2003年09月04日(木) 1日目

ごきゅごきゅごきゅーっ。ぷはあ。
「おいおかでん、さてはまた今回も俺がビール飲んでる写真を先頭に持ってこようとしてるな?」
自分のビールを飲むことをそっちのけで、カメラを構えていたおかでんにコダマ青年は気付いていた。
「そりゃそうよ、このシーンを押さえておかないと、旅に出るぞ!っていう感じがしないじゃないか」
・・・コダマ青年との「年に1度の登山旅行」は、このコーナー「へべれけ紀行」の歴史とも言える。2000年の羅臼岳登山からはじまり、2001年は鳥海山、2002年は高妻山。そして今年も開催だ。通算4度目となる。もう少し細かく見ていくと、車で現地入りした高妻山以外は、全てコダマ青年のビールぐいぐいショットから報告記事がスタートしている。「山に入る前にビールを飲む」というのがなんとなく、定番化しつつある企画といえる。
本当は、有給休暇を2日組み合わせて、裏銀座縦走を画策していた。裏銀座?知らない人からすれば、東京都中央区銀座の裏道を指しているのかと勘違いするだろうが、実際は違う。もう少し築地寄りの場所を指す。・・・すまぬ、でき心でうそをついてしまった。
北アルプスは「飛騨山脈」と呼ばれるように、山がずらりと横一列に並んでいる。「山脈」が「山地」と違うのは、「山地」がぽこぽこと脈略無く山が乱立しているのに対し、「山脈」の場合一列に並んでいるという事だ。すなわち、山から山へとほいほいと渡り歩いていく事が可能であり、これを「縦走」と呼ぶ。
では、「表銀座」と「裏銀座」とは何か。これは、槍ヶ岳を中心とした、北アルプスの主脈縦走のメインルートを指していて、「表銀座」は燕岳から大天井岳、槍ヶ岳と抜けていくルート(もしくは、大天井岳から常念岳、蝶ヶ岳ルート)を指し、「裏銀座」は烏帽子岳から野口五郎岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、双六岳を通って槍ヶ岳に向かうルートを指す。
たぶん、これだけ山の名前を出しても、ほとんど理解できないと思う。山登りをする人には常識問題だけど、山登りをしない人はさっぱりのはずだ。そりゃそうだ、まわりに人家など全くない、恐るべき山奥だからだ。特に「裏銀座」はあまりに山が深いことで有名で、恐らくルート上にある百名山の一つ、水晶岳は山頂に立つまでに日本で一番時間を要する山のはずだ。
そんなこんなで、裏銀座を縦走するためには最低でも2泊3日、予備日を入れて3泊4日は必要となるルートとなっている。予備日とは、荒天のため足止めになったとか体調不良となった時のために設定しておくべきもので、山奥に分け入るときは必須のものだ。「今日の17時までに下山して、バスに乗らなくちゃ明日の会社に間に合わない」なんて焦って事故を起こす人は多い。予定外のスケジュール遅延に対応できるようにしておくことは常識だ。ましてや、裏銀座の場合、途中で「やっぱやーめた」とギブアップできるエスケープルートがどこにもない。一度山に入ったら、事故ってヘリコプターで運ばれない限りは自力で這い降りてこないといけない。
で・・・今回、3泊4日の日程を工面することができなかったのだった。仕事が入った、ということで与えられたリミットは2泊3日。無理して裏銀座縦走も可能だったが、9月ということで台風や午後の雷が怖い。予備日無しは危険だ。
結局、あれこれ検討した結果、「裏銀座が駄目なら表銀座にしよう」ということで、オセロの黒が白にひっくり返ったかのように行き先は決定された。これだったら、2泊3日でクリアできる。難易度も、ぐっと低くなる。
予定したルートは、
初日朝JRを乗り継いで大糸線穂高駅へ、その後タクシーで中房温泉。そこから登山開始で、合戦尾根を経由して燕(つばくろ)岳、その日夜は燕山(えんざん)荘で一泊。
翌日は表銀座縦走開始、大天井岳を経由して常念岳。縦走をつづけ、蝶ヶ岳ヒュッテ泊。
最終日は、蝶ヶ岳から長塀尾根経由で徳沢、上高地から松本、東京。
みどころとしては、非常に快適と評判の高い燕山荘で生ビールをぐいーっとおいしくのめるかどうか、に尽きる。要注目だ。
スーパーあずさ1号で松本まで進み、そこから大糸線の普通列車に乗り換え、ゴトゴトゆられることしばし。穂高駅に到着した。ここからはタクシーで登山口がある中房温泉まで向かわなければならない。
駅に到着するやいなや、ダッシュでタクシー乗り場に向かう登山客がいた。「電車に乗っている人、そんなに多くないのに何をやっているんだろう。ひょっとしたらタクシーって数が少ない?」とやや慌てたが、そんなことはなくきっちりと必要以上に駅前にタクシーが待ちかまえていた。
同じく山登りの人と相乗りして、中房温泉に向かう。山屋は、こうしてタクシー相乗りをすることが結構多い。
車中、運転手さんといろいろ話をしたのだが、なかなか面白かった。「多いときは一日で数百人タクシーを利用するからねぇ・・・そうなると、駅に電車がついてから車に乗れるまで、2時間3時間待ちくらいになるね」だそうで。ああ、道理でさっきの人、タクシー乗り場に走ったわけだ。苦い経験があったのかもしれない。
聞くと、今年は天候不順だったということもあり、客足はイマイチだったそうだ。この地域のタクシーとしては、登山口までの登山客運搬が重要な収入源のはずであり、登山シーズンの天候の善し悪しというのは死活問題に等しいかもしれない。
そんなこんな話をしているうちに、道はどんどん険しくなり高度を上げていった。「今、夜間は通行止めなんですよ、この先の有明温泉から穂高に温泉をパイプで引っ張ってるんですが、パイプが老朽化しちゃって・・・どんどん析出物がパイプに付着したものだから、チョロチョロとしかお湯が出なくなったものだから、太いやつに全面入れ替えなんですよ」とのことだった。

