保できるからかゆったりしている。
あらためて、「なぜあんな急斜面の、狭いところに飲み屋街が密集したのか」というのが不思議。
歴史を紐解くと、この郷地区の谷は急峻な崖だったそうだ。そこを、鉱山初期の掘削で出たボタで埋立て、斜面に変えたのだという。だから、歓楽街があるエリアはすべて人工の土地だ。「昔っから、地元民はこの急斜面に住んでいた」というのは間違い。そりゃそうだ、誰が好き好んで急斜面に住むものか。
で、この谷を登りきったところにちょうど鉱山事務所があるし、鉱山の所有地ではないので個人の商売がやりやすかったので、谷の上から順次歓楽街が形成されていき、海沿いまで広がっていったのだという。

10:06
坂を下りきったところに、「池島小番所跡」と記された看板が出ていた。
江戸時代、ここには密輸を行う船を取り締まるための番所が設置されていたのだという。
中国船、オランダ船などが幕府の許可なくやってきてこっそり貿易をするのを監視するため、外海エリアには合計16カ所の番所を設けていたそうだ。
番所ができるくらいなので、昔っから池島というのはこのあたりが表玄関だったというわけだ。今の港がある場所とは大違いだ。
当時は港になるような場所があったのだろう。しかし今となってはこの池島北岸一帯はずっとボタを廃棄した結果埋立地になっていて、江戸時代当時の面影は残っていない。

小番所跡から港へ向かう道。郷地区は谷間だけでなく、平地になってからも続いているようだ。港に向けて民家が続いている。
ただし道が狭いため、車は一方通行になっていた。
今背中を向けている側にも、まだ集落は続いている。四方山の直下で行き止まりになっている、島のどん詰まりなのだが、地図をみるとそこに教職員住宅があるらしい。
小中学校の先生たち、随分端っこに追いやられてるな!待遇悪いな!と思ったが、おそらくその住宅から小路があって、すすすっとすぐに学校にアプローチできるのだろう。直線距離は非常に近い。
ただし、炭鉱華やかなりし頃も今も、お店やらなんやら、日常生活をする上で必要な施設からは遠い。やっぱり不便だと思う。車があれば・・・と思うが、それはそれでぐるーっと大回りしないと学校方面にはいけないので面倒。

理容まえかわ、というお店が道路沿いにあり、こちらも閉店していた。
「閉店のお知らせ」が貼ってある。
何の気無しに近づいて張り紙を読んだばばろあが、驚きの声を上げる。
「平成29年4月27日。おい、これってつい先日だぞ」
「えっ」
そう、わずか一週間足らず前にこのお店は閉店したのだった。「ああ・・・」と思わずやるせない嘆息が出る。
うーん、部外者である僕らが、やたらと同情して残念がるのも変な話だし、かといって「ふーん」とつれない態度を取るのも嫌だし、なんだか微妙な気持ち。でも、いずれにせよ寂しい気持ちにはなった。
閉店のお知らせ 長い間ご愛顧を賜り誠にありがとうございました この度一身上の都合により 閉店させていただく事となりました 池島の皆様に支えられ 今日まで迎える事が出来ました 事を大変感謝申し上げます ありがとうございました 平成29年4月27日 理容まえかわ
お疲れさまでした。おそらくこの島で、この場所で何十年もやってきたと思う。島を支える貴重なインフラだっただろう。その役目を果たし終えたのか、まだ道半ばだったのかはわからないけど、とにかくお疲れさまでした。

10:07
郷地区を歩く。
まだこのあたりは人の気配がある。もちろんシャッターがしまっている廃墟もあるけど、人もまだらに住んでいるようだ。生活感が残っている。
そういえば、この島ではアパートばかりを見てきたけど、このあたりは一戸建てだな。炭鉱のために住んでいる人ではなかったのだろう。炭鉱以前に住んでいた人たちの家、ということだろうか。
アパートに何千人が住む中、一戸建てとは贅沢な!・・・とも言えるけど、何しろお店などのほとんどが炭鉱エリアにある。生活の便利さという点では、炭鉱関連の人たちのほうが上だっただろう。
家の脇に、プロパンガスのボンベが取り付けられている。まだ現役で動いているようだ。「丸木ストアー」の文字が見える。丸木ストアとは、港地区にある「港ショッピングセンター」内にあるお店だが、2017年時点では既に営業を中止している。この島で現存するのは、「かあちゃんの店」と「みなと亭」だけだ。

10:10
こんなところにもパチンコ屋があったのだな。いかにパチンコという娯楽が親しまれていたか、というのがよくわかる。
取り外された台が失敗したドミノのように並べられている。木枠だし、今のパチンコのように大画面液晶がついているようなことはない。

パチンコ屋跡地。
いくら最盛期とはいえ、周辺住民の数なんてしれているだろうに、それでもパチンコ屋の経営が成り立っていたのだから、好きな人がどれだけパチンコにお金をつぎ込んでいたかというのがよくわかる。
看板は全く残っておらず、なんという店名だったのかは今となってはわからない。
いわゆる「三店方式」はこの島ではどうなっていたのだろう?清く正しく、お菓子とかちょっとした商品と交換していただけとも思えないのだけど。

10:11
「おっと!こんなところにも団地があるのか」
パチンコ屋を抜けたら、海側に向かって開放感があると思ったらアパートが建っていた。
布団を干している部屋が複数あるし、錆びついてはいないパラボラアンテナが設置されている部屋もある。もちろん、無人となって朽ちている部屋もある。しかし、他のアパートとくらべて現役バリバリ感がとても強い。
一体、どういう法則性で人が住んでいるのか、さっぱりわからない。
港の近くにも人が住んでいるし、母ちゃんの店があるような島の奥にも人がまだ住んでいるし、そしてこの郷地区にも人がいる。人口が150名程度しかいない島なのに、一カ所に集まろうという話にはならないものなのだな。
そんなことを思いながら眺めていたら、目の前をコミュニティバスが通り過ぎていった。おっと、コミュニティバスはこんな行き止まりルートも走っているんだな。そりゃそうか、ちゃんと人が住んでいるんだから。
このアパートの左脇に、プールがあるらしい。小中学校のプール以外にもう一つあるのだから贅沢だ。

10:12
海が見えてきた。だだっ広い平地。
ボタを投棄して出来た埋立地なのはわかるが、なんでここに何も作らなかったのだろう?狭いところに密集しないで、ここで広々過ごせたのではないか、と思うがそうではないのだろうか。
あ、そうか、ボタの埋立地は鉱山の持ち物。密集しているのはもともとの島民。土地の所有者が全く別物なので、そうかんたんに埋立地に移住します、というわけにはいかないか。

10:13
郷地区からの道は、港から島中央部に向かう主要道路と合流した。その合流地点にあるのが、でかい煙突と無骨な建物。
発電所跡だ。
石炭火力発電で島内の電気をまかない、海水を沸かして淡水にし上水道としてつかい、お湯は各建物に供給していた。その「池島の心臓」がこれ。
もちろん今となっては稼働していない。電気は海底ケーブルを使って本土から運んだほうが早いのだろう。

発電所の前を、電線がスルーしているというのが物悲しい。

廃墟というのは遠くから眺めて、周囲の光景との対比をするというのが味わい深いが、アップにしてみると迫力が出る。
ボイラー棟アップ。

まるでロケット打ち上げ場みたいだ。
王立宇宙軍の軍歌を斉唱したくなった。
太陽の風 背に受けて〜♫

10:15
ここから港へ向けて高度を下げていく。
正面に、池島港が見える。湾の外に繋がる細い水路が見えるが、もともとはあれがなく、人工的に作ったものだということにあらためて驚かされる。それだけじゃない、当時は「鏡池」だった場所をさらに掘って、おおきな石炭輸送船が出入りできるようにもしているのだから大変だ。
そこまでする値打ちがあった、というのがこの池島の石炭だ。

あらためて池島炭鉱を眺める。第一立坑はこの山の反対側にあたる。第二立坑ははるか先だ。
このあたりの施設は、石炭の選別から貯蔵、そして船に積み出すまでの、「掘ったあとのこと」に関するものだ。
むしろこういう施設が現存しているというのがすばらしい。炭鉱といえば坑道!探検だ!というのもいいけど、炭鉱が炭鉱として成り立っているのはこういう処理施設があってのことだ。
日本各地にある観光目的の鉱山は、この手の施設が残っていない。なので、本当にこの光景は貴重だし、驚きだ。

あーあーあーあー。
まだまだ健在、と思えた施設だけど、よく見ると崩壊一歩手前。というか一部壊れている。2001年まで稼働していたのだから、操業停止からわずか16年。たったそれだけの期間で、こんなになってしまうのだな。
あと数年もすれば、危ないからということであの建物は撤去されてしまうかもしれない。さすがに施設の一部が腐食して、山から下に転がり落ちたらまずいだろう。
一番高いところにある施設は、地下深くから掘り出してきたものを一時的に保管する場所、「原炭ポケット」と呼ばれるところ。
原炭ポケットには、石炭とボタとが混じった状態で一時貯蔵される。中は12基のポケットに仕切られていて、石炭の品質ごとにわけて貯蔵していたそうだ。

で、その下には選鉱所。つまり、掘ってきたものから石炭とそれ以外の砂利とを分ける場所だ。水に流し込んで、浮いたものが石炭、沈んだものがそれ以外。ざっくりいうとそういうことらしい。
水を上下に揺さぶるやり方次第で、望みどおりの品質の石炭を選別できたそうだ。高カロリーの石炭から低カロリーのものまで。
そして、崖下のところが貯炭場になっていて、船に積んで出荷だ。
何か工業製品を作るというわけではないので、かなりシンプルだ。単純化すると、石炭というのは「掘ってきます。より分けます。出荷します。以上。」ということだ。しかし、これだけの大掛かりな設備が必要となる。ぽっと出の素人では無理だ。

トロッコの軌道が見えた。この先に坑道があるらしい。我々がこの後利用する炭鉱ツアーは、坑道の中に入ることになっている。ということは、このトロッコ軌道づたいに坑道に入るのだろうか。さすがに立坑から地下深くに入るのは認めていないだろう。
昔、選鉱所から出たボタを運び出して海沿いに捨てるために使われていた軌道だと思われる。

10:17
石炭を船に積み込む場所。
岸壁に接岸した船に、貯炭場の炭を積み込んでいく。
炭鉱全盛期の写真を見ると、この背後に黒い石炭の山がうず高く積み上がっていたが、さすがに今は何もなくがらんとしている。

「シップローダー」と呼ばれる、船に石炭を積み込むための装置。
ベルトコンベアで運ばれてきた石炭を、こいつが船に移す。シップローダーの先端に「トリンマー」という機械があって、それが360度動きながら5段階の強度で石炭を船の上に吹き付ける。これで、船にまんべんなく石炭を積み込むことができたのだそうだ。
いやー、説明をうけないと全く想像がつかない。

10:20
港地区の集落が見えてきた。
「あれっ、ヤギがおるで」
犬の間違いじゃないか、と思ったが、なるほどヤギがいる。なんだなんだ、なんなんだ。
小笠原諸島みたいに、昔家畜として飼われていたヤギが野生化して大繁殖、ということかと思ったが、ちゃんと首輪をつけられて木につながれている。どうやらペットらしい。

アパートが並ぶなか、ヤギがいるあたりは芝が生えたていて何もない更地だ。公園のようにも見えるが、平地が少ない島でそんな贅沢なことをやっているとは思えない。もともとアパートがあったけど、倒壊の恐れがあったから撤去したのかもしれない。
そんな更地の端に、「港浴場」があった。昨日我々がお世話になった「東浴場」と対をなす、この島の銭湯。人口200人足らずで銭湯が二カ所にあるのだから、ひょっとしたら人口あたりの銭湯密度としては日本一かもしれない。というかきっとそうだ。(草津や別府のような温泉地は除く)
朝風呂でも浴びたい気分だけど、夕方からの営業なのでいまは無理。

前方の建物から、作業着を着た人たちが僕達に手を振っている。どうやら、炭鉱ツアーのスタッフさんらしい。
中央会館のひとが、「港まで行かなくてもこのあたりで拾ってもらえる」と言ってたけどそれは本当だった。
スタッフさんたちがいる方向に向かっていく途中、さらにもう一匹のヤギを発見。あらこんにちは。
ヤギの近くでは、芝刈り機を使って下草を刈っている人がいた。さすがにここはちゃんと手入れをしている。何も手付かずなら、あっという間に草と木に覆われてしまっているだろう。

10:24
ヤギたちがくつろぐ更地の隣にアパートが建っている。その一階部分が「港ショッピングセンター」だ。丸木ストアと、ひろせ酒店という文字が見える。
このうち「ひろせ酒店」は角打ちができる酒店として愛されていたようだけど、2014年8月に閉店。「スナックマ」キにしろこの「ひろせ酒店」にしろ、あと数年我々の訪問が早ければ、もっと島の雰囲気を味わえただろう。どんどん炭鉱の島としての記憶が失われていっている。

炭鉱ツアーのスタッフさんたちが待ち構えていたのは、開発センターの前だった。ツアーの集合場所は港なのだけど、その後いったんここに移動してから坑道に向かうことになるそうだ。

荷物があるなら置いていくといい、と言われたので、荷物を開発センターに置いていく。
このあとここで、ツアー参加者がそろって解説VTRを見ることになるのだろう。
壁沿いには、ずらりとヘルメットやヘッドライトが並んでいた。
これまでいくつも金山や銀山を訪れたことがあるけれど、ここまでの装備をするのは初めてだ。

10:27
車で港にいくのでのっていきなさい、と言われ、お世話になる。
やあ、車だったらあっという間だ。歩くとそれなりに時間がかかるけど。ぐるっと入り江を回り込む、池島港ターミナルまでの道も楽ちん。

池島港ターミナル。
まだツアー客らしき人はほとんどいない。大半が、ツアー集合時間直前にやってくるフェリーに乗っての日帰りなのだろう。

港から、炭鉱方面を眺める。
やあ、今日はいい天気だ。観光日よりだな。

ターミナルには、「本邦初公開!!池島炭鉱坑内体験ツアー」と書かれた、若干色あせたポスターが貼ってあった。
あ!ヤギの写真もある。解説を読むと、除草のために飼っているのだそうだ。そうか、ならばどんどん食べて食べて食べまくってくれ。なにしろこの島全部をみれば、いくらでも食べる草木はあるはずだ。

10:32
炭鉱方面をガン見中。
緑に覆われているあたりにも、よく見ると設備がある。貯水タンクだろうか?あれは。
斜めに伸びたベルトコンベアも見えるが、今となっては何がどうなっていたのかさっぱりわからない。営業していた頃は、このあたりは緑などあまりなかっただろうに。
貯炭場は、山と海との僅かな隙間に設けられているので海沿いに細長い。どんどん船がやってきて、どんどん積み出していかないと大変だ。海が一週間くらい時化たときはどうしていたんだろう?船がやってこないので、炭鉱も操業停止!ということもあったりするのだろうか?

10:37
神浦港と池島を往復する定期船、「進栄丸」がちょうど出港するところだった。
もともと「池」だった池島港と外海とをつなぐ、狭い水路を抜けていく。
舳先に船員さんの一人が立ち、操舵室にいるもう一人の船員さんにジェスチャーで指示を出している。「もっと右」「左!」といった感じで。器用なものだ。

10:40
船が通り過ぎたあとの水路。
あれ?そういえばここにフェリーがやってくるんだっけ。結構ギリギリじゃないか?この幅。
島民がとても少ない島なので、小さなフェリーなのだとは思うけど・・・。

あらためて炭鉱方面の写真。
右端に発電所、中央に石炭積み込みのためのシップローダーと、山の上に選炭場。そして海沿いに貯炭場が伸びる。

10:42
そうこうしているうちに、瀬戸港からのフェリーがやってきた。我々が「10:45集合」と指示されているのは、このフェリーで本土からやってくる人にあわせてのことだ。
水面はとても落ち着いているのに、なにやらやたらとフラーフラーと揺れて見てる。かなり軽いのだろうか?見ていて心配になる。あの揺れっぷりだと、水路を通過する際にガン!とぶつかるんじゃなかろうか。

10:43
水路接近中。いやいやいや、それなりの大きさがあるフェリーだぞ。
よくこんなフェリーが人口200人足らずの島に定期就航しているものだ。しかも一日何便も。立派だ。
車を積むフェリーである以上、これ以上小さくするわけにはいかないのだろうか。

おーおーおー、本当に器用に水路を抜けていく。
僕の横で、ばばろあも「すげえなぁ」と感心している。
なにしろ車と違って船は小回りがきかない乗り物だ。「止まれ!」といってもすぐには止まれないし、「曲がれ!」といってもそう。これはもう、熟練の技ですね。(月並な感想)
デッキにいるお客さんに、意味もなく手を振る。なんだか船を前にすると、手を振りたくなるよな。鉄道だったらあまりそういう気にならないのだけど。これが「旅情」ってやつだろうか。
いや違う、多分「旅の恥はかき捨て」という言葉のほうが正しいと思う。

10:45
「どこに着岸するのかな?」
「正面からあの桟橋にぶつかるんじゃないか?」
なにしろこっちは暇だ。どうでもいいことをあれこれ予想しながら、船の着岸をかたずを飲んで待つ。
ゴゴゴゴ、と音を立てながらフェリーは転回。
「回るんかーい!」
「そうか、載っている車がバックしながら出るというわけにはいかないからな」

そんな感じで我々をやきもきさせながら、船は無事池島港到着。
フェリー一隻停泊するだけで、広くてがらんとしたイメージの池島港が一気に華やぐ。
さて、ここで下船したお客さんをピックアップして、炭鉱ツアーのスタートだ。

10:51
我々を車で港まで運んでくれた、三井松島リソーシスの方が全員の点呼をとり、徒歩で移動開始。いったん、先ほど我々が荷物を預けた会議室に移動する。
全員で40人弱、くらいだろうか?
時折、解説が入るのだけど、解説される方のなまりがかなり強くてびっくりした。今回ガイドを担当してくれた人だけでなく、他の人もみななまっていたので、何を喋っているのか理解できない言葉が多かった。参加者の子供が、お母さんに「何を言ってるのかわからない・・・」とぼやいていたくらいだ。
てっきり最初、僕は
「ものすごい爆音が響き渡る坑道の中で仕事をしてきた人たちなので、耳の聞こえが悪くなったのだろう」
と思っていたけど、単にお国言葉だったようだ。意外だった、長崎って案外なまりが強いエリアだったのだな。

10:51
池島港近くの、広い土地。
昔はここにも団地が立ち並んでいたはずなのに、跡形もない。
実際に足を踏み入れると、礎石などの痕跡があるのかもしれないけど、立ち入って良い場所なのかどうかわからなかったので、近づいてはいない。
いずれこの島全体がこんな光景になってしまうのだろうか?

