朽ちていく建物、護られる建物
2017年春。おかでんは珍しくやる気を出していた。むらっ気のある性格で、テンションが高いときと低いときに周期性があるのだけど、ちょうどテンションが上がり調子の時と春の訪れとが重なったからだ。
「ゴールデンウィークあたりに、アワレみ隊で一発なにかカマすか」
何かやる、といえばアワレみ隊活動しかあり得なかった。
30年来のつきあいになるアワレみ隊一派だけど、最近はすっかりその活動が控えめになってしまっている。お互い40歳を越え、気力体力財力の余裕というのが20代の頃と比べてなくなってきているからだ。もともと全国に散らばっているアワレみ隊メンバー、「ちょっくら会おう」というだけでも一騒ぎだ。これまで、長野界隈で蕎麦食べ歩きだのキャンプだのができていた方がむしろ凄いくらいだ。
ばばろあに至っては、長野でアワレみ隊活動をするために「前日のうちに名古屋入りし、しぶちょお宅で一泊し、それから当日を迎える」なんて有様。さすがに彼ももうこういう強行軍は難しい、と言っている。「アワレみ隊で集まるなら、名古屋以西にしてくれ」と。
日本において最大の都会である東京だけど、アワレみ隊においては「辺境の地」。
そんなわけで、なかなか活動ができていなかったのだが、このまま「なんとなく自然消滅」させるにはあまりに惜しい。僕らの「若気の至り」の集大成がアワレみ隊だからだ。組織とか人付き合いっていうのは、意識して続けないとどんどんじり貧になる。「親友だから、いつでもどうにでもなるさ」なんて甘く考えず、ちゃんと会う機会を作らなくちゃ。
で、あらためてアワレみ隊で集まるならどうする?となったとき、やはり「離島」というキーワードを軸に据えるのが一番収まりが良かった。「キャンプ」なんて軸にすると、資材運搬の問題が非常に大きいし、「温泉」とか「蕎麦」とかいったらきりがない。しかも集まろうとしている時期は、泣く子も黙るGWだ。下手な観光地や都会にはいないほうがいいだろう。
早々に賛意を表明してくれたばばろあと僕とで、検討を進めていく。
「トカラ列島」「五島列島」「甑島」「壱岐・対馬」「隠岐」
といった中国地方~九州地方の島々が候補として出てきた。一足飛びに「台湾」という提案もあったのだけど、これは今後の宿題として、先送りにした。今年4月、4年だか5年だかの長期海外赴任から戻って来たジーニアスが、「台湾なら俺も参加したいが、GWは帰国直後でいろいろあるので参加できない」と言ってきたからだ。ならばジーニアスが落ち着いてからでよかろう、というわけだ。
唐突に「台湾」と思うかも知れないが、東京、愛知、大阪、山口・・・と散らばっているアワレみ隊において、むしろ海外現地集合・現地解散の方がやりやすいという事情もあった。成田、中部、関空、福岡といった国際空港から飛行機で台湾へは容易にアクセスできる。むしろ、鹿児島からフェリーにのって翌朝到着、なんていうトカラ列島の方がよっぽどハードルが高い。
「なんかすげえところ来たぞ!」というワクワク感を感じるならば、やっぱり秘境中の秘境であるトカラ列島、「祈りの島」として列島中いたるところに教会が点在している五島列島が素晴らしい。
トカラ列島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E5%99%B6%E5%96%87%E5%88%97%E5%B3%B6
五島列島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6
そんな中、敬虔な・・・というか、むしろ敬虔すぎてギャグの領域ではないか?というくらいのカソリック信者、蛋白質が参加を表明してきた。彼は毎週末地元の教会に通い、時間が許せば一日二回もミサに出るというような男だ。だったら、「五島列島教会巡りの旅」がよろしかろう、という話になった。
念のために蛋白質に行きたい場所を聞いてみたら、五島列島で構わないという。しかし、「ついでに遠藤周作文学館に行きたい」とも付け足してきた。えっ、遠藤周作?
そういえば、マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の「沈黙」(隠れキリシタンの弾圧を目の当たりにした宣教師の話)をハリウッドで映画化し、つい先日公開されたばっかりだっけ。
これを契機に、すっかり蛋白質は遠藤周作ファン(というか、正確に言うと「遠藤周作の『沈黙』ファン)になっているらしく、遠藤周作文学館というキーワードが出てきたのだった。
えーと、それってどこにあるの、というと五島列島の対岸、長崎市の北側だ。あー、こりゃあ五島列島とセットで行くには結構キツいぞ。
旅の計画は遅々として進まなかった。とにかく五島列島は計画が立てにくい。なにげに島一つが結構デカいし、「列島」の名にふさわしくいくつもの島が連なっている。当然島を巡っていくためには船を使わなければならないし、島内の移動はレンタカーが必要だ。さらには、島内にたくさんある教会を巡ろうとすると、全く目処が立たない。
前日夜、全員が博多に集合し、24時ちょと前に博多港を出発するフェリーに乗って五島列島を目指す。そして早朝五島列島に到着・・・まではイメージが付くのだけど、さてそこからどうする・どうなるがさっぱりだ。
検討を促進させるために、「NPO法人長崎巡礼センター」というところに連絡をとり、「五島巡礼手帳」なるものを取り寄せた。値段は1,200円。これは、五島列島にある全53カ所の教会の紹介がされているだけでなく、スタンプラリー用の台紙にもなっている。スタンプラリー!・・・もう何を考えているか、わかるね?
長いつきあいのばばろあは当然僕の目論見に気がついていて、
「全部回るの、無理で?中には一つの教会に行くだけでホンマ1日潰れてしまうような所もあるんで?」
と言ってきた。それはその通りで、さすがの僕でさえも「完全制覇!」というのは最初から諦めていた。でも、この巡礼手帳を見て、教会ごとに特色がある建物にワクワクが止まらない。「これは美しい!」という教会だけでも、ベストセレクションとして訪れておきたいものだった。
ちなみになんで五島列島に教会がたくさんあるのかというと、もちろん信者が多いからなのだけど、明治時代になって禁教令が解かれキリスト教が解禁されると、これまで隠れキリシタンとして先祖代々耐えてきた人たちが嬉しくなっちゃって、この喜びを是非!と教会をこしらえたのだという。なので、サイズは小さいながらも、どれも気合いが入りまくった立派な教会だらけだ。よくもまあ、離島の集落単位でこんな立派なものを作れたものだ、と呆れるレベルだ。
よくわからんなりに旅の計画を練ってはいたが、そんな折、参加表明をしていたもう一人、しぶちょおが諸般の事情により参加できないということになってしまった。本人、とても悔しがっている。そりゃそうだ、五島列島なんて一生のうちに一度いくかいかないか、という場所なので、アワレみ隊企画として教会巡りで島内をウロウロしちゃったら、もう次がないかもしれないからだ。
だったら五島列島もまた今度にしようや、とばばろあから提案があり、結局離島企画は取りやめとなった。というのも、五島列島ツアーだと3泊は確保しなくちゃいけないし、移動と宿泊に結構お金がかかる。なんやかんやで、10万円くらいは費用としてかかってしまいそうだからだ。さすがにこれだけの巨費を費やすからには、参加希望者全員が集まれるときの方がいいに決まってる。
・・・で、結局ここで思い出されたのが、
「そういえば蛋白質、『遠藤周作文学館』に行きたいって言ってたな」。
結局、長崎に行くことになった。
あれこれ調整した結果、今回は3泊4日の旅、参加者はおかでん、ばばろあ、蛋白質の3名、行き先は長崎/佐賀ということになった。
ざっくりとした旅程はこうだ。
[1日目] 長崎集合。 午前、高校の修学旅行で訪れた長崎市街を再訪し、「昔はどうだったっけ?」と思い出す旅。 午後、軍艦島上陸ツアー。
[2日目] 午前、長崎市街観光、遠藤周作文学館。 午後、外海エリアの教会を巡りつつ、「日本最後の炭鉱があった島」池島へ。
[3日目] 午前、池島炭鉱ツアー。 午後、嬉野温泉へ。湯豆腐。
[4日目] 未定。佐世保に行くか、吉野ヶ里遺跡の方に行くか。 解散は新鳥栖駅の予定。
「軍艦島(端島)」と「池島」、両方の炭鉱の島を巡る旅ということになった。すなわち今回は「祈り」と「掘削」がテーマ、というわけだ。
軍艦島のツアーはもちろん大人気で予約が取れなかったのだけど、執念でキャンセル待ちをゲットすることができた。池島も、島内に宿が取れて一安心。
池島というのは軍艦島と比べて知名度が低く、知らない人も多いと思う。しかし、実はメジャーになりすぎた軍艦島なんかよりもよっぽど興奮が止まらない島として、僕らは以前から目をつけていた場所だ。今回、その両方を訪問することができて、本当にラッキーだ。
池島とはなんぞや、という話はおいおい説明していく。
3泊目に嬉野温泉泊というのはちょっと場所としておかしいのだが、僕が嬉野温泉に泊まったことがない上に名物である「温泉水で煮込んだ湯豆腐」を食べたいと所望したので、ばばろあがセッティングしてくれた。ばばろあは、今回ほとんどの旅のコーディネートをしてくれ、本当に助かった。
「GWじゃし、大陸からよぉけ人が来とるけぇ、全然宿が取れんのよ!どこもアウトで、ようやく取れた嬉野温泉の宿は、『熊本地震の影響で温泉の配管が壊れて、お湯が出ません。風呂は外の共同浴場を使って下さい。そして素泊まりのみです』っていうところじゃったで」
ばばろあが目を丸くしながら熱く解説してくれる。3泊もの宿を確保するのに、結構手こずったらしい。
さあ、アワレみ隊2017、全員43歳の中年独身男性による旅が始まる。
2017年05月02日(火) 1日目
06:17
我ながらビックリするくらいの早朝に、羽田空港にいる。
朝6時17分。
今日はまだ平日。有給休暇を取得し、この日からアワレみ隊の旅が始まる。
本来であれば、「この日の夜までに全員博多に集合。深夜のフェリーで五島列島に行くぞー」という予定だった日だ。しかし五島列島計画が潰えた後も、そのままこのド平日である5月2日が旅行の初日となっている。
というのも軍艦島のツアー予約が取れたのが、この日の午後だからだ。GW中だなんて、当たり前だけどツアーの空きなんてありっこなかった。平日だからこそ、滑り込みセーフでツアー予約が取れたんだ。ならばこの日から、しかも早朝から東京を発つしかあるまい?
とはいえ、この日は朝4時半起床。笑っちゃうしかない。これから3泊4日の旅行だぞ?体力持つのかね、ホント。
蛋白質は居住地である大阪を昨晩のうちに出発し、深夜高速バスで長崎入りを果たすのだという。今頃、高速道路をひた走っていることだろう。朝8時には長崎に着くという。
山口のばばろあは、前日も休みをとっていて、昨晩は佐世保に泊まったらしい。なんで佐世保?・・・いや、疑問に思う必要はない。行動派の彼が動き回るのは、「城跡」か「砲台跡」巡りと決まっている。きっと、佐世保界隈にまだ見ぬ砲台跡を発見したのだろう。
ばばろあは、長崎空港に到着する僕を車で拾い上げ、長崎駅まで運んでくれることになっている。そこで蛋白質と合流する。
06:18
この時間に羽田空港に到着していられるって、いいよな。眠いけど、朝この時間から旅先に向けて移動できれば、昼前から現地で大暴れできる。昼飯はご当地グルメで!なんて言わず、なんなら遅い朝飯をご当地グルメで!とすることだってできる。
しかも、早朝の便は昼間よりも値段が安い。いいこと尽くめだ。
東京界隈に住むなら、「早朝の新幹線・飛行機に乗ることができる場所」がええのぅ、という思いを新たにした。究極的には品川界隈、っていうことになるんだろうけど、さすがにあそこは住みにくそうだ。ビジネス街すぎる。
えーと、今回乗るのは、06:55のソラシドエア長崎行き。ソラシドエアに乗るのは初めての体験だ。
宮崎に本社がある航空会社で、昔は「スカイネットアジア航空」って名前だったよな。いつの間にか「ソラシドエア」という微妙にカッコいいような可愛いような名前の会社になっちゃった。エアドゥやスターフライヤー同様、単独での経営が難しかったのでANAの出資を受け、予約発券システムなどはANAのものを使っていると聞く。
やっぱり、ガッチリとマイル制度や予約システムを固めているJAL/ANAには勝てないってことだな。そりゃそうだ、マイルがたまりもしない航空会社など、使うのに躊躇してしまう。
それでも今回ソラシドエアを使ったのは、東京発で長崎に最速で着く便がそれだったということと、案外お値段が安かったと言う理由だ。
18,790円。
「安くないだろ馬鹿」と言われそうだが、いや、長崎に行く飛行機って、余裕で2万円を越えてくると思っていたのでこの金額が燦然と輝いて見えた。ただし朝7時前に羽田を発つという、都内在住でも乗れる人が限られてしまうような便だけど。
さすがソラシドエア、飛行機は沖止めだ。成田空港のLCC同様、ボーディングブリッジは使わない。バスで、ターミナルから離れたところにぽつんと駐機している飛行機に向かうことになる。
羽田空港第二ターミナルにおいて、「500番台」のスポット名が付いているのは、バス乗り場ですよっていうことだ。
06:37
501番ゲート、長崎行き。まだ改札を開始していない。
自動改札機の奥すぐのところに、空港内を走りまわるバスが待機している。
ソラシドエア、ANAのシステムを使っているだろうから、いわゆる「SKiPサービス」(スマホ画面などに表示された二次元バーコードを自動改札機に読み取らせるチケットレスサービス)が使えるのかと思ったが、使えなかった。極力余計な機能はANAから拝借せず、コストを下げているのだろう。
バスの待合所に、そば・うどんを扱っているANA FESTAを発見。
朝飯抜きで、昼に長崎で胃袋フルスロットル!ということを考えていた。しかし搭乗手続きはまだ始まっていないようだし、ここで「転びキリシタン」ならぬ「転びアワレみ隊」。蕎麦をつるつるッと手繰っておく。栄養をつけておかなくちゃ、これからの長丁場をフルパワーで動き回れないってば。
「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」
(遠藤周作「沈黙」)
このとき食べた蕎麦の記録はこちら。
06:54
搭乗開始となり、あわてて食べかけの蕎麦をすする。優雅な朝ごはんのつもりが結構あわただしくなった。もっとも、たぬきそばを食べて「優雅」なんて嘘に決まってるんだけど。
バスに乗って、沖止めの飛行機に向かう。笑っちゃうくらい、遠い。
こんなに遠くまで駐機スペースがあるのか、と驚かされるくらいだ。
スルスルとバスがターミナルから遠ざかっていき、エアドゥやソラシドエアの飛行機が見えてきたな、と思ったら、さらにその最果ての地まで案内された。
07:00
なにしろ、これだ。
飛行機の中から撮影した写真だけど、はるか向こうにエアドゥの飛行機が何機か見え、羽田空港第二ターミナルはかすんでしまうくらいの遠方だ。(写真右奥にあるのだけど、小さくなりすぎてぜんぜん見ていない)
てっきり、このままバスで長崎まで行っちゃうのかと思ったぜ。
「機材の都合上、飛行機は利用できなくなりました。つきましてはこのままバスで皆さまを長崎までご案内します」
とかなんとか言って。
2016年の熊本地震を受けて、登場口にはくまモンが「がんばるけん!くまもとけん!」と旗を振っていた。
くまモンは力強い顔をしていて、頼もしい。
こういう表現、いいな!と思った。むしろ、「支援してください」というスタンスより、応援したくなる。
ただ残念ながら今回のアワレみ隊の舞台は長崎県・佐賀県だ。熊本の頑張りはまた今度、応援させて欲しい。
ソラシドエア、初搭乗。
そら豆色をした座席カバーが印象的。
普段乗っているANAと比べてシートが分厚い気がするけど、気のせいかもしれない。見慣れないので、ついきょろきょろしてしまう。やめろ、いい歳をしたおっさんがきょろきょろすると、不審人物だ。
09:08
観念して、あとはもうずっと機内で寝ていた。なにせ、朝が早すぎだ。ちょっとでも寝ていないとこのあとの3泊4日がしんどくなる。
ドリンクサービスがあったようだけど、寝ていたのでどんなものがあるのかわからなかった。
目が覚めたのは長崎空港着陸のため高度を下げ始めたところだった。
長崎空港といえば、大村湾の海の中にある海上空港。大村にあるボートレース場の上空を飛び、海に突っ込むかのような見え方で空港に着陸した。
アワレみ隊、長崎上陸!
個人的には、長崎県に足を踏み入れるのは高校2年生の修学旅行以来だ。そういえば、「最近ぜんぜん行ってないなぁ都道府県ランキング」では今回の訪問地・長崎/佐賀がベスト1位(26年ぶり二度目)だ。ちなみに同率1位で鹿児島県があるので、今回の旅で鹿児島県が単独1位に躍り出ることになる。まってろ、いずれ行くから。開門岳登りに行くから。
09:12
長崎空港ターミナル。
大きな鐘楼がそびえているデザイン。教会が多い土地柄を反映してのことだろう。
まさかあれが管制塔・・・なわけ、ないよな、さすがに。鐘風の建物のなかに管制官がひしめいているわけはない。
空港の近くで待機していたばばろあと合流するため、しばらく待つ。
エントランスには、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 世界遺産登録を実現しよう!」というのぼりが立っていた。
あれっ、そんな名前だったんだ。
五島列島の教会群を世界遺産にしよう、という動きがあるのは知っていたけど、あれは「隠れキリシタン」の史跡ではない。どうしちゃったんだろう。
調べてみたら、以前は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称で世界遺産登録をしようとしていたんだけど、あれこれあって、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に変更されたらしい。単に教会があります、というだけだったら、キリスト教社会であるヨーロッパの人からすると「当たり前やんけ」ということなのかもしれない。それじゃ弱いので、「弾圧を受けながらも信仰を続けた」ということに主眼を移したのだろうか。
「天正少年使節のまち 大村」
と書かれた看板が空港前に掲げてあった。おー、そういえばそうか。というか、そうなのか。
天正遣欧少年使節団なんて、学校の歴史の授業で覚えたっきりだ。それ以降20年以上、ひたすら脳の奥深くに沈殿したままですっかり忘れていた。そういえば習ったなあ。ジュリアンとかマルチノとかそういう人だったよな(やっぱり記憶が曖昧)。
こうやって忘れられていた記憶が呼び覚まされるんだから、町おこしなり地域活性というのは愚直なまでに基本に忠実でなければならんということだな。
・・・で、「天正少年使節のまち」にはなにがあるの?え、使節団の4名の像?そいつァいいや(棒読み)。
飛行機の中から見えたボートレース大村のほうがよっぽど興味深いけど、いずれにせよ今回大村市はスルーだ。ばばろあと合流して、すぐに長崎へGOだ。
10:06
ばばろあと会ったのはいつ以来だろう?
「おう」
「よう」
といったそっけないあいさつでの再会となった。今更の腐れ縁なので特に気恥ずかしさなどはないけど、さりとていったい何から話せばよいのやら、状態のお久しぶりだ。
「最近、どう?」
と聞くには「最近」の幅が広すぎる気がする。後で思い出してみたら、2013年の神島再訪のとき以来だった。
まず、車内で今回の旅について再確認を行った。予約のほとんどをばばろあ任せにしてある今回の旅なので、内容の再確認をしておく必要があるからだった。
アワレみ隊のメーリングリストを通じて蛋白質には旅のリクエストやこれまで立てた計画の同意を求めていたのだけど、彼からはほとんど反応がなかった。今回の長崎行きについては、信心深い蛋白質が喜ぶような内容(長崎の教会巡り等)にしたいと思っていたので、リクエストがなかったのはちょっと意外だった。というか、ちゃんとメールを読んでいたのかどうかも怪しい。
アワレみ隊のメンバーは、いくら「親兄弟の次に付き合いが長いヤツら」とはいえ、住んでいる場所も、職業も、収入も、家庭環境もバラバラだ。「昔のよしみで、阿吽の呼吸で通じ合う」なんてことはない。ニュータイプじゃないんだし。
価値観や金銭感覚の違いというのはもはや決定的で、たとえばどういう店でメシを食うのか、どういう宿に泊まるのかというのはちゃんと事前にすりあわせをしないといけない。最大公約数でみんな納得、というのはなかなか難しい。
その点、ばばろあに手配を任せると気が楽だ。彼のセンスと僕のセンスは結構違うのだけど、十分僕の許容範囲にある場所をチョイスしてくれる。さらに、僕とかがゴネても、「ええじゃん、これで」という彼独特の強引さで話がまとまるので、それはそれで話が早いな、と僕は思っている。
僕だったら、「折角なんだから宿メシを堪能したい。一泊二食付き、温泉宿がいい」なんて考えるが、ばばろあは違う。彼は日本各地の砲台跡巡りで日々旅を重ねているので、「宿泊は素泊まりで構わない、メシはスーパーの惣菜でオッケー」という考えがある。蛋白質は・・・どうなんだろう?このあたりがよくわからない。なので事前に聞いておきたかったのだけど。まあ、連絡なきは良き知らせ、ということでこの旅については賛同しているのだろう。
蛋白質から、前日夜に大阪を出た深夜高速バスは無事に長崎駅に到着したという連絡が入った。
ばばろあから
「我々が長崎市街に到着するまで、路面電車の一日乗車券でも買って浦上天主堂とか見て回ったら?わしらと合流したあとは軍艦島行って、次の日は長崎を発つことになるけえ、見たい教会とかあるんじゃったら初日の午前中に行っといた方がええで」
と伝えてあったのだけど、どうもそこまでの気力はなかったようだ。
「駅前のネットカフェに行ってシャワーを浴びます」
と言う。さすが43歳、夜行バスの直後にウキウキで観光、しかも一人で、というテンションにはなれなかったらしい。
しかも彼の場合、4月29日、30日と広島に帰省し、大阪に戻り、5月1日は何食わぬ顔で仕事をこなし、その日の夜にまた移動を開始し、今日5月2日に長崎だ。恐るべきことに、広島帰省も夜行バスを利用しているので、「一人水曜どうでしょう」状態。どれだけバスが好きなんだ。というか、これはさすがに若者でもキツい。
4月28日 夜行バス泊 4月29日 実家泊 4月30日 夜行バス泊 5月01日 夜行バス泊 そして今日長崎、ここから3泊4日の旅。家の布団ではぜんぜん眠れない日々。
きっと、隠れキリシタンの弾圧に思いを馳せ、自らもその苦しみを少しでも追体験しようとしているに違いない。そういうことにしておこう。
ちなみに蛋白質と合流したら、案の定というかなんというか、彼の目の下が若干黒ずんでいた。ああ、クマが出来る一歩手前じゃないか。旅の初日なのにアンタどうなってるんだ。しかし本人は「シャワーを浴びてすっきりした」と余裕の発言だった。顔は疲れていたけど。
10:17
長崎駅はJR長崎本線の終着駅だ。レールはどん詰まりになっていて、旅情を感じる。
高校の修学旅行の際、この駅前で福砂屋のカステラを買った記憶がある。バスガイドさんに「どこのカステラがおいしいんですか?」と聞いたら、「福砂屋だ」と教えてくれたからだ。カステラといえば文明堂しか知らなかった僕にとっては初耳のメーカーで、なんだか通な商品を買った気になって高揚したものだ。
その福砂屋は当然今でも長崎駅前のビルに入っているのだけど、四半世紀も前のことなので全く様子が変わってしまっていた。といっても、そもそもぜんぜん当時のことを覚えていない。
今回の旅は、「修学旅行に行った場所を巡り、当時の記憶を呼び起こす」という目的もある。実はアワレみ隊、昨年秋に奈良界隈の旅を行っている。僕は都合がつかず不参加だったのだけど、ばばろあ、蛋白質、しぶちょおが「中学校の修学旅行の地・奈良」を探検した。今回はその第二弾、という位置づけだ。
「でも、そもそもどこのホテルに泊まったかさえ、覚えていないんだが」
「わしも」
「わしも」
全員一致して、宿泊したホテルさえ覚えていなかった。どのあたりにホテルがあったか、ということも記憶が曖昧だ。駅前だったような気がするけど、その程度の記憶では、「当時泊まった宿」の確定は無理だった。
修学旅行のお約束といえば、消灯時間以降に繰り広げられる、「夜更かしをする生徒 VS 見回り先生」の構図だ。悪事が見つかった生徒が廊下に正座させられている、なんて姿は風物詩ともいえるレベルだ。
一方僕がいた班はというと、僕の発案により「先生の裏をかくぞ!」と早々に就寝していた。22時前にはきっちり明かりを消し、本当に寝た。・・・そのかわり、深夜2時に起き出し、そこから朝までカードゲームやボードゲームをやっていた。朝6時過ぎ、起床時間になって「先生が来るぞ!」の声であわててゲームを片付ける、という日々だった。
そういう記憶は残っているものの、後の記憶は相当曖昧だ。前日雲仙から移動してきた我々は、長崎で半日の班ごと自由行動が付与されていた。そこで、中華街で昼メシを食べ、グラバー邸やオランダ坂に行ったのは覚えている。浦上天主堂とか平和記念公園には行っていないし、出島跡にも行った記憶はない。何をやっていたんだろう??