予想以上に山奥深くまで分け入るなあ、と半ばウンザリしてきたころ、ようやく開けた場所に出てきた。中房温泉の入り口に到着だ。あちこちに、「駐車禁止」という看板が立っている。ハイシーズンになると、狭い道路にもかかわらず路肩に駐車する人が後を絶たないのだろう。
「中房温泉の主人が業を煮やして、駐車している車の前後にでっかい石を重機で運んできて身動きつかないようにしたこともある」らしい。恐るべし・・・。
料金は、3人で頭割りして2,450円だった。この時期バスが運行されていないため、タクシーしか交通手段がないので仕方がない。

お手洗いに行ったり、靴のひもを結んで準備をしたのち、登山口へ。
この奥にある中房温泉は、2,500ものお風呂に入った"温泉学教授”松田忠徳氏が北海道の菅野温泉と並んで「日本一」と絶賛したという温泉だ。「山全体が温泉」「温泉のデパート」などと形容されていて、いつかはぜひ訪れたいところなのだが今回は横目で見送るだけ。なお、立ち寄り湯は基本的にやっていないところなので、宿泊するしかない。まあ、10以上ある風呂それぞれが「徒歩15分」とかだったりするわけで、全部の湯船に浸かろうとすると1泊でも不足するくらいなのだが。
標高1,462mからスタート。今日目指す燕岳は標高2,762mだから、ちょうど1,300mの登りとなる。

合戦尾根に突撃。「北アルプス三大急登」と呼ばれている登りとなる。面白い、どれだけ急な登りか楽しませてもらおうじゃないか。
コダマ青年は山登りに関してはマゾの気があり、甲斐駒ヶ岳をわざわざきっつい登り道の黒戸尾根から登った事を自慢にしている。だから、今回このようなキツイとされる登りを前に「いやこういうの結構好きよ、俺」とうれしそうだ。

30分ほど歩いたところで、やや開けた場所があった。「第一ベンチ」と呼ばれるところだ。この合戦尾根は、燕山荘が主体となってよく整備されていて、要所要所で休憩がとれるようにベンチがあるのだった。至れりつくせりの登山道だ。
しまいには休憩ついでにコーヒーはいかが?なんて茶店ができるんじゃないか、と思えるが、実際にこの先に「合戦小屋」という茶店があるのだから恐れ入る。
ここで、先ほどタクシーで相乗りしていた人と邂逅した。テント泊ということを示すウレタンマットをザックにくくりつけているのはともかくとして、ヘルメットをぶら下げているのがや けに目立つ。何事かと問うてみたら、「これから北鎌尾根に登る」と言う。※北鎌尾根については、「大キレット越え」の回に写真入りで説明あり
コダマ青年、えらく感動して「やっぱ山やるんだったらああいう事をさらっと言いたいよなあ、どこに行くんですか?って聞かれたら、クールに『ええ、北鎌尾根までちょっと』ってさ」と何度も同じ事を言っていた。