桟橋越しに、炭鉱の南端方面を見る。
宙に突き出した形でレールが伸びている。途中でぶつっと途切れているけど、壊れたからというわけではなさそうだ。
選別が終わった石炭は、3台の「スタッカー」と呼ばれる機械によって、品質ごとに貯炭場に運ばれる。そのスタッカーが右へ左へと動くためのレールが、あれ。

スタッカーのレールの先に、やたらと巨大な機械があるのが見える。
「ジブローダー」と呼ばれる、これも石炭を移動させるための機械。ネットでこの言葉を検索しても、池島の情報しか出てこない。それくらい、池島の象徴的存在なのだろう。
ジブローダーもレールで左右に動くことができ、スコップのように石炭をすくいあげ、シップローダーが待ち構えるベルトコンベアに石炭を送る役目を果たしていた。しかし、今となっては実際にどう動いたのか、さっぱりわからない。
とにかく巨大だ。
あれをバラして、くず鉄としてリサイクルすれば随分な鉄が取れただろうに・・・と思うが、今となっては文化遺産。

10:56
ツアー御一行様は、開発センターがある港地区までやってきた。

開発センター内にある会議室で、いったん着席ののちあらためて出欠とお会計。
池島炭鉱トロッコ電車記念乗車券、というのを領収書の代わりにもらった。

お会計2,680円。
お昼ごはんで「炭鉱弁当」を頼んだ人は、これと別に食事の際にお会計となる。弁当は800円。たぶん100%、食材から水まで「輸入」に頼らざるをえないのが池島の食事情。お弁当を用意するだけでも大変だ。
午前コースのオプションで「坑外見学」まで申し込んだ人は、アパートの中に入ることもあるようだ。いいなー羨ましいなー。

11:27
まず、全員でビデオ鑑賞があった。何分ぐらいだっただろうか?それほど長いものではない。
ビデオの中で、「坑道が長くなって移動に時間がかかるため、ドイツから高速で人を運べる高速人車を導入した」と紹介されていた。白いシュッとした車体でおしゃれ感さえある。無骨なトロッコのイメージとはかけ離れている。どう見ても、最近のデザインだ。
えっ?平成8年導入?1990年代末ですやん。
で、この鉱山が閉山したのが平成13年(2001年)。あーあーあー、なんでこうなった。
せっかく大金払ってドイツから購入したのに。導入計画が立ち上がったとき、もちろん「そろそろ閉山のピンチ」っていう雰囲気はあっただろう。でも、起死回生でコイツを導入すれば、事態が改善すると思ったのだろうか?
時速50km出た、というのだから素人が乗るとおしっこちびるスピードだ。なにしろナローゲージの小さな車体だし、ギリギリまで小さなトンネルだ。危険と隣り合わせだ。IVVFを搭載していた、というのだから、ひょっとしたら京浜急行鉄道みたいに「ドレミファソラシドー」と加速時に音がするのだろうか?と思ったが、さすがにそれはないだろう。音階が鳴るのは京急の遊び心だ。
名前は「女神号慈海」と名付けられていたそうだ。島の子供たちにもアンケートをとって決めたのだというけど、小学校1年生の子供が小学校を卒業する前に終わっちゃった。
あとで知ったが、第二立坑前にあった女神像、あの名前が「慈海」というらしい。
そういう不幸な話はともかくとして、総延長96キロにも及んだ池島炭鉱は「移動手段」といのが大変だったようだ。敷地内出勤時間が膨大で、時間の無駄が多すぎる。さすがに「坑道内単身赴任」というわけにはいかないし。
今なら、最新技術を使って、地上同様の快適な空間を地下深くでも実現!っていう地下都市を建造できるかもしれないけど、それでもいつ落盤するか、閉じ込められるかという不安は拭えない。地下にいる時間が短いにこしたことはない。
鉱夫さんたちは、トロッコ列車で行けるところまで行ったのち、「マンベルト」なる乗り物に乗り換えてさらに奥深くまで向かっていったのだという。その映像が流されて、場内一同どよめきの声が上がる。というのも、「マンベルト」っていうのはベルトコンベアに人がそのまま乗り込んじゃうという代物だったからだ。進行方向に背を向け、体育座りでベルトに飛び乗って移動。
「鉱山は危険と隣り合わせ」というけど、それはガリガリと穴を掘り進めていく現場のことだと思っていた。いやいや、違う、移動するだけでも危険だらけだ。
そのビデオを見終わったあと、「それではこれから食事になります」という。あれっ、もうご飯なの?
我々、お互い顔を見合わせる。
というのも、てっきりご飯はツアーが全部終わってからで、帰りのフェリーまでの場繋ぎ時間だと思っていたからだ。ツアーが長引いて船の時間がヤバくなったら、「飯をかきこんですぐに港へ」ということになるだろう、と思っていた。いや、そもそもツアー自体は90分、メシ時間は別に30分だと思っていたので、これはちょっと予想外。

ツアーは第一班、第二班にわけれれた。一度にどかっと大人数が施設に入ると収拾がつかなくなるからだろう。我々は第二班。
「こりゃー、もう駄目だな、神浦行きの船には間に合わないぞ」
第二班のツアー出発時刻が11:50だと告げられ、そうそうに断念する。13:17の便に乗れるわけがない。あまりに清々しく無理なので、むしろそわそわしなくて済む。
「神浦行きの船、次はいつなん?」
「15:47」
「そりゃ無理だ、遅すぎる」
というわけで、我々は14:17発の瀬戸行きフェリーに乗ることになった。当初から、ツアー側が推奨していた便だ。推奨するからにはちゃんとわけがあったのだな。
ツアー1班、2班に分かれて食事をする。1班は1階の会議室、2班は2階の会議室。参加者全員が「炭坑弁当」を頼んでいたようだ。

炭坑弁当。お茶つきで800円。このあと、「みなと亭」の方が集金にやってきた。
アルマイト製の弁当箱、久しぶりに見た。
実際に炭坑でこういう弁当が食べられていたのかどうかはわからないけど、「旅情」という点ではワクワクさせられるビジュアルだ。

弁当食べるぞー。カロリー摂るぞー。

これが炭坑弁当。
案外具だくさんでびっくり。
海老の天ぷら、鶏の唐揚げにはじまって切り干し大根や卵焼き、かまぼこなど。さすがに、日の丸弁当に塩ジャケだけ、というわけにはいかないだろう。うん、うまいです。

11:48
この開発センターには、講堂もあった。
布団が並べられて干してある。修学旅行かなにかがあったあとだろうか?
ここで寝泊まりがOKなら、我々が泊まった池島中央会館はどうなってしまうのだろう。こっちのほうが便利だし建物が新しい。
団体の人数がおおいときは分宿、ということになるのだろうか。

講堂の隣には和室もあって、そこでも布団が干してあった。

11:52
呼び出しを受け、2班は1階に降りる。
そこで、坑道に入るにあたっての装備品を装着することになる。三井松島リソーシスの方に手伝ってもらいながら、ヘルメット、ヘッドライト、バッテリを装着していく。

装着済みの姿。
ヘルメットの頭頂部に溝があるのはなんで?と思ったら、ヘッドライトのケーブルを這わせるためのものなのだな。
そしてそのケーブルは、ブラブラしないように後頭部のところで紐で固定するようになっていた。安全第一、機能性重視。

そして背中には小さなリュックを背負う。中には、ヘッドライトのバッテリが入っている。
独特なリュックの形。おそらく、肩甲骨のあたりは自由度を確保したいので敢えてがら空きにしてあるのだろう。プロっぽくてかっこいい。ワークマンの世界だ。
炭坑内のほとんどのものを国内産で賄っているけど、このライトは外国産だったはずだ。

炭鉱弁当を食べ終え、身支度を済ませた炭鉱ツアー御一行様。いよいよ坑道の中に入っていくことになる。
後で知ったのだが、この日の行程はこうなっていた。ちゃんとwebにも掲載されてあった。お昼ごはんを食べてからツアーが本格スタートだよ、ということも含めて。いかに今回の僕が、事前学習をしていなかったかがよくわかる。僕らしくない。
池島港(徒歩約300m) →池島炭鉱倶楽部(炭鉱概要の説明)※昼食タイム(各自ご用意または炭鉱弁当) →坑外トロッコ電車停留所(キャップランプ、ヘルメット、保安靴等装着後(乗車)) →水平坑道奥部電車停留所(下車) →【坑内徒歩見学:約1時間(約600m)】坑道堀進跡(本物の巨大掘進機ロードヘッダー等) →石炭採掘現場復元箇所(採炭機ドラムカッター展示・ドラム模擬運転、穿孔(せんこう)機オーガー操作体験) →坑道内に設置された炭鉱操業時写真展示コーナー見学 →坑内発破の映像、発破スイッチ模擬操作体験コーナ →坑内救急センター跡(緊急避難所) →水平坑道内電車停留所(乗車) →坑外トロッコ電車停留所(下車) →(徒歩約300m。歩行途中石炭積み込み機、旧石石炭火力自家発電所、貯炭場等説明) →池島港
というわけで、まず最初に訪れたのが坑外トロッコ電車停留所。ヤギたちがくつろいでいた空き地から少し歩いたところに、ドラム缶を真っ二つに割ったようなアーチがある。そのアーチのところまでトロッコの線路が伸びているので、ここで乗り降りするっぽい。

アーチの脇に、大きな黒い石が置いてあった。ガイドを務めてくださる方が、「これは何だと思いますか?」とツアー客に問いかける。ツアー客、めいめい「石炭!」と声を上げる。当たり前だろう、どうだ正解だろう、と。
しかし無情なるガイドさんは、
「これは石炭ではないのです。松岩、といって、石炭に似ているけど違うものです」
と自信たっぷりなツアー客の鼻をのっけからへし折ってみせた。なんてこったい。
単に嫌がらせをしたいからひっかけ問題を出したのではなく、コイツが岩盤のなかにいるととにかく固くて始末に負えないのだそうだ。通常のドリルでは歯が立たないので、ダイナマイトで爆破しないといけないという。しかも石炭に似ているのに、燃えてくれない。役立たずの邪魔者、というわけだ。
「もうここに10年以上放置していますが、全く崩れません。石炭ならボロボロになるんですが」
という。なんてぇ太ぇ野郎だ。見た目はとても脆そうなのに。
ひとまず触らせてもらう。
「うわーかたーい」
適当なことを言う。当たり前だ。たぶん、「松岩とくらべて脆い」とされている石炭を触っても、「かたーい」と言うと思う。

しばらくして、山の方からゴトゴト音がしてトロッコ列車がやってきた。
遊園地の乗り物のほうが大きいんじゃないか、というくらいに小さい。幅がないだけじゃなくて、高さもかなり抑えめだ。大きなトンネルなんて掘ってる暇があったら、もっと奥まで、もっと深くまで掘って掘って石炭を見つけるぞ!ということなのだろう。

ヘッドマークは「M」。三井松島産業の略称だろう。
ピッタリと停止位置に停車して、一同拍手。

ここで、ツアーに参加したグループ単位での記念撮影タイム。蛋白質は、ガイドさんが手にしていた鉱山用のステッキのようなものを手にご満悦の表情。

記念撮影後、トロッコに乗り込む。
さすがに客車にはネットが張ってある。うかつに手を出して怪我をするとまずい。もともとこうなっていたのか、それとも観光客向けに開放してからネットを取り付けたのかは不明。

それにしても頭上が低い。
座高が1メートルある僕の頭がつかえるのはしょうがないとしても、もう少し身長も座高も低い蛋白質、ばばろあ共に窮屈そうだ。背筋をぴんと伸ばすことができないので、若干前かがみになるしかない。
「お前、さては勃起してるだろう?」
「してるかアホ!」
男子校出身者ならではの下品な会話。

トロッコ列車はゆっくりと移動を開始。
発電所が見える。
通路らしきものが発電所に向けて伸びているけど、昔はここも軌道があったそうだ。
この発電所はもちろん石炭火力発電なのだけど、原材料の石炭は出荷されない石炭の微細粉を使っていた。なんて効率的なんだ。

進行方向右側にはネットがついていないのだな。こっち側は鉱夫が乗り降りする側だからだろう。危なくない程度に手を出して写真撮影。
「世界の車窓から」みたいだ!

我々を乗せたトロッコは、ゆっくりだけど力強くグイグイ進む。いよいよ前方に坑道が見えてきた。あれっ、こんなところにも坑道があるんだ?
てっきり、山に入っていく坑道というのは、やぐらがある第一立坑と第二立坑、あと地図に記載があった斜坑の3カ所だと思っていた。なので、このトロッコは一体どこへいくの?ジブローダーの近くまで連れて行ってくれるの?と不思議に思っていたら、選炭所がある山のどてっ腹にそのまま突撃でございます。
いやまだ心の準備ってものがですね。
そんなのどうでもいいから入るぞー。坑道に入るぞー。
あー!ジブローダー!トリンマー!さようなら!

これまで、足尾銅山やら石見銀山、佐渡金山、土肥金山・・・といろいろな鉱山を見てきたが、それらとはまったく違う大迫力が目の前に広がっている。しかも行動に入る手前から。
なにしろ、腐食してへし折れてしまったパイプが軌道のすぐ脇に転がっている。こういうのは、普通の施設ではお目にかからないものだ。
そもそも、多くの観光坑道はチョンマゲ時代の鉱山だ。歴史の教科書を三次元で見ている感じで、あんまり実感を伴わない。でもこの池島炭鉱を見よ!すでに過去の遺物になってはいるけど、まだ「自分たちと地続きの近現代のできごと」感がプンプンするではないか!匂い立つではないか!
興奮してしまう。

そしてトロッコは坑道奥へ。真っ暗な中に、ところどころ光が灯る。ヘッドライトが必要なほど暗くはないけど、雰囲気作りとしてこの装備は大事。テンションが嫌が上でも上がる。

トロッコは坑道の途中で停車し、そこで全員が降りる。ここから先は徒歩だ。
とはいえ、それなりにトロッコは坑道内を疾走してくれたので、乗ったァ!という満足感は高かった。
逆に、「あれっ、もう終わり?」と仰天させられたのが足尾銅山で、坑道に入ったと思ったらもう終点だった。単に「トロッコ乗車体験」という位置づけなのだろう。その点、今回の池島炭鉱トロッコは、がっつり移動のために使っている。

坑道のあちこちに展示物があり、それをガイドさんが説明してくれる。実際にこの山に長年潜り続けてきたホンモノの炭鉱マンなので、話している内容に説得力があっておもしろい。ちなみにこのガイドさんは電気技師だったそうだ。
そして、展示物が「チョンマゲ時代の、人海戦術作戦」ではなく、れっきとした近代科学技術に基づいたものなので、ますます面白い。「安全衛生」という概念がちゃんとある世界の話だ。根性論ではなく、「人もまた大事な資源であり資産である」という考えがある。
ガイドさんが手にしているドリルを僕も持たせてもらったが、まさに鉄の塊といった重さで「うおっ」とうめいてしまった。マネキンが坑道内で動いて当時の様子を伝える炭鉱とは全然違う。それを実体験できる。

あれこれ並べられた展示物。
いろいろ説明があったけど、覚えきれなかった。


パネルを前に説明を受けるツアー一同。

神妙な顔つきのばばろあ。
彼は仕事柄工事現場に行くことがある。そんな彼は、
「安全確認ってほんま大事で。しょーもないと思っても、ちゃんと声を出して、指差し確認せんと絶対気が緩むけぇ。最近のやつらはその辺がいい加減じゃけえ、いつか怪我するで、ってハラハラさせられるわ」
と言っていた。だからこそ、池島のあいさつ言葉「ご安全に」というのは身をもって大切だとわかるのだろう。

幻想的な坑道。
このあたりはコンクリートで周囲をガッチリ固めて、ひろびろしている。これだったら人が通るどころか機械の運搬だって余裕だろう。
しかし、こんな広いのはごく一部で、奥の方に行けば狭くてたまらん坑道がゴロゴロしているのだろう。もっとも、近代鉱山なので、「人一人通るのがやっと」という坑道はないけども。

坑道の中を歩きながら、ガイドさんの説明を受ける。
坑道は、まさに博物館。いろいろな展示品が置いてある。建物の中に展示しても問題ないものが多いけど、坑道に置くと迫力がぜんぜん違ってくる。
無造作にだらんと垂れたケーブル。ただそれだけでも「おお!」と思う。
たぶん、何かのはずみで野良猫が「ニャーン」と現れても、「おお!さすが炭鉱!」とか思ったに違いない。たとえ炭鉱とぜんぜん関係がなくても。
とにかく、見るもの全てが新鮮だし、圧倒させられる。ずっとキョロキョロしっぱなしだ。
このあたりは地下深くにもぐっているわけではないので、地熱で熱いということはない。むしろ、地下水の気化熱のせいで涼しい。

さすが元炭鉱マン、実体験に基づいたいろいろな話をしてくれる。池島はどんどん廃墟化が進んでいるけど、それと同時にこうやって語り継げる人自体がこれから先減っていくことになる。つくづく、「池島は今が旬。今以上の旬はもう二度とやってこない。」と思う。
炭鉱で使う器具の説明といった表面的な話題だけじゃない。防災のためにどのような対策がとられていたのか、とか、事務職と炭鉱にもぐる人との給与格差の話など、話題は多岐に渡る。さすがホンモノだ。
何かの弾みに服や機材から火花が出たら、坑道内の微細なガスに引火し爆発する恐れがある。そうならないようにあらゆるものは厳重にガードされているし、衣類は静電気がでにくい繊維を使っているし、金具類も火花が出ない金属を使っている。爆発したら最後、それで人生おしまい、場合によっては鉱山そのものがおしまいになってしまうのでこのあたりは徹底している。照明一つとっても、特殊な作りなのでかなり高価らしい。
そういう話が聞けるのは、ここが「チョンマゲ鉱山」ではないからだ。近現代でも稼動していた鉱山だからこそ、さまざまな技術が導入されている。「ガスに弱いインコを坑道で飼っておいて、インコが死んだらヤバいから逃げろ」みたいな話じゃない。すごく体系的に、安全管理が行われいてるのが興味深い。

ガス警報機。
こんな坑道の浅いところに4つも警報機があるのは大げさだけど、おそらく研修生の指導のために設置したのだろう。
池島炭鉱は閉山後しばらくの間、東南アジアからの研修生を受け入れて、坑道を実際に使った炭鉱研修を行っていたそうだ。三井松島リソーシス、という会社はなにも「観光客向けの炭鉱ツアーの企画・実施」のためのものじゃない。本来は、研修受け入れのための会社だ。
しかし、今ではその研修生も池島を訪れることはない。研修は実際の東南アジアで行われることがあるそうだ。

無限軌道の機械がある。
「サイドダンプローダー」という名札が取り付けられている。何をやっているのか解説を受けたかもしれないけど、忘れた。
調べてみたら、炭鉱に限らずトンネル工事用の特殊機器というのは多数あることを知った。排ガスがバンバン出るものはダメだし、静電気が出てもダメだし、狭いところで取りまわせる設計になっていないとダメだ。地上の工事現場で使うものとは一味違う、配慮がされているらしい。

坑道の中は昼も夜も関係ない。当たり前だけど、照明がなければ常に真っ暗だ。
炭鉱は24時間操業で1日3交代制だったという話を聞いた際、「何でそこまで必死になって掘っていたんだろう?」と不思議だった。製鉄所だったら、溶鉱炉を止めるわけにはいかないので24時間操業せざるをえない。でも鉱山なら「夜はみんな寝よう!」としてもいいだろうに。
・・・しかし私が浅はかでした。坑道の中だと、時間なんて全く関係ない。お日様が昇ろうが沈もうが、雨が降ろうが晴れようが、いつだって同じ景色。「日が昇れば働き、日が沈めば仕事を終える」というほうがおかしい発想だった。

いろいろなものが壁面に張り巡らされている。

そんな壁に何かが突き刺さっていると思ったら、掘削するための削岩機だった。
こういうのも、電動ではない。水圧だったか空気圧だったか忘れてしまったけど、いずれにせよガスが出やすい一番危ない場所なので、電気なんて使えなかったのだろう。
削岩機というのは、尖がったドライバーのようなものを強引に岩にねじ込むものだと思っていたが、実際はちょっと違う。削岩機の中に、ハンマー的な部分と、釘のような部分があって、空気圧だか水圧だかでそのハンマーを高速で動かし、釘相当の部分をガンガン岩に打ち付ける、という作りになっている。なるほど、だから「ドドドド」と断続的な音がするのだな。

いろいろ解説があったのだけど、説明を覚え切れていないのが本当に惜しい。何度でも通って、炭鉱について学びたい気持ちになる。

赤いランプ

採炭機ドラムカッター。実際にスイッチを入れてグルグル回り、前後に動くところを見せてくれた。
スイッチを入れるやいなやグイン!と派手にメカニカルな起動音が鳴ることはない。なめらかに動き出す。派手な音が出る、ということはそれだけ摩擦などが内部で発生しているわけで、火花が出やすい。滑らかである、ということは安全であることでもある。
それにしても、こんなハリネズミの針みたいなもので、固い岩盤を掘削できるのだからすごいな。硬くて硬くてしょうがない材質で作っているのだろうけど、だとしてもすぐにナマクラになりそうだ。どれくらいの頻度で交換していたのだろう?