久しぶりの長崎散歩で記憶がフラッシュバックしてくれるといいな、と思っている。さてどうなるか。
10:30
ばばろあの車は、まず今晩の宿の提携駐車場に向かった。いったん車を停め、そこからいろいろ歩いて見て回ろう、という段取りだ。本日のメインイベント、「軍艦島上陸ツアー」は14時から3時間で、それまで3時間ちょっとの時間がある。
駐車場の前には、情報密度がやたらと多い通りがあった。電柱と電線が多いのに加え、飲み屋を中心としたお店の看板が連なっているからだ。
このあたり、夜歩くと風情がありそうだ。
東京にはこういう風景、減った気がする。東京の繁華街だと、雑居ビルとして天高くそびえてしまうからだ。このように「3階建て程度の建物が連なる飲み屋エリア」って、案外少ないのではないか。思わずものめずらしくてきょろきょろしてしまった。
「おい蛋白質、これも教会か?」
「ちゃうわ!『スナック』って書いてあろうが」
「そうなのか。でもこういう名前がつくのは長崎ならでは、なのかな?」
「さすがにそれはないと思うけどねぇ・・・」
ちなみにマリア様信仰があるのはキリスト教の中でもカソリックの特徴だ。プロテスタントにはその考えはない。あくまでもキリストだけを信仰するという考え方らしい。
「おかしいじゃないか、三位一体説で父と子と精霊は一体である、というのはともかくとして、マリア様を信仰する根拠はなんだ?神様なのか、あの人も」
「いや、マリア様はこちらの言葉を神に『取次ぎ』してくれる、とされているんだよ」
「ええ?取次ぎ?なんだそれは、口利きみたいなものか」
たとえが下品だな、と自分でも思うが、「取次ぎ」という概念は予想外だった。どうやら、自分の祈りをマリア様が一緒になって祈ってくれる、みたいな意味合いもあるようだ。
だから、日本の仏教のように、大日如来とか薬師如来とか、いろいろな仏様がいて、それぞれ信仰対象となるというのとは違うっぽい。マリア様は畏敬の対象ではあるけど、信仰の対象というわけではない、という理解でよいのだろうか。
「このお店の中に入ると、生きたマリア様が出迎えてくれるんだろうな」
とかいろいろ思いついたことがあったけど、口にはしなかった。信仰と絡む話なので、あんまり茶化していい話題ではない。
この日の宿泊先、「ホテルマリンワールド」。
名前からして、海沿いにあってヨットハーバー併設、というリゾートホテルを想像していた。しかし、場所は内陸だし、リゾートホテルとも違う。
出島跡からさほど遠くない場所にあるので、昔はここも海だった・・・その頃からある宿に違いない・・・とか妄想たくましくしたけど、別にどうでもいいか。
ホテルは丘の中腹にあり、駐車場があるところからはエレベーターでいったん5階まで上がる必要がある。5階がフロントで、そこから上がホテルだ。
天窓、ギリシア建築風の柱といった装飾が施された廊下を歩く。景気が良かった昭和時代に建てられたのかな?と思っていたが、開業したのは2012年だという。えっ?まだ5年しか経っていないの?
それにしてはずいぶん味わい深いんだけど、昭和回顧趣味だろうか?
10:37
確かに、フロントに行ってみると壁やらカウンターが新しい。年季が入っくすんだ感じのホテルとはぜんぜん違う。新しい、というのは本当らしい。
その割には、なんだろうこの貫禄は?
・・・調べてみた。僕、我慢するのが苦手なので。調べちゃった。
この建物、昔は「マリンワールドビル」という雑居ビルで、なんと100店舗以上もの飲食店が入居していたんだそうだ。マジか!この巨大ビルが雑居ビルだったの?そりゃあすげえ。外観では、最初っからホテル用に作られたとしか思えないのに。
で、テナントが減っていき、空部屋が目立ってきたので、中華系資本が建物を買い取ってホテルにリニューアルしたんだそうだ。へー、びっくりだ。それでホテルの開業が2012年、ということなんだな。なので建物自体はもっと古い。
それにしても、長崎って景気がすげー良かったんだろうな。100店舗以上入居できる巨大雑居ビルが丘の上におっ建ってしまうくらいなんだから。三菱重工の造船マンなんかが夜な夜な飲み歩いていたのだろうか?
10:47
荷物をフロントで預かってもらい、身軽になった我々は町歩きを開始した。
歩き始めてまもなく、病院が見えてきた。何の変哲もない病院なのだけど、なんだかちょっと違和感を感じる。気のせいだろうか。
蛋白質が、
「これ。ほら、『十』の字がちょっとヘンだと思わん?」
と言う。言われてみれば確かにそうだ、なんだかバランスが悪い。横棒の位置が上にずり上がっている感じ。
「あ!そうか、これって十字架なのかな」
「ここの病院、キリスト教系なのかもしれんねえ」
なるほど、面白いな。
10:48
「やや!ここにも十字架が!これもキリスト教系か?」
「違う違う、十八銀行っていったら明治時代からある銀行だぞ。さすがにこれはキリスト教ではないぞ」
「紛らわしいな」
「どこも紛らわしくないだろ」
「グンニーモ?」
「んぶんぶ」
折角だから、「営業中」と縦書きされた札も、「中業営」としてほしかった。
「自動車の車体に、逆向きで会社名を書くってのは今でも時々みかけるけど、喫茶店でこれって意味があるのか?」
「レトロ感があるんだろ」
「んぶんぶ、が?」
「グンニーモ、いいじゃないか」
10:52
「蛋白質、これは教会か?」
歩いている途中で見つけた、重厚な建物。
「いや・・・さすがにこれは違うと思う。教会らしさがない」
「じゃあなんだろう?こんな大げさな建物、教会くらいしか思いつかないんだが」
遠巻きに眺めていたら、蛋白質が「あっ!」と叫んだ。
「あのシャッターの上に赤いランプがある!これ、消防署だ」
「えええ?これが消防署?なんでこんなに大げさなんだ」
あとで知ったが、正確にいうとここは新地用水ポンプ場、という場所だった。
さすがに長崎とはいえども、ちょっと歩いただけで教会に行き着く、というほどではない。
10:58
オランダ坂にやってきた。
石畳の風情がある、長崎を代表する観光地のひとつ。急な坂だけど、歩くのに難儀するというほどではない。
「高校時代ここを歩いたはずなんじゃけど、全く覚えとらんねえ」
うん、確かにオランダ坂を訪れたのは全員共通の認識なんだけど、たぶんいろいろな観光地巡りの途中の「通過点」扱いで、大して思いいれもなかったのだろう。
確かに、「風情」なんて言葉を臆面なく言えるようになったのって、30歳を過ぎてからだと思う。10代の洟垂れ小僧の分際で、この坂のよさは理解できなくて当然だ。「単なる坂」にしか思っていなかったと思う、当時は。
オランダ坂を上ったところに、洋館が建っていた。「東山手十二番館」というらしい。「ほほう」と唸りながら遠巻きに眺めていたが、入場無料ということだったので中に入ってみることにした。
これから3泊4日の長丁場だ。初日午前の今から、あちこちの観光地で入場料・入館料を払っていたら、いくらお金があっても足りない。最初はどうしても慎重になる。
11:00
十二番館からオランダ坂の先を見たところ。
正面左の丘にある白い建物に、聖火台のようなものが見える。避雷針にしては変な形だ。
「なんだかあの塔、途中で折れているように見えるな」
「白いし、観音様かな?ナントカ大観音って名前の像が日本のあちこちにあるよな」
「ああ!マリア様だ!あれはマリア像だ」
蛋白質がぽんと手を打つ。えっ、あんなところにマリア様?
確かによーく見ると、それがうつむき加減のマリア様だということがわかった。いや、でもまだ観音様という可能性も捨てきれないぞ。
その疑問に白黒はっきりつけたのが、この建物が「海星学園」という学校であったということ。蛋白質はそれを知りにっこりと微笑み、「ほらみてみぃ」と言う。
「海星、ってマリア様のことなんよ」
えええ?そうなの?どういうことだ。
「航海中における海の星のように、我々を導いて下さるマリア様、という意味でね」
ということはあの学校は女子高なのだろうか、と思ったが、男女共学だった。あれっ、そういうものか。でも、運営母体は「マリア会」で、まさに学校の名前どおりだった。
11:03
長崎はアップダウンが激しい町だ。山が迫っていて平野部が狭く、しかも発達した尾根が長く伸びている。お陰で道路が複雑に入り組み、町がややこしいことになっている。
地図をみただけでは直感的によくわからない。だからこそ、町歩き好きにはたまらないエリアだと思う。歩けば歩くほど、いろいろな発見があるだろう。
今いる東山手十二番館やこれから訪れるグラバー邸といった洋館は、見晴らしの良い丘の上にある。
「武器を売って儲けた人たちはこうやって人々を見下ろしていたんだよ」
と言いながらここからの景色を眺めていたら、自分も悪人になった気になる。
一方蛋白質はというと、現在地が把握出来ず四苦八苦していた。手元のスマホで地図を表示させ、「ええと、南があっち・・・」
ばばろあが即座に「ちゃう。こっち」と違う方向を指さす。蛋白質は、「ええと、あれがコレだから」と言いながら、スマホをぐるぐると回し始めた。
「えっ、蛋白質って地図を読むとき、地図を回す人だったの?」
「そう。最近特にわかりにくくなってきて」
「まだボケる歳じゃあるまいに。東西南北の絶対感覚がないのか」
「それがないんよ~」
と苦笑しながら、スマホの向きを変えながら確認していた。結構大変そうだ。端から見ていて「スマート」、ではない。
この後我々はグラバー邸を目指し、その後山を下って大浦天主堂に行く段取りになっていた。見晴らしの良いこの地から、場所を目視確認しておく。
「案外距離あるな?どうしたもんかな」
この後の時間が気になるばばろあが、やきもきする。
「大浦天主堂、行ってる暇がないかもしれんで?ここからグラバー邸までここを下って谷に下りて、そこから向こうの山の上までいかにゃならんのよ」
確かに遠い気がするけど、ここからタクるわけにもいかない。
「まあいいか、最悪大浦天主堂からタクシー捕まえれば軍艦島ツアーの乗り場にはすぐ行けるだろ」
ばばろあは頭の中で素早くシミュレーションをする。一方の蛋白質は、相変わらず場所の特定に苦戦中。
「おい蛋白質見えるか正面の建物が。どうもトンガリ屋根が2つ見えるんだが、あのどっちかが大浦天主堂だと思うんだよ」
「どれが?」
「ほら、正面に」
「えーと」
「いや、スマホ見るんじゃなくて、まず目の前の光景をだな」
ばばろあが蛋白質を熱血指導中。
「それにしても不思議だな、なんでトンガリ屋根が二つもあるんだ?」
しかも、そのうち一つは、なにやら巨大な入母屋造りの和風建築にくっついているように見える。なんだあれ。和洋折衷か。
そこでようやく蛋白質のスマホが役に立ったのだが、どうやら正面に見えるトンガリが大浦天主堂で、その手前にたまたまお寺があるのだった。重なって見えるだけで、場所はちょっと離れていた。さすがに「一階はお寺、二階は教会」なんて建物は長崎とはいえ存在しないだろう。
そしてもう一つのトンガリは、大浦天主堂すぐ近くにある「大浦教会」なんだという。え?教会って隣接するような場所にあるものなのか?宗派が違うのだろうか。
11:14
なにやらオランダ坂は若い女性の往来が多い。インスタ映えするので撮影に来た観光客です、というわけではなさそうだ。見ると、オランダ坂の脇に女子大学があった。そこの学生さんたちだった。
「活水女子大学」という名前で、なんだか不思議なネーミングだ。それもそのはず、「活水」とはヨハネによる福音書4章10節にある
イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
を由来としているからだ。へええ、ここにもキリスト教。長崎にいると、本当にいたるところがキリスト教だ。キリスト教のテーマパークのようだ。
洋館を見ながら、先に進んでいく。このあたりは洋館が多い。
11:33
オランダ坂をそのまま進み、いったん谷に下りる。
途中、「東山手洋風住居群」という場所があり、洋館がまるで一戸建て分譲団地のように並んでいるのを見学したりした。住居群から坂の下を見下ろすと、そこには明るい色をした屋根の孔子廟。もう、何がなんだかごちゃ混ぜだ。さらにはキリスト教文化があちこちに息づいているわけで、とても面白い。
谷を下りたところには、路面電車の電停があった。石橋、という名前らしい。ちょうどここが終点になっていて、線路がぶっつりと途切れていた。
「線路の終点って、ロマンだよな」
心底そう思うのだが、この考えに賛同してくれる人ってどれだけいるだろうか?
さっき、JR長崎駅でまさに線路の突き当たりを見たばっかりなので、今日はなんだかロマンが満ちあふれている。ロマンポルノだ。いや、全然違うけど。どさくさに紛れて何を言い出すんだキミは。
11:35
グラバー邸がある山にはここから取り付くことになるのだけど、遠方からも目立つ怪しいアーチ状の建物が見えていた。どうやらここにはエスカレーターか何かが備わっていて、階段をヒイヒイ言わなくてもスイーっと上に行けてしまうらしい。すげー。
その途中ループ橋のようなものがあるが、あれは歩道らしい。車いすの人向けに、バリアフリーで上まで登れます・・・というわけではなさそうで、おそらく展望台的な意味合いの方が強いんだと思う。推測だけど。
おう、「グラーバースカイロード」という名前なんだな、ここ。
グラバー園までこれでぐいーっと行ける。あれ?斜行エレベーターなの?これ。それは随分お金をかけたものだ。
「一体いくらかかるんだろう」
と思いながらエレベーターホールまで行ってみたが、料金所は存在しなかった。なんと、無料らしい。
「すげえな、無料かよ」
「無料にでもせにゃ、観光客は山の上まで登ってこないんじゃろ」
「そうか、で、エレベーターで客を引き上げてから、グラバー邸のところで入場料をいただいてペイ、という仕組みか」
エレベーターは1基しかない。なので、既に出払っている場合、戻ってくるまでに随分と時間がかかる。これ、観光客が多い時期なんて長蛇の列ができるんじゃあるまいか?「混んでいるから、歩いて階段を登ろう」と気持ちには今更なれない距離と斜度なので、ひたすら待ち続けるしかない。
さすが斜行エレベーター。矢印表示が「上」と「下」ではなく、「左斜め上」と「右斜め下」だった。
「この山は5階建てなんだな」
「まさか途中で下りられるわけないよな?」
「途中で下りてどうすんだよ」
しばらく待って、ようやくエレベーターに乗車。エレベーターはさほど大きくないので、こりゃあ混むときは混むぞ。GWみたいな時は。って、あれ?今ちょうどGWか。その割にはさほど混んではいない。平日だからだろうか。
エレベーターには円い窓がついていて、そこから潜水艦に搭乗している気分になりながら外を眺めることができる。
外では、階段で頑張ってはみたものの、途中で力尽きて苦笑いをしている人を何人か見かけた。頑張れ、頑張れ。僕らはお先に失礼しますけれど。
11:42
グラバースカイロードを上りきったところ。
やあ、一気に開放感ある景色になった。
というかなんだこりゃ。まるで平野がごとく、山の斜面であるべきところに建物がびっしり植わっているぞ。
「長崎は坂の町」とは聞いていたけど、確かにこりゃあ・・・凄すぎる。
ここまでミッチミチに家が詰まっているということは、コイツァものすごい人口が住んでいるに違いない。軍艦島どころの騒ぎじゃない人口密度に違いない。
・・・えっ?長崎市の人口、42万人?あれ、思ったより少なかった。ここまで斜面を切り開くフロンティアスピリットがあるくらいだから、よっぽど土地が足りないのだろうけど。恐らく、単に「平野がほとんどないから、斜面に住まざるをえない」というだけなんだろう。
11:45
大浦天主堂が眼下に見える。まってろ、あとで行くぞ。
「こりゃあもうタクシーで軍艦島ツアーのところに行くしかないな、昼飯は手続きを終えてからだ。場合によっちゃあ、昼飯抜きじゃね」
ばばろあが時計を気にする。あれっ、気がついたらもう正午近い。13時20分までに受付をしておく必要があるので、あと1時間半くらいだ。確かにこれからおちおちメシを食べてる場合じゃ、なさそうだ。
11:46
グラバー園入口。グラバー邸を始めとし、いろいろな洋館があるこの丘広範囲を「グラバー園」とし、公園として整備していた。・・・有料で。
ああそりゃそうだよね有料だよねと。
グラバー園、修学旅行のときも訪れたはずだけど、どうだっけなぁ?お金を払った記憶はないので、ここの入園は学校が払ったんだと思う。自由行動で各自自腹だったら、多分訪れていないと思う。
だって、現に40歳を過ぎた「遅すぎた青年」たちが、
「うお、有料だぞ、どうする?」
なんて顔を見合わせているくらいで。
一方ばばろあはというと、カネを払って当たり前だろ、とばかりにぐいぐいと中へと入っていった。かっけー。僕も入園料610円にビビらない大人に早くなりたいです。
お金を払って中に入る。
「素晴らしいな、鯉が泳ぐ池があるよ」
お金を払った以上、最大限楽しまないといけない。なので、どうでもいい「鯉」に驚いたり褒めたりしてみる。こういう意地は、本当に人生の中で本当にエネルギーを使う。やめとけ。
山の斜面にぽつぽつと建物が点在するグラバー園だが、その最上部にあるのが「旧三菱第2ドックハウス」だった。
「見ろ!グラバーよりも、最後は三菱の方が偉かった、というわけか!」
と思ったが、この建物はその名前のとおり三菱造船のドック脇にあった船員宿舎を、ここに移築したものだった。元からあったわけじゃない。
久しぶりに3人揃っての写真。
赤の他人からしたら、「いい歳こいたオッサンの写真」に過ぎないだろうが、僕らからしたら30年来の親友。オッサン化していくのも、お互い平等な「進化」であると思いつつ、その進化論を記録として留めておく。
11:59
グラバー園の中に、「祈りの泉」という場所があった。
山の斜面を石組みで整地し細工を施し、水が壁面を伝わるようにしてある。
「どうだ蛋白質、祈りを見事に表現していると思わないか?」
「うーん、どこがだろう?」
蛋白質が唸り声を上げながら、解説と泉とを見比べている。
「隠れキリシタンの苦悩と救いがテーマだぞ。まさに今回の旅で蛋白質が学びたかったことズバリじゃないか」
「いや、そうかもしれないけど、さすがにこれでは」
「祭壇下部の荒々しい陶板は地下に隠れた信者の厳しさを象徴します、って書いてあるよ」
「そんなの、作者がそう思ったならそうなのかとしか・・・」
「まざまざと見ちゃダメだ、感じるんだ」
さすがに信者である蛋白質であっても、「なるほど!それはごもっともだ!すげえ!ジーザス!」みたいに手を叩くことはなかった。まあ、そりゃそうか。彼は「敬虔」ではあるけれど、「盲信」しているわけではないので。
12:01
旧リンガー邸。
このグラバー園には、グラバー邸のほかにリンガー邸、ウォーカー邸、オルト邸といった外国人さんたちの洋館がある。
「このあたりは西洋人に人気の高級住宅地だったのかな?」と思ったが、単にグラバー園を整備するにあたって移築してきたということだった。
リンガー、というからには、長崎ちゃんぽんでおなじみの「リンガーハット」と関係があるのだろうか?リンガーさんの帽子、という意味に違いない!
・・・まじか?今適当に言っただろ、お前。正直に言え。
はい。適当でした。
でも半分は当たっていたのでびっくり。リンガーハット社のオフィシャルサイトで確認したら、長崎を代表する大商人であるリンガーさんの名前にあやかったんだという。でも待ってくれよ、リンガーさんの肖像写真を見ると、全部つるっパゲ丸出しなんですが。帽子、かぶってないんですが。
これが大いなる誤解で、「ハット」というのは「小さな家」という意味なんだそうで、「リンガーさんの小さな家」が「リンガーハット」の由来だという。へー。
あれ?ということは、宅配ピザチェーンの「ピザハット」というのは、ピザの小さな家ってことだろうか?いや、あれは違うな、ロゴマークに帽子の絵が描いてあったはずだ。じゃあ、江戸幕府が制定した「ブケショハット」は?・・・違う違う、それは「武家諸法度」だ。
12:04
入園した時にもらった、「これでキミもグラバーさんになれる紙」を顔につけ、記念撮影。最近はいろいろ考えているものだねえ。こういう「SNS映えするもの」を入場券と一緒に渡すあたり、時代の流れに沿っている。
12:06
旧オルト住宅。お茶の輸出で財を成したイギリス人、オルトさんの家。
この界隈に移築している家は、開国とともに来日して成功した人のものなのでいちいち立派で、デカい。感覚が麻痺してしまう。
入口のところに青いTシャツのばばろあが立っているが、それと比べてこのひさしの位置の高いことよ。
当時の日本で「豪商の家」といっても、天井の位置がここまで高いというのはあまり見たことがない。当時の日本じゃ、お寺くらいじゃないか?こんなに高いひさしは。
なんて無駄な作りなんだこの家は!?と当時の人はビックリしたにちがいない。
12:10
おっと、今度は21世紀の僕らがビックリする番だ。「西洋料理発祥の地」という看板が出ているぞ。
「あれ?西洋料理発祥の地って・・・山猫軒じゃなかったっけ?」
随分記憶が混同している。「山猫軒」というのは、宮沢賢治「注文の多い料理店」に出てくるお店の名前だ。あれも確かに洋食屋だけど。
日本人初の西洋料理コック、草野丈吉のレストラン「自由亭」を移築したものだそうだ。今は2階が喫茶店になっている。
当時の西洋料理ってどうなっていたんだろう。調味料もなけりゃ、肉もなかなか手に入らない。だいたい、胡椒で肉を味付けました、っていうだけでも調味料慣れしていない日本人は「うわっ、なんだこれは!スパイシー!」と叫んだかもしれない。いや、さすがに「スパイシー!」とは言わないとは思うけど。
「隠し味に味噌を使っています」くらいの裏技はやっていそうな気がするけど、どうなんだろう?むしろその最初期だからこそ、愚直なまでにオリジナルな西洋料理を出していたかもしれないし、よくわからない。
どんどん階段を下っていく。
最初に一番高いところからスタートしているので、下りていく一方で楽だ。これ、逆方向からやってくる人は大変だ。お年寄りには酷な観光地といえる。金比羅さんに詣でるようなものだ。
と思ったら、ちゃんと動く歩道が別の場所に完備されていた。そりゃそうなるよな。
12:11
これが旧グラバー住宅。
ベタベタな観光地なので、建物そのもののうんちくは割愛。
アワレみ隊メンバー同士の性格や立ち位置がよくわかる構図の写真。
ばばろあはこういうとき、常にぐいぐい前へ進んでいく。後ろを振り向かないし、躊躇はしない。蛋白質はその後に続く。そして最後に僕は全員の顔色をうかがいつつ、カメラを手に最後尾を勤めている。
旧グラバー住宅の中に、「150年前の西洋料理」という紹介があった。先ほどの山猫亭・・・じゃなかった、自由亭で扱っていたような食べ物がこれ、というわけだ。
「なんか茶色いな」
「ああ、全体的に茶色い」
「豪華!・・・と一瞬思ったけど、どうなのこれ」
三人揃って、人様の料理に難癖を付ける。すいません、そんなことをやっちゃあいけないんでしょうけど。
「お皿が素っ気ない、というのが当時の限界なんだろうな」
「一人一つずつ、吸い物椀みたいなのがあるんだな。和風の器だけど、下が洋風でチャンポンになってる」
「で、あのフタをとると中から茶碗蒸しが出てくるのだろうか?」
いちいち興味津々だ。
茶色い料理その1。
「タルトみたいなのがあるけど、色が悪いな。これはリアルにこんな料理だったのか、それとも食品サンプルが劣化してこういう色になってしまったのか」
解説を見ると、「かぼちゃやにんじんを使ったタルト」なんだそうだ。なるほど、カボチャではこういう色になるだろう。当時の、苦心して料理を作っていた様がまざまざと想像できる。
その奥には「ラーグー」、多分今で言うところの「ラグー(煮込み料理)」がある。鳥、椎茸、葱を煮込んだものだそうだ。西洋料理で「椎茸」って食べるんだっけ?東洋独特のキノコだと思っていたけど。これも、食材がないから「ジャパニーズポルチーニ茸」とかなんとか思い込んで、なんとか作ったに違いない。涙ぐましい。
「こんな料理って、日頃から食べてたのかな」
「さすがに毎日は無理だろ」
「だよなあ、そもそもご飯もパンもないぞ、このテーブルには」
ばばろあとひそひそ話をする。
こういう料理を食べながら、ワインをぐいぐい飲んで過ごしていたのだろうか。体を悪くしてしまいそうだ。もっと野菜を食べなさい、と思うけど、どうなんだろう?大根とかサツマイモを食べたいと当時の西洋人は思っただろうか?