第一ベンチから徒歩1分で湧水地があった。
何の変哲もない、熊が冬眠でもしたかのようなくぼ地から水がまさに湧き出ていた。

さっそく、「東京のまずい水」を捨て、「北アルプスの天然水」をペットボトルに詰める。
最近、北海道特有のものだったエキノコックスが本州でも発見されたということで、いずれはこうやって気軽に生水を飲むことができなくなるかもしれない。

登山続行。まわりは物音ひとつしない、静かな山歩きを満喫・・・
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅる
ええと、聞こえるのはそよ風で鳴る草木のささやきだけで、都会の人工的な喧噪に囲まれて過ごしてきた身としては、これだけでも得難いぜいたくという気がして・・・
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅる
ええい、何だこの音は。うるさいぞコラっ。
何やらスキーリフトが動いているような音がする。登山道を進んでみると、ちょうどそこには荷揚げ用ケーブルの支柱が立っていた。この荷揚用ケーブルは、先にある合戦小屋にスイカとかもろもろの物品を上げるために用意されているらしい。わざわざ一つの茶屋にこんな大げさな、と思うが、人力で荷揚げするよりこちらの方が効率がいいのだろう。
ということは、それだけたくさんの売上があるということで・・・やっぱり北アルプスは凄いところだ。山だからといって舐めちゃいけない、下界に近い快適さが山の上でも味わえるのだから。
ところで、荷揚げ用なんてケチ臭いこと言わないで、人も運んでくれよという声はきっとあるはずだ。片道2,000円なんて価格にしたって、乗る人は後を絶たないと思うのだが、商用化の予定は無いのだろうか。
ただ、やっぱり山は自力で歩いてナンボですからね、こんなのに頼っちゃいけません。・・・って、先月「百名山無謀チャレンジ」でリフトゴンドラ使いまくった人間がエラそうなこというなぁ!

とか言っているうちに、第二ベンチ到着。絶妙なタイミングでベンチが配置されているのは感心させられる。個人的にはもう少し先まで歩きたいくらいだが、中高年の登山者が多い現代では、このくらいの距離感がちょうどいいのだろう。
ベンチ、わざわざご丁寧に背もたれまで用意されている。
ここまで明示的に「まあ休憩していきなさい」という態度をとられると、恐らくほとんど全ての登山客がここで一服するはずだ。今日のように若干オフシーズン・平日だからほかに誰もいないが、海の日やお盆前後のハイシーズン時期はこのベンチが通勤電車のシートみたいに鈴なりになっているのだろう。

ここで標高1,820m、中房温泉から1.7km歩いてきたことになる。まだまだ、標高差は1,000m近くある。

また30分ほど進んだところで何やら人だかりがある。ここが第三ベンチ。いやぁ、ホントベンチだらけだ。標高2,000mに到達。

今までは、「何が三大急登だ、全然楽ではないか」と鼻で笑っていたのだが、第三ベンチを越えたあたりから登りが急になってきた。
さすがに、急に自分自身の脚力と心肺能力がマッチョになったとは思えなかったので、「この後きっと手痛いしっぺ返しがあるぞ」と覚悟はしていたのだが、案の定だった。

眼下に中房温泉が見える。
おー、あそこから登ってきたんか、俺ら。
相当登ってるじゃないか。こりゃ結構キツい登りだったんでは?
今頃になって気付く。やはり、ベンチのおかげだろうか?疲れ果てる前にベンチが現れ、適度に休んで気分転換を図ってまた登り続けるという流れが、知らず知らずの間に高度を押し上げていったらしい。
露天風呂の女湯が覗けないかと必死に眼鏡による矯正視力1.2で探したが、発見できなかった。当たり前じゃ。