トロッコを降りたあたりと比べ、ずいぶんと坑道が狭くなってきている。さっきまではいかにも観光客向け、でもこっちはより実践向けな味付けになっている。
この界隈は、道路のトンネルのように壁面がのっぺりとコンクリートで固められていない。そのかわり、特殊な機械が取り付けてあった。シリンダーでジャッキアップして壁を支える機械だ。自走枠、という。
なにそれすごい。
こんな概念の機械があるということすら想像したことがなかったので、事前に説明を受けたときにはいまいちピンとこなかった。しかし実物を見て、僕だけでなく一同「おおお」と声を上げてしまった。
鉱山で怖いのは落盤事故だ。それを防ぐために、いわゆるチョンマゲ鉱山では丸太をやぐらのように組んでトンネルを支え、崩落しないようにしている。
鉱山というのは「そういうもの」だと思い込んでいた。しかしさすがは平成の時代まで稼動していた鉱山。トンネルを支えるのもメカだぜ、メカ。
この白いメカは小さく折りたたむことができる。で、掘削機がトンネルを掘り進んだ後にこのメカが運ばれてきて、シリンダーに高圧の水を送り込んでジャッキアップ。そうするとぐーっと大きくなって、トンネルの壁面を支えるサイズになる、という仕組み。
「えっ、トンネルが長くなればなった分だけ、これが必要になるってことですか?」
そういうことだ。ものすごいコストがかかる話だというのが、素人目にもよくわかる。しかも、掘るだけ掘って使われなくなったトンネルにあったものを取り外して利活用、というわけにはいかず、残置しっぱなしにするのだという。もったいないけど仕方がない。
ちなみに落盤防止のために、用済みとなった坑道は充填剤を詰めて塞いでしまうのだそうだ。縦横無尽に、アリの巣のみたいに坑道が残っている・・・というわけではない。この充填剤は、発電所で出た燃えカスの灰とコンクリートを混ぜたものだ。
こういうのを見るだけでも、「そりゃあ、海外の露天掘り鉱山とコスト競争で勝てないわけだ・・・」と納得させられる。ダイナマイトでドカーン、そのあとダンプカーとショベルカーでごっそり持ち去ってOK、だもの。

右の写真が、「コンパクトにまとまった状態」のメカ。これに水を注入すると、ぐいーんと伸びてトンネルの壁面を支えるところまで大きくなる。

ハリネズミ状のドラムカッター。
自走枠で坑道の空間を確保しておいて、その空間をこのドラムカッターが往復してどんどん削っていく。

石炭。
「記念に持って帰ってもいいですよ」
といわれたので、みんなひとつずつ貰って帰った。ダイヤモンドは持っていないけど、俺は今こうして「ブラックダイヤモンド」を手にしているぜ!!
この石炭だが、家に持って帰ってリビングに飾ってみた。しかし、いまいち見栄えが悪く、ぜんぜんサマになっていない。どうしようかな、この黒い石。
まだ碁石を置いたほうが見栄えがよさそうだ、と思ってしまう。
ためしに燃やしてみようかとも思ったけど、ライターの火程度では燃えないと思う。今度、キャンプをする機会があったら、焚き火に投げ入れてみようか。いやダメだ、それじゃ燃えたとしてもぜんぜん目立たなくて意味がない。

あちこちに看板が出ているのだけど、観光客向けのものではない。東南アジアから受け入れた研修生向けのものだ。
何語だろう?これ。
下の言葉はベトナム語かな?「トイ」というのはベトナム語で「私」という意味だから、えーと?
いや、悩むなよ、上に日本語が書いてあるだろう。「差し」と書いてある。指差し確認せよ、ということだろうか?
ちなみに、Google翻訳で「ター トイ」を翻訳させてみたら、「恩赦」という言葉が出てきた。あれっ、ベトナム語じゃないのかも。
まさか、獄中の人を強制労働で炭鉱で働かせる、というわけではあるまい?カイジかよ。
ちなみに「MAJU」はインドネシア語で「進捗」という意味らしいけど、これもまた謎。恩赦で進捗で差し?

雨がっぱのように、頭からすっぽりかぶることができるビニール袋っぽいものがぶら下がっていた。
ビニール袋はパイプから釣り下がっていて、パイプで供給される酸素を吸ってしばらくの間生きろ!というわけだ。炭鉱ともなれば、こういうサバイバルな思考と設備が常に求められる。
ちなみにビニールっぽい生地には、メッシュのような模様が入っている。これは、静電気による発火を防ぐための工夫だとかなんとか。いちいちあちこちに細かい事故予防の配慮があって、本当に驚かされる。それだけピリピリした現場だったということだ。

池島小学校の児童が書いた絵や習字も展示されていた。習字の授業で書く文字が「よし」「保安」「保全」「安心」なんだから、さすが炭鉱の島だ。「うんこ漢字ドリル」でニヤニヤしている今時の小学生とは気合いが違う。
振り返ってみて、小学校時代の僕なんて「安全」はともかく「保安」なんて概念は全くなかったな。
半紙の左隅に書いてある名前を見ると、カタカナの名前もチラホラ見受けられる。あれっ、と思ったら、海外からの研修生で子供がいる場合、池島小学校に通ったのだという。

坑道の奥まで行くと、そこには急ものすごく急な斜坑があった。そこにトロッコ用のレールが敷いてある。ケーブルカー並みの斜度。
そのはるか先に、地上の明かりが見える。
斜坑を出たところは、選炭場がある山の向こう側。第一立坑のあたりだ。
海底奥深くから掘り出した炭は、ここから地上に運ばれ、そしてベルトコンベアで山の上の原炭ポケット、選炭場に向かったのだろう。

斜坑を下から見上げたのち、折り返し次の坑道に向かう。
昔のツアーはこの斜坑をトロッコで下ることもやっていたようだ。今はやっていない。トロッコが老朽化したからだろうか?メンテナンスをするにしても大変だろう。
坑道を塞ぐように壁ができている。まるでビニールハウスの中に入るような見栄え。なんだろう?まさか、暗闇であることをいいことに、ここでホワイトアスパラやモヤシの栽培をやっていたら相当ビックリなのだが。

坑道の行く手を塞ぐように、さび付いた巨大なメカがあった。元の色は黄色だったのだろうか、それとも錆びたからこんな色になったのだろうか。
暗い坑道ということもあって、各種機械は黄色であることが多い。たぶん、黒や灰色、茶色といった塗装だったら暗くて見失ってしまうからだろう。
操業中の坑道はどの程度の明るさだったのだろうか?
安全確保のためには明るくしないとダメ!という発想だったのか、それとも最小限の明かりしかなかったのか。今となってはわからない。


黄色いメカには、「エアダンパー」と書かれた解説がぶら下がっていた。こんな巨大なものが「エア」で動いて、なおかつ「ダンパー」であるということがよくわからない。見ただけでは、こいつが何をやっていたのかはさっぱりわからない。
精炭した際に出たボタをここに集め、トロッコに積む装置が「エアダンパー」だという。
あれ?精炭所は山の中腹にあったはずだ。ということは、そこで出た「石炭として製品にならない砂利」はまた地中のここまで戻ってくるんだな。で、トロッコに積まれて、海岸のボタ捨て場まで運ばれていくという流れ。
エアダンパー、というのはその地上施設と地下のこことの仕切りのことだったらしい。空気で仕切りを開け閉めして、開けるとドサっとボタが上から落ちてくる。

エアダンパーの奥には、またビニールハウスのような場所があった。
この生地も、メッシュ地になっていて、帯電しないようになっている。そういえばビニールって静電気がすごいよな。手に吸い付くときがある。そうならないように金属を織り込んでいるのだろう。
ここは緊急避難時のシェルターで、それを再現しているそうだ。
こういう「安全」への配慮をちゃんと紹介してくれるのが、この炭鉱ツアーのすばらしいところだ。「掘って掘って掘りまくれ」という「攻めの鉱山」ばかりが紹介されがちだけど、その裏にはいろいろな体制があってこそ成り立つ。
派手に戦うロボットアニメのアンチテーゼとして、「ロボットを維持運用するための人たちの苦労話」が中心となるアニメ、「機動警察パトレイバー」が世に出てきたのと同じ。

シェルター内に置いてある、飯ごうのような無骨な装備。なんだろうこれは。

これは緊急時に呼吸を確保するための装置だった。
どういう原理だったっけ。説明をいろいろ聞いたのだけど、細かいところを覚えていない。確か、一酸化炭素を吸い込んだらヤバいので、一酸化炭素を二酸化炭素化する仕組みだったような気がする。

無線ケーブル。
こういうケーブルが坑道内に張り巡らされていて、このケーブルにトランシーバーのアンテナを押し当てながら通話をしていたそうだ。
ああそうか、総延長96キロにも及ぶトンネルだから、普通の無線機じゃ電波が届かない。こうやって有線アンテナを用意しなくちゃ。

ダイナマイトも実際に触らせてもらう。このあと、発破のVTRも見せてもらった。わざわざ薄型ディスプレイがこのシェルターの中に備え付けられている。
ドカーン!と一発盛大に爆発するのかと思ったが、ガチの発破というのは時間差で爆発させていくのだそうだ。粉々に粉砕するのが目的ではなく、固い岩盤にひびを入れることが目的だからだ。
「なので、実際はそんなに派手ではないんです」
とのこと。

これで展示は終わり。
来た時に乗ったトロッコに乗り、スタート地点に戻る。

外界に戻ってきた。
いやあ、太陽っていうのはすごいな!これだけ広い世界を、満遍なく照らしてるぞオイ!
トロッコを降り、最初集合した会議室で装備を返却して解散となった。引き続き島内散策をする人は居残り、夕方くらいまでさらにいろいろ見せてもらうようだ。いいなぁ。
一方の僕らは、案の定神浦行きの船には間に合わず、瀬戸行きの船に乗ることになった。瀬戸まで行って、そこからバスで神浦まで行くことになる。
土地勘のない場所でのバス路線を調べるのは本当に難儀だ。バス路線というのは地元密着型なので、A地点からB地点までを最短距離では結んでおらず、とんでもない大回りをすることがある。しかもマニアックな地名の停留所名で、一見さんには理解が難しい。
我々も、各自がスマホで調べたのだけど、スマホの小さな画面で「瀬戸港界隈を走るバスが存在するかどうか」を調べるのには苦労した。ないはずがない、と調べたのだけど、少なくとも「瀬戸港」という都合のよい名前のバス停がないことは確かだった。
調べているうちに、どうやら瀬戸港の近くに「板の浦」というバスの始発地があり、そこから外海を南下するバスが出ているらしい。行き先は「桜の里ターミナル」。ああややこしい、どこだよそれ。この「桜の里」は、昨日お昼を食べた水産食堂のあたりらしい。ええと、ということはおそらく・・・神浦港を通るよな?まさか、内陸部を走って素通り、ってことはないよな?
ありえなくはない、というのがバス路線の怖いところだけど、大丈夫と思うしかない。
板の浦バス停はちょっと港から離れている。とはいえ、まさか港の近くにバス停がないとは思えない。何故だ、何故「瀬戸港」というバス停がない?桟橋のすぐ目の前を国道が走っているのだし、徒歩0分でバス停があってもいいはずだ。
そのかわり見つかったのは、「NTT大瀬戸」というバス停。NTTの局舎はどこだ?と思って探してみると、フェリーターミナルからちょっと離れたところに発見した。あ、海沿いの国道とは別の、旧道をバスが走っているのか。
こういうのもバスの怖いところだ。幹線道を走っているとは限らない。裏道だって、住民のニーズがあるなら平気で走る。

瀬戸港行きフェリーの出発時間までまだ時間があるので、港ショッピングセンターに行ってみる。
角打ちで酒が飲めたというひろせ酒店は既に閉店しているけど、丸木ストアーはまだやっているはずだ。
・・・閉まっていた。あれれ。
後で知ったが、丸木ストアーも閉店してしまったのだそうだ。2016年の出来事だったというから、つい最近だ。ああ、これでまた池島の灯りがひとつ消えた。
このため、炭鉱弁当をツアー客に予約販売している「みなと亭」を除くと、普通にお買い物ができるお店は「かあちゃんの店」ただひとつ、というのが2017年における池島の現状。かあちゃんの店は昨日見たとおり、生活用品全般を取り揃えているわけではない。なので、もうこの島では生きていくのもかなりの修行になりつつある。
週に何度か、車の移動スーパーが本土からやってくるそうだ。さすがにそうだ、毎回毎回、お買い物のたびに本土まで船で渡るというのは大変すぎる。
港ショッピングセンターには、我々をガイドしてくれた池島炭鉱さるくの事務所があるだけだった。その事務所には、池島の地図が大きく張り出してあった。いつのものだろう?

池島港に行く。
窓口で乗船券が売られているので、チケットを購入。ミシン目が付いた券になっている。
片方が乗船券、もう片方が上陸券という名前が付いている。
乗船券は船に乗るときにもぎられたけど、上陸券は下船時に回収されなかった。領収書的な位置づけになっている。
片道、440円。一応「2等」と書いてあるけど、1等客室はない。所詮片道30分の航路だ、豪華な席を作っても満喫する暇がない。

フェリーがやってきた。午前中見かけたときと同様、かなりユッサユッサと揺れながら。
かなり浮力がある船なのか、水面からずいぶん浮き上がって見える。そのせいで揺れているように見えるのかもしれない。
フェリーがやってきた方向を見ると、神浦からだった。神浦、池島、瀬戸の3港をこのフェリーは行ったり来たりしているらしい。一方、漁船のような小ささの「進栄丸」は神浦-池島限定で、僕らが一度も見かけなかった高速船は瀬戸-池島限定だ。

フェリーに乗り込む。
結構池島に上陸してくる人が多くてびっくりだ。それもそのはず、午後の炭鉱ツアーはこの船の到着を待って開始となる。午後のツアーに申し込んだ人が来島したのだろう。
たとえ数十名規模のツアーであっても、なにしろ島民が200人もいない場所だ。とてつもなく賑わって見える。

フェリーの客席。
カーペット敷きでゴロンとするような場所はなく、シート席のみ。

「もったいない精神」旺盛な僕は、客席にいるのが惜しいので一人デッキへ。潮風を感じながら、出港を見守った。

池島炭鉱を最後に見る。
いやあ、すごい島だった。

遠ざかる池島。
インパクトにおいては、軍艦島よりはるかに上だった。つくづくすごい場所だ。
軍艦島も池島も、どんどん老朽化していく施設。とはいえ、軍艦島は既に朽ち果てた島だ。どっちかひとつしか見られないなら、ぜひ池島を優先させたほうがいい。

遠ざかる池島。
台形の形をした島影だけど、おそらくあれはアパートなどの宅地造成のために山を削った結果だろう。人は炭鉱のためにそこまでやる。
その右側に、坑道が海底深く伸びていた小島が見える。

池島が遠ざかっていくかわりに、松島が見えてきた。
島に似つかわしくない、高圧電線の鉄塔がそびえている。石炭火力発電所があるからだ。

火力発電所の煙突、そして海岸線に積み上げられた石炭。
皮肉なもので、池島には石炭の影はまったくないけど、隣の松島には海外から輸入した石炭が山積みになっている。
そんな光景に割ってはいる形で、松島から瀬戸行きのフェリー。
時刻表を見ると、1日15便も運行していることがわかった。かなり多い。朝から晩まで、だいたい1時間に1本だ。人口800人程度の島だけど、儲かるのだろうか?・・・儲かるわけはないな。島民全員が1日1回乗ったって、1回あたりの乗船人数は60名いかない。運賃はおとな200円なので、行政から助成金が出ない限りは船の維持は無理だ。

このあたりは暗礁が結構あるようで、ブイ型の灯台があちこちにある。
本土側に船が近づいてきた。

あれが瀬戸港らしい。桟橋が見えてきた。

瀬戸港。
白いフェリーターミナルがある。シンプルな形。

桟橋を振り返ったところ。

地図を見ると、フェリーターミナルの目の前に「サンライズ」というお店がある。大きさからいって、きっとスーパーに違いない、松島や池島から買い物に来た人が使うんだろう、と思っていた。
しかし実物を見てびっくり。あれっ、パチンコ屋だったのか。

集落の間を通り抜け、旧道に出る。海沿いの国道202号線も静かだけど、こちらはもっと静かで車の往来が少ない。
無骨な建物が見えてきた。NTTだ。あの近くにバス停があるはずだ。

バス停を無事発見し、バスがやってくるまでしばらくの間待機。蛋白質とばばろあは、日陰になるNTTの建物脇に退避していた。
同じフェリーに乗っていた、池島帰りの炭鉱ツアー客も何人かこのバス停にたどり着いていた。日帰りで長崎に戻るのだろう。まさか、僕らのように「神浦港までしか乗らない」人、というのはいないだろう。

バスがやってきた。日の丸がナンバープレート横についている、珍しいタイプ。
・・・ああそうか、今日が祝日だからか。
「桜の里ターミナル」行き。我々のようなよそ者からすると、これで本当に目指すところにたどり着くのか、さっぱりわからない。バスに乗る可能性がある場合は、事前に入念な下調べが必要だ。
といっても、まさか自分たちがバスに乗るとは思っていなかったもんなー。車があるのに、バスだなんて。
バスの行き先表示板は、二分割されている。ちょっと見たことがないタイプ。
ひょっとすると、出発地と目的地、2つを併記できるようにしているのかもしれない。

バスで移動。
こっちは必死だ。スマホでGoogleマップを表示させながら、現在地を確認する。なにしろ、我々が車を停めている神浦港そのものズバリにバス停があるかどうか、わからないからだ。
さすがにバス停はあると思うが、それが「神浦」という名前かどうかわからない。瀬戸港の最寄りバス停が「NTT大瀬戸」という名前だったように。もし、瀬戸港に行こうと思っている人が、「瀬戸港、っていう名前のバス停があるに違いない」とたかをくくっていたら、素通りしてしまう。