グラバー住宅の玄関から、長崎湾を眺める。いい景色だ。
12:24
展望台には、双眼鏡が設置されていた。それを見た蛋白質、
「おお!双眼鏡があるぞ!折角だからね、旅のお約束だからね、これはやっておかんと」
ととても喜んでいる。
「100円玉、入れるところがあるはずなんだよね。あれ・・・?あ、あったあったこれだ」
100円玉投入口を発見して蛋白質はむしろ「我が意を得たり」と目を輝かしている。そして財布をまさぐり、100円玉を探し出した。
「え、100円入れるの?」
「お約束はやっておかんと」
ばばろあと僕は顔を見合わせる。「100円取るのか!相変わらず観光地はいい商売やってるよなあ」と苦笑しながらスルーするのがこの展望台双眼鏡のお約束だと思っていたのだけど、むしろ「100円払うというお約束」を喜んでいる人が身近にいたとは。
「どうだ、見えるか?」
「うお、何か目の前に邪魔する物が!」
「おっさんおっさん、やめとけ。わずかな時間しかないんじゃけえ、邪魔したら可哀想じゃろうが」
僕が双眼鏡の前に立ちふさがるという「お約束」をやって、ばばろあからたしなめられた。
グラバー園の展望台正面には、三菱重工の造船所があり、護衛艦が二艘停泊していた。
一方の蛋白質はというと、たまたま僕が遠い山の上に仏舎利塔らしきものを見つけたので、その捜索に気を取られていた。
「蛋白質、あの山の上に白いものが見えるんだよ」
「どれ?・・・よくわからん。ええと、もっとこっち?」
「そっち。あんなところに白い人工物があるといえば、仏舎利塔なのかなあ?と思うんだけど、確認できるか?」
「どれだろう・・・」
しばらく探す蛋白質。
「ああ、あったあった。あれはなんだ、仏様がいるぞ?」
「えっ、仏舎利塔に?」
「いるぞ、塔の中にいるのが見える」
とかなんとかやりとりしているうちに、時間がきてしまい双眼鏡停止。
「ああー!」
結局彼は、100円を払ってひたすら仏舎利塔を眺めていたということになってしまった。
グラバー園内
グラバー園内
石を組んだだけのアーチがあって、思わず一同感嘆の声を上げた。石の重みだけでバランスがとれていて、これが接着剤のようなもので固定されているわけではない。長崎の観光名所のひとつ、眼鏡橋と同じつくりだ。近くでみるとすごいものだな。
12:30
グラバー園の出口にあったお土産物屋。
軍艦島Tシャツが売られていた。誰が着るんだよ、これ。そして誰が買うんだよ。「軍艦島!!」なんて書かれているぞ。あと、軍艦島キャップとか、誰が買うんだよ。謎過ぎて、何度も疑問型で文章を書くぞ。ホント。
ただし、右側のTシャツはちょっと欲しくなってしまったのは内緒だ。東海林さだお風の絵で、ちょっと味わいがある。ただし、これを見て「ああ、軍艦島をおもしろおかしく表現したんだね」と気づく人がどれだけいるだろうか?
「変な軍艦巻きだなあ」と思われて終わりな気がする。
グラバー園を出ると、そこは観光客向けのお土産物屋さんが並ぶ通りになっていた。びいどろがたくさん売られていて、ぺこんぺこんと音を立てている。
ここでフラッシュバックした。ああ!そうだ、長崎土産としてびいどろを買って自宅に持ち帰ったぞ!と。
最初は嬉しくて、ついついペコポコ鳴らしていたんだけど、当たり前だけどすぐに飽きた。そんな懐かしい思い出。
ちなみにセットで思い出したのが、雲仙で買ったお土産が「かにみそ」だった。荒波と大きなカニが描かれたパッケージで、大ぶりな容器だったことを覚えている。高校2年生のころなんて、酒のお供になる珍味、「かにみそ」は食べたことがないし見たこともない。しかし、一匹しかわずかしか取れない稀少品であるということは知っていた。
「稀少品のかにみそが、こんなに大きな容器で!しかも安い!」と興奮して買ったっけ。しかし家で開封してみたら、「たっぷりのお味噌と、カニをほぐした身が少々混ざったもの」だったので仰天した。そりゃあ安いわけだ。「カニの味噌」ではなく、「カニ&味噌」だったというわけだ。大人って怖いな、と青年おかでんは思った。
さらについで話をすると、同じく雲仙で買った土産が「湯の花」だったんだけど、見事にこの湯の花で家の浴槽が傷んでしまい、大変気まずい思いをした。温泉成分が強すぎたらしい。雲仙には嫌われているらしい、僕。
12:34
グラバー園を下ったところに、大浦天主堂がそびえていた。
修学旅行の時にグラバー園に行ったのだから、当然ここにも立ち寄ったのだろう。しかし、「立ち寄った」という記憶すら全く残っていない。そうなると、修学旅行って本当に「修学」の意味があったのだろうか?と考えてしまう。同級生との思い出作りにはなったかもしれないけど、肝心のその「思い出」さえ曖昧だし。
つくづく思うのは、こういう旅の記憶ってのはちゃんと記録として残しておくべきだなと。最近はデジタルデータで保存するのは簡単なんだし。
よく、「観光地で写真ばっかり撮っているヤツは馬鹿だ。写真を撮るのに夢中で、それしか目的がない。心にしっかりと刻めばそれでいい」と偉そうに語るヤツがいるけど、僕はそれには反対の立場だ。もちろん言いたい事の本質は全く「その通り!」と思う。でも悲しいかな、人間の記憶ってすごく弱いのよね。すぐに忘れてしまう。しかし、写真があれば記憶を呼び覚ますきっかけになる。
写真を撮ることが目的化してしまうのは良くないと思うけど、記憶の補助として写真を撮るというのは、むしろ賛成だ。僕がこのサイトをやっているのは、まさにそういう「記憶の補助」としての写真を一般公開しているに過ぎない。(なので、決めッ決めの、カッコいい写真というのは全くない。ぱっとカメラを出し、1秒で撮影、1秒でカメラを片付けるという撮り方をしているからだ)
それはともかく、「うおっ」と思わず声を上げてしまったのは、この施設には拝観料がかかるという事実を知ったからだ。しかも、600円。うまいとこ、つくなあ。1,000円だったら諦めるし、300円だったら無条件で払う。でも、600円というのは、「払うか、払うまいか」と悩んだ末ギリギリ払っちゃう値段だ。そういえばさっきのグラバー園もこの値段だったな。
「どうする?入る?」
お互い顔を見合わせる。建物が立派だし、外から眺めるだけでも十分満足度が高い建物だ。中に入っても、所詮は教会なので何十分も滞在できるような場所ではない。
「まあ、折角だからねえ・・・」
結局、「折角だから」という観光地における殺し文句が口から発せられ、中に入ることになった。ホント、観光地っていうのは、この「折角だから」という言葉に感謝しなくてはいけない。
大浦天主堂を下から見上げたところ。金色に「天主堂」とい文字が光る。
「天主、というのはイエス・キリストのこと、でいいのか?」
蛋白質に、念のために聞いておく。
ラテン語の「ゼウス」が日本語で訛って、「天主」になった、というのが正解らしい。つまり、キリスト教における「神」だ。
ええとややこしいな、キリストは神なんだっけどうだっけ。「三位一体」だから、父と子と精霊は一緒?だとすると天主=神=キリスト、ってことか?
やめだやめだ、このあたりは下手な解釈をここで書いても嘘になりそうだ。
「ゼウス」と聞くと、ビックリマンチョコのキャラクター「スーパーゼウス」を条件反射で思い出してしまう。あの素っ頓狂な顔を思い浮かべると、なんだか微笑ましくって敬虔な気持ちにはなれなくなってしまう。
マリア様がお出迎え。そういえば、「白いマリア様」以外を見たことがない。処女懐胎でイエスを産んだ、清廉の象徴ということで「白」を用いているのだろうか?このあたり、蛋白質に聞いておけば良かった。きっと意味があるのだろう。
その点、日本仏教における路傍のお地蔵さんって「灰色」だよな。日々信仰すること自体が大事なのであって、外見の色には拘らなかったのだろう。お地蔵さん一体を立派にすることよりも、ずらっと並べて「数で勝負」っていう節が日本人にはある。
大浦天主堂は、幕末にフランス人宣教師が長崎に駐留するフランス人向けに作った教会だったが、浦上の隠れキリシタン15名がこっそりやってきて、信仰を告白したということで「信徒発見」の地として知られる。日本では禁教令があってキリシタンはもういない、とされていたのに、実は長崎には多くの隠れキリシタンが存在していた!という事実はバチカンまで届き、時の教皇をも喜ばせたという。
「めでたし、めでたし」で話が終わるのかとおもったが、後日談を調べて見るとそうでもなかった。時はまだ禁教令が解除されておらず、このあと浦上の信者たちは弾圧を受け、拷問を受けたという。その数、3,000人以上だというから一体どれだけ「隠れ」てたんだと驚かされる。それだけ信仰というのは深く人間の心に根ざす、ということだ。
天主堂内の写真撮影は禁止。これは国宝の建物だから、というだけでなく、どこの教会も同じ。
かたわらに、マリア像がある。「信徒発見」の際、浦上の隠れキリシタン15名は神父に対し「私の胸、あなたと同じ」と信仰を告白したのち、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたという。戦時中に被爆しているため傷んではいるけど、その時のマリア像が現存している。
キリスト像を祈らせて欲しいと願ったのではなく、マリア像を望んだというのが興味深い。長年潜伏している間に、信仰の対象がマリア様にシフトしていったのだろうか?神父のような信徒を導く人がいないし、発覚を恐れて聖書の類はほとんどなかっただろう。そもそも識字率が低い当時だと、聖書があったとしても読めない人の方が多い。口伝で江戸時代を乗り切ったのだから、随分オリジナリティのあるキリスト教になっていたのではないかと想像するが、どうなのだろうか。このあたりの話は、当然ながら大浦天主堂のパンフレットには載っていない。
12:42
大浦天主堂を出て、微妙な顔をする僕の顔にすぐ蛋白質が気がついた。
「おかでんも気がついたか。聖体がここにはなかったな」
そう、大浦天主堂には聖体のありかを示す赤いランプが、祭壇には見当たらなかったからだ。
「たぶんここではミサをやっていないと思う。だからすぐ隣にもう一つ、教会があるんじゃないかな」
カソリックにおいてミサを執り行う上では、聖体(てっとり早く言うと、パン)が必須となる。参列した信者に神父が与える,という儀式があるからだ。その聖体を置く場所には、聖体ランプと呼ばれる明かりが24時間灯っていて、ミサが行われていない時に訪れた信者は、このランプに向けて祈りを捧げることになる。
今回の旅で訪れた教会のどこだったか、「信者でない人がミサ中に聖体を受領しないでください」といった注意書きが書いてあった。聖体を頂けるのは、信者に限定される。僕自身何度となくミサに参列したことはあるが、もちろん一度たりとも「聖体」を食べたことはない。間近で見たことさえない。遠くから見る限り、せんべいのような姿形をしていて、いわゆる普通のパンとは違うようだ。
「あのパンは一般でも買うことができるんだよ」
「えっ、そうなの?ご自宅でも聖体を食べることができるのか!」
買わないけど、気になるといえば気になる。
「いや、買えるのは単なるパンだ」
「??」
「聖変化させて、初めて『聖体』になるの。それまではただのパン」
何を言っているのかよくわからなかったのだが、つまり、『聖変化』なるプロセスを経て、「ただのパン」はイエス・キリストの体と同一になるということらしい。キリスト教信者において、この「聖変化」したパンは既にパンではなく、主の肉体そのもの、ということになる。「主の体という概念」というなまっちょろい話ではない。「そのもの」だ。
なるほど、そりゃそうだ、キリスト教の信者さんだって普段からパンを食べる。それは「単なるパン」だ。聖体というのは、全く違うものだということだ。
こうなると、ミサが執り行われる教会にも行ってみたくなった。大浦天主堂のすぐ向かいにある教会にも行ってみた。こちらは「カソリック大浦教会」という。
「一階に土産物屋がテナントで入ってるぞ?」
観光地らしい俗っぽさもある。
「ああ、ほら、これこれ!」
蛋白質がにっこり微笑んで振り返る。彼が指さす先には、教会の掲示版があった。ミサのお知らせなどが貼ってあった。
「教会といえばこれなんだよ。必ずこういうのが入口のところにある」
それにしても、人の気配がない。こちらは観光地ではないからだ。れっきとした、信者のための施設。入って大丈夫だろうか。
「大丈夫、教会は原則いつでもオープンだから」
信者である蛋白質がいるから心強い。はっきりいって僕とばばろあは「観光」だけど、蛋白質はれっきとした「信仰」だからだ。
珍しく彼が率先して中に入っていき、居合わせた教会の方に確認をとっていた。オッケー、とのことで中に入らせてもらう。
広いお堂の中で、静かな時間を過ごす。蛋白質は最前列までいき、黙想をしていた。
教会を出てきて、蛋白質が晴れやかな顔をしている。
「お祈りができて良かった」
そうか、それは良かった。ここ数日、夜行バスの連続で心も体も休まるときがなかっただろうから。
12:49
「それはそうと、急がんと」
ばあろあが時計をちらっと見る。軍艦島上陸ツアーの出航は14時。メシ喰って、ツアーの手続きを行って・・・という時間を考えると、もう余裕がない。
「路面電車で移動しようかと思ったけど、こりゃタクシーだな。割り勘にすれば大してかからんじゃろ。いったんツアーの手続きを済ませてから、残りの時間でメシを喰おう」
御意。では車が走る通りに出よう。
道中、ビルの向こう側へ突っ切れる、トンネルのような通路があった。その通路には「真言宗大谷派 妙行寺」と書いてある。どうやら、このビルの向こう側にお寺があるらしい。
「ああ!思い出した。さっきオランダ坂のところで見た、入母屋造りのデカい建物ってこのお寺だったんだ!」
ビルの中に参道があるって、斬新だな。
車の通りに向かう道。観光客が大浦天主堂とグラバー園に向かう際の目抜き通りということになる。
左の建物がカソリック大浦教会。カソリックの教会で、一階部分にテナントが入っているという作りのものは初めて見たので驚いた。
12:51
「おう、なんだこれは」
看板にマリア様の絵が描かれているな、と思って読んでみたら、
「フランスよりルルドの水 届いております」
と書いてあった。
ルルド、といえば難病も治るとされるわき水が出る場所だ。カソリックの巡礼地として世界的に名高い。
・・・が、その水をこうやって日本でも買えるのか。
「これってご利益、あるのか?現地に行ってこそナンボじゃないの?」
「うーん」
蛋白質はそれ以上語ろうとはしなかった。
というか、「ご利益」という言葉を使う時点で、キリスト教的ではないものの考え方だな。
12:57
車道に出たらすぐにタクシーが見つかったので、軍艦島ツアーの受付までダイレクトに運んでもらった。わずか5分。あっという間だ。
道中、運転手さんに「どうです?GWの景気は」と聞くと、「あんまりですねえ」とのこと。まあ、この手の話題を運転手さんに振ってみて、「もう、ウハウハっすよ!」と答えた例は一度もない。バブル期でもない限り、常に「微妙な景況感」というのがタクシー業界の常なのだろうか。
長崎から出る軍艦島のツアーは、4つの会社が実施している。それぞれ特徴があるので、どれが良いのか見比べてみるといい。個人ブログなどでも、4つのツアーを徹底比較しているサイトがある。ただし、世界遺産であるということもあり大変な人気だ。現実的には「空席があって、予約が取れるツアーに参加」ということになるだろう。
4つのツアーはそれぞれ発着場も集合場所も違う。間違った場所に行ってしまい、慌てることがないように気をつけないといけない。タクシーで行き先を指示した際も、正しく場所が伝わるように気をつけた。
今回利用する「軍艦島上陸クルーズ」は、1日2回のツアーを実施している。午後は14時出航なのだけど、受け付け開始は13時からだ。ツアー参加にあたっては誓約書を書かなければならないので、自宅で誓約書をプリントアウトしていない人は、13時20分までに受付を済ませるように・・・と指示を受けていた。誓約書準備済みの人は、13時40分までに受付だったと思う。
13時前に受付場所である事務所に入ろうとしたら、「受付はまだはじまっていないので、外で待っていてくれ」と指示された。しかも、壁沿いに一列に並ぶようにと言われた。細かいな、と思ったが、その理由はすぐにわかった。
まだ出航前だというのに、どんどん人がやってくる。うお、我々はたまたま早く到着しちゃっただけだけど、確信犯的に早く来る人もいるのか。
待っている間、クルーズの航路を示す地図を確認しておく。
軍艦島、というのは長崎市街からはけっこう離れている。長崎からツアー各社が就航しているのは、単に観光客の利便性を考慮しているからで、軍艦島から近いから、というわけではない。
湾の最奥にある長崎港から出港し、伊王島の横をすり抜け外海に出て、いったん軍艦島の手前にある「高島」に立ち寄る。ここも軍艦島同様、炭鉱の島だった場所で、炭鉱資料館が存在する。そこで炭鉱について学んだあと、軍艦島へ。このツアーでは実際に島に上陸することができる。そして長崎へと戻る、という3時間コースだ。
以前の軍艦島は一般人立ち入り禁止だった。しかし最近は、観光客が安全に歩ける歩道が島の一部に整備され、公認ツアー参加者に限り上陸が認められている。それでも一日あたりの上陸人数制限があるはずだ。軍艦島に上陸できる、というのはとてもラッキーなことだ。
ツアーによっては、軍艦島には上陸せず、島周辺をぐるっと回るだけ・・・というものもあるので注意が必要だ。船に乗ってから「えっ?上陸できないの!」とびっくりしないように。
13:04
受付が開始となったので、誓約書を書く。
受付の段取りが書かれた掲示。
受付終了後、我々が受け取ったもの。
「軍艦島上陸クルーズ」と書かれた、首からぶら下げるストラップ。そして軍艦島のチケット。なんだこのチケットは?