富士見ベンチ到着。富士見というからには富士山が見えるはずなのだが、この天気では見えるわけがない。辺り一面、曇り空・・・。
ニコヤカなおかでんに対し、ぐったりしているコダマ青年。なんでも、「今回はウィスキーをペットボトルに詰め直して持参することにしたんだけど、昨晩パッキングする際についつい飲んで・・・飲み過ぎてしまって・・・」という裏事情があったらしい。しかも、今朝は電車内でビールの迎え酒。まだ本調子に戻っていないらしい。

ここで標高2,200m。相当登ってきた。
中房温泉から3.1km。本日のお宿燕山荘までが2.4kmと表示されているので、中間地点は突破したということになる。

じゃ、そろそろお昼御飯にしますかね・・・ということで、大休止にした。コダマ青年は、魚肉ソーセージにかぶりついていた。
「いや、時々無性にこういうのが食べたくなるじゃん?」
まあ、確かに。でも山でそれを食べるというのは何となく風変わりだ。
「だって、おかでんこの前持参する物の話のなかで、行動食が・・・って言っていたから簡単なものにしたんだけど」
あら?すいません、僕はカップラーメンを持参してきたんですが。ちょっと時間がかかりますからしばらくお待ちください。
「えー」
非難の声があがる。
ちなみにコダマ青年、朝食はウィダーインゼリーだったわけだが、「瞬間チャージ2時間キープ、ってあれホントだな。2時間でスタミナ切れになった」とぼやいていた。

じゃーん。
「おい!スーパーカップじゃないか。デカいなあ、どうりでザックがえらく膨らんでいると思った」
「いや、今朝早起きしてパッキングしたんだけど、時間が足りなかったモンだから部屋に転がっていたラーメンを何も考えずに持ってきたんだけど」
「しかも、よりによって『北海道』ってアンタ」
「いやお恥ずかしい。風情のかけらもないよな、長野の山に登っておきながら北海道バターコーン味、ってあんまりだよな深く反省するです」
反省が甘いと山の神様は思ったのか、お湯を入れて待つこと3分、の状態のカップがいきなり横倒しになってしまった。安定の悪い丸太ベンチに置いていたのがマズかった・・・あああ、具とスープのほとんどがこぼれてしまった。(写真:こぼれた直後、具が散らばっている様。このラーメンの最大の売りは、ジャガイモが具として入っていることなのだが、その全てが散らかってしまい肝心のカップの中には皆無・・・楽しみにしていたのに・・・)

あまりに具とスープが無くなってしまい、ほとんど麺だけになってしまったラーメンを呆然としながら眺めるおかでん。
その横では、「うひゃひゃひゃ、これは写真に撮っておかないと!」とコダマ青年がうれしそうにカメラをいそいそと取り出していた。
ずるずる。ああ、侘びしい。
ラーメンの他に、パンかおにぎりを買っておくべきだったな。
もっと侘びしいのが、食べた後に地面にこぼれた具材を集めている時だった。山なので、こぼした物とはいえ食べ物を放置するわけにはいかない。ジャガイモ、コーンの一つ一つを拾い集める。ああ、空しい。

ずっと曇り空だったのだが、徐々に雲が切れてきた。午後になると気温があがり、ますますガスっぽくなるかなあと思っていただけに、これはラッキーだ。山の上に出たら諦めていた絶景が楽しめるかもしれない。

合戦小屋到着。ここは、山小屋ではないので宿泊はできない。完全な茶店だ。
1階はオープンテラス状になっていて、テーブルクロスがかけられたテーブルがいくつも並んでいた。
「お疲れさまですー」
おねーさんが暖かく出迎えてくれた。

合戦小屋の隣には、相変わらずウンウンとうなりを上げている荷揚げケーブルがあった。やはりここが終着点となっていて、荷物庫とおぼしき建物があった。

合戦小屋の片隅に水道と水槽があった。
「すいか800円」と書いてある。うわぁ、高い!どれくらいのサイズなのかは不明だが、恐らく1/8カットくらいだろう。山物価、恐るべしだ。
以前、2ちゃんねるの「登山キャンプ板」で「いくら荷揚げにカネがかかる、夏しか営業していないという理由があっても、山は値段が高すぎる。俺なら合戦小屋でスイカを400円で売る」という書き込みを見かけた事があったが、なるほどそういう事だったのか。
ちなみに隣の籠にはリンゴが置いてあり、これは1個300円なり。ついでに言うと、飲料水は1リットル200円での販売だそうな。下界において、複雑な品質管理と流通経路を経てお店で売られているミネラルウォーターよりも高いのだから興味深い。