15:22
ビビりながらも、神浦港近くのバス停に到着。
バス停の名前は、そのものズバリの「神の浦」だった。
神浦バス停の目の前には、ホテル外海イン。ああ、こうなっていたのか。昨日、このすぐ近くに車を停めたけど、なにしろ慌てていたのでほとんど見ていなかった。
「さて、どうする?」
ばばろあが伺いを立てる。
「このまままっすぐ嬉野温泉に行ってもええけど、あともう一カ所くらいはどっか立ち寄れるで」
どっか、といっても時間が時間だ。本格的な施設に行く余裕はない。しかも、「立ち寄る時間がある」とはいえ、嬉野温泉にはここから2時間近くかかる距離。もう、現地で温泉三昧というわけにはいかない。
「どうせ温泉には大して入れんけえ、せいぜい早めにメシ食うくらいじゃろ」
ばばろあは淡々と言う。彼は嬉野温泉界隈の宿を探しまくったものの、全然見つからずかなり苦労したらしい。武雄温泉などの周辺地も探したけど見つからず、今晩は「メシなし、風呂なし」の宿をかろうじて確保していた。
温泉地なのに風呂なし、というのはかなり大胆な。共同浴場が発達している温泉地で、「風呂は宿に備わっていないので、共同浴場を使ってくれ」と割り切っているところはある。たとえば僕が以前温泉療養に使った那須湯本の民宿なんかは、そうだ。

とはいえ、素泊まり&風呂なしというのは欲がない宿があったものだな。温泉地なのに。
「昨年の熊本地震で配管が壊れたらしくて、まだ治っておらんらしいんよ。で、内風呂は入れんって。そのかわり、近くの『シーボルトの湯』には入れるって」
つまり、温泉地ではあるけど、お風呂はワンチャンスあるのみ。夜寝る前にダメ押しで入るとか、朝風呂というのは無理だ。残念だけど仕方がない。これがゴールデンウィーク。
「昔はもっと空いてたはずなんじゃけどね、やっぱり最近中国とかあっち方面から観光客がようけくるけぇ、なかなかどこも空いとらんのよ。夕メシも早く食いに行かにゃ、どの店も一杯で?6時頃には食えるようにしとかんと」
そう心配するばばろあだけど、その彼が「あともう一カ所くらいは」というのだからお言葉に甘えよう。
本来なら、神浦からまた瀬戸方面に戻って、ハウステンボス方面に向かう道になる。その界隈で手頃な教会がないものか・・・と探したが、見つからなかった。
ええい、こうなったら出津文化村と神浦港の間の山中にある、「大野教会」に行ってみることにしよう。駐車場から歩いていかないといかん、という噂を昨日ちらっと聞いたけど、それは内緒だ。ここも、ド・ロ神父の手によるものだという。せっかくだから昨日に引き続いて、ド・ロさまのお勉強だ。

15:32
海沿いの道から山に分け入り、ちょっと行ったところに広い駐車場があった。ここに車を停めるらしい。神浦港から10分もかからない近い場所。

駐車場脇の階段に、「大野教会堂」と書かれた案内看板が出ていた。整備されていて、観光客にはありがたい。
「それにしても相変わらずスゲーところに作るな、ド・ロ神父も」
「昨日の出津教会があるところよりも一層マニアック感がある」
地元の人からすると、部外者から「マニアック」呼ばわりされて腹が立つかもしれないけど、許してくれ。なにしろ、我々の出身地である広島には、街の中心にバーンとデカい幟町教会、というのがある。教会というのはそういうものだという先入観がある。「山の中の、しかもまとまった集落さえない土地」に教会があるというのがにわかに信じられないのだった。

大野教会堂への道中、何やら独特な石壁を持つ家があった。
「ド・ロ壁かな?」
「こんな面倒な作り方をするのはド・ロ壁じゃろ」
「ということはここが教会?」
「いやさすがにこれは違うんじゃないか?」
三人して中を覗き込む。人の気配はない。あと、教会っぽくもない。
あとでばばろあが大野教会堂の教会守の人にこの家について聞いたら、教会守は笑って
「ああ、あれは普通の民家ですよ。教会とは関係ないです」
と答えて仰天した。うわ、いけない!我々、人んちをジロジロ見ちゃったよ。
「ド・ロ壁はこのあたりではよく知られているので、真似をする家も時々ありますね」
だって。なるほどー。
あと、あらためて写真を見ると、これは全然ド・ロ壁とは違うものだ。

15:34
教会に向けて歩いて行く。
駐車場から200メートル。高低差はあるけど、数分歩けば到着だ。

15:35
「おっ、あれじゃないか?」
毎度のことながら、先頭を切ってさっさと歩いて行くばばろあが前方の異変に気がついた。写真を撮りながら歩くので毎度最後尾の僕が追いついて見てみると、確かに何やら怪しい石垣が見える。
いや、怪しいわけじゃないけど。
白い像が見える。マリア様だな、さては。
何しろ今回の我々、事前学習なんて全くしないままに教会群に突撃している。到着してみて「へー、こうなっているのか!」と毎度毎度驚いている。だからこそ、新鮮で楽しい。みっちりと予習していたら、こんなにワクワク感は得られない。
正面の建物には瓦屋根が見える。まさか教会とは思えない外観だけど、マリア様がいらっしゃるということで教会だとわかる。
相変わらず渋い教会を作るものだな、ド・ロ神父。

15:36
大野教会堂。
おっと、出津のド・ロ神父記念館で見たのと同じ、風除けのための壁が北側についている。ド・ロ神父記念館は南側についていたけど。
ド・ロ神父記念館のスタッフさんは、「このあたりでこういう壁があるのは、ここと大野教会くらい」とおっしゃっていたけど、それが今目の前にある。
そんな教会を、マリア様がじっとご覧になってらっしゃる。
あれっ、ここのマリア様って、正面入口方面を向いているわけじゃないんだな。教会の横に立っていて、教会の方を眺めている。なんでこっち向きなんだろう?

おおう、この教会って重要文化財になってるぞ。建物だけでなく、土地まで重要文化財になっているそうだ。これは出津教会と一緒。ド・ロ神父、すごいな。
1893年にできたということなので、1882年に出来た出津教会から11年後ということになる。さすがに神父常駐の教会というわけにはいかなかったようで、巡回教会という位置づけになっている。今でも、1年に1回ミサが行われるだけだそうだ。

これぞド・ロ壁。
薄い玄武岩を漆喰で固めた独特のもの。
ぱっと見、なんの変哲もない石積みの壁みたいに見える。でも、よくよく考えてみると、普通の石組みってもっとデカい石を積み上げるものだ。こんな小さい、細かい石は使わない。というか、使っても崩れる。そういうのを漆喰で固めて壁にしちゃう、というのがド・ロ神父のアイディアというわけだ。
実際、壁の裏側は真っ白な漆喰壁になっている。ああこののっぺりした白さ、よく蔵屋敷があるような古い町並みで見かけるヤツだ。
和洋折衷。とてもおもしろい。
ばばろあも感心しっぱなしだ。
昨日、出津教会で基礎知識を学んだあとなので、より一層面白く見ることができる。

教会北側にある堂内への入口は、風除けの壁で塞がれている。僕が昨日、「公衆トイレみたい」と迂闊な例えをしてしまった構造だ。
入口と、壁との間隔は狭い。人がすれ違うには体を横に向けないといけないくらいだ。ここまでしたのは、この土地の風雨が厳しいからだろう。

マリア様がこっちをご覧になってらっしゃる。
ちょうど、入口と風除け壁の間に視線を向けている。出入りする信者を慈悲の心で見つめていらっしゃるのだろうか。

それにしても変わった建物だ。
ド・ロ壁の外壁の奥には、防弾仕様とでも言えるような分厚い壁。小笠原で見た、火薬庫跡みたいに分厚い。そしてそれが漆喰というのも不思議。
さらには、石壁なのに木の雨戸。なのに窓の上部はアーチ型になっていて、もう和洋折衷ゴッチャゴチャ。
ド・ロ神父、よっぽど柔軟な発想の持ち主だったに違いない。キリスト教の教会とはこうでなくてはいかん!と故郷のフランス的な作りにこだわっていない。
建物の中は非公開。信者の蛋白質でも入ることはできない。とはいえ、窓は大きく開け放たれているので、なんとなく中の様子はわかる。10年に一度しか公開しない秘仏、といったものが中にあるわけじゃない。
蛋白質が祭壇を見て、
「あ、聖体ランプがないわ。やっぱりここでは普段ミサをやっとらんのね」
という。確かに、赤いランプが灯っておらず、ここは普段からミサを執り行う場所ではないということがわかる。

大野教会堂の南側。祭壇がある方向。
立派な瓦屋根の下にド・ロ壁。不思議な絵だ。

窓の上部分のアーチは、さすがに不均一な形の石を組んだらうまくいかないのだろう。そこだけはド・ロ壁ではなく、レンガを組んである。
ばばろあは、出津教会で見かけた「左右どちらからも開け閉めできる雨戸」が気になって仕方がない。この大野教会堂では雨戸が「一般的な」片側から閉まるタイプだったので、よけい不思議がっていた。

教会守さんにあれこれ話をお伺いする。
本当はここも出津教会同様、事前予約がないと見学ができない場所だった。すいません!旅行後になって知りました。本来は予約が必須なので、この教会に行こうと思う方は、必ず「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」に連絡をしてください。
ばばろあが雨戸のことについて聞いていたけど、教会守さんもわからない、と仰っていた。そりゃそうか。

教会守さんが雨戸の枠を指差して教えてくださる。
「これ、石の壁なのに木の枠が取り付けられていますよね」
あれっ!?言われてみれば確かにそうだ。どうやってこれ、取り付けたんだよ。接着剤じゃあるまいし。石の隙間にくさびを打ち込んだのか?
「ところどころ、あとで造作しやすいように石の間に木が組み込まれているんです」
なるほど、近くでよく見ると、石積みのところどころに角材らしきものが見える。ここを使って、木の枠を作って釘を打ち込むわけか。
「で、この釘ですけど、あまり上手じゃないですよね?」
根本まで釘が刺さらず、途中でグニャっと曲がったまま放置されている釘があちこちにある。
「多分、大工さんではなくて、地元の素人が作ったと思うんです」
すげえなあ、それでこれだけの立派な教会を作ってしまうのだから。信仰の力ってのには驚かされる。

15:56
「いやあ、いいものを見させてもらったな」
三人共、感心しながら教会を退却。正面に外海を眺めながら階段を下る。
大野教会から出発する際、「北上して佐世保方面から嬉野を目指すか、それともいったん長崎市街まで南下して、高速道路に乗って行くか」とばばろあがうんうんうなっている。
距離だけでいうと、北上してハウステンボスの脇を通って行くのが近いのだが、なにせずっと下道だ。大回りとなる高速道路ルートとどっちが近いか、思案のしどころ。
結局、高速道路のほうが早いだろう、ということでいったん南下し、大村湾を反時計回りに回って嬉野温泉を目指すことにした。今晩の宿は嬉野。明日の予定は・・・まだ何も決まっていない。本当に、何も決まっていない。
決まっているのは、せいぜい「夕方に久留米の『モヒカンラーメン』でメシを食って解散」ということだけだ。

17:44
嬉野温泉に到着。
今晩の宿はこちら。
僕は嬉野温泉にやってくるのは初。多分蛋白質もそうだろう。嬉野温泉といえば、なんといっても湯豆腐が有名。なので、今晩はぜひ湯豆腐を食べたいものだ。
そう思って、今晩の夕食候補地であった「宗庵よこ長」の横を車で通り過ぎたら、この時間にして既に店の外に行列ができていた。
「まじか!まだ6時にもなってないんだぞ?」
「ほらみてみいや、ゴールデンウィークなんじゃけえ、人が多いんよ」
「いや、でも普通温泉地っていったら宿メシだろ?なんで外メシ?しかもなんでこんな時間に?」
びっくりが止まらない。こりゃー、湯豆腐はピンチかもしれん。まあ、嬉野温泉といえば湯豆腐だ。このお店にかぎらず、あちこちで取り扱っているはずだ。第二候補、第三候補を考えておかなくちゃ。

宿のロビー。

あてがわれた部屋は3階の一番奥だった。エレベーターはないので、徒歩で。建物自体は結構古い。何故か階段の脇にぶら下がり健康機が置いてあった。
近くに外湯「シーボルトの湯」があるとはいえ、給湯設備の故障を直さないうえに食事の提供もない。商売っ気はあまりないようだ。

部屋に入る。
入ってすぐのところに、椅子と机が窓際に設置されているのでちょっと面食らった。これは普通、部屋の一番奥にあるものだからだ。角部屋とはいえ面白い構造。

既に布団は敷いてあった。
「ああそうか、食事がないわけだし、食事中に布団の上げ下げをする必要がないのか」
と納得した。
テレビは久々に見た、ブラウン管。デジアナ変換でまだまだ現役らしい。僕らは全くテレビを見なかったので、映り具合がどうなのかは不明。

おー、スイッチひとつとってみても年季が入っているなぁ。
パチン、パチンと音がするスイッチ。
「洗面」「トイレ」と書いてあって、一番下のスイッチは「☓」が記してあった。うっかりここのスイッチを触ると、電撃ショックのお仕置きがあるのかもしれない。触らないでおこう。

肩幅プラスαくらいの幅しかないところに洗面台。右にトイレ、左に風呂場がある。トイレの扉を開け閉めするときは、若干身の処し方に気をつけないと、狭くてやりづらい。居酒屋のトイレを思い出させる。
この通路、部屋の畳部分から段差があるので危険。うっかり足を踏み外してしまいそうだ。

浴室も狭い。そのかわり結構浴槽が深い。
ここは確か使えなかったはず。風呂は「シーボルトの湯」を使ってくれ、と。

窓の外の光景。特にこれといった見どころなし。

シーボルトの湯に行くための洗面セットが、紙袋に入って部屋に備わっていた。へー。紙袋に入っているのを見るのは初めてだ。面白い。
中を覗くと、歯ブラシセットをはじめとし、タオル、バスタオルが入っていた。

17:45
早速、「シーボルトの湯」に行ってみることにした。宿からは徒歩1分。近い。
先ほど車でここにやってきた際に感じたことがある。確かに温泉地なのだろう、商店があちこちにある。しかし、宿が密集しておらず、いまいち「温泉街」っぽくない。何か不思議な光景に感じる。
普通、温泉地というのは源泉湧出地を中心にして宿が密集するものだ。そしてその間を縫うように土産物屋や遊興店が軒を連ねる。でもこの嬉野温泉はそんな気配がない。我々の宿の周囲を見渡しても、他の宿がないように見える。土地に余裕があるからなのか、どうやら宿は広範囲に散らばっているらしい。

「あ、ちょっと待って。酒どんなもんあるか見させて」
といってばばろあが酒屋の中に入っていく。
蛋白質が頭を抱えているが、別に「なんてこった!」と思っているわけではなく、たまたまそういう瞬間に写真を撮っただけだ。晩酌、大いに結構じゃないか。どうせ夜は長い。
このとシーボルトの湯で風呂に入って、その後どこかでメシ食って、宿に戻ったらまだ19時過ぎだろう。

全然知らない銘柄なのだが、この界隈では「東一(あずまいち)」というお酒が有名らしい。品揃えがとても良く、常温保存されているものだと右から冷酒、本醸造、生酒、純米酒、梅酒、紫蘇梅酒が並ぶ。おっと、嬉野市に蔵元があるのか。道理で力が入っているわけだ。まさに地酒だ。
ばばろあはお酒を一本、買い求めていた。

シーボルトの湯のご入浴券。
宿のお風呂が使えないので、かわりにもらったタダ券。ただし一回限りだ。何度でも入浴できない、というのはとても残念だけど仕方がない。何度でも入りたけりゃ、お金を払ってどうぞ。

トンガリ屋根が見えると思ったら、これがシーボルトの湯だった。
シーボルトと嬉野温泉になんの関係があったのか、聞いた気がするけど忘れた。シーボルトが長崎から江戸に向かう途中に立ち寄ったとかなんとか、そういう話だったような気がするけどどうだったっけ。

大正ロマン的な雰囲気を漂わせる作りの入口。
おとな400円。おっと、朝6時から営業しているのか!そんな朝からやっている公衆浴場、聞いたことがないのでびっくりした。(無料・無人の共同浴場以外で)
風呂場は芋の子洗い状態で、あんまり落ち着けなかった。日本三大美肌の湯と称される湯だけど、どうだったっけ?それすらあんまり覚えていないくらい、なんだか人が多くて落ち着かなかった。

18:18
僕一人だったら、1時間は滞在する温泉。しかし残り二人はそこまで長風呂タイプではない。人が多くて落ち着かないこともあるし、阿吽の呼吸で三人揃ってそうそうに退散する。
夕食を食べられるお店を探す。

18:21
あらためて、先ほど見かけた「宗庵よこ長」に行ってみたが、遠目からでもわかる人混みでそうそうに断念。近づいて見て、あらためて断念。いやー、人気だわ。そりゃそうだ、嬉野温泉に来て、湯豆腐以外の選択肢を選ぶっていうのはなかなかないだろう。
ちなみに、嬉野温泉では「湯どうふ」と表記するのが流儀らしい。

「はよぅメシにしようで、のんびりしとるとどんどん夕食難民になるで」
ばばろあがあおる。
「何かどうしても食いたいもんがあるってわけでもないじゃろ?」
言われてみれば確かにそうだ。ぱっと思いつかない。
「あれなんかどうよ。たぶんまだ空いとるで」
ばばろあが指差す先には、韓国料理店の看板があった。
韓国料理に罪はないのだが、頭がぜんぜん切り替わらない。「湯とうふ」という和のテイストで頭の中が満たされていたので、急にあの赤くて辛いヤツを想像しろというのが難しい。確かにスンドゥブという豆腐料理があるけれど、それは最終手段だ。
もう少し、街を歩いて湯どうふを探したい。

ばばろあはどんどん進んでいく。
嬉野温泉の温泉街をくまなく歩き回ったわけではないけど、これといった中心地という雰囲気の場所がないため、宿だけでなくお店も散らばっている。なので、東西南北、どっちに向かっていけばお店があるのか部外者からはイメージしづらい。
ばばろあがとあるビルの中へと入っていった。

お店の人と交渉中のばばろあ。

このお店、いろいろやってるんだな。
「ステーキ」の次に「トンテキ」まではまだわかるが、「タコス」ときて、その次に「湯どうふ」だ。なんでもありだ。しかも湯どうふの次が刺身盛り合わせだからな。おまけに人気メニューはお好み焼きだぞ?
ここだったらあれこれ好きなものが食べられてよさそうだ。空いていればよいのだけど。
・・・と思ったが、ばばろあが首を振りながら店から出てきた。
「ダメじゃった。もう予約で一杯じゃって」
「マジで?なんでみんな外食するん?宿メシ食わないんか?」
「日帰り客がここでメシ食って帰るんじゃないか?」
なんてこった。
宿泊客である我々が途方にくれる羽目に。