どうやら、どのツアーであっても、軍艦島に上陸するためにはこのチケットが必要となるらしい。300円となっているこのチケット代は、軍艦島の維持整備のために使われるのだろう。
というわけで、ツアー代金はクルーズ料金3,600円+端島見学施設使用料300円=3,900円、ということになる。
13:06
手続きを早々に済ませたので、昼飯を食べることにする。長崎ならではの食を!なんて贅沢にお店選びができるほど時間はない。この界隈でお店を探さないと。
「暑いねー」
ばばろあがつぶやく。なんだ藪から棒に。
「ちょうどこの真向かいに、『生ビール半額』って書かれているお店があるんよ」
「おう、そういうことか」
「既に結構歩いとるからね?」
「いいね、飲んじゃえよ」
「でも残念、さっきの誓約書に『酒を飲んだ人はダメ』って書いてあったんよ」
「ああ・・・」
でももっと残念なお知らせが。ビールはともかくメシだけでも、とお店に突撃したら、お店の営業は夜だけだと。ありゃ。別のお店を探さないと。
13:08
「あそこに立て看板が見えるぞ!あれは飲食店に違いない」
はるか遠くに、飲食店のメニューボードとしてよく使われる立て看板を発見した。遠いなあ、と思いつつも歩いて行ってみた。あんまりここで昼飯を悩んでいたら、時間が足りない。
「あれ」
「おう」
てくてく歩いて辿り着いたそのお店は、ウエディングドレスのお店だった。
「全く僕らに縁が無いお店じゃないか!」
諦めて次のお店へ。
13:09
途中見かけた、路地。海沿いから一本入った道。
びっしりと並ぶ小さな中層階ビル。そして空を覆うような電柱と電線。とても印象的な光景。
東京界隈では、こういう光景はちょっと記憶にない。
13:12
ようやく見つけた、ラーメン屋でお昼ご飯を。むしろ、ラーメンの方がさっと料理がでてきてさっと食べられて、ちょうど良かったと思う。
13:28
ラーメン屋さんなのに「日替わり定食」なるものがあったので頼んでみた。700円。
出てきたのは「生姜焼き定食」だった。お味噌汁のかわりにラーメンがまるごと一杯付いてくるというガッツリっぷり。いやー、これで700円は安いぞ?というか、なんでラーメン屋で生姜焼きがあるんだ?という嬉しい大誤算。
ラーメンは当たり前のように豚骨スープ、というのが「ああ九州に来たなあ」という気にさせられる。
13:48
食後、指定された船着き場へ向かう。
岸壁には、「軍艦島上陸クルーズ」と書かれた、黒と赤の船が停泊していた。
「あちゃあー!もう人が一杯だ!」
「嘘だろ、まだ15分近く前だぞ?」
見晴らしが良さそうなデッキ席は既に人が鈴なりだ。遠目でも、これ以上人が乗れないのは明白だった。
「折角、さっき『船のどっち側に座れば景色が良いんだろう?』って議論してたのに~」
道理で、13時の受け付け開始時点で人がわんさかいたわけだ。僕らはその後優雅にランチを喫食していたけど、他の人たちは早々に船着き場に行き、いい席を確保しようと行列していたに違いない。
「おい、わしら乗れるんか?」
デッキ席のみならず、船内の席も人また人。座れる気配が全然しねぇ。
まさかつり革につかまって立ち席、というわけではなさそうだが、バラバラに座ることになるっぽい。それは残念だ。もっと早く着いておけばよかった。
ちなみに「ブラックダイヤモンド」とは、「炭」の別名だ。これから炭鉱の島に向かうので、そういう船の名前にしたのだろう。
軍艦島のリーフレット。受付時にもらったもの。軍艦島の歴史などが簡単にまとめてある。
12:53
結局我々はほぼ最後の乗船となり、操縦席と客席の間の通路にかろうじて座る場所を確保できた。
進行方向とは逆に向いている&タラップがあるため、ご覧の通り視界は非常に悪い。
在りし日の軍艦島の写真。
端島、通称軍艦島はもともと岩礁に過ぎなかった。しかしその周辺に良質な鉱脈があるということで開発が進み、岩礁周辺を埋め立てつつ発展していった「炭鉱のための人工の島」だ。
1910年当時の写真は、その岩礁がまだしっかり見えているが、右側の1959年頃の写真では、ほとんど岩礁が見えなくなっている。これは別に岩礁が壊されたからではなく、周囲に建物が建ち並んだために隠れてしまったに過ぎない。
狭い人工島に何千人もの人が住むために、密集した高層マンションが建ち並び、その様が遠くから見ると軍艦のようだったので「軍艦島」。
14:04
船は軍艦島に向け定刻出航。
・・・しかし、景色がやっぱり見えない。
ガイドさんがあれこれ周囲の景色について解説をしているのだけど、スピーカーが我々のいる通路には設置されていないため、あまり聞こえない。かろうじて聞こえる一部の単語を頼りに、右を見たり左を見たり。
14:05
というわけで、かろうじて風景を見ている蛋白質。
ベンチ席のすぐ隣には別の方も座っている。なので、身を乗り出して景色を見ようとすると邪魔だ。なので、「見たいけど、タラップの隙間からしか見えない。身を乗り出したいけど、隣の人の邪魔になる」という状況に悶悶とし、縮こまって外を眺めている図。
14:06
船の進行方向右側に、若干不格好なクレーンが見えてきた。これはグラバー園などからもよく見えるクレーンで、「ジャイアント・カンチレバークレーン」という名前がついている。
三菱の造船所内にあり、現役で動いているものだけど、これも世界遺産。
「えっ、世界遺産?」
いったいどこに世界遺産が潜んでいるか、油断も隙もあったもんじゃない。これから行く軍艦島も世界遺産だけど、目の前にも世界遺産があったとは。
昔は、世界遺産を巡る旅というのは対象がごく少なかったから「よし、全部回ろう!」という気にもなった。しかし今じゃ、狭い日本でもいたるところに世界遺産があって、しかも一つ一つが(歴史的意義はともかく)小粒なので、さすがにありがたみが薄れてしまっている。
「どうせ新しい観光名所を作りたいっていう地元の思惑でしょ?」と薄ら笑いを浮かべて、世界遺産という言葉を眺めてしまう始末。(これはかなり偏見に満ちている、よくない物の考え方であると自分でも思う)
しかしこのジャイアント・カンチレバークレーン、見る人が見ると大変に素晴らしい遺産なのだそうだ。100年以上も前のものが現存し、しかも今でも現役で動いているというのが凄いし、この手のクレーンは今では世界を見渡してもほとんど残っていないのだそうだ。
そういえば、原爆や空襲の被害に遭ったはずなのに、まだ動いているというのはとんでもない強靱さだ。あらためて考えてみて、「戦前からの大型機械が未だに動いています」ってあんまり記憶にない。なるほど、確かにこれはすごい。こういうのを「稼働遺産」と言うらしい。納得だ。
ちなみにこのジャイアントカンチレバークレーン、「ハンマーヘッド型起重機」というカテゴリに入る機械らしい。ハンマーヘッド!言われてみれば、カナヅチに似ている。
14:07
しばらくは三菱重工長崎造船所の景色をお楽しみ下さい、状態。
こいつぁいいや、軍艦島までひたすら海を突っ走るだけじゃなく、港の町・長崎を海の上から楽しめる。まさに「クルーズ」だ。軍艦島に興味がない人でも、乗る価値はあると思う。
目の前に、巨大な冬瓜みたいなのが乗っかった船がある。LNG船だろうか?そしてその後ろには三菱のマークが目立つ建物。
14:09
軍事機密とかあったもんじゃない。護衛艦が停泊していても丸見え。
いや、「見られたぐらいでアウト」な情報って、そもそも軍事機密じゃないな。
むしろ、専守防衛の組織である自衛隊の場合、周辺国に自国の装備を見せびらかし、「攻めてくるなよ?攻めてきたらコイツで反撃しちゃうからな?絶対来るなよ?」とPRしておかないといけないのかもしれない。
それはともかく、戦時中に戦艦武蔵が建造されたドックを通過。護衛艦か駆逐艦かわからないけど、現在は灰色の船を作っている真っ最中。あそこで働いている人は、身辺調査を公安にされたり、日本国籍でないとダメとか制約があるのだろうか?
14:10
「すごい差があるな」
丘の上に巨大な、屏風のようなマンション。そして丘の中腹に民家が密集している。何か押井守の世界に出てきそうな構図。
マンションは風光明媚だとは思うけど、車が必須だと思う。ちょっと買い物に行こうと思っても、自転車ではしんどい。ちなみにこのマンション、2004年築。3LDK67平米で1,850万円。おひとついかがでしょう。
14:12
ガイドさんの喋りが若干聞き取りにくいのに加え、我々は進行方向とは逆向き、さらには視界が非常に悪いところに座っている。常にガイドさんの解説から時差があって、その景色を見ることになる。なぜなら、ガイドさんは進行方向の前方に見えてくる景色について、先回りして解説しているからだ。
ガイドさんの解説から遅れて1分ないし2分くらい経って、ちらっと隙間からそれらしき景色が見える。
「多分これだよな?さっき言ってたのって」
「じゃろうねえ」
推理ゲームと化している。
14:12
船は、「女神大橋」という橋の下をくぐっていった。
とても高さがある橋だ。無駄ともいえる橋脚の高さだけど、豪華客船でも下をくぐっていけるように、という配慮なんだそうで。
そういえば、東京でもレインボーブリッジを豪華客船が通過できないので、東京ビックサイトの先に新しく客船ターミナルを作るとかなんとかって話があったな。横浜も、ベイブリッジをくぐれない客船対策で、大ふ頭を新しく別の場所に作るとか。豪華客船対策に全国各地余念がないな。
そもそも東京のレインボーブリッジは、当時の豪華客船の代表格「クイーン・エリザベスII世号」が通過できるように高さを考慮して作ったものだ。しかし豪華客船の巨大化は留まるところをしらず、レインボーブリッジの都合なんてお構いなくデカくなっちゃった。
いずれ、船が独立国家を宣言するようなことが出てくるんじゃないか?今、既に1つの船でお客さんだけでも3,000人以上収容するものがいくつもある。ちょっとした自治体だ。
14:15
あーッ!
そんなことを考えていたら、笑っちゃうくらい巨大な豪華客船が見えて来た。
しかもこれ、三菱造船が慣れない豪華客船事業に手を出して大失敗をしてしまい、経済ニュースとしてはかなり大きく取り上げられた曰く付きの船「アイーダ・ペルラ」ではないか!!
世界的な豪華客船クルーズ企業として名高い「コスタ」の傘下、アイーダ・クルーズからの受注で2隻の客船を手がけた三菱重工。しかし、度重なる納期遅延で累計2,450億円もの大赤字を計上してしまった。本来なら、ここで培ったノウハウを糧に、豪華客船を量産していって赤字を解消するべきだった。しかし、そんな体力が残っていないほど消耗してしまったらしい。この目の前に停泊する「アイーダ・ペルラ」をもって、三菱重工は客船事業から撤退、という結論になっている。もったいない・・・。
でも、どこかの中堅国家予算くらいの大損失をやってしまったからには、もうどうにもならなかったのだろう。
それにしてもデカい。常識的なデカさではない。マンションや商業ビルと比べたってデカいので、もうこれはノアの箱舟ではないか、という規模だ。世の中の全部の動物を収容できるんじゃないか?と妄想してしまう。
だって見てくれよ、どれだけ部屋があるんだよこれ。1階の高さが低く見える。
12万5000トン。中には映画館やダンスホールがあるのは当たり前として、なんとビール醸造所まであるというのだから呆れる。
船はドックの外に出ており、しっかりと浸水していた。最終点検でもやっているのだろうか。
・・・と思ったら、なんとこの翌日5月3日に、スペインに向けて出航していったのだという。この船を見ることができたのはラッキーだった。
この船を作っていたのは、三菱重工長崎造船所香焼工場。
三菱の造船所はあちこちにある。
一カ所にまとめた方が効率が良いだろうに、と思う。あちこちに工場がバラけていると、資材や人材の融通が面倒だろうに、と。・・・でも、あれだけデカい船を延々と時間をかけて作るわけだから、「融通」なんて概念はないのかもしれない。もう、船を作り出したら当分かかりっきり。
香焼工場のドックは100万トンドックだという。
「えっ、100万トン?」
思わず隣にいるばばろあに確認してしまったくらいだ。
「ちょっと待て、僕ら広島にいる時、マツダの宇品工場に『1万トンバース』があります!って誇らしげに習ったよな。で、車を運ぶ巨大な1万トンの船を見てびっくりしたよな。あれが100隻入るサイズなの?このドック?そんなにデカい船ってあるの?」
「実際に100万トンの船を作るんじゃなくて、ドックの中を分けたりすることも出来るんじゃろ」
だとしても、デカい。さっきのアイーダが12.5万トンだから、あれが8隻同時に作れるということか?ありえん。
聞くと、世界最大のドックなんだという。
やっぱりいずれは、「海上独立国家」を作るにちがいない。北朝鮮の脅威にさらされたら、ミサイルが届かないところまで移動するとか。
14:23
船上ではしばらく見どころがなくなったが、前方右手に島が見えて来た。沖ノ島と伊王島だ。橋で本土と繋がっているので、車でいくことができる島。
遠目で、教会の建物が見えた。
「おい蛋白質、教会だぞ教会!」
蛋白質に声をかけたが、写真を撮る間もなく通り過ぎてしまった。まるでシンデレラ城のような、白くて奇麗な建物だった。フォトジェニックな教会が、こんなところにひょっこりあるのだから長崎恐るべしだ。
14:30
船は軍艦島の手前にある、高島に近づいてきた。
高島も、隣の端島(軍艦島)同様に炭鉱の島として栄えたが、現在はもちろん閉山してしまっている。しかし、閉山は軍艦島よりも遅く、1986年だ(軍艦島は1974年)。
最盛期は端島・高島あわせて2万人以上が住んでいたというのだから、とんでもなく「都会」だったということになる。しかし今では、遠目で見る限りは静かな島だ。
地図を見ると、高島港ターミナルがあるあたりから南側は、不自然に平らであまり施設がないエリアになっている。おそらく、鉱山で掘り出したボタ(石炭と一緒に掘り出してしまった、利用価値のない石)を捨てて埋め立てていった場所なのだろう。
船はいったんここに立ち寄り、ターミナル近くにある石炭資料館を見学することになっている。これはとても嬉しい。
もともと、軍艦島のツアー予約ができなかった場合、我々は高島に日帰りで行ってくる計画だった。せめて軍艦島的な雰囲気を味わいたかったからだ。しかし結果的にツアーの予約はとれたし、高島にも立ち寄れたので一挙両得。
深夜バスで疲れが溜まっていたのだろう、蛋白質は壁にもたれかかってうたた寝をしていた。
14:36
そうこうしているうちに、船は高島港に到着。
船着き場の近くに、「たかしまフルーティートマト」とトマトの絵が描かれた倉庫があった。石炭という主要産業がなくなってしまったので、かわりにトマト栽培に力を入れているのだろうか。
そういえば、方や軍艦島は閉山の後無人島になった。しかしこの高島は閉山後もちゃんと人が住んで生活をしている。定期船も本土から就航している。この違いはなんだろう。恐らく、島の大きさ、なんだろうな。フルーティートマトを栽培できるような土地がある。一方軍艦島はというと、人の住むエリアか、鉱山か、しか場所がない。しかも不便だ。閉山してしまうと、そこに住み続ける理由なんて無かったのだろう。水や電気といったインフラを維持するのも困難だし。
14:36
船は高島港に着岸した。
閉山した炭鉱の島だけど、今でも人が住んでいる。定期便だって就航しているので、立派な港がある。ほら、桟橋のたもとには、ターミナルのビルだってあるぞ。
着岸する前、ガイドさんのアナウンスがある。
いったんここで上陸して、軍艦島のミニチュアジオラマ模型があるのでそこで解説を行うという。そして隣にある石炭資料館を見学したのち、船に戻っていよいよ軍艦島だよ、と。
あー、と思う。
何がって?そりゃあ、さっき乗船した際に我々が見たとおり。船内でいいポジションを確保するために、みんなモウ必死よ。
僕としては石炭資料館をじっくり見たい。でも、いいポジションも確保したい。・・・無理だろうな、一挙両得は。たぶん、石炭資料館なんてみんなほとんど見ないで、我先にと船に戻って、絶好のポジション取りをするだろう。場合によっちゃ、高島に上陸さえしない人もいるかもしれない。
なにしろ、これまではあくまでも「長崎⇒高島クルーズ」に過ぎない。これからが軍艦島本番だ。良い場所を取りたい!という気合も、ますます高まろうというものだ。
僕らももちろん良い席はとりたいけど、そこまでしてがっつきたくはない。「冷静に装っているオレ」という生きざまにプライドがある。内心穏やかじゃないけど。なので、「ああ、次もたぶん眺めが悪い今いる席なんだろうな」という諦めが既にある。
乗船前までは、「船のどっちがいいんだろうね?」なんてばばろあとわいわい話をしていたのに。
「時計回りで軍艦島をぐるっと回るのか、反時計回りなのか、それによって座る場所が変わってくるよな」
なんて話はどこへいった?もう、座れるだけで文句言いません状態。眺め?それすら既に諦めている。軍艦島にちゃんと上陸できればいいや。
時間が許すなら、ここ「高島」で半日ないし一泊くらいしてみたいものだ。たぶん、バリバリの観光地ではないので、数時間もいれば飽きてくると思う。でもむしろ、そういう「何もない島」のほうががっちり気持ちが安らいで気持ちいいだろう。
この島にはご丁寧に電気自動車のレンタカー(30分500円)や、電動アシスト付き自転車のレンタル(4時間未満500円)のサービスがあった。商売にはならない格安価格なので、島の外からやってきた観光客への便宜なのだろう。
14:37
一見なにもない島だ。
しかし、港の近くに、いかにもなアパートがずらりと並んでいた。炭鉱が営業していたころの名残なのだろう。今はここにどれくらいの人が住んでいるのだろう?
Googleマップで高島の衛星写真を確認してみたが、特に「炭鉱の余韻」は見当たらなかった。閉山後、完膚なきまで鉱山施設は撤去してしまったらしい。今となってはもったいない話だ。炭鉱跡、というのは観光資源になりえる。
とはいえ、昔は九州のあちこちに炭鉱があったわけで、ぜんぜん珍しくはなかったのだろう。閉山したから撤去。ごく当たり前のことだ。
たとえば21世紀の今、「スーパー銭湯がありましたが、倒産して閉鎖しました」という場合、やっぱり建物や温泉をくみ上げるポンプは壊すだろう。それと一緒だ。ひょっとしたら100年後くらいになれば、「スーパー銭湯!そんな珍しいものをなんで壊しちゃったの?文化遺産になったのに・・・」なんてことになるかもしれない。たぶんならないと思うけど。
14:39
船着場から歩いてわずかのところに、「石炭資料館」があった。
思ったよりも小さい、二階建ての建物だ。
軍艦島が世界遺産になって、こうやってたくさんの観光客が訪れるご時勢。折角だから、ここに大きくて立派な石炭資料館を作ってもいいと思う。軍艦島の話からはじまって、炭鉱関連の展示をもろもろ。そして高島も炭鉱の島だったのだから、坑道探検ツアーをやるとか。
・・・と思ったが、そういえばさっき乗ったタクシーの運転手さんが「長崎市街にも軍艦島の博物館がある」って言ってたっけ。軍艦島デジタルミュージアムとかいう名前の施設。長崎市街に博物館ができてしまっているなら、いまさら高島に新たな施設を作るのは難しそうだ。惜しい。
ちなみにその軍艦島デジタルミュージアムだけど、繁盛っぷりを聞いてみたら運転手さんは「入場料が高いからねえ・・・」と苦笑していた。調べてみたら、入場料1,800円!Oh・・・
「軍艦島行きのツアーに参加したかったけど、予約が取れなかった」という人にとっては払える値段かもしれない。でも、ツアーに参加して、さらにその予習復習でより知識を深めよう、と思っているならこの値段はイタい。
石炭資料館の脇の屋外に、あずまやのようなものがあると思ったら、これが軍艦島模型。
ここでガイドさんが軍艦島上陸前に島の概要を説明するという。船の乗客全員が模型の周囲に張り付く。
14:40
軍艦島模型。
学校のグラウンドがある北側から眺めたところ。
軍艦島の東側。
掘り出してきた石炭を貯めるスペースが広がる。そして手前に船着場。ここが唯一の、外界との交流口。模型のとおり、船着場で上陸した人は、鉱山施設の下をトンネルでくぐっていくことになる。
鉱山施設の奥にそびえる屏風のようにあるのが岩山で、これがもともとの「端島」の正体。岩山の周囲を埋め立てていって、岸壁で取り囲まれた「軍艦島」ができていった。
島の東側から南部分を眺めたところ。
右下に先ほどの船着場がある。
南側は鉱山施設が立ち並ぶ。
火の見やぐらみたいにみえるところが縦坑で、この地下深くに坑道が広がっている。
軍艦島、南側から。
岩山の左手、すなわち島の西側エリアにビルが密集している様子が伺える。これが、軍艦島を有名にした光景。
日本最初の鉄筋コンクリート高層マンションだったし、当時は日本最高の人口密度を誇る場所でもあった。あれ?世界最高だったっけ?どっちだったか覚えていない。
軍艦島、西側から。
いかにビルが密集しているかがよくわかる。建蔽率容積率完全無視。そりゃそうだ、ここは完全に私有地で、外界から独立している世界だ。しかもこれができたのは、建築基準法なんて知ったことかという時代だっただろうし。
右下に入母屋作りの建物があるが、これはお寺。その手前の青い屋根は、映画館。ここに超過密で人が住んでいたわけだから、生活に必要なものだけでなく福利厚生的なものまで何でも揃っていたという。
エレベーターがない当時、住みやすさでいったら低層階だと思うだろうが、実際には偉い人は上層階、臨時工員などは低層階というすみわけがあったそうだ。というのも、これだけビルが密集しているので、低層階まで太陽の光が入ってこず、薄暗い上にジメジメするからだ。
じゃあ高層階の人たちは、毎日ヒイヒイ言いながら階段の上り下りをしていたのかというと、横のビル同士、連絡通路でつながっていて、水平移動をするためにわざわざ1階まで降りないといけないというわけではなかったそうだ。
僕は10年以上前からだろうか、この軍艦島に惹かれ続けてきた。世界遺産認定前後からのブームになる以前からこの島について調べるのが好きだった。
産業遺産としての軍艦島も面白いが、建築という観点での軍艦島もとても面白い。そして社会学的なアプローチでも面白い。どういう切り口でも、すごく興味深い対象だ。
なので、東京電機大学阿久井研究室の「軍艦島実測デザインサーベイ」の取り組みなんて大好きで講演や展示を見に行ったことがあるし、昭和を代表する写真家の一人、奈良原一高が軍艦島閉山前の人々の様子を撮影した写真も大好きだ。そういえば、はるか昔、(既に廃墟となった)軍艦島を舞台としたエロゲーもやったことがあったな。これは大して面白くはなかったけど。
語りだすと非常に長くなるけど、ここでは書かない。調べようと思えば、今やwebでたくさん情報がある。又聞きの僕がここであれこれ書くことはあるまい。
模型を前に、みんなでガイドさんの解説を聞く。
14:47
軍艦島のミニチュア模型の説明が終わったら、ツアー客はうわーっとその場を立ち去っていった。我々が呆気にとられるくらい、あっという間に、だ。
「ああ、やっぱりみんなブラックダイヤモンド号に戻って、眺めの良い席を確保したいからなんだろうな」
「どうする?完全に出遅れたぞ」
「もう開き直って、じっくり展示を見ていこうぜ」
というわけで、ミニチュア模型横に展示されている、石炭を運搬するための2トントロッコをじっくりと観賞するわしら。
周囲にはもうほとんど人が残っていない。僅かに、のんびり屋さんがミニチュア模型をしげしげと眺めているくらいだ。
折角の展示物なのに、ほとんど相手にされていない。
そりゃそうか、ツアー客は「世界遺産」であり「珍しい光景」の軍艦島が見たいのであって、「当時の石炭採掘の仕組み」について、工業的な観点での興味はないのだろう。
おっと、そうこうしているうちに、石炭資料館を見終わった人たちが足早に船着き場に戻って行き始めたぞ。早いなあ、僕らこれから石炭資料館の中に入るんだけど。
本当なら、この高島に一泊してのんびりしたいくらいだ。でもそれはさすがに無理なので、今回のツアーには入っていない。
安心しろ、明日の夜は炭鉱の島だった「池島」で一泊だ。こっちで存分に在りし日の栄華に思いを馳せよう。
こちらの展示は、鉱夫さんたちが現場に向かうのに使ったトロッコ列車だろう。木の座面と背もたれで、幅が狭い。地下トンネルを走るものなのに、天井がついている意味ってあるんだろうか?と思うが、地下水が上から降ってきて「冷たい!」とならないようにするための工夫だろうか。
14:52
石炭資料館に入る。
展示されている黒い塊、これが「塊炭(かいたん)」。これを掘り当てるために、九州北部のあちこちで鉱山が開かれ、男達が潜っていったわけだ。
埋蔵量はまだまだあるのだけど、なにせトンネルを掘って掘って掘りまくって、地上からかなり深いところまで坑道が続いている状態だ。効率が悪すぎる。2日後の池島で聞いた話だけど、1日3交替制で鉱夫は働いていたけど、実働は5時間程度だったという。地下に潜ってから、採掘現場に辿り着くまでの「勤務時間内通勤時間」が片道小一時間かかるからだ。
これじゃ、採算があわない。結局、ダイナマイトで爆破して露天掘りをしているような外国の炭に太刀打ちできず、今じゃ日本で採炭している鉱山は全滅した。「資源枯渇」ではなく、「割に合わなくて」というのがグローバル化というか、なんというか。
今我々がいる高島の航空写真。
港が二つあるけど、我々がいるのは島の下側に防波堤が伸びているところ。
島右側は山があって、いかにも「島」という形。でも、左側が不自然に平らで、直線。人工的に島が拡張していったからだろう。
すぐ隣の端島が「軍艦島」として名高いのに、同時期に操業していた高島は全く知名度がない。他の軍艦島ツアーだと素通りするくらいだ。特に観光資源としても、鉱山跡や住居跡を巡るようなものはないようだ。鉱山、というのは完全に過去の歴史として、今は今なりに生活をしているからだろう。
むしろ、軍艦島のように時間が止まったまま取り残されている方が珍しい。
石を熱心に観賞する蛋白質。
このあたりは、鉱山で使われたいろいろな工具が展示されている。
一つ一つ見ていけば十分楽しいはずだ。しかし、さすがに我々も若干「早く船に戻らなくちゃ」という気がするので、落ち着いて見ていられなかった。
既にこの資料館にはほとんど人がいなくなっていたけど。
軍艦島の紹介もあった。
軍艦島を上から見て、どこにどういう建物があったのかを示す地図。こういうのをじっくり読むだけでも楽しい。本当に、楽しい。
理想としては、5年刻みくらいに、軍艦島がどう拡張して建物が増えていったか、時系列で見せてくれたらいいのだけど。
今や廃墟となって無機質な鉄骨とコンクリートだけになっているけど、ここには人の営みがあったし、だからこそ合理的な理由があって建物が建てられ、配置されているわけだ。「どうしてこういう形になったのだろう?」って考えるだけでも楽しい。
ちなみに、青色の建物は鉱山関係で、緑色の建物は居住関係だ。船着き場は青くて丸い建物が示されている下のあたりにあり、そこから時計回りに島の左端までの間に遊歩道がある。
島の核心部ともいえる、マンション密集エリアには全く入れないし、近寄ることもできない。崩壊の危険があるからだ。上陸しても、見ることができるのはごく一部、さわりの部分に過ぎない。