合戦小屋前のベンチで一休み。
雲とほぼ同じ高さにいることがわかる。
青空の面積が随分広くなってきた。

あれっ?
こ、コダマ青年、そのザックの横に置いてある赤い物体は・・・?
「買っちゃった」
いや、買っちゃったって、わざわざここで?
「山登っていると、こういうちょっと酸っぱいものを食べたくなるかなあと思って。歩きながら食べることもできるし」
なるほど、確かにそうだが・・・まあ、下界でリンゴを買っても150円くらいはするわけで、300円だったらべらぼうに高いというわけでも・・・いや、やっぱ高いなあ。
コダマ青年は、こっちのあきれ顔を無視してうれしそうにリンゴをごしごしと磨き上げていた。

見上げると、ナナカマドの実が真っ赤になっていた。もう秋だ。しばらくすると、この青々としている葉っぱがびっくりするくらい真っ赤になる。
ここは一枚写真を撮っておかないと。
ええと、ううん、アングルが難しいんですけど。背後にあるトイレがどうしても写ってしまう。トイレを背景にしたら、せっかくの写真も台無しだ。
右へ左へとカメラを持ったままウロウロしているおかでんを見ながら、コダマ青年は
「だろー?俺も写真撮ろうと思ったんだけど諦めたんだよ、背景がトイレじゃあなあ」
と苦笑していた。

さて、気分を入れ替えたところで、あと70分かけて燕山荘に向かうことにした。
徐々に樹林帯が開けてきて、それに従い眺めがどんどん良くなってきた。このあたりからが、山の本当の醍醐味(だいごみ)ってやつだ。

合戦沢の頭到着。地面が白砂になってきた。明らかに、登り始めのころと山の風情が変わってきた。
燕山荘まであと1.3km。

ここからは気持ちの良い稜線歩きとなる。
剥き出しになった岩肌が、燕岳を連想させる。目的地は、近い。

雲の隙間から、明日登る山である常念岳が見えてきた。日本百名山の一つだ。

あたりに生えている樹木が、だんだん頼りない細さになってきた。「こいつと闘ったら、俺、勝てるな?」という細さだ。植物には相当シンドイ標高になってきたらしい。
そんな木々の吐息を尻目に、ずいずいと登る。
雲の切れ目から、本日のお宿・燕山荘が時々見え隠れするようになってきた。(写真でも真正面に写っているのだが、このサイズだとよく見えません)
げっ、まだあれだけ登るのかよ、とちょっとがっかりする。
道そのものの傾斜はゆるくなってきたのだが、これまでの疲れが溜まってきたためか足取りが重くなってきた。

燕岳が見えてきた。燕山荘に荷物をデポした後、今日はあそこまで登ってくるつもりだ。即ち本日の最高地点。
遠くからでもほれぼれする山容だ。

ふぅふぅ言いながら歩くことしばし、ようやく表銀座の縦走路である稜線に出てきた。
わっ、わわわっ。
稜線に出た瞬間、今まで見ることができなかった山の反対側が一気に見えるようになり、疲れが消しとんでしまった。
遠く、槍ヶ岳がお疲れさまと声をかけてくれている。今日、この天気で槍ヶ岳が見えるとは思っていなかっただけに凄くうれしかった。小槍もはっきりと見える。

そして、振り返るとそこには眼前に燕岳があった。白砂の地面と、奇岩と呼ぶにふさわしい白い岩肌の露出。これからあの山に登るのかと思うと、わくわくしてくる。
ワクワクさせられる山というのは思ったより多くないのだが、その数少ない山の一つだ。

燕岳までの往復は55分。まずは背中の重い荷物を山小屋に預けてから出発だ。何もわざわざ荷物を背負ったままで燕岳に行くことはない。
燕山荘に向かう。

燕山荘到着。聞きしに勝る立派な山小屋で、とてもじゃないが山小屋には見えない作りをしている。周辺の山小屋より少々高い1泊2食付8,700円(北アルプスの相場は8,500円前後)なのだが、これだけ立派だとなるほど仕方がないという気になってくる。
でも、一度こういうぜいたくをしてしまうと、「ごく普通の山小屋」に泊まれなくなってしまうんじゃないか・・・とやや心配にもなるのだが。
ちなみにこの燕山荘、「大キレット越え」で初日に宿泊した「ヒュッテ大槍」の系列だ。ヒュッテ大槍でベタ誉め状態の快適さを体験させてもらったので、この山小屋もまず間違いなく快適なことだろう。