すぐ近くにあった寿司屋にも、果敢にチャレンジするばばろあ。のれんも出ていないが大丈夫だろうか?
「寿司屋で湯どうふ?」

「いや、ほら、昼食メニューで湯どうふ定食って書いてあるで。夜もやっとるんじゃないんか?」
ほー、さすが嬉野温泉。寿司屋であっても湯どうふをやるのか。
ばばろあがお店のカウンターで仕込み中の大将に声をかけ、了解を取り付けた。
「大丈夫、いけるってさ」
「よっしゃあああああああ」
湯どうふの宴、開幕。

とはいってもここは寿司屋だ。お品書きが潔いくらいに寿司だらけ。せいぜい茶碗蒸しとかちゃんこ鍋がある程度だ。ここには湯どうふの文字は書かれていない。本来はお昼だけのメニューだったものを、無理いっちゃったのかもしれない。

とりあえず乾杯。長崎、池島、そして今日は嬉野温泉。よくもまあ、こうやってウロチョロしているものだな。本当にめまぐるしく動き回っている。
ばばろあは僕の横でビールを煽り、「うはぁぁぁぁ」と悶絶している。池島の島歩き、長時間ドライブ、そして温泉。これでビールがまずくなるわけがない。最高の一杯だっただろう。

嬉野湯どうふ。
嬉野温泉といえば美肌の湯として知られる名湯だけど、ひょっとするとそれを上回る知名度なのが「温泉を使って煮た、湯どうふ」だ。
温泉成分の影響で、豆腐の蛋白質がほぐれ、とろっとした独特の湯どうふになる。その独特の風貌は、いかにもうまそうだ。ぜひ食べたい、地方の銘品として僕はずっと気になっていた。
実際に食べるのは今回が初めてだ。
「それっぽいもの」は食べたことがある。自宅で。成城石井だったかどこだったか、その手の「若干高級食材を扱ってます」スーパーで「嬉野湯どうふ」が売られていたので、「まさか自宅で食べられるなんて!」とびっくりして購入したのが、それだ。
パッケージを開封してみると、豆腐と、嬉野温泉をパック詰めした水が入っていた。コンビニで蕎麦を買ったときに、「ほぐし水」が入っているような組み合わせに、若干面食らった。
この嬉野温泉水を鍋にあけ、豆腐をゆでるとアラ不思議、嬉野湯どうふがご自宅でも!という仕組み。実際に作ってみたけど、自宅で食べる「それっぽい豆腐」は大しておいしくなかった。風情もへったくれもなかったからだ。
そして本日、ホンモノの湯どうふとのご対面ですよ。どうですこのオーラ。固形燃料でぐつぐつ煮立てているという演出もにくい。豆乳で煮たのですか?というくらい、本来透明のはずの温泉水が白濁している。いいねえ。
食べてみたが、舌触りなめらかでとてもおいしゅうございました。ほんわり旅情でございました。

考えてみれば、一昨日の長崎でも魚、昨日の池島も魚だった。そして今日、内陸地である嬉野温泉であってもやっぱり魚だ。
「ええじゃん、広い意味で言ったら島国日本はどこでも海に近いんじゃけえ」
まあそのとおりだ。
というわけで海鮮丼。

蛋白質はにぎりの並。
ばばろあは「上にぎり」にしようか「松にぎり」にしようか、お品書きを前にさんざん悩んでいた。どっちを頼んだかは、覚えていない。
こうしてアワレみ隊長崎紀行の、3泊目の夕食は終わった。明日の夜のいまごろは、解散してめいめい帰宅の途についているはずだ。長い旅も終盤戦。

寿司屋で無事、「嬉野湯どうふ」にありつくことができた我々は、日が暮れた嬉野の街を歩く。ばばろあが「部屋飲みするための酒と肴を買おう」と提案したからだ。スーパーとはいわないまでも、ちょっとした酒屋くらいはあるだろう。
途中、洋菓子店を発見。甘いものに目がないばばろあは早速入店し、一個数十円という安いエクレアを発見。「食後のデザートは必要じゃろ?」と言いながら買っていた。僕もつられて買う。
ばばろあと僕は浴衣姿。
ばばろあは「浴衣の方が楽じゃん」というスタンス。
僕は「せっかく温泉に来たんだから、浴衣を着て旅情を味わいたいでしょ?」というケチくさい発想。
一方の蛋白質はというと、普段着のままだ。しかも、シャツの一番上のボタンまで閉めてきっちりしている。ネクタイをするわけでもないのに、一番上までボタンを閉めなくてもいいだろ?こういうところがいかにも蛋白質だ。
たぶん彼は、「まっすぐ歩いてくれ」と言われたら、「止まれ」と言うまでひたすら真っすぐ歩き続けるだろう。そんな真面目というか、馬鹿正直な性格だ。着崩した格好をしている姿を見た記憶がこれまで一度もないかもしれない。
とはいえ、僕が中学一年生のとき、彼の存在は学年中で注目の的だった。そいうのは、パンツがブリーフというのが当たり前の年代だったのに、彼だけトランクスをはいていたからだ。そんなんどうでもいいじゃん、と今となっては思うが、1980年代の広島というのは、まだまだ後進的で閉鎖的だった。そんな世界でトランクスというのは「大人」でありイキっている存在だった。
子供の浅はかさというか、「蛋白質がトランクスを履いている」というのはあっという間に広まり、そこから尾ヒレがついて「蛋白質はインキンタムシだ」とか「ずるむけでとんでもないことになっている」というデマが流れたものだ。でも実際問題、蛋白質に「なんでトランクスなの?」と聞いたら、「風通しがよくていいじゃないか」と答えたので、「ブリーフの風通しに不満がある⇒股間が蒸れている⇒インキンタムシ」という発想になったのは致し方ない。

スーパーの看板らしきものが見えたので、そこまでてくてくと歩いていった。
しかし、近づいてみてびっくり。
「おい、ホームセンターだぞこれ」
「まじか!なんで温泉街にホームセンターがあるんだよ」
地元民からしたら、ホームセンターがあって何が悪いということになる。とはいえ、スーパーを求めて、酒肴をもとめてここまで歩いてきた立場からすると大変にがっかりなのだった。
これ以上お店を探す気にもなれず、諦めて戦利品ゼロで宿に戻った。
2017年05月05日(金) 4日目(最終日)

最終日の朝を迎えた。
昨晩も、3時間ほどかけてばばろあ劇場が展開されたのだが、さすがに独演会形式ではなくもうちょっと会話形式にはなった。というのも、聞き役になっていた蛋白質が軽く風邪をひいてしまい、そうそうに寝込んでしまったからだ。
とはいえ、ばばろあが
「蛋白質、あいつはあんなに遠藤周作が好きなんなら、もっといろいろな彼の作品を読まにゃいかんで。『沈黙』だけじゃなくって、他にもいっぱい書いとるんじゃけえそれも読んでこそ沈黙でほんまに言いたかったこともわかるようになると思うんよ」
と僕に話していたら、寝ていたはずの蛋白質が飛び起きて
「読んどるぞ!狐狸庵先生のエッセイとかそういうのも読んどる!」
と言ってきたのにはびっくりした。
それはともかく、最終日にどこに行くかが前日夜になっても全く決まっていなかった。夕方、久留米にある「モヒカンラーメン」で豚骨ラーメンを食べてから、新鳥栖駅で解散するということだけは決まっているけど、それだけだ。
ばばろあは、
「吉野ヶ里遺跡には行ったほうがええと思うんよ。わしら高校の修学旅行で行ったじゃろ?あの時と比べ物にならんくらいデカくなっとるから。昔って、ほったて小屋みたいなのが数軒建ってるだけじゃっただろ。そのつもりで今行くとびびるで。なんでここまでデカくなったん?ってくらいデカい」
と力説する。へえ、それは面白そうだ。
いや、正確に言うと、「昔との違いを対比して、面白そうだ」だ。はっきりいって、弥生時代の遺跡というのは見ても大して面白くないものだ。これは吉野ケ里にかぎらず、静岡県の登呂とかもそうだ。お城のような派手さがないぶん、ひたすら地味。修学旅行でも、ほとんど記憶に残らないくらいにつまらなかった。
そんな施設が大発展を遂げるとは。違いを見てみるのはよさそうだ。
ただし、せっかくクリスチャンの蛋白質がいることだし、我々もド・ロ神父に感化されたフシがある。このまま佐世保から平戸に抜けて、教会巡りを続けたいという希望もある。ばばろあと地図を見ながらウンウン唸ったが、この案は結局採用されることはなかった。
「あっちはあっちで、あらためて一つの旅行としてやろうや」
という話になったからだ。夕方に久留米・鳥栖方面に向かうにしては、ちょっと無理がある行程だった。
ばばろあはぼやく。
「佐賀界隈って、あっちこっちにちょっとした観光地が散らばっとるんよ。一つの観光地を目的にするにしてはインパクトが弱いし、かといってハシゴするには面倒だし」
実際そうだ。伊万里や唐津というのも佐賀の重要な観光地だが、たぶんこういうところに行くと3人の興味の度合いによって温度差が激しいだろう。今回はやめておいたほうがよさそうだ。
結局、
武雄温泉⇒肥前浜宿⇒吉野ヶ里遺跡⇒柳川⇒モヒカンラーメン⇒新鳥栖駅で解散
という流れになった。

荷造りをしている最中、蛋白質がかばんに手を突っ込んで「あっ」と声を上げた。
何事かと思ったら、かばんから「ネスカフェ・ゴールドブレンド」がでてきた。しかも未使用品の新品だ。
「何だ、コーヒーを飲みたかったのか?」
と聞いたら、彼はニヤニヤしながら、
「いや違う、こういうことがしたかったんだ」
と遠藤周作の本を横に据える。・・・ああ、そういうことか。
昔、ネスカフェ・ゴールドブレンドのTVCM「違いがわかる男」シリーズの中で、遠藤周作が登場したことがある。それのオマージュだ。でも、遠藤周作がそのCMに出たのは1972年のことだ。僕らが産まれる前だぞ?お前一体何歳なんだ。
「しまったな、外海にいるときにやっておくべきだった」
と悔やむ蛋白質だったが、「いいんじゃない?折角だから今写真を撮っておきなよ」と声をかけたら、彼は気を取り直して写真撮影をしていた。
遠藤周作文学記念館でこの行為に及ばなくてよかった。彼の性格なら、チケット売り場のスタッフさんに「ネスカフェ、持ってきたんです!」などと聞いてもいないのに見せびらかしそうだ。
で、写真撮影を終えた蛋白質は満足したらしく、そのままこのインスタントコーヒーをかばんにしまっていた。
「えっ、飲まないの?」

宿の駐車場はちょっと離れたところにあるらしい。車を取りにばばろあ一人が離れている間、しばらく宿の前で待機する。
建物の壁に、浴衣姿の女性が描かれていた。壁にじかに描いたのだろうか?よく描けているものだ。
「でもこれ、綾波レイに似てるよな」
「やっぱりそう思った?」
ウルフカットの女性を描くと、必然的に綾波レイに似てしまうのだろう。

朝の嬉野温泉。
ご覧の通り、高い建物が少ない。つまり、宿が少ないということだ。このあたりはシーボルトの湯に近く、一番の中心地のはずなのに。

そんな嬉野温泉中心地?の中、こつ然とそそり立つ建物がある。
てっきり市庁舎かなにかと思ったが、もちろんそんなわけはなく、「ホテル桜」という宿だった。周囲との調和というのが全くない、我が道をゆくホテル。いや、むしろ周囲にこのクラスの宿がないということが非常に不思議だ。これだけ有名な温泉地なのに。
ただ、このホテルは圧巻すぎる。夜になると建物の看板が光り輝き、しかもゆら~りゆら~りと色を変える。ちょっと浮いている印象すら受けた。
最上階に展望露天風呂があるそうなので、そこから嬉野界隈の景色を一望できるだろう。眺めを楽しむにはちょうどよさそうだ。

ホテル桜の駐車場脇には、スナックなどが集まった建物がある。
やっぱり、温泉街といえばこういうネオン街もセットになるものなのだな。僕はこういうお店に出入りする機会が全くなかったし、興味もなかったので、こういうお店の需要というのがさっぱりわからない。どういう人がお店に繰り出すのだろう?
なにしろ、海のもの山のもの盛りだくさんの宿メシは、食べきるとかなり満腹だ。仲居さんから「ご飯のおかわりは自由ですからね〜」なんて言われたら、ついつい食べ過ぎちゃうし。さらにそこでビールやら清酒を飲んだら、一体この後どこに「二軒目に行くぞー」という気力体力胃袋があるというのか。
しかも、部屋に戻ったら、もう一度風呂に入りたいし。
という発想はあまり一般的ではないのかな。宿飯はそこそこにして、なれない温泉街の飲み屋に繰り出してサイコー!という人がかなりの数、存在するっていうことなんだろう。

嬉野温泉界隈で朝ごはんを食べようとすると、朝からやっているお店が絶望的に少ないことに愕然とする。別に嬉野に限った話ではないのだろうが。
朝飯はコンビニでおにぎりやサンドイッチでいいじゃないか、というご時世でもあり、わざわざ朝ごはんを提供するお店なんてニーズが少ないのだろう。
とはいえこっちは旅人。コンビニ飯はちょっとわびしいので、ちゃんと席に座って、何か食べたい。できれば温かいものを胃袋に入れて、体に活力を与えたい。
あれこれ調べてみたら、嬉野温泉からちょっと行ったところにある武雄温泉の近くに、24時間営業のセルフうどん屋があることに気がついた。ちょうどいい、かけうどんになにかトッピングをつけて、ずるずるッとやれば随分いい気分になれそうだ。
アワレみ隊長崎ツアー最終日の朝は、まずそのセルフうどんのお店に行くことから始まった。
「よーしよおーし、到着したぞぉー。食うぞー」
と言いながら車を降りる。

セルフの店舗というのは、独特のお作法があるものだ。
ちゃんと理解しないと、お店に入ってからあたふたしてしまう。それは格好わるいので、さも「何度も通っていて、もういい加減この店の味には飽きたんだけどね。ついつい寄っちゃうんだよね」という風を装うのがいい。

って、あれれ?扉を押しても引いても開かない。
よく見ると、張り紙で「オープン午前11時、オーダーストップ深夜0時」と書かれてあった。なんてこった!24時間営業じゃなくなってるじゃないか!

大爆笑するばばろあ、立ち尽くす蛋白質。
我々一同、すっかり頭の中が「うどん」になっていたので、この不意打ちには完全にまいった。
「みてみい、ドアのところに24時間営業って書いてあるけど、それを赤いシールで隠してあるで」
どうやら、そう古くないときから24時間営業をやめてしまったらしい。
「どうりでおかしいとおもった。パートさん募集のところに、深夜の時間帯がないもん。あと、全ての時間帯で人不足っぽい」
ひとしきり笑ったのはいいけど、ご飯にありつき損なった。困ったなぁ。
何しろ、この界隈で朝ごはんを食べられるお店を探してヒットするのは、高速道路のSAだったりする。いやいや、高速道路に乗ってまで朝ごはんを食べる気はないよ、と調べ続けると、今度は佐世保バーガーの店になる。佐世保まで行く予定はない。
しょうがないので、メシはおいおい、ということにして先に進むことにする。
武雄温泉。

武雄温泉といえばこれ!と必ず登場する、楼門までやってきた。
「で、これって何なの?」
ばばろあに聞く。武雄温泉に行ってみたい、と言い出したのは僕だけど、これが何なのか全く知らない。てっきり温泉街入り口にあって、「おいでませ武雄温泉」みたいなことが書いてあるものだと思っていたが違うようだ。お寺の山門っぽい。街の玄関口にあるわけでもない。


「ここ、温泉で?」
「温泉?」
「共同浴場がある場所」
「まさかー。こんな共同浴場なんてあるかい」

という会話をしたが、たしかに温泉成分表が掲示されている。
あれっ、本当に温泉だった。
この時間からすでに入浴できるようで、ぼちぼち来場者が出入りしていた。ここの温泉施設は貸切風呂もあるような大規模なものだ。
しまった、もしここが朝からやってる入浴施設だとわかっていれば、「折角だから」精神発揮で入浴を提案していたのに。あまりに心の準備ができていなかったので、風呂に入ろうという気すら起きなかった。それくらい、唐突だった。
元湯は朝6:30〜24:00までの営業と長丁場だ。ほぼいつでもふらっと訪れることができるのがいい。

そんな武雄温泉元湯の隣に、何やら「水戸黄門」でおなじみの葵の御紋を掲げた建物が見える。なんだありゃ。店名もずばり「葵御殿」と名前がついている。窓が全然ない建物は、ちらっとみただけで違和感バリバリだ。ああこれはラブホテルですね、と思わせる外観。よりによって文化財のすぐとなりがこれというギャップがすごい。
・・・と思って、後で調べてみたら、ラブホテルなんて生ぬるい。もっとストレートな風俗店だった。びっくり。
あと、どうでもいいけどこの左隣の建物の名前は「エスポワール武雄」という名前だった。ざわ・・・ざわ・・・借金が棒引きになりそうな予感がする。
武雄温泉を後にした我々は、「肥前浜宿」を目指す。
僕は聞いたことが全くない地名だ。九州界隈は縁が薄く、僕が知らない土地はとても多い。「街道があったんで、古い町並みが残っとるんよ」というばばろあの話に従い、行ってみることにする。
途中、何かメシを食べられる場所がないかと探したが、どこにもなかった。
あと、今はちょうど新茶の季節。嬉野といえば「嬉野茶」というお茶の産地でもある。茶畑見学とお茶の試飲・直売施設に立ち寄ることも考えていたのだけど、なにしろまだ朝が早かった。さすがに朝10時より前に営業しているとも思えず、お茶畑はスルーした。
嬉野温泉で泊まった宿は、朝風呂に入れるわけでもなく、朝飯が出るわけでもない。男三人
衆なので身支度は早い。そうなると、朝起きたらとっとと行動開始になるのでとっても朝が早い。
つくづく感心したのだが、夜の11過ぎになるとおネムになり就寝時間になり、朝6過ぎになると起き出すという二人の行動パターンだ。ジジイやんけ!と驚いた。とはいえ、僕も日頃疲れをためていたので、この行動パターンにあいのりして早寝早起きをしていたのだけど。
肥前浜宿は、その名の通り街道にあった宿場町だ。そのため、見るべき宿場跡は道路一本の周囲ということになる。端から端まで、宿場町があったところを歩いて散策すれば一通り楽しめるだろう。
しかし手頃な駐車場を探し求めていた我々は、うっかり車でその宿場町に入り込んでしまった。
「おい、これから歩いて満喫するところを今通っちゃってるぞ。このあとの楽しみが」
「しょうがないじゃろ、駐車場がこっちじゃなかった」
車を降りた時点で、すでにこの宿場町の雰囲気をなんとなく把握してしまっていた。まあいい、歩けばまた違った景色が見えてくることだろう。

宿場町の端っこにある酒蔵に駐車場があった。「ここに停めていいですか?」と従業員さんに聞いたらOKだというので、ありがたく使わせてもらう。
銭湯のような煙突がニョッキリ突き出ているが、れっきとした現役の酒蔵だ。

酒蔵駐車場の脇には、まだ新しい建物が建っていた。こちらは売店になっているらしい。まだ10時前ということで準備中だったけど、どうぞと声をかけてもらったので中に入る。

酒蔵が経営するお土産物店、という位置づけらしい。コの字型にお店が作られていて、売店部分、テイクアウトフードの調理場、テイクアウトフードを食べることができる休憩場と分かれていた。
お土産物、といってもチャラチャラした観光地土産ではなく、あられとか渋い和のテイストのものだけが売られている。どれもうまそうだ。

まだ準備中だったテイクアウトフードのカウンターに、「浜天」というPOPが出ていた。魚のミンチを使ったフライだそうだ。それはさつま揚げというのではないか?と思ったが、写真を見ると衣がついている。パン粉にまぶして揚げたものらしい。うまそうやんけ!
駐車場を使わせてもらっていることもあるし、ぜひここは売上に貢献しなくちゃ。

まだ油の温度が上がっていないので、ちょっと時間がかかりますけどよろしいですか〜と店員さんに言われたけど、むしろ望むところだ。作り置きでなく、揚げたてが食べられるということだ。
しばらく待っていると、たこ焼きサイズの「浜天」が出来上がった。うひょう、うまそう!