とはいえ、昔は全く上陸が認められていなかったのだから、歩道が整備されて上陸できるようになったのは大きな進歩だ。
以前、軍艦島の専門家たちによるパネルディスカッションを聞きに行ったことがあるのだけど、そのときある教授が語った一言がとても印象に残っている。
「軍艦島は、今が見頃です。」
これは、別に紅葉のように「今がちょうど一番美しい時期だ」という意味で言っているのではない。島の建物は急速に劣化が進んでいて、みるみる崩壊している状況。なので、今見ておかないと、数年後にはもう今の姿は残っていないですよ、という意味だ。
なんとか保存する、という議論ももちろんあったそうだけど、さすがに規模が大きすぎてコストがとんでもないことになる。数百億円かけても保存できるかどうか怪しく、あとはもう朽ち果てていくのを見ていくしかないそうだ。実際、過去と今の写真を対比して見せてくれたが、この10年くらいでもかなり外観が変わってしまっていることがはっきりとわかる。
「昔は名前の通り軍艦の形をしていたんですが、今はもう、軍艦の形ではなくなってきていますね」
という話をしていた。それで僕が焦って、「死ぬまでに軍艦島に行ければいいや」という考えを改め、早々にこの地を訪れようと考えを改めたわけだ。そして今回実現に至る。
高島炭鉱は三菱による開発だったので、岩崎弥太郎の像がデデーンとそびえていた。
何を指さしているのかよくわからなかったけど、とりあえず同じポーズで記念撮影。
・・・いかんな、歳のせいなのか、ポーズがうまくとれていない。右端の蛋白質はほぼ真似ができているんだけど、真ん中のばばろあは右手が挙がっておらず水平を指さし、左のおかでんは手を掲げているものの背中をのけぞらせていて、やっぱり肩が上がっていないことがバレる。
四十肩をやった右肩だからなあ、とこの写真を見てため息をついてしまう。これがアワレみ隊2017。
15:01
他のツアー客から随分遅れて、船着き場に戻ってきた。15時5分に出航する、と指示を受けていたので、これでも少しは早く戻ったほうだ。
遠目で見ても、船には既にみっちりと人が乗っている。当たり前だけど、この船では特等席にあたる「デッキ席」は鈴なりだ。今更我々が入る余地なんてない。
軍艦島の上陸に関しては、他社のツアーと連携をとっていて、時間の割り当てがちゃんと決まっているらしい。軍艦島の船着き場には一隻しか停泊できないし、島内の遊歩道だって決して広くはない。交替で上陸しないと大混乱だ。
で、我々のツアーは15時半から1時間、時間が与えられているのだそうだ。15時半までは島の周囲で待機、ということになる。
ガイドさんからは、「島を反時計回りでぐるっと回ります」と丁寧に説明があった。どっち向きに船が動くかによって、座るべき席が変わってくるからだ。しかし、ガイドさんは
「軍艦島、といっても、実際に軍艦に見えるポイントというのは限られています。そのポイントに着いたら、船の向きを変えますので、どの席からでも写真撮影できますのでご安心ください」
とのことだった。なんでも、軍艦島を見るやいなや、「うわあ!本当だ!軍艦みたい!」と言っちゃう人が多いそうだが、いやいや、その角度からじゃ全然軍艦に見えませんから、という現実があるらしい。
15:05
「あれっ」
どうせほぼ最後に乗船した我々のことだ。先ほど座っていた、眺めがよくない通路席を覚悟していたのだけど、既にそこには船客がいっぱい。どうやら、ガラス越しの船内席よりも、屋外の通路席の方がよいと思ったらしい。
いやいや、そこって引き上げられたタラップが壁のように景色をふさぎ、全然見えないですよ・・・?と思ったが、お陰で船内のちゃんとした座席に空きがあった。ありがたく座らせてもらう。
もちろん、ガラス越しに軍艦島を撮影するというのは、写真写りが悪くて残念ではあるけれど。しかし、通路席よりはマシだ。
15:15
いよいよ軍艦島が見えてきた。
遠目でも、異様な光景にぎょっとする。直線的な島影は、見たことがない景色だ。山があります、崖があります、浜辺がありますといった、いわゆる普通の島とは全く違う。
船着き場には別のツアー船が停泊していた。まだ上陸まで時間があるので、反時計回りに船は軍艦島を周回しはじめた。
これは島の北側の景色。
百葉箱のようなものが見える。端島神社だ。あのあたりはもともと端島を形作っていた岩礁で、手前の大きなビルがあるあたりは埋め立て地だ。
神社の左側に見える、岩場の上に建つ建物は3号棟職員住宅。「職員」、すなわち三菱の社員が住む場所だ。ここでは「職員」と「鉱員」(実際に炭鉱に潜る人たち)ははっきりとわけられていたらしい。職員住宅は高い場所にあり、鉱員住宅は低いところにある。
引き続き島の北側。
白っぽい大きな鉄筋コンクリートビルが、朽ちている。
これが70号棟、端島小・中学校。小中学校併設とはいえ、かなり大きい。少子高齢化社会の現代から考えると、こんなに学校がデカいことにただただ驚かされる。
70号棟にすぐ隣接する、黒っぽい建物は65号棟(鉱員社宅)。軍艦島最大の建物。最上階には幼稚園があった。
思わずしれっと眺めてしまうけど、65号棟は9階建てだ。1945年から建てられ、増築を繰り返し1958年に完成したというけど、当時こんなデカいのをよく作ったなオイ、と呆れる。今でこそ小さな廃墟島だけど、当時は国のエネルギーを担うとても大事な場所だったからこそだ。
建物は西に向けてコの字型になっていて、この「コ」の字の内側から撮影した写真がすごい迫力だ。ネットで探せばあちこちで見つかるだろうから、一度みてみることをお薦めする。日本の景色とは思えないくらいだ。
各部屋のベランダはコの字の内側に向いているのだけど、柵が木でできていて、未だに残っているところがある。鉄で柵を作ると、塩で腐食してしまうので木で作られているからだけど、むしろ「木」のほうがちゃんと残っているというのは皮肉な話だ。
写真左が65号棟、そして右側の低い建物が69号棟(端島病院)。
この島にしては珍しく低い建物。さすがに病人に「階段を使え!」というのは酷だと思ったのか、低い。写真ではよくわからないけど、端島病院に併設される形で68号棟(隔離病棟)があるようだ。
隔離病棟、と聞くとなんか恐ろしい病気のような印象を持ってしまうが、昔のことなので「結核」の患者がいたのだろう。
しつこく、同じところの写真を撮ってる。
何しろ、ちゃんと撮影できているのか、デジカメの小さな液晶画面でのプレビューではよくわからない。ええい、連写だ!あとで写真を選別すればよい!とばかりに撮影しまくり。
というわけで、小中学校と65号棟を引き続きお楽しみください。
それにしても建物が密着している。地震が起きたら、壮大なドミノ倒しが発生しそうだけど大丈夫だろうか?
建物が折り重なるように建っているので、どれがどれだかよくわからなくなってくる。特に、写真にしてしまうとなおさらだ。望遠で撮影していることもあり、遠近感が失われてべちゃっとした構図になる。
奥が65号棟、手前が69号棟の病院。右端手前の白っぽい建物が68号棟の隔離病棟だと思う。
となると、隔離病棟の奥に見えるのはまた別の建物で、67号棟(鉱員合宿(単身))か。
あらためて写真を見ると、しつこいな。また小中学校を撮影している。
船は軍艦島西側にむかいはじめた。ここから先が居住エリアの核心地。
正面に65号棟、左手前に68号棟(隔離病棟)、そこから海沿いに右側に向かって67号棟(鉱員合宿(単身))、66号棟(鉱員合宿(啓明寮))、61号棟(鉱員社宅)、60号棟(鉱員社宅)と続く。
「鉱員合宿」と「鉱員住宅」の違いがよくわからないのだけど、期間工と正規雇用の人と扱いが違ったということだろうか。そういえば、人が住むエリアの中では、67号棟が一番船着き場からも職場である鉱山からも遠くて不便だ。
ちなみに61号棟の地下には浴場、60号棟には購買所があるらしい。
24-70mmレンズなので、この望遠が最大。
船はもっと島の近くまで寄ってくれてもよいのに、近寄らない。多分このあたりは波が強いので、うかつに近づけないのだろう。
奥に65号棟、手前に67号棟、66号棟。
それにしても、端島神社の右側にある3号棟(白い建物)のそびえ立つことよ。4階建てなんだけど、崖の上に建つのでなんとも見晴らしが良い。職員住宅(しかも幹部)とは、かくも格が上なのだということを見せつけている。
この軍艦島は、海のまっただ中に急に存在する島。なので、天気が悪い時は猛烈に波が島を襲ったという。そのせいで、波しぶきが雨のように天から降ってきたらしい。だから、海抜が高いところこそ快適、というわけだ。
3号棟(職員幹部住宅)の右側には、5号棟(鉱長住宅)があるのだけど、目視では確認できなかった。木造2階建てだという。すげえ、鉱長ともなるとこの狭い島でも、2階建ての一戸建てに住めるのか!
一方、プロレタリアートの人たちが住む平野部では、右側海沿い白い建物が51号棟(鉱員社宅)、その奥にある大きな黒っぽい建物が「日給社宅」と呼ばれる、16号棟~20号棟。
1918年に建てられたものだというから、今から100年近く前のものだ。ボロボロにはなっているけど、まだ現存しているというのが驚きだ。当時、日払いの労働者が住んでいたのでこの名前になったらしい。
16号棟~20号棟は廊下で繋がっていて、櫛形をした一つの建物になっている。しかし櫛形は山側を向いているため、ここからはその様子は見えない。ほとんど緑がない島なので、この日給社宅の上に屋上庭園を造っていたらしい。
日給社宅の奥に、貯水タンクを兼ねた2号棟が見える。ここも職員住宅。
建物が折り重なっていて、もう何がなんだか状態。
何か一つ「これだ!」という目印を見つけて、そこから地図と実物を見比べていくしかない。
とはいえ、実際に船はそれなりのスピードで移動している。悠長に地図を確認しているような余裕は全くない。本当は、島一周に30分くらいゆっくりと時間をかけてくれれば最高なんだけど、そうはいかない。
岩山の上にそびえる3号棟、その手前に立ちふさがるように14号棟(職員住宅(中央社宅))、さらにその手前に8階建ての51号棟(鉱員社宅)、ええーと、あとはなんだ?パズルみたいじゃないか。すごくややこしい。14号棟は高い位置にあるけれど、5階建てだ。
地図は平面で描かれているけど、実際の建物は立体的に折り重なっているので特にややこしい。
51号棟の右側にある海沿いの建物が48号棟(鉱員社宅)。その奥には老人クラブや学校教員住宅、派出所、役場の人の家とかいろいろあったようだけど、もうこんがらがってわからん。それから、海からだと全部は見えない。
ちなみに51号棟の隣に公民館、映画館、お寺といった公共の建物が続く。48号棟の地下にはパチンコ店があったという。
島の西側から南側に向かっている最中。
50号棟(昭和館:映画館)や23号棟(泉福寺)があった界隈は崩壊してしまっている。もともと児童公園があった場所でもあるので、ここだけ広い空間ができている。
崖の中腹には、木造二階建ての7号棟(職員クラブハウス)があったらしい。夜な夜な宴会がそこで行われたのだろうか?
海沿い右側には、まるで防波堤のように長い31号棟(鉱員社宅+共同浴場+郵便局)がある。
船の中で殺到する人たち。
船の片方に重心が偏って、転覆するんじゃあるまいか。
この光景を見て、往年のプロレスを思い出した。ブルーザ・ブロディやスタン・ハンセンが入場する時の花道に群がる人たちの図。
ガラス越しだけど、頑張って撮影するばばろあ。
蛋白質も撮影中。
蛋白質は一眼レフカメラを持参している。
15:24
いったん船は軍艦島から遠ざかった。
南西の沖合で再度停泊する。
「ここからの景色が、一番軍艦に似ていると言われるものです」
とガイドさんから説明がある。
なるほど、右側に船の舳先があって、真ん中にブリッジがあって、ととても船をイメージしやすい。
軍艦島の左、実際には北側に「中之島」という小島がある。こちらは、軍艦島の人たちの公園であり、火葬場であり、墓地でもあったそうだ。なにせ、軍艦島には墓地など作る余地がない。お寺はあるのだけれど。
軍艦島だけを写したところ。
やっぱり、幹部宿舎である3号棟がそびえ立っている。
島の南側。
岩山のてっぺんに灯台があり、その奥に大きな貯水タンクがある。
掘ってきた炭とその他の砂利を選別する際、水に浮かべると「炭は浮くけど、砂利は沈む」という法則がある。なので、水というのは炭鉱には必須となるアイテムだそうだ。
灯台は白く新しく、島全体から見ると不釣り合いだ。これは、閉山後無人島になってからできたものだそうだ。操業中のときは24時間営業の不夜城だったわけで、付近を往来する船が「うっかり衝突する」なんてあり得なかった。しかし閉山後は真っ暗になってしまい危険なので、灯台が設置されたというわけだ。
しかもこの灯台、1975年に初代が設置された後、既に二代目だという。
灯台下の海沿いの建物が31号棟、その奥がこの島最古の建物である30号棟(旧鉱員社宅(下請飯場))。1915年に建てられた、日本最古の鉄筋コンクリート住宅。
あらためて、島の西側を。
島の西側から北側に向けて。
船はぐるっと軍艦島の南側を周り、東側にやってきた。灯台と、30号棟が見える。
左側の箱みたいな建物は、鉱山関係の建物。恐らく仕上工場の一部だと思う。このあたりは住居エリア以上に崩壊が激しい。
15:33
上陸が許可されている時間になったので、クルーズ船「ブラックダイヤモンド」は島東側の船着き場に近づいた。「ドルフィン桟橋」と呼ばれる桟橋だ。
なにしろ、防波堤なんて気の利いたものはない。しかも岩礁を無理矢理拡張して出来た島なので、周囲は海流が早いし水深は深い。浮き桟橋なんて作ったらすぐに流されるので、無理矢理固定式の桟橋を作ってある。海底からコンクリートで固められた桟橋だ。
そのせいで、天気が良くてもちょっとでも波が荒いとツアー船は着岸できず、上陸が果たせない日が結構あるらしい。ガイドさんは、「こんなに天気が良くて波がおだやかなのは幸運だ」としきりに今日のお天気を褒めていた。
15:37
ドルフィン桟橋から上陸。
さすがに観光客を迎え入れることができるように、このあたりの階段や手すりはちゃんと整備されている。
ドルフィン桟橋には、「無許可係船及び無断立ち入り禁止」という看板が大きく掲げてあった。
この軍艦島への上陸規制は、れっきとした長崎市の条例で定められている。勝手に上陸しちゃいかん。たとえば、ジェットスキーでやってきて上陸するのもNG。
軍艦島東側をドルフィン桟橋から眺める。
崖の上に3号棟住宅、右手奥に70号棟端島小中学校。
東側海沿いはずっと貯炭場などの炭鉱施設なので、今は広いスペースができている。
ブラックダイヤモンドから続々上陸する人々。
まるでトロイの木馬に潜んでいたギリシャ兵みたいだ。
15:38
ドルフィン桟橋からみた、3号棟職員住宅。
おや?よーく見ると窓にサッシが入っていることがわかる。他の鉱員住宅は木製の窓枠だったりするのに、職員住宅はこういうところでも扱いが違っていたのだな。
しかもベランダまである。ベランダから、貯炭場を見下ろす生活を送っていたというわけか。
15:38
海にせり出したドルフィン桟橋に繋がっている、軍艦島本体の岸壁は石積み。まるでレンガのように組んである。このあたりは軍艦島の中でも特に古いエリアなのだろう。ガイドさんに聞くと、明治期のものだという。
貯炭場があったあたりを眺める。橋げたのような柱が残っているくらいで、もともと何があったのかもうよくわからないレベルになっている。
ドルフィン桟橋から島に上陸するには、トンネルを経由しないといけない。これは昔と一緒。
さすがに崩落したらまずいので、トンネルは補強されている。それにしても、狭い。昔もこの程度の広さしかなかったのだとしたら、大きな荷物を運ぼうとしたらどうしていたのだろう?ソファとか。
・・・ああそうか、ソファなんてものは昔はなかったか。ちゃぶ台と座布団の時代だもんな。
トンネルの途中には分岐があって、左側に向かっていく穴は立ち入り禁止になっていた。
本来、この立ち入り禁止側のトンネルが昔から使われきたものだ。鉱山エリアの地下を通り、住居エリア(30号棟脇)に抜けていく。
しかし現在は住居エリアに立ち入ることはできないので、わざわざ新しいトンネルを掘り、貯炭場のところに出られるようにしてある。
15:39
地上に出た。
いきなり目の前に、コンクリートの建物がお出迎え。なんだろう、これは。窓がないので倉庫だろうか?
場所からして、炭を選別するための施設だったと思われる。
先ほど見た軍艦島ミニチュア模型だと、このあたりの建物には三角屋根がついているはずなのだけど、今や残っていない。コンクリートの箱だけが残っている。
建物の中。さすがに機材は持ち出したらしい。建物だけが取り残されている。
鉄道の高架橋の橋脚みたいなものがまっすぐ並んでいる。
これは、船に炭を積み込むためのベルトコンベアが走っていた場所。
15:40
第一見学広場と呼ばれる整地された広場にていったん全員集合。ここでガイドさんからの説明を受ける。
第一見学広場から見た、70号棟端島小中学校。手前に71号棟体育館があるはずだけど、ここからだとよくわからない。第四竪坑や変電所が70号棟の手前にあって、その廃墟が視界を妨げているからだ。
1階から4階までが小学校、5階~7階が中学校、そのうち6階は図書館などがあったらしい。屋上にはアーチ状の天井があったようだが、今や半分潰れてしまって、無残な姿になっている。
15:40
貯炭場から崖上。このあたりは石垣を組んで、崖崩れを防いでいる。
建物は残っておらず、コンクリートの基礎だけ残っている。炭車修理工場などがあったらしい。
アワレみ隊、軍艦島上陸。
蛋白質が「どこかで既視感があると思ったら、原爆ドームを見ているようだな」と言う。
なるほど、広島出身の我々からすると、廃墟の建物といえば真っ先に思い浮かべるのが原爆ドームだ。
蛋白質が浮かない顔をしている。
「どうした?」
「昔はここも栄華を極めたんだと思うと・・・」
いや、そこで神妙な顔にならなくてもいいだろ。別に戦争の激戦区だったわけでもないし。
15:41
第一見学広場から南側に、なにやら変な形をした建物が見える。
これが第二竪坑の坑口桟橋。ここから鉱夫たちは地下へと潜っていった。
この横に竪坑の櫓があったらしいが、現在は影も形も残っていない。
ガイドさんの説明を聞く一同。
岩山で島が東西に分断されているのだが、その東側、つまり貯炭場やドルフィン桟橋がある側の岩肌には歩道が設けてある。ドルフィン桟橋から地下トンネルを通り、地上に出るのが30号棟の脇。そこから島の西側を通っていくこともできるけど、岩山経由で島の北側の65号棟方面に抜けて行くこともできる。
建物の高層階に用事があるのか、低層階に用事があるのか次第で、ルートを使い分けるわけだ。島の建物はお互い連絡橋で連結されていたり、岩山に通路が繋がっているので、高層階同士でも水平移動は容易だったらしい。
島の南側にある30号棟。
ふさがれたトンネル。防空壕じゃあるまいし、なんだろう?と思ったら、石炭の選別でいらないと判断された砂利(ボタ)を捨てるためのトンネルだという。
貯炭場側の海に捨てたら、積み込み船が着岸できなくなってしまう。そのため、この岩山をくりぬきベルトコンベアを通し、島の西側の海に捨てたのだそうだ。
えっ、でも島の西側には住居が・・・。
というわけで、恐るべきことにマンションの横っ腹に穴を開け、その中をボタ運搬用ベルトコンベアが貫通していたのだそうだ。荒技。
遊歩道を伝って、島の南側へと移動する一同。
見ると、蛋白質が廃墟に手を合わせている。
いやいやいや、手を合わせる必要なんてないぞ?何やってるんだ、一体。
ただ、確かに「どういう表情をして写真撮影すればいいのか、難しい場所」ではある。ニッコニコでイエーイ、と撮影するのは憚られるし、かといってお通夜のような顔をするのも違う。
強制連行とか落盤事故とかいろいろ不幸なことはあっただろうが、あんまり陰気な顔はしなくて良いと思う。
でも蛋白質は、ずっとこの表情のままだった。というか、手を合わせているツアー客なんてこの人ただ一人だった。
15:52
第二竪坑の桟橋と、その奥に続く総合事務所。
ここから先島の南側も鉱山関係施設があったエリアだけど、主に事務所などがあった場所らしい。
16:00
歩道で島の南側をしばらく歩き、西側に回り込む。そこで歩道は打ち切りになり、第三見学広場があった。
この正面が魅惑のエリアだけど、近づくことすらできない。
・・・まあ、無理だろうなあ、と遠目でもわかる。ビルの間隔の狭いこと狭いこと。これじゃ、急に頭上からコンクリート片が剥離して落ちてきて、怪我するということだってあり得る。
というわけで、第三見学広場の柵ギリギリから撮影した住居エリア。
正面が軍艦島最古の建物、今年で築102年になる30号棟。隣が31号棟。二つの建物の間から、奥に位置する25号棟(職員社宅、宿泊所)がちらっと見えている。
30号棟アップ。
いやー、年月の経過とともに壁がこうも壊れるものなのだな。
とはいえ、1世紀が経過して、閉山して半世紀近く経つのに、まだこれだけの形を残しているのはすごい。頑丈に作ったものだ。
やっぱり一番の弱点は鉄骨のようで、鉄が錆びて膨張し、そのせいでコンクリートが破壊されていた。
この30号棟は、ロの字型の形になっていて、採光は建物の内側から行っていたそうだ。外に向けて大きく窓を開けると、風雨、さらには波にやられてしまうからだ。
30号棟と31号棟の間、そして奥の25号棟。25号棟に向かう階段が見える。
いやー、ワクワクするなあ、あそこを歩いてみたいけど、今は学術研究目的など、ちゃんと許可をとっていないと無理だからなあ。
31号棟はくの字に曲がった長い建物で、防波堤の役割も担っていたという。ガイドさん曰く、建物がくの字になっているのは、波の力を分散させるためだそうだ。
貯炭場から続くボタ運搬用ベルトコンベアはこの建物の横っ面をぶち抜いているんだけど、ここからはその穴を確認することはできなかった。
31号棟アップ。
窓枠が一部残っている。
この建物は、海沿いは内廊下になっていて、住居部は山側を向いている。「我が家はオーシャンビュー!」なんて気楽なことを言っていられる場所ではないので、敢えて眺めの良い海には背を向けている。
1階には郵便局、地下には大浴場があった。
ちなみに30号棟は共同トイレで、建物左に見える小窓がトイレ部分にあたる。
この30号棟に限らず、全て古い建物なので風呂トイレ共同は当たり前。風呂が部屋に備わっているのは、岩山の上の幹部宿舎だけだったらしい。
汚水は全て近隣の海に流していたわけで、「海に囲まれているから、岸壁から釣り糸を垂らせばすぐに今晩のおかずゲット!」というわけにはいかない。
仕上工場跡。
どういう役割を果たしていたのか、ガイドさんの説明があったかもしれないけど覚えていない。
16:08
30号棟をバックに、記念撮影。蛋白質はたまたま居合わせなかったので、ばばろあと二人で。
やっぱり微妙な顔になる。
周囲のツアー客もめいめい記念撮影をしていたけど、「イエーイ」なノリの人は皆無だった。
16:10
見学用の歩道は一本しかなく、船までは今きた道を戻ることになる。船に向けて戻る。
島の最南端に位置するところに、だだっ広い、四角いスペースがある。特に説明もなかったし、気に留めていなかったのだけど、ガイドさんが「ここはプールの跡ですよ」と教えてくれた。へえー。言われてみれば、プールっぽい。
プール、といっても恐らく真水は使えないだろうから、海水プールだっただろう。しかし、海水浴なんて到底無理な場所なので、こうやってプールがあるのは貴重だったに違いない。
北側にある学校脇にでも作る事ができれば良かったのだろうけど、場所の制約上学校とは対極の南に作らざるをえなかったのだろう。
16:10
仕上工場と、その奥の30号棟。
このあたりの建物は全く残っていない。わざわざ壊したとも思えないので、長年の風雨で粉々に砕けてしまったらしい。
綜合事務所跡。
東からみた仕上工場。ぽつんと建っている。
30号棟、貯水槽、灯台。
30号棟の下半分をふさぐ形でコンクリートの土台が見える。ここには第二竪坑捲座があった。
捲座(まきざ)とは、採掘した炭を運び上げたり、鉱夫を地下に下ろすためのケージを操作する巻き上げ機があるところ。ちなみにこのケージ、分速480メートルだったというから信じられない。時速30キロ近くで垂直落下するんだから、体が浮き上がりそうだ。
先ほど見た、鉱夫たちが地下に潜っていく「第二竪坑 坑口桟橋」とはちょっと離れた場所にある。捲座そのものは竪坑のすぐ脇にある、というわけではなさそうだ。
綜合事務所跡。
鉄骨が錆びてボロボロになっている。
綜合事務所は、レンガで装飾されていた。レンガ造りの建物、というわけではなく、コンクリート造りの表面をレンガで化粧していたようだ。
思惑ありげな建物の形ではある。二階部分に渡り廊下があったり。
厳重に装備を固めた鉱夫さんたちがここを歩いていたのだろうか?当然、身支度をするロッカールームなどがこのあたりにあったはずだ。
風呂はこの建物にあった、とガイドさんから聞いた。みんな真っ黒になって地下から戻ってくるので、奥さんであっても自分の旦那が判別できなかったという。
そして、風呂に入って身ぎれいになってから、ワイシャツに袖を通しぱりっとした身なりで帰宅していくというのが炭鉱マンのプライドだったという。
セルフタイマーで、綜合事務所前で記念撮影。
デジカメの液晶画面を覗き込んだ通りすがりの女の子たちが、「バッチリです!最高のアングルです!」と大絶賛するので、苦笑しているところ。決して「カメラ写りがいいように笑っている」わけではない。
綜合事務所前は第二見学広場として整備されている。我々がいるあたりは昔第三捲座があったらしいが、その気配はもう残っていない。瓦礫がある程度だ。
ドルフィン桟橋に戻る。
何を撮影したのか、あんまり覚えていないので写真が重複している。また3号棟を撮影しているが、さっき撮ったぞこの写真。
歩道が岩山の急斜面に沿って、左から右に伸びているのがわかるだろうか?そして、3号棟に向かって階段がある。この歩道を右へと進めば65号棟、左へ進めば30号棟。
第一見学広場にあった、軍艦島の写真。
西側から見たところ。
こっちは東側から。
さて、船に戻ろう。トンネルをくぐって、ドルフィン桟橋へ向かう。
トンネルの上には、昔荷揚げ用のクレーンがあったらしい。
ドルフィン桟橋から3号棟。いちいちあの家は目立つ。
ドルフィン桟橋はこれで3代目だそうだが、2代目は作ってから2年で壊れたそうだ。それくらい、海が荒いということだ。
16:25
船は出航。あとは長崎へと戻るだけだ。
崖にそそり立つ端島神社を見上げる。
65号棟、小中学校の手前にレンガ作りの三角屋根を発見。あれが第四竪坑捲座跡。もっぱら、換気口として使われていたらしい。
さあこれで軍艦島は見納めですよ、ということで写真を撮りまくる。
結局、軍艦島接近時と離脱時が70号棟端島小中学校の側なので、小中学校の写真ばっかり撮影していた。小学校を撮影しまくるなんて!変態!いや違う違う。
弁護しながら、ラスト小学校。
今回は、デッキ席が確保できたので屋外。軍艦島を背に、我々は長崎港へと向かっていった。
16:26
遠ざかっていく軍艦島。
いやー、本当に貴重な体験ができた。ありがとう!