受付で宿泊手続きをとるコダマ青年。
スタッフが、全員おそろいの格好をしているのがキマっていた。オリジナルのベスト、Tシャツのようだ。
スタッフから、「2,000円で二人だけの部屋にすることができますが?」と水を向けられた。すなわち、一人頭9,700円で雑魚寝部屋ではなく二人部屋になるという。1万円を超えないあたり、非常に微妙な金額で欲望をかきたてられる。
「うーん、それだったらお願いします」
非常にここらへんの商売センスは旨いと思った。

宿泊受付のカウンタの向かい側には、お土産物コーナーがあった。山の上とは思えない、豊富な品そろえだ。飲み物からスナック菓子、衣類、小物、アクセサリとあらゆるものが売られている。しかも、結構な数が燕山荘のオリジナル商品であり、非常に気合いが入っている。
土産物コーナーに一人スタッフが張り付いて店番をしているというのも、この小屋の規模の大きさを伺い知ることができる。営業時間を見ると、朝4時半から夜8時半までやっているらしい。えらく朝が早い。出発前の登山客に便宜を図ったと言うことだろうか。

「へー」なんて物珍しげに売店を覗いていたのだが、視線を横にスライドさせた瞬間、体が固まってしまった。
ガラス戸に張ってあった手作りポスターが、その原因。
「生ビール始めました!!」
びっくりマークが二つもついている。どうだ、生だぞ生。缶じゃないんだぞ!という事か。いや、僕自身相当びっくりしました。合戦尾根のキツイ坂を登っている時以上に、心臓がドキドキいっちゃいました。
いや、生ビールがあるということは事前情報としてキャッチしてはいたのだが、あらためてこうやってポスターを見ちゃうと、いやはやもう。
しかも、よく町の中華料理屋とかに張ってあるような水着姿のお姉ちゃんがジョッキをもってにっこり、というメーカーの販促ポスターと違って手作りなのがそそる。水着ポスターがこんな山の上の天国に張ってあったら、下世話でしょうがねぇや。やっぱ、「生ビール始めました!!」ですよ、ええ。
しかも、驚愕してしまったのが、その下に書かれているビールのラインナップだった。大中小の3種類があるなんて、聞いていなかったぞ。というか、3種類もそろっているなんて、普通の居酒屋でもなかなかお目に掛かれないぞ。てっきり1サイズのみ、中ジョッキが出てくるのかと思ったのだが、大ジョッキがあるなんて!ああ、ビール飲みの憧れ、大ジョッキ。
「いや、でも大ジョッキと称してはいるものの、実際は中ジョッキ程度のサイズなんじゃないの?」という思いが0.5秒ほど頭をかすめたが、そういう不安をあらかじめ察知していたのか、ポスターにはちゃんと内容量まで記載されていた。大ジョッキ、800ml。おお、完膚無きまでに本当のモノホンの大ジョッキではないかっ。1,000円、高い?馬鹿いっちゃいけない、1,000円札一枚で、この山の上で大ジョッキ。こんなありがたいことはない。安い部類に入っていると言ってよかろう。コレは楽しみになってきたぞ。

「では、お部屋までご案内します」
宿泊受付を済ませたわれわれの前にスタッフが現れ、部屋まで誘導してくれた。こんな体験は初めてだ。本当にここは山小屋か?何もかもが信じられない。普通の山小屋だったら、受付カウンタで建物の見取り図を指し示されながら場所を教えてもらうという形だ。
えらく恐縮しながらスタッフについていく。
おー、やっぱりそうはいっても山小屋独特のカイコだな状態の寝床になっているのだな。

「こちらになります」と指定された場所がここだった。カイコ棚の2階部分だ。ああ、やっぱり追加料金を払ったとはいっても、完全個室になるわけではないのだな。
その場所は、畳二畳のスペースになっていて、隣とは壁で仕切られていた。個室ではないが、個室感覚という状態だ。雑魚寝部屋みたいに、隣のオッチャンに自陣を浸食されてしまったりする気兼ねが無い分、とても楽ちんだ。一人あたり1,000円追加の価値は十二分にある。僕らは男だからともかく、女性同士だったりカップルだったりするとこの部屋は重宝するんじゃなかろうか。