しかもこれ、そのまま食べてもうまいのに、特性のディップをつけて食べるとよろしいということだった。「えごまガーリック」や「海苔マヨ」といった独特な味付けのディップが4種類もあって、どれを使ってよいのか目移りしてしまう。なにしろ三人で6個しか浜天がない。一人二個の割当で、一体どうすればよいのやら。
実際に、こいつァかなりうまい。「すり身」ではなく「ミンチ」というのがいい。食感を残しつつ揚げてあるので、食べごたえがある。
「東京にお持ち帰りしようかな・・・」
と真剣に考え込んでしまう。それくらい、うまい。でも、ディップも欲しくなるよね、これはさすがにお持ち帰りできないよね、と悩んでいたら、ばばろあから
「冷めてしまったらまずくなるで。やめとけ」
と諭され、断念。そのかわり、店員さんに
「これ、冷凍品で通販やってくれたらいっぱい買いますんで!」
と伝えておいた。
もしこれを読んだ人で、肥前浜宿に行く人がいれば、ぜひお試しを。

売店の横に、湧き水がとうとうと流れていた。峰松酒造場の仕込み水として使っている水なのだそうだ。そして、その横に何故か絵馬が吊り下げられている。飾りかと思ったら、ちゃんと願い事が書かれていた。
絵馬は隣の売店で売られている。いろいろ手広くやってるな、この酒蔵は。社長はかなりのやり手らしい。昔ながらに酒を醸してるだけではだめだと思っていろいろ浜宿をもり立てようとしているようだ。

道路脇の用水路には、鯉が泳いでいた。
「この鯉は逃げないのだろうか?」
と思ったら、ちゃんと柵がついていいた。

売店の隣が酒蔵で、「肥前屋」という屋号を名乗っている。峰松酒造が正式名称。
「酒蔵見学」というのぼりも出ていて、中に入ることができるようだ。まだ10時前で準備中だったようだけど、入って良いとのことなのでお邪魔させてもらう。
「観光酒蔵」を名乗る日本唯一の施設!と鼻息が荒いようだ。酒蔵を一般開放しているところは、全国ポツポツと存在するけど「観光酒蔵!」と名乗っちゃうほど大々的なのは確かに聞いたことが無い。よーしよーし、じゃあ観光しちゃるでー。

そもそもこの峰松酒造が何というお酒を醸しているのか知らないんだが、入ってすぐの売店でその正体を知った。
ああ、焼酎の「魔界への誘い」か。これなら結構有名なお酒だ。飲んだことは多分ないと思うけど。プレミアムがついている焼酎「魔王」に似ている名前だな、という印象はある。
焼酎専門の蔵なのかとおもったら、ちゃんと清酒も醸造していて「肥前浜宿」「光武」といった銘柄があるようだ。
ばばろあはここでお酒を買い求めていた。

昔のお店だけあって、間口が狭くてやたらと奥が深い。地平線が見えるんじゃないかという印象すら抱く。

あれっ!?
建物の中の柱に、ツバメの巣ができている。どういうことだ?
軒下にできるならまだわかるけど、どうやってここまでやってきたのだろう。
店員さんに「夜って戸締まりしますよね?そうするとツバメはどうするんですか?」と聞いたら、夜でもツバメが出入りできるような穴が扉に作ってある、ということ。へー。愛されているんだなあ、縁起物の生き物だから。
でも、うっかりフンを落とされたらたまらない。この近くには寄らないほうがいい。「運がついた!」と喜ぶほどお調子者じゃない。

蒸し米を作っていた大釜が展示されていて、はしごが立てかけてある。この中に入って、記念撮影をどうぞ・・・というわけだ。店員さんが気を利かせてくれて、「撮りましょうか?」と言ってくれた。ありがたくご厚意に甘える。
しかし、大の大人二人が釜に入って記念撮影すると、どうにも冴えない構図になる上に表情も固くなる。「うわー、アツーイ!煮える~!」なんてキャアキャアした写真にするべきだったか。何を深刻な顔をしているんだ、ふたりとも。

現役で酒造りが行われている蔵なので、いろいろな資材があちこちに置いてある。その隙間を縫って奥へと進む。
何?昭和の部屋?なんだろう、それは。

さすがにこれは「昭和の蔵」ではなさそうだ。酒タンクだ。

タンクの奥に、昭和の部屋を発見。なるほどそういうことか。
テレビやちゃぶ台、黒電話・・・昔の電化製品や部屋の美品などが置いてある。面白いんだが、やや唐突感がある展示ではある。ただ、「酒蔵がひたすら酒造り関連の展示ばかりやる」必要はないわけで、こういうのもいいもんだと思った。

櫂入れ体験ができるタンク。これもまた記念撮影用にどうぞ。

09:33
以前は長崎街道の脇街道「多良往還」の宿場町だったという肥前浜宿。
街道沿いに建物が立ち並ぶが、非常に静かだ。歩いている人がほとんどいない。観光客?いるもんか。
ばばろあが驚きを隠そうとせず、何度となく
「今、ゴールデンウィークで?なんでこんなに人、おらんのじゃろ?」
と声をあげていた。
「ここ、観光地じゃろ?こんなに人がおらん観光地っていうのもどうなん?」
確かにそうだ。まだ時間が早いせいもあるのだろう。なにせ僕ら、メシも食わずに朝7時45分に宿を出ているもんで。
普通の観光客なら、この時間はまだ目的の観光地に到着していない時間だ。

まちなみ案内図。
宿場町の跡地なので、道一本を歩いて戻ってくればそれで観光はおわりだ。楽でいい。縦横無尽に古い町並みがあると、むしろ観光しづらい。

魚市場、という文字が残っている建物。
台形の形をした屋根が珍しい。
そして、江戸時代にもシャッターがあったことに驚かされる。
あ、さすがにこれは最近のものか。
あと、パラボラアンテナも・・・これも最近?そうですか。

人の気配がない道を歩く。

風情はすごくある。
人が少ないこともあって、ますます風情がある。こりゃあ、写真映する。観光客がわいわいいる、岡山の倉敷なんかよりよっぽど味わい深い。しかもこの建物、一つ一つが立派なことでかいこと。なんなのこれ。しかも煙突がある建物がちらほらと。
この界隈は酒蔵がとても多くて、別名「酒蔵通り」なんだそうだ。

建物の二階部分も立派。

酒蔵の煙突。さすがに煙突部分はレンガで作ってある。しっくいでは熱に耐えられないのだろう。
ド・ロ壁は・・・さすがにここには、ない。

それにしても、観光客相手に儲けてやろうという色気を出している店がない。先ほどの「肥前屋」くらいだ。そこから先、ぜんっぜんお店がない。時間が早いせいもあるのだろうけど。
ばばろあが、建物の中を覗き込んでいる。
「おいここ、入れるっぽいぞ」
「ええ?入っちゃうの?」
「ええじゃろ、鍵かかっとらんし」
「そういう問題かね?」
酒屋さんと思しきお店に侵入。
対応してくれた店員さんに、お酒の試飲を勧められた。ばばろあは車の運転があるし、僕はお酒が飲めない。となると・・
「俺か!」
蛋白質が代表して飲むことになった。
「俺が酒弱いの、知ってるだろうが」
「ああ知ってる、もうかれこれ20年以上何十回と聞かされてきた。大学時代パッチテストをやったら云々、って話」
「それでも飲め、と?」
「酔わなくていいぞ?味の感想さえちゃんと伝えてくれれば」
「そんなにわし、酒詳しくないのに」
そんなやりとりの後、お酒を飲む蛋白質。
店員さんに聞くと、今やこの肥前浜宿でお酒を作っている酒蔵はほとんどなくなったそうだ。建物だけは残っていて、風情バッチリなのに惜しい。

「玉ノ香」と書かれた煙突がそびえる酒蔵。飯盛酒造。これもまた立派な建物。

またばばろあがガラス扉から中を覗き込んでいる。酒蔵だけあって、広い空間が広がっている。人の気配は、ない。
「でも、酒が入っている冷蔵庫はあるで?やっとるんじゃないか?」
またもや「ごめんください」、といいつつお店に突入。
しばらくして、居住エリアの奥の方から奥様がびっくりした顔で現れた。あ、すいません、ちょっといっすかね。
ばばろあが建物をベタ褒めする。素晴らしい、と。しかし、今やここも酒の醸造は行っておらず、これだけの広い空間は特に何も使っていないのだそうだ。ばばろあがやたらと悔しがり、
「もったいないですね、せめて素泊まりの宿として提供するだけでも喜ばれるのに・・・」
と言うが、じゃあ誰が維持運営するのか、と具体的な話になるとなかなか難しいのだそうだ。

ここでも試飲を勧められたので、アワレみ隊を代表して利き酒師蛋白質に。
「このお酒は?」
「近くの酒蔵で作ったものですよ。うちではもう作っていないから」
「蛋白質、どうだ?」
「おっ、これは・・・なんだろうな、パーティーを開いているような味だ」
「なんだそのたとえは?」
「なんだか、華やかで楽しくなるような、そんな感じ」
「どんな感じかよくわからん」

酒蔵通りを歩いてわかったのだが、先ほどの「肥前屋」で売っていたお酒は、肥前屋そのもの(峰松酒造)が作ったものだけじゃないんだな。「光武」とか「魔界への誘い」というのは、別の酒蔵のものだ。峰松酒造自体が醸しているお酒は、「菊王将」。
街道筋から裏道に入ったところに、茅葺きの古民家があった。こちらも見学。

最後、車を停めていた肥前屋に戻る。
肥前屋のことをSNSに投稿すれば、お礼にバウムクーヘン1/8切れがもらえるという。ならば、ということでFacebookに投稿し、バウムクーヘンをゲット。
なんで酒蔵でバウムクーヘン?と思ったが、酒米の「米ぬか」を使って作られたのだという。「米ぬか」という表現はあまりうまそうに感じないけど、肥前屋自らがこう表現している。肥前屋のオンラインショップによると、
日本酒の原料となる酒米を高精白して生まれた、佐賀県産米の特等米ぬかを使用した「肥前屋バウム」
と書かれている。「特等」という表現が面白い。米ぬかに「特等」!そりゃそうだ、酒造米を贅沢に磨きまくってるんだもの。事実上、ほとんど米粉だ。しかも上等な。
で、これなんだが、結構うまかった。思わず、お金を払ってコイツを2切れ買ってしまったくらいだ。ばばろあも追加で買い求めていた。それくらい、うまいのでおすすめだ。さすが米ぬか入り。
ちなみに「ぬか漬け」のイメージは一切ないので念のため。
先ほどの「浜天」に続いて、うまいもんが食べられてよかった。大満足。
そういえば、この宿場町って喫茶店の類が全然なかったなぁ。その分俗化されていなくてとても風情があったけど、つくづく商売っけがない観光地だ。
最後まで、観光客は少なかった。しっとりとした時間を過ごすには最適。
肥前浜宿をあとにしたアワレみ隊御一行は、吉野ケ里遺跡を目指す。
結局、朝ごはんは肥前屋の浜天とバウムクーヘンということになった。お昼、どうしようか。さすがにちゃんとしたお店で食べたいものだ。
「でも夕方にはモヒカンラーメンじゃけえね?昼食うんなら軽めにするか、早めに食うかせんと」
ばばろあがハンドルを握りながら言う。ではどうしようか。
バッテリの残りを気にしながら、スマホの小さな画面を眺める。スマホというのはあらゆる情報にアクセスできる万能ツールだと信じていたが、案外今回の旅では物足りない。というのも、情報は入手できるのだけど、土地勘がないので「で、それはどこにあるの?」「さっきの店とくらべて、近いの?遠いの?」というのがわからない。比較検討するためには、大きな画面で見比べないといけない。ああなるほど、スマホでお店探しっていうのは、慣れた場所でないと難しいんだなと今更悟る。
「このあたりの名物って何があるの?」
ばばろあに聞くと、
「うなぎのせいろ蒸し?」
という。ただし、柳川は吉野ケ里よりももっと遠い。
「柳川まで行ってしまったら、もう解散場所に近いぞ。さすがにそれは」
ではどうしよう。
「小城ってところは羊羹が有名で?」
いや、さすがにお昼ごはんに羊羹はないな。お土産要員として覚えておこう。それにしても、九州グルメって東京在住者からすると全然知らないものだ。小城の羊羹?初耳だ。面白いな。
「あと、神崎ってあたりはそうめんが」
「そうめん!それはいいな」
今日は気温が上がっていて、結構蒸し暑い。冷たいそうめんを今年始めてツツーっと食べるの、いいじゃないか。知らなかった、佐賀県でそうめんが有名な場所があっただなんて。
その神崎という土地は、ちょうど吉野ケ里に隣接するエリアであり我々に都合が良かった。よっしゃ、お昼は神埼でそうめんだ。
吉野ケ里の脇をすり抜け、山の方に向う。
ばばろあが車を運転しながら、右側を指差す。
「あのあたり一帯、全部吉野ケ里遺跡じゃけえ」
「え、そんなにデカいの?」
「知らんうちに規模拡大しとった」
「いずれ日本を統一するんじゃないか?弥生時代に成し遂げなかった野望が21世紀に叶う」

11:56
何やら車がいっぱい停まっている。駐車場待ちで路上で車が右往左往だ。交通整理の人まで出ている。
「おい、まさかそうめんがこんなに人気なのか?」
「まさか?」
「でも、こんなところになんで車がいっぱいいるんだよ」
見ると、「九年庵」という矢印が出ている。あれ?僕らが目指しているのは確か、「百年庵」というお店だった気がするけど。記憶違いだろうか?

「いや、あっとる。ほら、あった」
目指す百年庵は、九年庵からほど近いところにあった。井上製麺、という製麺所が運営するレストランがその正体。
「じゃあ、九年庵ってなんだ?」
「さあ?神社かお寺か、なにかじゃないか?」
あとで知ったのだが、佐賀の大実業家の別荘と庭園らしい。いつもは非公開なのだけど、年に何度か公開されるということで、それで今日は大混雑というわけだ。
せっかくだから見ていこう、という話にはならなかった。あまりに唐突過ぎて、心の準備ができていなかった。というか、思いつきもしなかった。

大混雑中の九年庵近く、ということもあって、百年庵も大混雑だ。順番待ち名簿に名前を書いて、店頭で待つことになった。
「おっ、喜べばばろあ。ここ、フリーWi-Fiがあるぞ。艦これができるではないか」
「おお、じゃあちょっくら様子を見るか」
ばばろあは車にいったん戻り、ノートパソコンを持って帰って店頭で艦これを始めた。

12:09
待つことしばし、店内に通される。さて、どうしよう・・・なんて考えるまでもないな。
なんか、「百年庵御膳」ってのがあれもこれも付いていて楽しそうなので、これにしよう。もちろん、そうめんで。お値段1,300円。

12:29
百年庵御膳。うひゃー、ものすごい皿数だ。「おいしそう!」と思う前に、お皿洗いの人にご苦労様です、という気持ちのほうが先に出てしまう。庶民派の証。
湯呑みも合わせると一人あたり13もの器が使われていた。

で、そうめんですよそうめん。これを食べに来たのです。
「神の白糸そうめん」というブランドらしい。つやつやと光っていて、冷水の中で泳いでいる。うん、うまい!
・・・んだけど、みんな神妙な顔をしている。というのも、あっという間に肝心のそうめんを食べきってしまったからだ。
「なるほど、この百年庵御膳っていうのは、いろいろな料理が食べられます、そうめんもそのうちの一つです、という位置づけなんだな」
三人揃って、「もうちょっとそうめんを食べたかったなー」とぼやく。もちろん、おかずは美味しいんだけど。
「待ち時間が長かったんじゃけえ、ちゃんとメニューを見とけばよかったな。写真入りじゃし、見りゃすぐにわかったのに」
ばばろあが悔しがる。まったくそうだ。ついつい、「数量限定」だし「店名が冠されているメニュー」だしおかずがいっぱいだし、脇目もふらずにこれ!と選んでしまった。
それもこれも、「そうめんというのは夏のお昼ごはんに、面倒くさがりながら食べるもの」という印象が強いからだろう。「いざ、そうめんを食べにお店に行こう!」ということはこれまでの人生で一度もない。お陰で、今回はついついスケベ根性が出てしまい、「そうめん以外の料理も並べておかないと、なんだか不安」って気持ちになっちゃった。
で、結果的に「もっとそうめん!」って思っているんだからどうしようもない。
ま、それだけそうめんは美味い、そうめんサイコー!ってことで。

あとになって気がついたこともう一つ。なんだこりゃ?シシリアン麺?
ばばろあが
「ああ、佐賀県界隈じゃ、シシリアン(ライス)っていうのが結構有名らしいで。飯の上に肉とか野菜を乗っけた料理。それの麺バージョンじゃろ」
「へえ!それは知らなかった。これにしておけばよかったなあ。そうめんだけよりも佐賀名物が組み合わさっている方が、より一層性を満喫した感じがしただろうに」

12:51
「もっとそうめん、食べたかったなあ」と、神城のそうめんに最大限の賞賛を与えつつ「百年庵」をあとにする。目指すは吉野ヶ里遺跡。神城からはさほど遠くない。
「それにしても佐賀平野ってでけぇなぁ」
この日何度目かになる嘆息がでる。遠浅の有明海を埋め立てた広大な土地は、地平線が見えるんじゃないか?と思えてくる景色だ。
いや、そんなことよりちょっと待て。信号待ちで車が止まっている間、車窓から何やら変な物が見えた。
何の変哲もない、不動産屋の看板。「入居者募集」と書いてある。それはいい。しかし、その下に「物件名:target K」と書いてある。
さあ社内では審議ですよそりゃあもう。
「あれは、具体的な物件名を伏せているのだろうか?」
「いや、物件名だろ」
「あんな建物名にするかね普通?」
不動産で、物件名をあえて伏せ字にするというのはちょっと訳ありすぎる。ということは、建物の名前そのものが「target K」なのだろう。面白い名前だ。
帰宅後、suumoで調べてみたら、本当にこの名前の建物があったのでびっくりした。
そのまんまの名前、ということにも驚いたけど、suumoでちゃんと検索に引っかかるというのにも驚いた。軽量鉄骨2階建て4戸の住居だそうだ。
インターネット万能時代だけど、さすがに「target K」の名前の由来までは調査できなかった。やべえ、僕ら3人のうち、姓名のいずれかに「K」を含むイニシャルの人が二人いるのだけど。
ゴルゴ13みたいな人に狙撃されたら怖いので、ブルブル震えながらこの場所をそうそうに立ち去る。

吉野ヶ里遺跡の中を突っ切る道を車で走る。途中駐車場があったが、無情なことに「満車」の表示が出ていて、中には入れなかった。
ばばろあが、ウヒョー!という顔をしながら叫ぶ。
「こんなに混むとは思わんかった!規模が大きくなっとるというのは知っとったけど、客も大勢来るんか!」
疾走する車の窓から見える吉野ヶ里遺跡は、木々に囲まれた広大な公園・・・といった風情で、このどこに人が集まるのかさっぱりわからない。
「何か覚えてるか?修学旅行の時のことを」
ばばろあが聞いてくる。
「いや・・・ほとんど覚えていないなぁ」
「じゃろ?当時はせいぜい高床式住居とかがいくつかあった程度だったはずなんよ。それが今やこんなに大きくなって、しかも客が大勢来とる」
「時代は変わるねえ」
「ほうじゃねえ」
弥生人もびっくりだ。
「こりゃやばいな、中に入れんかもしれんぞ」
こんな広大な敷地の公園なのに、中に入れないなんてことがあったらとんでもない事態だ。「さすがGW!」とは言ってられない。そんな馬鹿な。どれだけキラーコンテンツなんだよ弥生時代って。
東口駐車場に回り込んだ我々だったが、駐車場の入場待ち渋滞が少々あったもののなんとか入場を果たすことができた。

「ええ?こんな感じだったっけ?」
駐車場から下りて、公園入口の巨大なゲートを前に困惑が隠せない。
マスコットキャラクターもにっこりとお出迎え。ええと、駄目だ、全然覚えていない。まさか自分の過去の記憶は、誰かに書き換えられてしまったのだろうか?
それにしても高校時代のことなんて全然覚えていないものだな。道理で当時覚えた英単語がほぼ全滅状態になっているわけだ。今、中1レベルの英語がやっと、という退化っぷりだ。
それはともかく、僕が修学旅行で訪れた際の面影を探したが、全く見つからなかった。しかしそれは当然で、吉野ヶ里遺跡が発掘されたのが1986年。僕らが修学旅行で訪れたのが1991年。発掘からわずか5年後のことだ。道理で、まだまだ未整備だったわけだ。
そして今や「国営吉野ケ里歴史公園」に発展を遂げた。なんと、国営なのか!