それにしてもここまで栄枯盛衰というものを実感したのは初めてだ。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・というのはまさにここだった。
大自然にしろ人間の営みにしろ、エントロピーというのは有限だと思うのですよ。今こうやって我々はインターネットとかスマホとか、いろいろ便利なものを享受している。だからこそ廃れるものがある。「廃れるものがある」ということはむしろ何か新しいものが勃興しているからだ、と僕はポジティブに考えている。
もちろん、ここをふるさととして住んでいた人としては、閉山とともに島を去らないといけなかったのは辛い体験だっただろう。だから、あんまり外野の人間が「ポジティブ」とか言うのはよくないわけで、その結果なんだか神妙な顔付きになってしまう。
そういう「微妙さ」もまた、新鮮な体験だった。
16:28
島民の墓地兼公園の役割を果たしていた中之島の横を通過。春になると島のてっぺんに桜が咲くので、花見に訪れていたそうだ。
端島(軍艦島)、高島ともに炭の鉱脈が地下に眠っていたのに、なんでこの中之島は無人島のままなのだろう?炭鉱の島にならなかったのだろう?と不思議だ。あとで調べて見たら、ここも炭鉱はあったそうだが、わずか9年で閉山してしまったそうだ。
16:32
高島にいったん立ち寄ります、というアナウンスがあり、船は高島に戻ってきた。ちょっとだけ停泊して、すぐに出航。何があったのかわからないが、軍艦島上陸時にもぎった上陸チケットの半券を事務所に提出するなどの事務手続きがあったのかもしれない。あくまでも推測だけど。
16:41
高島をあとにする。
団地が並んでいて、「えっ、島なのに何で?」と不思議になる光景だ。
軍艦島の団地はボロボロの廃墟になってしまったけど、高島の団地は現在進行形で健在だ。
16:48
船は沖ノ島の沖を通過中。往路発見した教会を今回はちゃんとロックオン。撮影しておいた。
蛋白質にこの教会のことを伝えたら、喜びいさんで撮影していた。軍艦島の時よりも気合いが入っていたようだ。
カトリック馬込教会、という。まるでお城のようにとんがった屋根のてっぺんには、十字架がある。まるでテーマパークの建物みたいだ。または、お菓子の城。
失礼ながら、よくもまあ小さな島でこんな荘厳な教会が建てられるものだ。信者の数は限定的だというのに。・・・えっ?この島の住民の60%がキリスト教徒?そりゃあすごい、日本でもっとも「キリスト教信者率」が高いエリアなんだそうだ。
長崎の港が近づいてきたとき、またもや海沿いに教会を発見した。行きの時には気づかなかった存在だ。
カトリック神ノ島教会。これもまた、白くて気高さを感じさせる建物だ。長崎の教会は本当に奇麗だな。
・・・おや、教会の手前・・・海の中の岩の上にも白い何かが見える。何だろう、あれはマリア様だろうか。
望遠レンズで確認していた蛋白質が「マリア様だ!」と声を上げる。へえ、海の中にマリア像ってこともあるのか!
よく見ると、マリア様は教会の方ではなく、沖の方を見つめていらっしゃる。恐らく、航海の安全を願う意味合いがあるのだろう。東京湾大観音みたいなものか。例えが強引だけど。
17:02
長崎の港が迫ってきた。
すぐ脇を、白い船が通り抜けていく。日本郵船のロゴ・・・かと思ったけど、なんか赤い帯が一本多い。これ、九州郵船のカーフェリーだった。五島列島と長崎を結ぶ便だ。
アワレみ隊が五島列島企画をやった場合、この船に乗っていたかもしれない。
三菱重工長崎造船所のドックを通過。
ドック大好きばばろあは三菱重工の写真を撮りまくっていた。
17:09
長崎のシンボルの一つ、稲佐山が見えて来た。あの山のてっぺんから見た夜景が「新世界三大夜景」の一つだとかなんとか。
明日の午前、あの山の上に行ければ行ってみよう。
17:15
軍艦島上陸クルーズ、無事終了。長崎の船着き場に戻ってきた。
クルーズ船「ブラックダイヤモンド号」とともに記念撮影するアワレみ隊。
男3人で記念撮影なんて、色気もへったくれもないのだが、後日これらの写真を見たばばろあが「やっぱ記念撮影は必要じゃね」とつぶやいていた。
単なる観光地の写真だったら、プロが撮影したものがネットにいくらでも転がっている。見たけりゃそれらを参照すればいいし、なんなら自分でそれらの写真をスクラップして(私的利用の範囲内で)自分のPCに保存しておけばいい。
結局、「観光名所で自分たちが写り込んでいてナンボ」なんだと思う。すっげえ当たり前のことだけど、今更そう思う。だから、三脚を立ててセルフタイマーでオッサン3名が記念撮影、というのは見栄えが悪いけど、それでもやる。
だてに20年以上活動を続けているアワレみ隊じゃないぞ。1980年代からずっと時系列で「成長と、円熟と、老い」を見続けることができる。これって貴重なことだ。
それはともかく、「軍艦島上陸クルーズ」はとても良かった。他のツアーとは比較していないのでなんとも言えないけど、申し込んだ時点では「なんかチャラそうだな」という印象だったから、良い意味でその予想を覆された。
チャラそうだ、と思ったのは、ブラックダイヤモンド号という名前と真っ黒な船の外装がイキってる感じだったし、「軍艦島上陸クルーズ」というロゴが、ひび割れたコンクリートを模していて、それもなんか漫画的というか安っぽく見えたからだ。軍艦島を「ヒュー、なんか廃墟パネエっす!」って感じで紹介しそうな予感が・・・。いや、今だから言える、それらは全く杞憂だったと。
高島に上陸し、石炭資料館を見学できるツアーはここだけ。多角的に軍艦島を学びたければこのツアーがおすすめだ。
他にも、軍艦島に実際住んでいた人がガイドさんを務めるツアーがあったり、少人数でしっかりとレクチャーしてくれるツアーがあったり、それぞれに特色があるらしい。もしまた軍艦島を訪れる機会があるなら、別のツアーも利用してみたいものだ。
17:24
徒歩で宿に戻ることにする。その途中に「出島」があるので、出島に立ち寄る。
出島といえば、言わずと知れた「江戸時代、日本が唯一オランダに対して商取引を認めていた地」だ。小学生でも知っている、歴史の常識。
でもその割には、実際どんな施設が現存するのか、よく知らない。
「修学旅行の時に行ったはずなんじゃけどね、覚えとらんねえ」
ばばろあが言う。
僕は行った記憶がない。修学旅行ではばばろあと違う班・・・だったと思うけど、どうだったっけ。そもそも行ってないのか、それとも行ったけど、行ったことさえ覚えていないのか。
いずれにせよ、全く記憶にないのは間違いがない。確か、周囲はすっかり埋め立てられてしまい、町に埋没してしまって全く魅力がなかったはずだ。
前方に出島が見えて来た。
「おい、なんかそれっぽいのが見えるけど、デカいぞ?」
「あんなん、あったっけ?」
一同騒然とする。
看板がある。
「ややや、結構本格的にあるっぽいぞ」
「昔からこうだったっけ?」
「いやー、こんなんなかったと思うで。最近じゃろ?」
描かれている地図は、昔のものかな?と思ったがちゃんと周囲が埋め立てられている。現在の地図らしい。こんなのがあるのか!
「おい、通り抜けるようなレベルちゃうぞ?」
中を覗き込んだばばろあが甲高い声を上げる。
遅れて覗き込んだ僕も、蛋白質も、思わず「うおっ」と声を上げてしまった。
中には、まるで「日光江戸村」のような、時代劇のセットのような、昔風の建物がずらっと並んでいたからだ。
「いやいやいや、完全に油断していた。こんなん、宿に向かうまでの間にものの数分、だと思っていたのに」
ぱっと見ただけでも、この地を見てまわるのに10分20分レベルじゃ済まないことがわかる。
しかも・・・
「あっ、入場料金、とるのね」
これだけ立派に再興されてりゃ、そりゃそうなるよなあ。無料というわけにはいかず、大人1名510円なり。
かなり油断していた。出島に時間もお金もかけるつもりはなかったので、動揺する一同。
「とはいえ、入らないというわけにはいくまい?」
「だなあ、なんか今日一日であれこれ入館料でお金がかかってるけど、この光景を見て今更引き下がるわけにはいかないしなあ」
とはいえ、時刻は既に17時25分。観光施設なんだし、屋外だし、さすがにもう営業はしていないだろう?「やっぱ営業していなかったね、残念だったね、じゃあまたの機会に」と思って諦めようとしたら・・・あれっ、18時まで営業してるの?絶妙なタイミング。
「どうする?」
「入らないという理由が見当たらないな」
というわけで、結局入ることに。
いかんな、頭が切り替わらないぞ。さっきまで昭和産業遺跡の軍艦島を見ていたのに、戻るやいなや今度は江戸時代だ。でも、廃墟じゃなくて立派に再現されているんだから、もう何が古いんだか新しいんだか、さっぱり。
17:30
長崎オランダ村、じゃなかった、出島を観光中。
長崎オランダ村ってあったなあ、ハウステンボスの前身にあたる施設で、僕らの修学旅行で立ち寄った。全く内容を覚えてないけど。
本当に、今思えば修学旅行って何だったんだと思う。覚えているのは、夜、寝るか寝ないかで先生とバトルすることが中心。もし、この「修学旅行の定番:先生とのバトル」がなかったら、本当に何も覚えていないんじゃなかろうか。それを思うと、やっぱり先生って消灯時間を厳しく取り締まらないといかんな。子供達の思い出作りのためにも。
蔵やら商館やら、いろいろな建物が並ぶ。和風だったり洋風だったり、展示物があったり建物だけだったりいろいろだ。
さすがに軍艦島のときのように、「この建物は○号棟で、当時はこういう使われ方をして」と解説する気力は湧かない。江戸時代の話ともなれば、完全に「歴史教科書のはなし」であり、あんまり生活感を伴わないんだよな。ワクワクしない。
カピタン部屋。恐らく「キャプテン」がオランダ語になって日本語に訛ると「カピタン」なんだと思う。
タッチパネル画面で、往時のエピソードを紹介するなど、演出には手間暇をかけている。
おっと、今朝グラバー邸でみかけた、「江戸時代の外国人の食事」がここでも再現されているぞ。
「グラバー邸のと、似てるな」
「やっぱりこの程度が限界なのかね、当時だと」
つまり、全体的に茶色い。ところどころ彩りの野菜もあるけど、基本は茶色だ。
なんだか、これを見ていると「一番うまそうなのは、ろうそく」に見えてきてしまう。違う違う、それは食べ物ではない。
豚さんがうらめしそうに、頭を上に向けている。しかもリンゴをくわえて。
「この豚は食べるためのものだろうか?」
「リンゴ置き場としてしか意味がないんじゃないか?」
「いや、そもそもこのリンゴは飾りじゃないか?」
オランダ人商人のメシはさほどうまそうに見えなかったので、せめて豚肉に最大の関心を注いでいる状態。
母国から海路はるばる運んできた豚だろう。江戸時代、日本から容易に入手できたとは思えない。いや、ひょっとしたら途中中国に寄港して、中国から仕入れていたか?
いずれにせよ、ガリッガリに塩漬けにされて防腐加工されているはずだ。そのまま食べてもうまいはずがない。ミミガーのこりこりした食感がね、たまらんのですよ・・・なんてカピタンさんがコメントしていたとは思えない。
商館の窓から外を。
「小京都」と呼ばれるような古い町並みとは違い、なんか和モダンな感じ。なので古めかしい感じはほとんどない。
大砲。
大砲を「はへー」という表情で眺める蛋白質。
それにしても乱暴な話だよな、昔はここに鉄の玉を詰め込んで、火薬でその玉をすっ飛ばしていたんだから。鉄の玉が飛んできてぶつかったら痛いよね、建物に穴が開くよね、それはイヤだなよね、という発想。
一つ一つ建物を見ていくと、結構時間がかかる。
「外観だけ整備したハリボテ」というのはほとんどなく、特に気の利いた展示がない建物でさえもしっかり中を見せてくれる。作りは全部本格的だ。
歴史の教科書で出島の絵を誰もが見たことがあるはずだ。それを見ると、土地は狭く、建物は貧弱で、遠路はるばるやってきたオランダ人がこんなところに閉じ込められて可哀想に・・・と思ったものだ。しかし実際はそんなことはなく、そこそこ広かった。もちろん大運動会を開催するほどの場所はないけど、窮屈で発狂しそうになる、といったことはない。これは予想外だった。
出島の外。
本来はここに海が広がっていたはずなのに、今や何事もなかったように放送局と立体駐車場が建っていた。
テレビ局の建物に、「NIB」という略称が書いてあった。NIB?地方テレビ局は大抵アルファベット3文字の略称を使うけど、NIBって何の略だ。Nagasaki・・・えーっと、Iってなんの略だ?
調べてみたら、このテレビ局は「長崎国際テレビ」という名前だった。ああ!Nagasaki International Broadcastingの略か!
このテレビ局が、本当に名前通り「国際」的なのかはわからないけど、出島の脇にあるテレビ局が「国際」を名乗るのは楽しい。
18:02
当時の時計の復刻模型をしげしげと眺める二人。
ちなみに蛋白質、ばばろあは理系、おかでんは文系だ。
とはいえ、文系理系問わず、こういうメカを見るとワクワクしてしまうのは、若くても歳を取っていても一緒。
特にこの時計の場合、周囲をアクリル板で囲ってあり中身が丸見えになっている。外装の装飾は見えられないものの、中身のからくりがよくわかってとても面白い。
写真を見ればわかるとおり、それぞれの建物はかなり力の入った展示になっている。これで入場料510円というのはむしろ安いと思う。おすすめ。
いちいち建物を紹介していたらきりがないので省略。
出島には出入り口が二カ所あり、我々は入ったところからまっすぐ突っ切ってもう一つの出入り口から出ることにした。そうすると、ちょうど宿がある方角だからだ。
出入り口のところにある建物に掲示版があり、蛋白質における今回の旅行の主目的、「遠藤周作文学館」のポスターが貼ってあった。
「おお、これこれ!」
蛋白質が嬉しそうな顔をする。
現在、「敢行から50年-遠藤周作『沈黙』と長崎」展を開催中らしい。会期は5月21日まで。
「おい蛋白質、ギリギリ間に合って良かったな。沈黙展は5月21日までだったぞ」
「でも多分5月22日以降も『沈黙』の展示はやっとると思うで?なにしろあんな辺鄙なところに記念館を建てるんは、沈黙の舞台だったからじゃろ?沈黙を扱わんわけにはいかんじゃろ。おいそれより蛋白質、定休日は大丈夫なんか?」
ばばろあの指摘を受け、蛋白質が「あっ」と声を出してあわててスマホを取り出す。
「折角あっちまで行ったのに、定休日でした、って話じゃったら目も当てられんで。まあ、明日の夜泊まる池島に行く途中じゃけえ、別にええんじゃけどね」
「大丈夫!やっとっる!明日はちゃんと営業しとった!」
勝ち誇ったような声で蛋白質がスマホの画面を見せてくる。
「いや、見せんでええから。で、やっとるんじゃね?」
「やっとる。大丈夫」
「それはわかった。でも明日どうするんか考えとけよ?じっくりそこで見るんか、見ないんか」
実は以前からばばろあは、メールを使って蛋白質に「遠藤周作文学館でどれだけ時間をかけたいか?」ということを聞いていた。ここまで熱望している場所なのだし、彼自身の信仰ともからむ場所だ。ひょっとすると、半日でも滞在したいかもしれない。我々も折角訪れるからには館内を見学するけど、さすがに半日はいらん。30分程度で十分だろう。だから、蛋白質には「ずっといたいんなら、わしらその間別のところに行っておくけぇ」と伝えてあった。
出島のミニチュア模型があった。ミニチュア、といってもかなり大きい。
なんだ、歴史の教科書で見た図と全然違うぞ?結構な賑わいがあったんだな。
出島の町並み。まるで宿場町のようだ。
ただし全体的に奥行きはない建物。宿場町の商人の家なら、蔵があったりして間口の割に奥が深い家であることが多いのだけど。
18:28
出島を出ると、すぐそこが長崎中華街。そして正面に見えるのが今晩の宿、ホテルマリンワールドだ。ばばろあはつくづく良いポジションの宿を確保したものだ。
長崎駅とは離れたエリアだけど、駅前よりもこちらの方が賑わっている。何故ここまで昔の国鉄は線路を引っ張ってこられなかったのだろう?当時、「機関車の煙は汚い」とか「家畜が驚くからやめろ」とか反対運動があったのだろうか。
18:28
ホンマ宝石。
ニセモノは扱っていませんよ、という力強い宣言。宝石を買うなら是非ここで。
びっくりしたのが、「Amazon.co.jpからも発注OK」と書いてあったこと。あ、マーケットプレイスを使っているのかこのお店。というか、Amazonって宝石も扱っているんだな。実物見ないで宝石って買っていいものなのか!とびっくり。
18:29
「落ちないか?医院」
大丈夫です、3階部分ですけどしっかりした建物です。崩れて落ちる心配はないと思います。安心して開業してください。
19:01
ホテルに戻る。今回はシングル3部屋を確保してある。
「えっ、3人で一部屋じゃないの?」
蛋白質に聞くと、
「わし、最近いびきがすごいんよ。いびきで迷惑かけるわけにはいかんけぇ、別の部屋にした。明日(池島)もわしだけ別の部屋にしてあるし、明後日(嬉野温泉)も空き部屋があったらそうしてもらうつもり。安心せぇ、一人部屋にこもってやらしいことをするつもりはないけぇ」
いや、別にそこは心配していないけど、そうなのか。「大家族主義」アワレみ隊としては残念ではあるが、まあ、しょうがない。そもそも、このようなホテルにおいて「トリプル部屋」っていうのはなかなかなかったりもするし。
あれ。
中に入ると、ツイン部屋だった。
「えっと、何かの間違いかな?」
いったん外に出て両隣の部屋の様子を見ると、みんなすんなり部屋に入ってしまったようだ。ちゃんとツインで3部屋、確保されているらしい。ツイン部屋をシングルユースで、ということだ。
そうこうしているうちに、蛋白質が外に出てきた。
「散髪行ってくるわ」
「待て、今からか?」
「ああ、10分あれば終わるから集合時間までには戻る」
「何も今行かなくても」
先ほどホテルまでの道すがら、1,000円カットの散髪屋を発見した蛋白質、「散髪に行く」と言い出したのだった。ばばろあと僕が驚き、「なんで旅先で、わずかな時間で散髪?」と不思議がったのだけど、彼は「是非行く」という。
ばばろあから「やめとけ」と諭され、いったんは諦めたはずだったんだけど、結局彼は気を取り直して出撃していった。そんなに髪がうっとおしかったのだろうか。
それはともかく、ツインの部屋だ。
このホテルマリンワールド、どの部屋にも「<」(不等号)の形をしたガラスになっている。この不等号出っ張りガラスを一部屋にした場合、どうしてもシングル部屋にするにはスペースが余ったのだろう。なので、エーイとどの部屋もツインにしておいて、一人泊ならばシングルとして、二人泊ならツインとして、という使い方にしたっぽい。昔は飲食店雑居ビルだった名残だ。無理矢理ホテルにしているのでこういうことになる。面白いね。
館内の間取り図を見てみると、大浴場もやっぱりこの不等号の形のガラス張りだった。もともとホテルにする気なんてなかった建物をホテルにすると、あれこれ不思議な形になる。そういうのを踏まえて間取り図を見るだけでも結構楽しい。
テレビ。
半分壁に埋め込まれた形。これ以上のサイズのテレビは絶対に入れないぞ、という強い覚悟だろうか。今の段階でパンパン。
風呂場と、トイレと、脱衣場。ユニットバス。
トイレは、水を流すレバーはついておらず若干探した。正解は、タンクの上にボタンがあって、それをぐいっと押し込むことで水が出る。ボタンは二分割されていて、右半分が「小」、左半分が「大」。こんなの、見たことがない。
メーカー名は「COZY」だそうだが、聞いたことがない。
このホテルは中華資本だというけど、ひょっとしたら中国メーカーのものなのかもしれない。
我々がいる12階の間取り図。
中央部分に、円筒形の展望エレベーターが2基ある。あとは客室。
こうやって見ると、シングル利用をするには奥行きがありすぎる部屋だということがわかる。
かといって、飲食店時代だったときはどういう仕切りだったんだろう?ギザギザ窓二つで1店舗、くらいでスナック一店舗くらいか?