廊下に張り出してあった、「燕山荘のご案内」。
本日は燕山荘をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
当山荘は、大正10年に「燕の小屋」として建てられ、昭和3年に「燕山荘」と改名、昭和9年にはいまの本館が完成致しました。
現在、収容500名、売店、喫茶室、乾燥室、カード式公衆電話等の設備があり、24時間(夏期)ディーゼル・エンジンによる自家発電を行っております。
また、水は高瀬側の水源より毎日ポンプアップしているものです。
なにぶん、稜線上の山小屋ですので、いろいろとご不便をおかけすることが多いと存じますが、よろしくご協力くださいますようお願い申し上げます。
お気づきの点がございましたら、フロントまでお申し出ください。
これだけの装備を持っておきながら、「いろいろとご不便をおかけする」と謝っているのだから驚くやら呆れるやら。ここのオーナーはどこまで快適にすれば気が済むのだろうか?
また、このご案内で気付いたのだが、展望喫茶室(サンルーム)というのが食堂とは別個にあり営業されているらしい。先ほどの大ジョッキを飲むのもここになるのだが、食堂と喫茶が別というのもちょっとだけ珍しい。普通、食事時以外の食堂が喫茶の代わりになっているものだ。ということは、2食付きにしないで、喫茶室で軽食を食べるという選択もあるわけだ。
この喫茶室、営業時間が朝4時半から夜8時まで。鬼のように長時間営業だ。食堂とは別なので、中休みもない。しかも、説明文がイカす。
ご来光を眺めながらの本格的ドリップコーヒー、安曇野の夜景を臨みながらの生ビール、ワイン等はいかがですか。どうぞご利用ください。
ううむ、やっぱ快適すぎるぞ、この山小屋は。ここまでくるとやりすぎの感もあるが、素直に喜んでおきたい。

さて、生ビールの前にもう一仕事だ。燕岳を制圧してこないと。
既に1時間前から水分断ちに入っているのは言うまでもない。これで、燕岳往復すれば完璧だ。
それにしても、本当に絵になる山だ、燕岳は。
目の前にあるので、「そびえ立っている」という感じではないが、それがまた愛しい。

ここ、燕山荘前は表銀座・裏銀座が一望にできる絶好のビューポイントだった。
深い高瀬渓谷を挟んで向こう側に、本来行く予定だった裏銀座が延びている。
写真だとややわかりにくいが、正面やや右のコル状のところが烏帽子小屋。高瀬ダムからブナ立尾根を6時間登ったところだ。ここから裏銀座縦走を開始するのが一般的。その右側には、オベリスク状にそびえる烏帽子岳があるのだが、標高が低いのでそれほど印象的には見えない。
そして、向かって左側に主脈が延びていって、左端の山が野口五郎岳。

野口五郎岳からさらに南方面に向かうと、水晶岳、鷲羽岳と続いていく。

そして、最後は・・・そう、槍ヶ岳へ。
やっぱり、こうしてぐるりとあたりを見渡すと、槍ヶ岳というのは北アルプスの親分だと思わせるものがある。穂高岳のほうがエラい、いや馬鹿いうな槍ヶ岳にきまっとるわい、とあれこれ議論があるのは事実だが、やはりこの尖った槍の穂先は360度どこからでも写真の撮り甲斐がある。
この旅のあと、撮影した写真をざっと流し見していたコダマ青年がこういった。
「お前この写真、槍の写真ばっかじゃないか。よっぽど槍好きだと思われるな、絶対」
むぅ、確かに。
あらためて遠方から槍ヶ岳を見るにつけ、あのてっぺんによく人が登れるなあ、と感心する。昨年自分自身が登ったにもかかわらず、そう思う。本当に尖っている。

燕山荘のすぐ下に、テント場がある。北鎌尾根に行くおにーさんは既にテントを張ってくつろいでいた。
「随分早く着きましたねー?」
「いや、ここテン場が狭いから、早く到着しないと泊まる場所が無くなっちゃうんで早く着いたんだけど」
「でも、結果的には余裕でしたね?」
「やっぱり平日だからかなあ」