バーンとゲートをくぐったは良いものの、そこから先が広いのなんの。レンタサイクルが欲しくなる広さ。いや、ゴルフ場にある電動カートでもいい。なんでも、この公園は70ヘクタール以上あって、まだ今でも拡張中だという。最終的には117ヘクタールになるというのだから、ここは北海道か?と目を疑う広さだ。
ほら、はるか遠くに建物が見える。そうかー、あそこまで歩くのかー。
周囲には日陰なんて気の利いたものはまったくない。こりゃあ、真夏は地獄だと思う。熱中症注意。

鳥?のオブジェが刺さったゲートをくぐる。

環濠集落、ということで、集落の周囲には堀と塀がある。これでニンジャがやってきても大丈夫だ。
・・・いや待て、時代考証が間違っている気がする。

堀の外周には、先を研ぎすませた木がたくさん地面に突き刺さっていた。
集落の方向を向いているけど、これはどういう仕組だろう?脱走者がここで串刺しになる、わけはないよな。

いやー、結構歩く。こりゃあ、歳をとる前に訪れるべき場所だな。足腰が痛くなる前にぜひ。そして季節は春か秋だ。暑くても寒くても、しんどい。

環濠集落の中に入る。
大きなやぐらがお出迎え。
そして集落の周囲は、まるで西部劇にでも出てきそうな柵で囲われている。
昔はよっぽど戦いが耐えない、デンジェラスな時代だったのだろうか?
部族同士の戦争だけじゃなく、集落に属することができなかった人が落ちぶれて、山賊として夜な夜な襲撃に来たとか?あと、野犬などの野生動物が襲来したかもしれない。
そういえば僕らって、弥生時代の生活っていうのはほとんど学校で習っていない。「稲作をはじめとする農耕文化が伝わったんですよォ」っていうくらいで。あと弥生式土器か。「縄文人=髭を生やした狩猟民族でワイルド、野蛮」「弥生人=髪の毛を耳の脇でひょうたん型にくくっていて、おっとりした顔立ち」というステレオタイプで覚えてしまっているけど、実際どうだったんだろう。
まあ、知ったところでだからどうした、というのが正直なところだ。自分のルーツを知ることは大事かもしれないけど、正直言ってあまりに時代が離れすぎて、全然実感がわかない。明治、江戸時代のご先祖様でさえ親近感がないというのに。「えーッ?チョンマゲをマジで結ってたんですかァ!?」といったノリだ。

解説看板。
「王」や「大人(だいじん)」の館や物見櫓があり、政治を執り行っていた場所だと推測されるんだって。へー。民主主義国家じゃないから、シンプルだわ。議員定数もへったくれもないから、偉い人一人で「お前ちょっと死刑」とか言えちゃう。

で、その「南内廓(みなみないかく)」。
広い。

「もっと密集させてもいいのに。お隣さんに行くのに面倒だろうに」と思うが、この広場で農作物を干したり選別したり、いろいろ作業をやっていたのだろう。
あと、うっかり火事になっても、これだけ隣と離れていれば類焼しなくて済む。

竪穴式住居。
こういうのを見ると、「今のゲリラ豪雨に耐えられるのだろうか?」と心配になる。入口からザブザブ水が入ってきそうなのだけど。いったん室内に浸水したら、日陰だわ風通しが悪いわで、ぬかるみが解消されるまでかなり時間がかかりそうだ。
でも、昔の人だってバカじゃないから、そうならないように水はけのよい場所を選んで建物を建てていたんだろう。
看板を見ると、「大人(だいじん)の妻の家」と書いてある。軍事や土木を司る「大人」の妻が住んでいたという。「そういうことにした」のか、物的証拠があって、「ここは大人の妻の家だ!」と断定できたのか、よくわからない。
そもそも、木造の家なので発掘当時はほとんど建物の痕跡なんて残っていない。家を立てた場所に残された穴ぼこと、僅かな木片、そして火を炊いた跡といった程度だろう。なので、目の前にある建物が、どれだけ「想像力を膨らませたもの」なのか、どれだけ「本物に近い」のか、よくわからない。
未だに恐竜の皮膚の色で論争があるのと一緒だ。茶色だと思ったら、緑色になっている時もある。誰も見ていない・記録が残っていない時代の考証というのは難しい。

やぐらに登って集落を見下ろしたところ。やあ、眺めがいい。
遥か彼方に、JR長崎本線の線路が見える。吉野ケ里のマップを見ると、線路ギリギリのところまで公園が広がっていることがわかる。「チッ、鉄道さえなければもっと公園を拡幅したかったのに」といわんばかりだ。ここまでデカくしてどうするんだ一体。
それにしても、物見櫓を作ってあるとはいえ、夜にもなれば漆黒の闇だ。悪いことを仕放題ではないか?という気がするのだけど、大丈夫だろうか。
そもそも、こんな家構えだったら、夜這いし放題だよな。夜這いは江戸時代まで日本の文化の一つだったという話を聞いたことがあるけど、あまりに開放的だもの、そりゃあそうなるよね、という気がする。
その点、21世紀に済む僕なんて、おっさん一人住まいなのに玄関の鍵は3重だぞ?何をガードしてるんだよお前。貞操もへったくれもないだろうに。

倉庫らしきものが集落の隅っこに見える。
あんな建物を作ろうとすると、かなり高度な建築技術が必要だと思うのだけど、あれも弥生時代のものだろうか?

空がとても広い。
住宅街の中に忽然と現れた遺跡、というわけではないので、昔ながらの面影をよく残しているのだろう。これだけ広大な土地があるからこそ、100ヘクタールを超える公園整備を計画できるんだ。
そういえば、この吉野ヶ里遺跡の近くには「バルーンさが」というオモシロな名前のJR駅がある。年に一度、アジア最大の熱気球イベントがここで開催されるとのことだ。これだけ広大な場所だったら、さぞや高度感を味わえて楽しいだろう。
それにしても、やぐらが多くて民家が少ない気がする。そこまで厳重に警戒しないと、住んでいられなかったのか?それとも、「全部再現するのは無理なので雰囲気だけでも」ということで省略しているのか?

集落はあちこちに散らばっている。
別の集落まで歩いて行く。それにしても広いし、日陰がないし、こりゃあ夏は地獄だ。冬もまた地獄だが、冬のほうがまだましだろう。5月の時点で「うへぇ、暑いなあ」と感じるくらいだから、8月ともなれば一体どうなってしまうことやら。
ここは、先ほどよりも柵がより厳重な作りになっている。建物も、かなり立派なものが見える。
「さすがにあの屋根の上についている飾りは、想像だよな?」
疑わしい目で建物を見る。何しろ、書画で記録を残すなんて文化がない時代だ。せいぜい、お隣中国の「魏志倭人伝」にちょこっと出てくるくらいだろう。それだって、文字で残っている記録であり、絵の記録ってあるんだろうか?「銅鐸(どうたく)」に描かれた絵や、ハニワで想像を補っているのだろうか。

いや、でもわからんぞ?僕らが歴史を教科書で学んだのは、今から30年近く前の話だ。その間に研究が進んで、新事実が発見されたり、これまでの常識が覆されたかもしれん。
風のうわさでは、「大化の改新はなかった」とか「イイクニ作ろう鎌倉幕府、というのは間違いだった」というのが今の定説らしい。マジか。知識はどんどん陳腐化する。たとえ「既に起きた出来事」であったとしても。
仮に僕らが、当時の試験で「大化の改新なんてありません!」と解答用紙に書いたとしても、バツにされていただろう。真理を書けばいいってもんじゃない。「学問」というのは、その時代において正しいとされることを書かないといけない。
こうやって歴史ってのは歪んでいくのだよ。政治的イデオロギーが歴史教育に相当混じってしまうのは、近隣諸国を見てのとおりだし。
話を戻すと、看板には遺跡の航空写真が掲示されている。たくさん穴ぼこがあいているのがわかるが、その全てに建物を建てたわけではない。なんで?そのほうがゴージャスな集落になるのに?と思ったが、「同じ時期の穴だけを選んで再興した」のだそうだ。ああそうか、この遺跡にずっと人が住んでいたなら、後になって建物を増築したとかいろいろありそうだ。そうなるとややこしい。

巨大な建物、主祭殿へは中に入ることができる。三階建ての立派なものだ。吉野ヶ里遺跡で最大の建物だという。
発掘されたのは、どうやら「ほぼ正方形に並んだ、16個の穴」だったようだが、その穴の深さとか同時代の中国の建物を参考にして、「こういう建物が建っていたんじゃないか?」とこしらえたのが現在の建物だという。随分思い切ったな。
「柱の配置から楼閣のような建物と考えられています」
ということだが、ひょっとしたらそもそも楼閣でさえない可能性だってありえるわけだ。

二階に上がると、弥生人の皆様お揃いで、宴会の真っ最中でした。すいませんお邪魔しちゃって。
これもすべて想像に基づいた再現だけど、どこまで正解なんだろう?
当時、こんなカラフルに生地を染める技術って日本にあったのかどうか、というのがそもそも怪しい。いくらここにいるのが高級官僚だったとしても、中国からの舶来品は相当高くつくだろう。
さすがに歴史考証としてありえない再現はしていないと思うけど、「ここまでは想像の範囲です、これはガチです」という線引きは教えてほしい。・・・まあ、そんなことを言い出したら、きりがないのだけど。

宴会というか打ち合わせをやっている最中の二階をすり抜け、三階に上がる。
ここでは巫女さんが神に祈祷してらっしゃった。
朝のテレビでやっている、軽薄な占いカウントダウンなんかとは気迫が違う。豊作を祈り、天変地異が起きないよう願っているのだから。「今日のラッキーアイテムは○○!」なんて言っているのとは訳が違う。
それにしてもこの三階はとても暑い。窓がまったくない建物なので、熱がこもる。夏になるとサウナになるだろう。

公園内を歩いていくと、何やらイベント会場があった。
先ほど、我々が「駐車場が満車だ!」と仰天した、臨時駐車場向かいのエリアだ。市の広場、というらしい。何やらテントが並んでいて、ステージでは地元のダンスグループ?なのか、ちびっこたちが音楽にあわせて踊っている。
なんだか楽しくなって、僕と蛋白質も曲にあわせて肩をゆすり、「ヘイ!」とか声をあげていたら、ばばろあから「やめとけ。変な人と思われるで」とたしなめられた。悲しい。多分僕があと20歳若ければ、「ノリがいい兄ちゃん」という体だったのだろうけど、40歳を過ぎてしまうと、「ロリコンおやじ」にしか見えないのだろう。
年甲斐もない人生を送りたい、とは思っている。それが独り身の特権だし、独り身の希望の星としてやるべきことだと思っている。しかし、「キモい」と思われることをやるのは違う。ちゃんとTPOをわきまえないと。

うわあ、いろいろ売ってるぞオイ。いいなあ、いいなあ。
食欲をそそる・・・が、先ほどお昼ごはんを食べたばっかりなのよ。今更何か食べたいというわけでもないので、残念。
でも、「ここにお店があることを知ってれば、そうめんを食べなけりゃよかったー!」とは思わない。だってそうめん、うまかったんだもん。家に帰ったら、そうめんを近所のスーパーで買おう。久しぶりにしこたまそうめんを湯がいて食べたくなった。

「ありゃ、流しそうめんもやってるぞ」
「なに!?」
神崎そうめん組合のテントだった。へー。「そうめん流し」と書かれたのぼりがはためいている。そうか、こっちでは「流しそうめん」ではなくて「そうめん流し」と表現するのだな。

「あっ、小城羊羹!」
ばばろあから、「小城」というところでは羊羹が有名だ、という話を聞いていた。その羊羹が今目の前に。ラッキーだ、せっかくだから買っていこう。
ちなみにすぐとなりには、八女(やめ)茶の新茶を売るお店があったのだけど、新茶は買いそびれた。自信たっぷりの店員さんに、「新茶は鮮度が命ですから、できるだけ早く飲みきっていただかないと」と言われたからだ。
「いやあ、一人暮らしなので、なかなか・・・これから暑くなるし、100グラムだったら飲みきるのに一ヶ月以上はかかりそうです」
と言ったら、「鮮度が命」との答え。「すぐに飲めないなら、買わなくていいぞ」という、商売っ気のない思い切りの良さにむしろ惚れた。暑いお茶が美味しい冬に新茶ってできないものですかねえ。そりゃ無理か。

並ぶ小城羊羹。いろいろあるんだな。

「昔風羊羹がおすすめですよ」
と店員さんから勧められた。ノーマル羊羹よりも一回り小さい。なにそれ?

昔風羊羹とは、外側を溶かした砂糖でコーティングしてある羊羹なんだそうだ。外側はシャリシャリしていて、中は柔らかいという。へえ、それは面白い。昔の羊羹ってそういう食べ物だったの?
「ちなみに、普通の小城羊羹っていうのは一般的な羊羹とどう違うんですか?」
「一緒ですよ」
あれ?そうなんだ。小城羊羹、というのは何か独特な製法なのかと思ったけど、そうではないのだな。ええと、どうしようか。今更普通の羊羹を買ってもなあ。
でも、昔風羊羹との対比のために、両方買ってみた。
まさか、長崎・佐賀旅行のおみやげが羊羹になるとは思わなかったぜ。あ、あと長崎中華街で買った「よりより」も買ったっけ。
吉野ケ里遺跡をあとにした我々は、柳川にやってきた。
筑後川河口近くにある、水郷の町だ。観光用の川船が水路を行き来する景色が美しい。
我々も、もちろんその川下り船が目的でやってきた。
町中に入っていくと、風情のある水路が見える。車中一同、「おお、ええねえ」と思わず声を上げる。思った以上に、いいぞこれ。倉敷美観地区の船みたいに、せいぜい2~300メートル移動するだけというのとはわけが違うっぽい。

15:18
わくわくしながら、船着き場に向かう。

「えっ?」
チケット売り場で、途方に暮れる一同。
川下り料金が1,600円というのはまあいいとして、次の船が出るのはあと1時間近く先なのだという。ありゃー。毎時2本の定時運行で、確か次は16時10分の便だったと思う。そこから所要時間一時間なので、川下りが終わるのは17時過ぎ。
「うーん、どうしようか。解散時間もあるし、このあと久留米に行ってモヒカンラーメンだし」
写真を見てもわかるが、ばばろあはサイフからまさにお金を出そうとしている。そこまできて、躊躇してしまった。
後で知ったが、この観光川下り船は柳川には何社もある。乗り場があちこちにあるので、そのどこかに行けば「ちょうどよいタイミングで乗れる船」があったかもしれない。しかし、予備知識をほとんど持たない状態でこの地にやってきた我々は、そこまで思いが至らなかった。
「しょうがないな、またの機会にしよう」
と出したサイフを引っ込め、受付を後にした。

橋の上から見下ろす、川下り船。
ヤケになって、船に乗っている人に手を振る。向こうも手を振り返してくれた。
両岸を新緑が覆っていて、いい景色だなあ。
またこの地を訪れる機会は今後あるのだろうか?

「川下りをしたってことにして、記念撮影をしておこうぜ」
と無茶な事をいい、橋の上で3人記念撮影。
いちおう、水路と、船と、アワレみ隊3名が写っているということでオッケー。柳川を満喫したぜ!という証拠写真は出来た。何一つ満喫はしていないのだけど。

さて、どうしたものか。このまま退路というのはちょっと早いけど、さりとて代案があるわけでもない。僕は20時過ぎの福岡空港発のANA便を確保してあるので時間に余裕はあるけど、蛋白質が18時すぎ新鳥栖発の新幹線の予約をとっているはずだ。それに間に合わせないと。
「いや、新幹線の予約は取っとらんのよ」
蛋白質が今頃になって衝撃の発言をする。
「えっ、取ってないの?」
蛋白質は、「翌日仕事があるので、5月5日中に大阪に戻るようにしたい」とメールで言っていた。なので、ばばろあがわざわざ新幹線のダイヤを調べて蛋白質に伝えてあった。この便に乗って帰ればちょうどいいぞ、と。『さくら』に乗れば、新鳥栖から直接新大阪に向かうことができる。
特にこの件について蛋白質からは反応がなかったので、当然その予約を確保したものだと思っていた。それで、その時刻を意識しながら今日一日は行動していた。しかし、今になって新幹線の予約はしていないという。
予約をする・しないは個人の自由だけど、それならちゃんと言ってほしい。今日一日の行動全てが、蛋白質が乗るであろう新幹線の時間から逆算して計画されていたからだ。
「お前メール見とらんのか?道理で返事が全然返ってこんやら、そもそも今回どこに泊まるのかさえよぅわかっとらんかったわけだ。ちゃんと言えや、決めとらんなら決めとらんで。コミュニケーションをちゃんととろうや」
蛋白質は今回、始終ボンヤリとしている印象だったが、計画段階の頃からそのまんまだったらしい。4月から仕事が忙しくなったようだし、そっちに気を取られてしまっていたらしい。

「どうする?時間はまだあるようだから、川下りに戻る?」
「どうしようかねえ?」
車に戻っている途中だった我々はいったん立ち止まり、そこで検討を始める。今更、「やっぱり川下りの船にのりまーす」というのも、いまいち気分がさえない。
「モヒカンラーメン、混むかもしれんし早めに食っておいたほうがええと思うんよ」
ばばろあがあれこれ考えながら言う。なるほど。うーん、とはいえ、夕ご飯を食べるにはさすがにまだ時間が早すぎる。モヒカンラーメンがある久留米に向かう途中で、どこかに何か立ち寄る場所があればよいのだけど。
「そうだ、鉄橋があるぞ、鉄橋」
ばばろあが変なことを言う。何やら、独特な形状をした鉄橋があるのだという。鉄橋?ということは山の中にあるのだろうか?
ばばろあは名前を思い出せず、悶絶している。蛋白質がタブレットを取り出し、場所と名前の確認をはじめた。
「ええと、柳川、鉄橋で調べてくれ」
「・・・筑後川昇開橋?」
「そう!それだ」
筑後川にかかる橋らしい。ばばろあによると、船の往来にあわせて橋が上がったり下がったりするのだという。ほほう、東京でいうところの「勝どき橋」のようなものか。

15:43
柳川市街からさほど遠くないところに、筑後川昇開橋はあった。この鉄橋の傍らには、こじゃれたカフェなんぞもある。川風に吹かれつつ、カフェで一杯・・・というのは楽しそうだ。
川の堤防から眺めると、まるでクレーンのような形をしている。あれが橋なのか!ええと、どういう仕組になっているんだ?