12階の自室からの眺め。眼下にばばろあの車が駐車してある駐車場、そして川の左側が中華街。突き当たりのあたりが出島だ。
正面に見える山が、湾を挟んだ対岸で、稲佐山。
19:25
案の定、蛋白質から「散髪屋が混んでるので、集合時間に間に合わない」という連絡が入った。そりゃそうだ、30分後に集合!っていうのに、散髪屋に行くヤツがいるものか。
さっぱりした蛋白質が、集合場所であるホテルのロビーに戻ってきた。壁に貼ってあるポスターを見ているが、襟足がすっきりしていらっしゃる。さぞやさっぱりしたことだろう。・・・ただし、洗髪なしの1,000円カットなので、短い髪がたくさん残っていてチクチクするとは思うけど。
蛋白質が眺めているポスターは、「教会を見学する際は事前に連絡してね」という注意喚起のものだった。教会に鍵がかかっていたりするので、事前連絡してもらえればガイドが対応しますよ、ということだった。
我々が明日訪れるかもしれない教会がポスターに書かれていたけど、実際に行くのかいかないのか、行くとしても何時になるのかがさっぱりわからない。なので結局連絡はしなかった。
なにせ、明日朝まず何をするの?ということさえ決まっていない。「昼、遠藤周作文学館に行って、夕方、池島に渡って一泊」ということだけが決まっている。アワレみ隊にしては行き当たりばったりすぎるが、それもこれも「蛋白質よ、お前は一体何が見たいんだ?」というのがよくわからないからだ。
昔っから変人キャラの蛋白質だが、歳を重ねるにつれてどんどん「謎キャラ」っぷりが強くなっている気がする。もちろん、意味不明な言動をするというわけではないけど、不思議なキャラクターではある。僅かな時間で散髪を強行するとか、そういうレベルで。
ただ、ばばろあも元からのキャラがより一層濃くなっている。人間、歳を重ねるとどんどん個性が強くなってしまうのだろう。独身だとなおさらだ。きっと僕自身も、以前と比べてクセが強くとっつきにくいキャラクターになっているに違いない。
あと20年もすれば、我々は「クソジジイどもの集まり」になっているのだろう。それはそれで、楽しみだ。
「お前、ええかげんにせえよ」「お前こそ人のことが言えるんか?」
なんてキャッキャと言いあいになるんだろうな、きっと。苦みばしったじゃれ合い。
19:30
ホテルから近い、ということもあり、中華街を見てまわることにした。
横浜中華街と比べて非常にこじんまりとしており、お店が面している通りは数本しかない。
何か良いお店があればここで夕ご飯にしてもいいね、という話はばばろあとしていたのだけど、そもそも全くあてにしていなかった。中華街で何を食べるんだ?麻婆豆腐とか野菜炒めとか?
もちろん、本格的な料理人が作るそれらの料理は、旨い。しかし、その技術料や食材費は高くつき、どうしてもお値段が「うわ!」と驚く状態になってしまう。四川料理店や湖南料理店といった若干特殊なジャンルのお店ならともかく、日本で一般的な広東料理店ならば・・・すまん、恥を承知で書く。「餃子の王将でいいじゃないか」、と。
特に我々ご一行、同じ出身高校とはいえ社会人になって早20年。財力の差というのは当然ある。「高いけどうまいもん喰おうぜ!」というのは、誰かがしんどい思いをする可能性がある。だから、「安いけれどもうまいもん」を探すのがみんなハッピーになる近道。
金銭感覚が近い会社の同僚とか、よく会う地元の友達というのとは違うのがアワレみ隊。結構、こういうところは気を遣わないといけないのが2017年のスタイルだ。
中華街に入ってすぐのところにあったお店。ソフトクリームを点灯で売っているのだけど、「ウェイパー味」のソフトクリームが売られていたので大笑いした。
「中華街一危険なご当地ソフト」だって。
どんな味がするのか、想像がつかない。いや、もちろんウェイパーの味なんだろうけど。
要するに、町の中華料理店で炒飯頼んだ時についてくる、スープの味がするってことだよな?それ、うまいのか?
だからこそ、値段のところに「挑戦料」と書いてある。旨いかどうかはお前が確認してみろ、というわけだ。やるなあ。
ちなみに初級で330円、上級で350円。
上級になると、ウェイパーの量が増えるってことか。なにそれ怖い。
いったんは通り過ぎたが、「あとでもう一度お店の前を通ったら、挑戦しよう」と思った。が、数分後にお店の前を通ったら、お店は閉まっていた。ありゃ、19時半閉店だったのか!
19:36
中華街の中にある、お土産物屋さん。
お菓子だけでなく、中華食材も扱っている。
店頭だけでなく店内にも山積みになっていた、「よりより」というお菓子。漢字で書くと「麻花巻」というらしい。
僕はこのお菓子のことを全く知らなかったのだけど、横浜中華街でも売っているらしい。しかし、本場は長崎で、長崎中華街定番のお菓子だという。
安くて量が多いので、職場に配るには最適だ・・・と思って買ってみた。後日職場で配ったら大好評だったし、僕自身食べてみたら「なにこれ!シンプルなのにうまい!」と驚いた。
この「よりより」、単に小麦粉とベーキングパウダーを捏ねて、紐状にしてねじって、それを揚げたものだ。ガチガチに硬く、歯が弱い人は歯が折れる危険がある。しかし、そんなよりよりをガリガリと食べると、かなりうまい。何でだろう、わざわざ通販したいくらいだ。
そんな傍らで、ばばろあは台湾の調味料「沙茶醤(さーちゃーじゃん)」を複数買い込んでいた。家で使うんだという。
「昔は凝った料理も作りおったけど、最近は面倒くさくなって。麺類、多いで」
と苦笑しながらばばろあが言う。麺類は汁物でもあり主食にもなるので、良いという。なるほどそういう考えがあったか。僕はほとんど自炊で麺類を食べないが、ちょっと試してみよう。
19:41
結局「これはいい」という決め手がなく、中華街をあとにした。下調べしていれば、ナイスなお店があったのかもしれない。でも、外見だけ見ても正直よくわからなかった。店頭にあるメニューを見るとビビるし。
横浜中華街は今やすっかり観光客向けになり、食べ放題のお店がやたらと存在する。しかも、2,980円食べ放題、くらいだったのが、過当競争に巻き込まれて「1,980円オーダーバイキング時間無制限」みたいな有様に。
もちろんそういうお店で、中華街ならではの高い技術と高級食材!というのは無理だ。腹一杯食べられるけど、味としてはバーミヤンと同等というお店もある。
昔の横浜中華街は、「折角観光で訪れたのに、高級店ばっかりでちょっと敷居が高い・・・せや!店頭の肉まんで済ませたろ!」という場所だった。その点、庶民でもちゃんとお店でご飯が食べられるようになったのは良かったと思う。
一方の長崎中華街は、悪い意味での俗化は進んでおらず、食べ放題!激安!といったお店は見当たらなかった。
ばばろあがホテルのフロントで夕食がとれるお店のお薦めを聞き込み調査していたので、そのお店を目指すことにする。
我々の宿泊地、ホテルマリンワールドが丘の上で光り輝いている。飲食店ビルだったときは一体どれだけ華やかだったんだろう、この建物。
19:45
長崎を侮ってはいかんな、と先ほどから驚きっぱなしだ。
いやー、繁華街が広い。繁華街、といってもドラッグストアとか携帯ショップとかそういうのではなく、飲食店街がズルズルと続く。バーやスナックのネオン街ではなく、一般的なお食事の店もかなり多い。
地方都市でここまで賑やかな繁華街ってどれほどあるのだろう。・・・あれ?全国各地を旅しているつもりになっていた僕だけど、「ご当地繁華街事情」ってのは全く疎いことに気がついた。旅行といって、山だったり温泉だったり、基本的に街中から遠ざかることしかしていないからだ。ましてや、スナックなんて僕には全く無縁だったし。
五島列島料理のお店。タイミングさえあっていれば、今日今頃は五島列島にいたかもしれない。
「あれ・・・?」
なんの気なしにメニューを見たら、鯨料理が書いてある。さっき、鯨料理専門店があったばかりなのに。しれっと稀少価値のある食材を投げ込んでくるんだな。
「長崎って鯨が有名で?」
「まじで?そうなの?知らなかった」
ばばろあから教えてもらって、初めて知った。道理で、あちこちで鯨料理がメニューにあるわけだ。
しかも、新発見だったのが、長崎は日本でもっとも鯨肉消費量が多い土地なんだそうだ。シーシェパードが聞いたら発狂しそうな場所だな。
調査捕鯨しかできない今でも、あちこちのお店で潤沢に鯨料理が提供されているというのはすごい。これは是非、長崎滞在中に鯨肉を食べなくては。
19:49
「思案橋」と呼ばれるエリアを歩く。
知らない町歩きというのは、本当に楽しい。
「あれっ、この時間でも個人商店が営業をやってるな?」と思って中を覗くと、酒屋さんだったりする。派手な形をした瓶のブランデーが並んでいて、恐らくスナックやパブといったお店に卸しているのだろう。
そういえば、スナックやバーでは、東日本はウイスキーを飲むのに対し、西日本になるに従ってブランデーを飲む比率が高くなるというデータがある。日本酒と焼酎の比率みたいに、洋酒でも日本の東西で差があるというのは面白い話だ。
19:50
ホテルのフロントで紹介してもらったお店、「雑魚屋」を発見。名前のとおり、長崎界隈の地魚を食べることができそうだ。ちゃんぽんとかトルコライス、卓袱料理といった長崎のグルメにも興味はあるが、今日はひとまず魚だ。昼間はクルーズをやったんだし。
あれっ、ここにも店頭に「くじらあります」の表示が。本当にくじらって、長崎では愛されているんだな。そして、観光客にとっても「折角長崎に来たんだから、鯨食べたいよな!」って思っているんだろうな。僕は全く知らなかったけれど。
いけすがあって、雑魚・・・とは思えない魚が泳いでいる。鯛だぞ、おい。また、「夜9時以降活魚割引」という看板も出ていて、おもしろい。えーと、時間はまだちょっと早いな、割引きには一足早かったか。
でも、ここならうまい魚が食べられそうだ。
19:55
「うひゃああああああああ」
端から聞いてて、大変に微笑ましいうめき声を上げて生ビールを煽るばばろあ。一方で蛋白質は瓶ビールを頼み、「うむ」と言いつつちびりちびりと。
なにせ今日はよく歩いた。オランダ坂、グラバー邸、軍艦島、そして出島から思案橋。その割に水分補給は少なかったので、そりゃあうまいに決まっている。
僕はノンアルコールビールをあおってご満悦。
でも残念なのが、ノンアルコールビールってお店で頼むと小瓶で出てくることが多いこと。大瓶を出してほしいし、ジョッキの生も出してほしい。業界全体、やる気が感じられん。そんなニーズがないからだとは思うけど、つくづく惜しい。
レギュラーメニューとは別に「本日のお魚情報」と書かれた紙をもらう。これが3枚に渡るんだから、かなり仕入れに拘っていることがわかる。いいねぇいいねえ、じゃあ上から順に。
やめなさい。食べきれるわけがない。そもそも値段を見ろ、3,000円超えなんてものもあるぞ。
さすが「雑魚屋」を標榜するだけある。聞き慣れないお魚だらけだ。
「あらかぶ」「三の字鯛」「キッコリ」「ユメカサゴ」「くちび鯛」「なべだい」・・・キッコリって、愛知万博かなにかのキャラクター名だったっけ?いや、それはモリゾーとキッコロだ。
とにかく何を頼んでいいのかさっぱりわからん。値段が4桁のものが結構あるし、ボリュームがどれくらいかもわからない。それ以前に、赤身なのか白身なのか黄身なのかさえわからん。いや、黄身は玉子のことだからさすがにこの中には入っていないと思うけど。
3人がかりでウンウン唸っていたら、店員さんがやってきて「すいません、メニュー間違えてました」といって3枚とも差し替えになってしまった。間違えて前日の「本日のお魚情報」を持ってきてしまったらしい。えっ、一から考え直しっすか。
それにしても「あおな」ってなんだろうねぇ。チンゲンサイみたいなものではなさそうだ、値段が値段だけに、やっぱりこれも魚なんだろうな。
ホウセキハタとかいうのも名前が気になるし、さてどうしたものか。
結局このあたりの「お値段3桁料理」っていうのが一番頼みやすい。量は少ないかもしれないけど、その分あれこれ注文ができるし、「分散投資」になる。大外れを引き当てても、他の料理でリカバーできる。
テーブルには、3種類の醤油差しがある。
「かけしょうゆ」「さしみしょうゆ」「ぽんず」。
ブブー、このうちの一つはウスターソースでしたー、なんてことはなさそうだ。
九州の醤油は甘いということで、関東の人間からしたら賛否両論ある。でも僕は甘い醤油も好きだ。北陸界隈も醤油が甘く、たまに食べるといいものだ。
えっと、で、このうちのどれが甘くてどれが甘くない醤油だ?あれ?両方とも甘い?
ここから先は、あれこれ注文した魚料理の数々を写真でプレイバック。
魚の名前は聞かないでくれ、覚えていない。
ざっこ海老の唐揚げは特に人気で、おかわりをしてしまったくらいだ。お値段は手頃(580円)だったし。
忘れちゃいけない、鯨カツ。730円。
「値段の割に結構ボリュームがあるね!」
と喜んだけど、本来なら鯨肉ってもっと安くて手軽に食べられたはずなんだけどね。まあ、「ワシらが子供の頃は学校給食で・・・」なんて話をすると辛気くさいので、これ以上鯨の思い出を語るのはやめておこう。
「鯨肉食べたっていいじゃないか!」という議論において、その半分以上が「子供の頃食べたノスタルジー」というセンチメンタリズムだと思う。食べられないなら食べられないで、別に生活に支障はない食べ物ではある。超絶旨い、という食べ物ではないし。
・・・とはいっても、久々に食べると旨いんだよなあ、これが。ひっさびさだよ、鯨肉。やっぱり油と相性がいいよな、揚げるととてもうまい。
たしか僕が直近で最後にたべた鯨肉って、「ツチクジラの陶板焼き」だったと思う。あれはあんまりおいしくなかった。「陶板焼き」って、僕にとっては今まで旨い料理に出会ったためしがない鬼門だ。
天ぷらとかも食べる。
卓上では、キリスト教談義が熱心に行われている。もっぱらばばろあと蛋白質の会話で、僕は聞き役に回っていた。
21:26
夕食中アワレみ隊。
蛋白質はすっかり遠藤周作に感化されてしまっていた。ことある度に「ああ!それは遠藤周作もこう言っててな」と引用しようとする。しかも、かばんから遠藤周作の本を取り出し、該当するページを開き、ばばろあに「ほら、ここを読んでみ?」と差し出す。しかも、何度となく。
それをばばろあは一瞥し、
「お前、ちゃんと自分の言葉で喋れ。遠藤周作が好きなら、100回読み返せ。まだその程度じゃ好きとは言えん」
と本を一瞥したのち、返していた。
「今のお前は自分の都合のええところを読んでるにすぎんで。体調がええとき、悪いとき、いろんなときに読んでいるうちに、この人が何を言いたかったんかホンマにわかるようになると思うんよ。遠藤周作が好きならそこまでやれ」
僕は中学高校時代、北杜夫(どくとるマンボウ)と遠藤周作(狐里庵先生)のエッセイが好きでよく読んでいた。日がな一日、やることがないので鼻毛を抜いて原稿用紙に貼り付けていたら編集者から怒られた、とかそんな話。なので、むしろ遠藤周作の硬派な小説というのはほとんど縁がなく、彼らの会話には突っ込んで入っていくことができなかった。
23:03
夕食の後半はばばろあオンステージ状態。彼が薫陶を受けた山本七平(イザヤ・ベンダサン)による日本人論にはじまって、自分の職場から見た日本の縮図とかいろいろな話がマシンガントーク。彼だったら2時間くらいの独演会は準備無しで余裕なのではないか?と思えるくらい、喋り倒していた。
そういえば「最近どう?」みたいな身近な話はあまりしなかったし、「最近どんなテレビ見た?」みたいな雑多な話もほとんどなかった。そのかわりに新約聖書と旧約聖書が、とかそんな話を延々とやっているのだからアワレみ隊は独特な世界だ。
ホテルに戻ってみると、大浴場は23時でクローズだということに気がついた。ありゃー。ついつい夕食で話し込んでしまった。
部屋から窓の外を見ると、夜景がとても美しかった。東京の夜景とは全く違う。山という立体感がある地形があるし、大きなマンションがゴツンと固まって明かりを放っているのではなく、中~小規模の建物が一つ一つ、ばらけながら明かりを放っているのが美しい。
しばらくこの光景にみとれてしまった。
しかし一方で、目の前の景色はあんまり喜ばしいものではない。
なんだこの浴衣は。
浴衣があるのはありがたいんだが、帯の長さが完璧に短い。
帯を一回腰に回しただけで、残りの長さがこれだけしかない。これだと、帯を固結びにするしかやりようがない。一般的な帯の結び方は無理。
なんでこんな短いのか、信じられない。というか、よくもまあこんな帯が市販されているものだ。売る方も売る方だが、宿の備品として備える方も備える方だ。
・・・だが、あとになってこのホテルが中華資本だということを知り、納得した。宿のオーナー、日本の浴衣について理解がなかったのだろう。「所詮腰紐でしょ?短くても縛ることができれば問題ないでしょ?」という発想なのかもしれない。
24時前に就寝。
2017年05月03日(水・祝) 2日目
07:40
アワレみ隊長崎ツアーの2日目。今朝は朝8時にホテルのフロントで集合という約束。
窓から長崎の朝を眺める。
08:05
朝ご飯をどこで食べるか問題があった。
いったん、ホテル目の前の中華街に行ってみることにした。ばばろあが「粥なんてやってる店、ないかねえ?」という。
多分ないだろうねえ、という話をしながら中華街を歩いてみたが、案の定やっていなかった。朝から営業しているお店自体が、ない。
これは規模が大きい横浜中華街も一緒で、あれだけの店舗数を誇る横浜中華街でさえ、朝食を提供するお店はごくごく僅かだ。観光客向けの場所でもあるので、そんなに朝早くからお客さんはやってこない、ということなのだろう。
もしこの中華街が駅前にあるならば、通勤途中のお客さん向けに中華粥のお店なんて流行るとは思うのだけど。
08:25
僕がネットで調べた、朝から「焼きカレー」を出す喫茶店を発見したのでそこを目指す。ちょうど長崎の観光地として名高い「眼鏡橋」の近くでもあったし、都合がよかった。
途中、商店街を歩いていく。
開店準備をしているお店のところに、「バイキング」という文字が見える。
ばばろあが店員さんに「バイキング・・・やってます?」とダメもとで聞いたら、「お昼なんですよ」と言われあっけなく轟沈。
08:27
それにしても長崎恐るべし。昨晩思案橋で飲食店の多さにびっくりしたけど、アーケード付きの商店街もかなり立派なものがある。こんなに栄えている場所だとは知らなかった。
「おい、ドトールあるで?」
ばばろあから報告が入る。つまり、「朝飯なんてドトールでええんじゃないか?」というお誘いだ。
「いや、折角だから」
と言い、当初目標のお店に向かう。何が折角だかさっぱりわからないけど。焼きカレーは長崎名物でもなんでもないのに。
ドトールとかプロントの横を通り過ぎていく。
08:29
「フレンチちゃんぽん」を出すフレンチレストランがあった。
シェフが「いらっしゃいませー」とポーズを決めている看板が印象的。
気になるフレンチちゃんぽん、1杯850円。フレンチレストランとしては安い。しかし一体どんな味なんだろう?写真を見ると、ムール貝が乗っかっている。さすがにこのお店は朝からやっているわけは・・・ないよな。この時間から営業していたら、予定を変更して入店していたかもしれない。
08:31
「結構歩くねえ」
地図で見ると目と鼻の先のような場所だけど、思ったよりも歩く。しかし商店街は途切れることなく、アーケードがなくなってからもまだ続く。本当にたいしたもんだ。坂が多い町なので住みやすいかどうかはわからないけど、住んでいて楽しい町だと思う。
08:33
朝ご飯のお店を選んだ立場上、なかなか到着しないことに軽く焦りを感じていた。
「あともう少しだよ、あと数分」
「ほら、次の交差点を曲がればもう到着だよ」
と仲間を励ましながら、前へと進む。結局、中華街あたりを彷徨ってから30分くらいかけて、お店に到着した。
お店の名前は、「茜屋」という。朝からやっている喫茶店だ。
朝から営業している飲食店をネットで探した際、チェーン店系のカフェやファストフード店を除くと、比較的近場だったのがここだった。単なる喫茶店だったらさほどワクワクしないけど、このお店は焼きカレーが売りだという。焼きカレー!それはちょっと惹かれる。
朝から焼きカレーが食べたいかどうかはともかく、そういう「おっ!?」と思えるものがメニューとしてあるなら、ぜひ訪れたいよな。というわけでこのお店へ。
ここまでやってきて営業していなかったらショックだが、ちゃんと営業していたので安心した。店頭にはメニューがいっぱい。さて、何を食べようか。焼きカレーといってもいろいろな種類があるので、悩ましい。
店内はさほど広くなく、客は我々だけ。
最近、ノマドワーカーが跋扈する系のカフェばっかり行っているので、こういう「喫茶店!」というのは本当に久しぶりだ。狭い空間に情報量が豊富なので、ついソワソワして周囲を見渡してしまう。
モーニングは2種類。500円または600円。
何が違うのかとおもったら、Aセットだと目玉焼きがついて、Bセットだとスクランブルエッグなのだという。それ以外は一緒。スクランブルエッグのほうが100円安い、という値付けがおもしろい。
お得なモーニングも気になるけど、やはりここまで来たからには焼きカレーを頼まなくちゃ。
全メニュー、「小」「中」「大」の3サイズ用意されていて、そのときの腹減りっぷりにあわせて加減ができる。さあて、何をどれだけ食べてやろうか。
「ありゃ!」
メニューを裏返すと、クリームシチューもあることが判明。焼シチューだってあるぞ。
まいったなあ、朝だし、シチューとトーストの組み合わせってのいいなあ。
迷ってしまって困るので、これは見なかったことにしよう。
お店の壁面には漫画がびっしり。
久しぶりにこういうのを見た。それにしても、この手のお店に置いてある漫画というのはどこも似ている気がする。
蛋白質が頼んだ朝ご飯、Bセット500円。
コーヒーではなく牛乳。
ばばろあが頼んだスタンダードな焼きカレー。
僕が頼んだのは、春限定だという新たまねぎとトマトの焼きカレー(中)。
朝からカレーを食べたら、随分と体が温まって気力が湧いた。
そういえば、「腸は第二の脳だ」と言われるようになって久しいけど、腸を温めると鬱が治るという説を誰かが唱えていたっけ。で、腸を温めるにはスパイスが入ったカレーが最適とかなんとか。本当かよ。
真偽のほどはともかく、朝からカレーを食べて、「よっしゃ、今日も一日活動するぞ!」という気力がみなぎったのは間違いない。おいしい朝ご飯だった。さて、今日も頑張ろう。
09:17
時刻は既に9時を回っている。さすがに焼きカレーを朝食として選ぶと、調理にも食べることにも時間がかかる。とはいえ、未だにこの時点で「今日何をやる?」ということが全然決まっていない有様で、どうにでもなるだろう。
ひとまず、浦上天主堂に行く、ということだけは決まっている。それだけ。
ホテル前に駐車してある車をピックアップするため、いったんホテルまで戻る。
その道中、昆布屋があり、興味津々のばばろあ。
09:18
「眼鏡橋に行く前に、ここは寄らせてや」
とばばろあが熱望したのが、日之出饅頭店。木枠のショーウィンドウが目に付く、古い感じの和菓子屋だ。先ほどこのお店の横を通り過ぎた際、ばばろあが
「うおお、この店多分うまいで。あとで試してみんと」
と直感で感じ取っていた。ショーウィンドーのすぐ奥で、お菓子制作の作業中。職人さんの働きっぷりを見ると、購買意欲がかき立てられる。
しかし、その制作中のお菓子・・・らしきもの・・・が、なにやら見たことがない物体だ。豚の角煮かと思ったけど違う。コンニャク?いや、まさか。
ばばろあが、「あくまき」という食べ物だ、と教えてくれた。何それ?知らない。見たことも聞いたこともない。
九州地方、特に九州の南方面で端午の節句で食べられるお菓子だ、と教えてくれたが、一体何だありゃ?ぶるん、とした形で、しまりがあるようなないような。遠目でしか見ていないので、正体がよくわからなかった。初めて見る物体だったので、うまそうには見えなかった。
完成品は店頭のショーケースにも並べられていたけど、ガーゼのような白くて薄い布にくるまれ、両端を縛られ、とにかく怪しい外観だった。面白いお菓子があるものだねえ。
あとで調べたら、もち米を灰汁(あく)で炊いたものなのだそうだ。へええええ!だからあくまき、なんだ!