このあたり一帯は白砂で、空の青とのコントラストが非常に気持ち良い。
ざくっ、ざくっ。
まるで砂浜を歩いているかのような足の裏の感触を楽しみながら、燕岳に向かう。
「あははーっ、待ってよー」「追いついてごらんよ」みたいな夕日をバックに波打ち際でじゃれるカップルごっこをやろうとしたが、あまりに恥ずかしいのでやめた。
もう30歳だもんね、わしら。

燕岳周辺の岩は、奇妙な形をしたものが多い。
これなんて、人差し指で燕岳を指さしている。
「ご覧、あれが燕岳だよ」
「わかっとるわい!」
って感じだ。
もう少し指の位置が真ん中よりだったら、Fuckしているみたいで非常に愉快だったのだが、さすが八百万の神は西洋文化を知らず、そこまで愉快な細工を岩に施さなかったか。

ある程度歩いたところで振り返ってみる。
ハリネズミの背中みたいに岩がにょきにょきと突き出ているのがわかる。その先に、赤い屋根の燕山荘がある。
わざわざ丘のてっぺんに作っているのが、気合いの入り方が違う。普通、こういう稜線沿いの山小屋というのは風雪被害をモロに受けるため、鞍部や稜線からやや谷側に降りたところに作るものだ。しかし、この山小屋だけは「どうだ、えへんえへん」と一番高いところに作っているではないか。
建物が老朽化するのが非常に早そうな気がするが、だからこそあれだけ新しく清潔な建物が維持されているのかもしれない。新陳代謝が激しい、と。


さて、目線を進路に戻し、また一歩一歩先へ進む。
空身になると、どれだけ楽かということを全身をもって体感。やはり山に登るときは荷物は少ない方がいい。当たり前の事だが、なかなかそれができないから困る。
今回なんて、天気が悪くなって最悪山小屋で1日停滞することも想定してたため、「プロレスラースーパースター列伝・タイガーマスク編」を2冊も持ってきていた。今考えると馬鹿だ。

燕岳の山頂直下からは、木道になった。岩肌を登っていくことになるので、木で組まれた階段を登っていかないといけない。
山頂までもう少し。

燕岳山頂到着。2,762.9m。日本二百名山の一つ。
山頂は岩場だけだが、なめらかな岩が多いのでどこにでも腰をかけることができる。ぼんやりするには最高の場所だ。天気が良ければ眺めも非常に良い。
この山頂には、山頂だよー、という標識が小さいものしか設置されていなかった。コダマ青年とおかでんの間にある岩がそれだ。このシンプルさが良い。
山によっては、いくつも派手な山頂標識が立っていたりして不愉快にさせられることがある。ナンタラ山岳会とかが寄贈(無断設置?)していたりするのだが、山頂の神聖な風情を台無しにしてくれて非常にイカンと思う。
とか言っておきながら、「やあ、この岩だと山頂での記念撮影がしづらいなあ」と思ったのは事実。立ち小便するとき、どうしても電柱とか木を探すのと一緒。何か目印が無いと、どうもすっきりしないという。

山頂から表銀座縦走ルートを眺める。
赤い屋根の燕山荘から、ずっと山のてっぺんを伝いながら南へ縦走ルートがのびている。正面の山が大天井(おてんしょう)岳。今回のルートでの最高地点となる標高2,922m。
明日はこのルートをずっと歩いていく事になる。風光明媚だし、楽しい山歩きになりそうだ。

こちらは、燕岳から北方面を眺めたところ。
北燕岳があり、そのはるか奥には立山が見える。そういえば2年前にはあそこにも登ったよなあ・・・。

さあ、山頂でのひとときを満喫したことだし、山小屋に戻ろう。
帰り道、「メガネ岩」と呼ばれている岩を発見。岩にふたつ、裂け目ができていてその様がメガネに見えるから名前が付けられたらしい。ご丁寧に、そのメガネのところまで登っていけるような傾斜まである。
一体メガネ岩から覗くと、何が見えるのか!?

・・・燕山荘だった。
狭い裂け目のため、視界は非常に狭い。見えるのは、燕山荘だけ。なんじゃそりゃーっ。
なんだか、PRを見せつけられたって感じ。

山小屋から本日登ってきた方面を見下ろす。中房温泉は、この谷のもっと深いところにあるので確認できず。
正面右の山が、これも日本二百名山の有明山。何の変哲もない山だが、登りに5時間・下りに3時間の計8時間を要する結構ヘビーな山だ。
コメント