筑後川昇開橋を眺める一同。
「どうしてこんなところに鉄橋を作ったんだ?」
「最短距離だったんじゃろ」
「いや、でももう少し上流に行けば、陸地があるのに」
「そういえばそうじゃね」
首をひねる。

15:45
全長507メートル!長い!よくぞまあ、こんな橋を作ったものだ。かなり細いので、車一台通ることさえできない。なので今は遊歩道だ。

船の通過のために橋が昇降する場所にやってきた。
通りすがりの男性観光客が、
「ついさっき橋が上がってましたよ」
と教えてくれる。えっ、しまった、見そびれた。橋が上がっていないと、単なる橋だ。上がってこそナンボだったのに。
(あとで写真を見返してみると、2枚前、3枚前の写真ではちゃんと橋が上がっていた。単に我々が気がついていなかった。それくらい駆動音が静かだった、ということだ)

15:48
昇降橋のたもとには、職員さんが二人控えていた。とても弁が立つ方で、我々がどこからやってきたかを聞くと、「広島!広島といえば・・・」と立て板に水で喋り倒してきた。きっと、この調子で全国各地のご当地名物について語ることができるのだろう。
ご機嫌な職員さんは、「橋が上がるところ、せっかくだから見ていきます?」という。えっ、そんなに簡単に動かしちゃっていいの?我々3人しかいないのに。
びっくりする我々を尻目に、スイッチポンで橋は動き始めた。ひゃー。

上昇していく橋。
巨大な鉄の塊が動くのだから、ミシミシきしんだりグオオーンと音がしそうなものだ。でもとこいつは手入れが行き届いているのか、下手なエレベーターよりも静かに上昇していった。しかも思った以上に早い。
「おーい、船が来たから橋をあげてくれー」
ということになっても、
「待っとくれ、あと30分かかるわい」
ということはない。ものの数分だ。

15:51
ほれ、上がりきった。
干満の差が激しいことで有名な有明海の近くだ。水面から何メートルの高さに橋があるのか、って、満潮のときと干潮のときでは数メートル単位で違うだろう。干潮のときでは通れた船も、満潮だったら全然駄目、ということだってあるだろう。
とはいえ、今どれくらい船の往来があるのだろう?

そうこうしているうちに、橋が下りてきた。

職員さんの軽妙なトークにつられて、ばばろあは記念のマグネットを購入していた。3枚で500円。これ、どうするんだよ。冷蔵庫の扉に貼るしかない。ばばろあから1枚もらったので、実際我が家では家の冷蔵庫にこいつを貼り付けてある。

橋のたもとに、昇開橋稼働時間表、という時刻表があった。へー、今でも定時に上がったり下がったりを繰り返しているんだな。我々の場合、職員さんが気を利かせてくれて臨時に上げ下げをしてくれたのか。
面白いもので、「月曜定休」だったり、年末年始休みがあったりする。橋にも定休日があるとは!


また、橋のたもとには「筑後若津駅跡地」という看板があった。えっ、この橋って鉄道路線だったのか。どうりで幅が狭いわけだ。単線だったんだな。
1987年まで国鉄佐賀線として運行されていたというから、そんなに昔の話ではない。そうか、ここもまた「失われた時代」の一つなのだな。
偶然だが、今回の旅では本当にいろいろな古い建物を見てきた。軍艦島や池島のように、朽ち果てていく建物。外海の教会のように大事に守られ続けて残されている建物。そして弥生時代の吉野ケ里遺跡、今目の前にある昇開橋。建物というのは時代とともに生きながらえ、消えていく。諸行無常であったり、そうでなかったり。建物を通じていろいろ考えさせられる旅だ。
諸行無常といえば、先ほど昇開橋の記念マグネットを撮影した写真を見てほしい。背景に、上流の陸地が見えていて、そこに大きな建物が建っているのがわかる。ちょうど中洲にあたる部分の先端で、さぞや眺めが良いだろう。しかしあれはなんだろう?
職員さんに聞いたら、「昔は結婚式場で、あそこで結婚式を挙げるのが地元民の憧れだったんだけど、今は老人ホーム」なんだそうだ。ああ、これも時代の流れ。
我々は久留米へやってきた。
ここで早めの夕ご飯を食べ、新鳥栖駅で解散・・・という流れになっている。
なんで新鳥栖という中途半端な場所で解散なのかというと、新幹線駅があって新大阪に戻る蛋白質に都合が良いからだ。一方、福岡空港から帰る僕にとっては若干不便な場所となる。というのも、ばばろあ曰く「博多市街は渋滞がひどいので、近寄りたくない」からだ。なるほど、GW中ということもあるし、それはそのとおりだろう。
で、僕がおとなしく新鳥栖から新幹線で博多に行けば話は早いのだが、在来線で博多まで行くというケチっぷりを発揮。よって、僕にとっては不便な解散場所だった。ケチというより、20時過ぎの飛行機まで時間を持て余してしまうので、新幹線に乗る必然性がなかったからだ。

16:37
今回の旅の目的地、モヒカンラーメンにやってきた。
久留米といえばとんこつラーメンで知られる街だが、東京の人からすると全然よくわかっていない。そもそも久留米が福岡県なのか佐賀県なのかさえも怪しいくらいだ。
新横浜にある「ラーメン博物館」では、久留米ラーメンの代表格として「大砲」が長年関東人に親しまれてきた。しかし今回はそういうお店ではなく、名前からしてぶっ飛んでいる「モヒカンラーメン」に行く。
ばばろあから推薦があったからだが、webサイトでメニューを見ると大変にうまそうだったので僕もノリノリだ。だいたい、名前がイカしてるじゃないか。
「モヒカンの人は無料で食べられる」
という話があるようだが、その情報の出処はどこだか忘れた。単なる噂かもしれないし、本当かもしれない。
「僕、一応髪型はソフトモヒカンなんだけど、無料になるかな?」
「駄目じゃろ。その程度のモヒカンはモヒカン扱いしてもらえんで?もっと頭のてっぺんだけ毛を残すようにせんと」
そうか、残念。まあ、「ソフト」なんて名称がつく髪型の時点で、軟弱だよな。すいません。
お店のロゴはバーンと勢いがあってかっこいいと思う。家具屋さんの「カリモク60」のロゴに似た印象。

「じぇんかいフルスロットル」と書かれた木札が、営業中の合図。やあ、気合が入ってる。
なんでも、本来は店主だけがモヒカンだったらしいんだけど、それを見た他の店員さんも自然とモヒカンになったんだとか。気合入ってるなあ。

自動券売機で食券を買う仕組み。
モヒカンラーメンで680円、鉄鍋ギョーザがセットでついても850円。安いもんだ。東京に住んでいると、ラーメンが1,000円しても全然驚かないけど、よく考えるとそれってすごいことだ。

替玉があるのが嬉しい。九州地方のラーメン屋ならではだ。胃袋の許容範囲ギリギリまで攻めることができる。
って、あれ?「焼替玉」というのもあるんだな。ばばろあはしっかりとこの「焼替玉」の食券を握りしめていた。これは中華料理における「カタヤキソバ」みたいなものだろうか。だとするとうまそうだな。

お冷の乾杯で、3泊4日の旅を打ち上げる一同。
それにしても誰一人酒を飲まないんだから、健全というかなんというか。昔の僕なら、「おつかれさま、ってことで飲まなくちゃ」とビールを頼んでいただろう。

来たぞ、モヒカンラーメン。
結構おおぶりなチャーシューが乗っていて、麺が隠れている。そしてその上に、辛味噌のようなものが乗っている。山形のラーメンみたいだ。

そして細麺。いいねえ、いくらでも胃袋に入る感じがする。
そういえばお昼はそうめんだったっけ。二食連続で、ずるずると細い麺をすする。

ギョーザセットの餃子。
かなりしっかりとした色がついている。おそらく水で蒸し焼きにしたのではなく、とんこつスープを入れたんじゃないか?いい色だ。

とんこつ飯がやってきた。
餃子同様、鉄鍋で出てくるのだな。
目の前のカウンターで、店員さんが飯をかき混ぜてくれる。

すると、おこげの部分とそうでない部分が混じって、いい感じの食感に。石焼きビビンパを食べるようなものだ。ラーメンスープが染みた飯で、うまい。

モヒカラ。
「二度とこのお店に来る機会はないかもしれない」とばかりに、我々はあれこれメニューを頼んでいる。さすがに久留米ともなれば、そう頻繁に来られる場所ではない。
そんなわけで、唐揚げまで頼んじゃった。単なる「唐揚げ」ではなく「モヒカラ」と名乗るからには、それなりの自信作だろう。

食べまくる一同。どれもうまいぞ、おい。
久留米の人から言わせれば、「もっとうまい店があるのに。ヨソモンは何もわかっちゃいない」と言うかもしれない。でも、ひとまず僕らは大満足です。

で、最後が例の「焼き替玉」ですよ。
ラーメンスープを飲まずに残しておくように、と指示があったので何事かと思ったら、しばらくしてじゅうじゅう音を立てている鉄鍋がやってきた。その中には、焦げ目がついたカタヤキソバ状の麺が。
その麺をラーメンどんぶりにドボンさせるのかと思って様子を見ていたら、店員さんはばばろあのどんぶりを手にとり、れんげで鉄鍋にラーメンスープを注ぎ始めた。しかも、数字をカウントしながら。
「ワン・・・ツー・・・スリー・・・フォー・・・ファイブ・・・」

「ロケンロール!!!!!!」
女性店員さんがとっても嬉しそうに叫び、6回ラーメンスープを注いだところで完成。これが「焼き替玉」。へー。
これはもう、「替玉」じゃないな。ラーメンどんぶりそっちのけで、別の鉄鍋に麺が入って出てきたわけで。
これがロケンロールかどうかはともかく、見ただけで美味いことが確信できる。実際、とてもうまかった。大満足のモヒカンラーメンだった。
JR新鳥栖駅にやってきた。旅の最終地点で、ここで解散となる。
地理感が全くない土地なので、僕自身かなりボンヤリして「まあ、JRの駅だしそこでいいか」と思っていた。しかし、「新」という名前がつく通り、九州新幹線開業にともなって新たに出来た駅だ。もともと何もなかった場所だ。JR長崎本線と接続しているけど、一駅となりの鹿児島本線鳥栖駅と比べると遥かに便数が少ない。
今思えば、僕は久留米駅か鳥栖駅で車をおろしてもらい、蛋白質は新鳥栖駅でおろしてもらうという段階的解散のほうが便利だった。でも、それに気がついたのは後になってのこと。まあ、帰りの飛行機まで時間が有り余っているのは事実なので、のんびり博多に向かえばいい。
どうせ天神あたりを散策するほどの暇はないので、ダラダラといこう。

17:41
三人で「また会おう」とガッチリ握手をした後、解散となった。
新鳥栖駅はさすがに新しい駅だけあって、近代的な建物になっている。

新幹線が開通してから出来た駅なので、周囲にはあまり街が広がっていない。レンタカー屋が目立つくらいだ。当然、電車がくるまでの間、暇を潰す場所もない。せいぜい、売店代わりにコンビニがある程度だ。コンビニでは土産物も売っている。

17:45
蛋白質と別れ(というかはぐれ)、僕は一人在来線乗り場へと向かう。
新幹線とはほぼ直角に交差しており、無理やり駅を作りました感がある。

ありゃー。
長崎本線、便数が多いかなと思っていたんだけど案外待ち時間が長そうだ。佐世保方面と長崎方面、両方からやってくる特急列車がびゅんびゅん通過していくのだな。各駅停車はあまり多くなさそうだ。少なくとも、表示にはまだ出てきていない。
長崎本線から博多に直行する電車はあいにくこの時間帯にはなく、いったん隣の鳥栖駅まで一駅だけ乗車し、そこから鹿児島本線に乗り換えて博多を目指すことになるようだ。ちょっとだけ面倒くさい。

新鳥栖駅の在来線ホーム。カーブになっている。
昔はここに駅なんてなかったのだけど、新幹線駅ができることで開業した新駅だ。
結構ホームが長い。特急列車も停車するからだろう。

そんなホームの傍らに、「中央県」という立ち食いうどん・そば屋があった。ほほう?
今時めずらしいスタイルだ。オープンカウンターとでも言おうか。やたらと開放感がある。
東京界隈の立ち食いそば屋では、こういうスタイルは見かけない気がする。プレハブ小屋のような建物の中にお店が入っていることが多い。
あと、カウンターは改札を挟んでL字型に曲がっていて、改札の内側、外側両方からうどん・そばにありつくことができる仕組みになっていた。これもちょっとめずらしいと思う。改札内外両方から食べられるお店というのは珍しくはないけど、大抵は厨房をサンドイッチする形でニの字にカウンターがあるものだ。それがここはL。
さらに珍しいのが、ここの麺類メニューすべてにかしわ肉が入っている、と謳われていることだ。ええ?かしわ肉入りがデフォルト?そりゃ一体なんだ?この界隈の文化なのだろうか、それともこのお店の特徴なのだろうか。
すっごく気になったので、先ほどモヒカンラーメンを食べたばかりだけど、ちょっくら食べていくことにした。どうせ電車が到着するまでまだまだ時間があるんだ。

その時のレポートがこちら。

18:14
鳥栖行きの電車がやってきた。ワンマンカーで、ホームの長さのわりにやたらと短い編成。2両だったかな?自分が待機していた場所と違うところに停車したので、あわてて電車に乗り込む。

18:54
鳥栖駅で乗り換え、博多駅にやってきた。ここで地下鉄に乗り換えて、福岡空港を目指す。
駅の構内を歩いていたら、「はかたラーメン」の立ち食い店舗をみかけた。へー、立ち食いラーメンってのがあるのか。
あっても全然おかしくないのに、何故か東京界隈では見かけないのが「ラーメンの立ち食い」だ。そもそも駅構内に立ち食い屋、という物自体が随分減ってしまったけど、いずれにせよラーメンは少ない。
いっそのことここでも・・・いや、なんでもない。やめておこう。

19:13
福岡空港に到着。
GW中ということもあり、今回の企画が決まり次第そうそうにチケットを確保する必要があった。なので、旅程が固まらないうちにチケットを確保したので、時間は相当余裕を見ている。予定した飛行機は20:50発。まだ1時間半もあるぞ。さてどうしようか。

ひとまずくまなく福岡空港を歩き回ることにする。
スマホのバッテリはすでに底をつき、電源が入らなくなっている。だったらひたすら、この馴染みが薄い空港を探検だ。
福岡空港は増改築のせいか、S字型に近いいびつなターミナルの形をしている。妙に狭い場所があったりして、トリッキーだ。そして今まさに改修中のエリアもある。

「おや・・・」
空港探検といっても、ありきたりな土産物屋などを今更見るのも面倒くさい。そんな中、やけに目を惹いたのが、円形のカウンターだった。何だこれ?
ああ、フードコートなのか。
フードコートのお店の一部が、この円形カウンターの中に収まっているらしい。へえ、PR効果バッチリじゃないか。僕が思わず立ち止まってしまうくらいだ。

あっ、いかん、いかんぞ?
「ビーフバター焼き」という文字が目に止まった。
円形カウンターの中にあるお店、「天神B.B.Quisine」のメニューだ。
初めて聞く概念だ。何その「ビーフバター焼き」って。
どうやら、鉄板スパゲティの上に炒めた牛ばら肉が乗ったものらしい。それだけだと「ふーん。うまそうだね、でもボク、さっき蕎麦を食べたしラーメン食べたし」と思っておしまいだ。でも、「鉄板がジュウジュウいってやがるぜこのやろう」というのと、「ビーフバター焼き」という大変にそそられるネーミングを前におかでんプロ、完全に為す術無し。

というわけで彩り野菜とパクチーが入った「ベジフル焼き」900円なり、を頼んでしまった。
やってしまった・・・
しかし、目の前でパチパチと爆ぜる鉄板を見てしまうと、こうなるのも仕方がないという諦めの気持ちになる。許せ、我が体脂肪よ。

だってこれだぜ?うまいにきまってるじゃん。ずるいじゃん。じゃんじゃん。
食べるしかないのです。
食べたのです。
予想を遥かに上回る旨さだったのです。あー、太るなあ、こりゃあ。
本日は、そうめん⇒ラーメン⇒そば⇒スパゲティ、と4種類の麺を堪能いたしました。もう思い残すことはありません。うどん?いや、さすがにそれはやめておく。このフードコート内に「因幡うどん」といううどん屋があるのはちらっと見えたけどさぁ。

19:53
飛行機はまだか。
暇を持て余して、ターミナル屋上の展望台で飛行機を眺めて過ごす。

結局、20:50の飛行機に無事搭乗することができ、東京へと戻った。
久しぶりのアワレみ隊企画。天幕合宿と違い、観光に次ぐ観光でちょっとどうかな・・・と当初は思っていた。アワレみ隊たるもの、もっとチャレンジングな、もっと自ら汗をかく企画を志向すべきではないか?と。でも、終わってみたら、軍艦島や池島、そして外海の教会群という「建物」に焦点をあてた、筋の通った旅行になったと思う。これはこれでとても良かった。
次回アワレみ隊が活動するのはいつになることやら。
ばばろあが言う。
「キャンプ用品を全部揃えてキャンプする、いうんはなかなか難しいと思うんよ。それよりも、できるだけ荷物を減らして、それこそ寝袋だけとか、そんな感じでさくっと集まってキャンプ、っていうのをやったほうがええかもしれんね」
確かにそうだ。せっかくだから昔のようにオートキャンプをバシッとやりたいが、今となってはかなり難しい。だったら、テントも寝袋も食器や花器も全部自分で背負えるだけ、という軽装で合宿に挑むというのはありだと思う。遠くないうちに、そういう企画も考えたい。
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