さすがに大きなあくまきは購入しなかったけど、とても値段が安いのでばばろあに釣られて僕も饅頭を購入した。かしわ餅70円、温泉饅頭のような茶色い饅頭60円。
眼鏡橋がかかる川に出て、橋の上で饅頭を食べる。ばばろあ、絶賛。
「あんこが旨いねえ。こういうあんこがええんよ、最近なかなかないけえね、こういうの。もっとありゃええのに。なんでないんじゃろうねえ」
09:22
眼鏡橋のちょっと上流にある橋。こっちも石橋なんだな。立派。
09:23
そしてここが眼鏡橋。
先ほどの日之出饅頭店からすぐ近くなので、饅頭食べながら眼鏡橋観光をするにはうってつけだ。
橋のたもとでは、若い女性たちが写真撮影に余念がない。一人が橋の上に立ち、のこりの仲間が橋の下から写真を撮っている。橋の上の人はジャンプしたり大はしゃぎ。いいねえ、楽しそうで。
一方我々アワレみ隊の記念撮影はたるんどるな。もっと彼女達を見習って、躍動感ある写真を撮らないと。観光地でキヲツケのポーズで写真を撮るなんて、団塊世代とやっていることが一緒だ。せいぜい、真面目な顔ではなく笑顔になった分、団塊⇒団塊ジュニアへの進歩が見られるけど。
しかし今こうやって目の前に展開されている、「躍動感ある記念撮影」というのとは次元が違いすぎる。僕らも、もっと跳んだり跳ねたりしなくちゃ。写真がブレるくらいに。
と、言ってるそばから記念撮影がこれだ。みよ、これが団塊ジュニアの現実だ!!
この写真は三脚の先にカメラを取り付け、カメラのチルト式液晶画面をこちらに向け、セルフタイマーで撮影したものだ。自撮り棒方式なのだが、なにせカメラと自分たちとの間で距離が短い。カップルや女の子同士なら、密着することでなんとか写ることができるけど、いい歳をした男同士それはイヤだ。適度な距離をお互い確保しながら写真撮影・・・となると、いくら広角24mmレンズであってもこれが限界だった。「イヤッホウ!」と躍動感ある動きをした瞬間に、誰かが写らなくなる。
09:29
眼鏡橋からホテルに戻る途中、小さな古美術屋があった。ばばろあが
「すまん、ちょっとだけ中を見させてくれ」
という。まだ開店準備中だったお店だけど、店員さんに許可を取って中へと入っていった。中には伊万里などの皿が置いてあったようだ。
しばらくしてばばろあが戻って来た。
「何か戦利品、あったか?」
「特にはなかった」
相変わらず彼はこういう骨董品が好きなのだな。以前、アワレみ隊で長野の蕎麦食べ歩きをやった際、蕎麦屋に置いてあった陶器の一輪挿しがどうしても欲しくなり、店主に頼み込んで売ってもらった・・・という逸話がある男だ。
「そういえば、あのときの一輪挿しはどうなった?」
「今思うとね、なんであんなん欲しかったんじゃろ?と思うわ。頼み込んで譲ってもらった手前申し訳ないので、お店に返しにいこうかと思ったくらいで」
あらら、そうなのか。
そういえば彼はオークションで、毒ガスマスクを蒐集するという趣味もあったっけ。それはどうなった?
「引っ越しの際に随分整理した」
あれっ、そうなのか。一時、ばばろあといえば毒ガスマスクというくらい、特殊な趣味の持ち主だったのに。
「かさばるんよ、あれ。使い道ないし」
まあ、そりゃそうだ。ゴムの部分が乾燥したり劣化してひび割れるので、真空パック状態にして保存しないといけないらしいし、案外デリケートなものだと聞いている。
09:34
アーケードがある商店街に戻ると、頭上に大きく「質屋という選択」という看板が。
なるほど!そういう選択肢があったか!
全く思いつかなかったぜ。お金に困ったら、質屋という選択を思いだそう!
金券ショップとかメルカリとかオークションとか、そっちばかり目に付くけど、そういえば質屋ってあったよね、と今頃になって思い出した。それくらい、今やすっかり存在を忘れ気味の位置づけ。・・・でも、質屋に入れるものなんてないぞ?
10:04
浦上天主堂を目指す。
教会には駐車場がない、ということだったので、駐車場手前のコインパーキングを見つけて駐車。
このコインパーキング、60分200円なのだが、一番奥のスペースだけ半額の60分100円になっていた。壁際で駐車が若干難しくなるのと、隣の敷地から木が突き出ていて邪魔だからだろう。敷地内の場所によって値段が違うコインパーキングなんて、初めて見た。
10:09
カトリック浦上教会。浦上天主堂ともいう。「うらがみ」と呼ぶのかとおもったら、「うらかみ」なんだな。気がつかないで、旅行中ずっと「うらがみ」と呼んでいた。
それ以前に、「大浦天主堂」と「浦上天主堂」、どっちがどっちか混乱してしまい、しばしば間違えた。両方とも「浦」が付く名前なので、間違えやすい。
教会はとても巨大で、ちょっとした丘の上に建っている。浦上教会へ通じる道はこの教会の正面からまっすぐ突き当たるのだけど、建物を目の当たりにした時は思わず3人とも「うおっ!」と声を上げてしまったくらいだ。それくらい、インパクトがある荘厳な建物。そして驚いたあとに笑ってしまい、「すげえなあ」と嘆息する。
原爆が投下された場所から近いのだけど、我々は原爆関連施設には立ち寄らなかった。
教会の入口に、「長崎大司教区 司教座聖堂」という表札が出ている。つまりこの界隈を管轄する中心地だ、ということだ。いわゆる「カテドラル」にあたる。
以前は大浦天主堂がその役割を果たしてたそうだが、戦後こちらに移っている。そういえばこの建物周辺には、大きな「カトリックセンター」や「大司教館」といった建物が並んでいる。地図を確認すると、さらに周囲には神学院が複数あり、周辺施設を含めるとかなり大規模なキリスト教村を構成していることがわかる。
さすが、「信徒発見」の15信徒の出身地だ。ある意味、日本における近代キリスト教の総本山的な位置づけなのかもしれない。
10:10
教会見学のマナーについて、という掲示がある。
教会内では静粛にしないといけないのは当然として、写真撮影も禁止されている。
10:11
イエス・キリストを抱いたマリア様がお出迎え。
目の前にある建物は信徒会館だろうか?
浦上教会。
こんな巨大な教会が日本にもあるのか!と驚かずにはいられない規模感。聞くと、信徒数7,000人を誇り日本最大規模なのだという。7,000人!?どうするんだ、日曜日のミサはいくら教会が大きくても人が溢れてしまうぞ。
いやご安心ください、ミサは土曜日19:00、日曜6:00、7:30、9:30、18:30の計5回やっとりますので。
へえー。
ミサというのは「日曜日の朝、一回だけ」だと思っていた。蛋白質は、「午後に外国人向けの英語ミサがあって、それにも出ることがあるので一日2回ミサに出ることもあるよ」と言っていたけど、この教会は日曜日だけで4回も開催されるのか。これだったら、「土日は旅行や所要でミサに出られなくって」という人でも安心だ。
10:13
昨日の軍艦島に引き続き、神妙な顔付きになっている蛋白質。
僕とばばろあは「観光地に来ました」というスタンスだけど、彼は自分の信仰に基づいてこの地に足を踏み入れている。真剣だ。
10:24
中に入らせてもらう。
ここは観光地として有名ということもあり、聖堂入り口には受付の人がいた。
一般の観光客は、参列者席の最後尾からしか見学ができないのだけど、信徒であれば中に入ることができるという。蛋白質は、受付の人に「○○教会から来ました、蛋白質です!」と元気よく告げ、キリスト教徒の証?らしいペンダントのようなものを見せ、中に入らせてもらっていた。
観光客向けのところには、神社のお賽銭箱のようなものが置いてあり、拝観料のかわりに献金をすることになっている。圧倒的規模感の建物に驚きつつ、少額ながら献金をした。
この建物は、原爆投下時に廃墟となってしまったのだが、その後再建され今に至っている。総レンガ造りで再建するわけにはいかないので、鉄筋コンクリートで作り、レンガパネルを表面に貼った作りになっているそうだ。
廃墟をそのまま保存していれば、広島の原爆ドーム同様に原爆投下のシンボルとして平和教育や観光資源の素材になったのに・・・と惜しむ声もあるそうだが、この地に「活きた」教会を建てることは過去の歴史からみても必須、という教会側の意向も踏まえ、瓦礫を撤去して再建の道を選んだそうだ。
10:55
遠藤周作文学館に向かう前に、稲佐山に行ってみることにした。
稲佐山に通じる道はぐいぐいと標高を上げていく。道中ホテルがあちこちにあり、よくもまあこんな急斜面にホテルを作るものだ・・・と呆れるが、展望がとても良いので旅館業としてはやりやすいのだろう。
途中、駐車場の分岐があった。
「稲佐山公園」の駐車場は無料、「稲佐山展望台」の駐車場は有料と書いてある。
もちろん無料の方がいいけど、僕らが行きたいのは展望台だ。「公園」から「展望台」までは結構歩くのだろうか?
えーい、と有料のほうを選んでみたら、30分100円だった。あ、安い。こっちを選んで正解だった。ただし、展望台の駐車場は40台しか駐車できない。数に限りがあるので、ピーク時は利用できないと思う。
展望台には、円筒形の茶筒のような建物が建っていた。
11:12
展望台の上から長崎を360度眺める。いやあ、いい景色だ。
ばばろあが、
「あの山の上に高射砲があって、それからこっちと、そっちにもあって」
と一つ一つ解説する。
「全部行ったんか?」
と聞いたら、行ったという。(「全部」だったか、「だいたい」だったかは覚えていないけど)
今は行かないの?と聞くと、「もうこの時期はダメじゃ。藪が茂っとる。勝負は草が生えるまでの秋から冬にかけて」と言う。
砲台跡というのは山の上にあるものだ。そしてまだ「その当時の痕跡が残っている砲台跡」というのは、宅地造成などで破壊されていない場所だ。となると当然、そこまで辿り着こうとすると藪漕ぎが必須となる。地図とコンパス、そして取り寄せた航空写真などをもとに道なき道をよじ登るのだからスゲーワイルドだ。百名山登山が趣味です、なんて言ってる僕なんかよりよっぽど強靱だし、タフなヤツだ。整備された登山道しか歩かない僕はヒヨッコに過ぎない。
「しかし、長崎を取り囲むように砲台があったのに、結局原爆投下は防げなかったんだね」
と水を向けたら、絶好調のばばろあは、さらに熱く語り続ける。
「高射砲なんて役に立たなかった、全然B29には当たらなかったと証言する当時の人がいるけれど、それは違う」
なんて話だけで数分。そこから当時の米軍の爆弾の話が数分、と続いていく。いやー、本当によく研究している。ライフワークじゃないか。
「そこまで調べているなら、本でも出してその知見を後世に遺したほうがいいんじゃないか?」
と聞いたら、
「砲台好き、というジャンルの趣味の人がどれだけおると思っとるんや?おらんで、そんなヤツ」
と言われた。なるほど確かにそうだ。あと、ばばろあが言うには、上にには上がいて、アメリカの公文書図書館にまで行って戦時中の資料を探すような人がいるそうだ。そういう人にはかなわん、と。
いずれ、「マツコの知らない世界」みたいにマニアが紹介される番組にお呼びがかかるんじゃないか?と思うが、戦争がらみでデリケートな内容にテレビ局が慎重になるだろうから、実現は難しいか。
11:04
「おっ、ここにも双眼鏡があるぞ!」
またもや喜びいさんだ蛋白質、財布から100円玉を取り出して早速投入していた。
ただ今、なんとかして大浦天主堂を発見しようとして苦戦中。
裸眼の我々はすぐに発見できるけど、超望遠の双眼鏡越しの蛋白質はみつけるのが大変。「ほら、アレが見えるだろ、あの右」「アレってなんだよ」という押し問答が繰り返される
ジャイアント・カンチレバークレーンを見下ろす。
「あれっ、豪華客船がいなくなってるぞ」
三菱重工長崎造船所・香焼工場に昨日はいたはずの豪華客船が姿を消していた。今朝、無事にスペインに向けて出港したらしい。我々が見ることができたのは本当に運が良かった。
「まさか、沈んでないよな?」
やめろ縁起が悪い。あれが沈んだら、損害が一体何千億円になるというんだ。
遙か沖合いを見ると、橋の向こう側に高島が見える。
高島の左側に小さな島が二つ並んで見えるけど、その手前が中之島、奥が軍艦島(端島)。かろうじて軍艦島も見ることができた。
さすがにここからだと軍艦っぽくはみえない。しかし、「言われてみればなんとなくカクカクしたシルエットかもしれない・・・?」くらいには見える。
まだ鉱山として営業していたころ、高島にしろ軍艦島にしろ、夜な夜な煌々と明かりが灯っていたのだろう。そのときの光景を見てみたかったな。
展望台から海沿いをぐるっと見渡していると、「なんだこりゃ?」という光景に出くわした。
別に変な建物ではない。マンションだ。ただし、やたらとデカイ上に数が多い。折りたたまれた屏風のように、並んでいる。
長崎市街からちょっと離れた場所で、通勤通学が決して便利な場所ではなさそうだ。それなのに急にあれだけのマンション群がそびえるというのはびっくりだ。
双眼鏡を熱心に眺めていた蛋白質に、あのマンションはなにものなのかを見てもらったが、「単なるマンションにしか見えん」ということだった。謎だ。
ただし、あらためて地図で確認してみると、バスに乗っていけば長崎市街まで遠いというわけではなさそうだ。あと、三菱の造船所に勤務している人にとっては、職場の裏手にあたる場所がこのマンションだ。ちょうど通勤に都合がよいのかもしれない。
稲佐山展望台をあとにしたアワレみ隊一同は、そのまま外海と呼ばれる長崎の沿岸部を北上していく。
今日はこのあとシーサイドドライブを続けていくだけだ。
途中遠藤周作文学館に立ち寄り、夕方までに池島行きの船が出ている瀬戸港に着けばいい。
遠藤周作文学館は、ちょうど長崎市街から瀬戸港に向かう中間地点くらいにある。
そして、瀬戸港はここ。
今晩のお宿、そして明日の炭鉱見学をする池島はここにある。ハデさでいえば軍艦島の方が上だけど、ここも以前から注目していた島。
日本で最後まで続いた炭鉱、ということで閉山してからの年月が他の鉱山跡と比べて浅い。なので、「現在と過去」をリアルタイムで見ることができるはずだ。
池島に行くには、前述の瀬戸港の他に、神浦港という場所もある。瀬戸港と比べて遠藤周作文学館寄りの場所にあるので、一見こちらの方が便利だ。しかし、一般的な池島の表玄関は瀬戸港という位置づけらしい。
ばばろあも、瀬戸港発着を前提に旅の計画を立てていた。しかし、このあと万が一予定が狂った場合、手前の神浦港発の船を使うことも想定しておかないといけない。
とはいえ、池島では明朝に炭鉱見学ツアーに申し込んである。なので、昼過ぎまでは池島に滞在する予定だ。無理に今日、池島を見て回る必要はない。焦らずに前へ進もう。
ばばろあはこのあたりで昼飯と食材の買い出しを想定していた。地図を見るとなにやら立派な埋め立て地がある。どうやら、長崎漁港がここにあるらしい。
お昼ご飯はともかく、なぜ「買い出し」が必要なのかというと、今晩の宿は素泊まりだからだ。メシ代を省いたというのではなく、素泊まりしかやっていない宿だからだ。「池島中央会館」と呼ばれる施設で、合宿所みたいな建物だ。島にはここしか宿泊場所がない。
島には僅かに食事がとれるお店もあるのだけど、閉店までに間に合うかどうかわからないし、営業しているかどうかも怪しい。何しろ、軍艦島同様炭鉱の島だったわけで、今や島のほとんどが廃墟になっていると聞いている。いつ「廃業しました」になっていてもおかしくはない。
というわけで、買い出しができる場所で買い出しを、というわけだ。
「大丈夫かね、魚とか買って腐らんかね?」
買い出し場所が宿まで遠いことを気にするばばろあだけど、クーラーバッグに氷をしこたまつめて持って行けば大丈夫だろう。あとは気合いだ。刺身を買うなら、刺身そのものも、俺たちも気合いだ。
12:08
魚市場のあたりをあてもなく走っていたら、なにやら「長崎水産食堂」という看板を発見した。渡りに船だ、ちょうどよさそうなお店があるじゃないか。
「観光客様大歓迎」と書いてあるし、今まさに営業中っぽいのぼりも立っている。GW中だけど営業してくれているとはありがたい。文句なし、即決で本日のお昼はここに決定。
水産食堂は朝6時から14時までの営業。さすが魚市場の食堂だけある。夕方はやっていない。
あと、魚はすぐ隣の魚市場で仕入れているので、魚市場がやっていない日は休業とのこと。
ということは、今日も魚市場、開いていたんだ?連休中、どうもありがとう漁師さん、市場関係のみなさん。
だったら容赦はいらねぇ、食べるぞ-。
ついさっき焼きカレーを食べたばっかりだけど。「どんどん時間が後ろにずれていく」アワレみ隊だけど、今日のお昼は違う。12時にお店に入るなんて珍しいことがあるものだ。
メニューは大まかにいうと、「刺身定食」「海鮮丼」「煮魚定食」といったところ。
ほかにももちろん丼ものとか麺類、定食類も取りそろっている。
しかしなんといっても観光客としては、魚料理が食べたいところだ。となると、先ほどの3種類の中から選ぶことになる。
刺身定食は900円。ただしいろいろオプションがあって、「特大アサリ味噌汁付」だと+300円、「鯛のあら汁付」も+300円、「甘鯛のから揚げ付」で+500円となっていた。
チクショウ、良い提案だぜ。ついついオプションを付けたくなってしまう。
店内には、大皿おかずコーナーもあるのが変わっている。
食べたい料理をテイクアウトにしてもいいし、その場で食べてもかまわない。テイクアウトにする際は、パックを用意してくれる。
扱っているおかず類。
魚が多く、焼いたり煮たり揚げたり様々。ハンバーグといった肉類もあるぞ。
ちょうどいい、今晩のおかずをここで買っていくのはアリだな。
あっ、くじらカツ発見。
本当に長崎では愛されているんだな、くじらカツって。
「それにしても不思議だな、僕らって子供の頃食べたのは決まって『鯨の竜田揚げ』だっただろ?鯨のカツなんて食べた記憶がないんだが」
むしろ長崎では、竜田揚げよりもカツの方がメジャーな食べ物っぽい雰囲気だ。
食べた限り、ビールのつまみとしてはカツのほうが向いていると思った。どうしても竜田揚げはしっとりするし、できが悪いと粉っぽさも感じるから。
というわけで、おかずの追加一品としてくじらカツをガリガリと食べ、うまかったものだから今晩のおかず用にも買い求めた。なんだ、くじらってすごくうまいじゃないか。再発見だ。
蛋白質の頼んだ料理。煮魚定食750円。本日の煮魚はサバだった。味噌煮ではなく、照り焼きにしてある。
一方僕がつい「うっかり」頼んでしまった、刺身定食に甘鯛のから揚げ付、1,400円。甘鯛がオプションでつくの?しかも唐揚げで?どんな料理だろう?と思って頼んでみたらこんな状態に。
本丸のはずの刺身より目立つぞ、甘鯛。
そうかそうきたか、丸ごと一匹、揚げたんだな。切り身かと思っていたので「うおっ」と思わず声をあげてしまった。
甘鯛といえばグジとも呼ばれる高級魚。若狭湾など日本海側で穫れる魚だと思っていたけど、長崎県でコンニチハ。
味は淡泊で水っぽさもあるけど、うまみがしっかりあっていい。
甘鯛に気を取られてしまったが、刺身定食の本丸はこれ。
7種類もの刺身が載って、900円なのだからさすが安い。ありがてぇありがてぇ。ご飯が1杯では足りないくらいだ。
オプションという名の魔力に引きずり込まれ、刺身定食に特大アサリの味噌汁を付けたばばろあ。大げさなお椀に入った味噌汁をすすり、「あああ」と声を上げる。
店内の掲示によると、
当店の料理は俳優山下真司さん・料理名人服部幸應先生・料理達人道場六三郎先生等ご来店され 絶賛を頂きました。
だそうで。なんでいきなり俳優の山下真司さんが?と思ったが、ああそうか、「食いしん坊!万歳」だ。
12:53
長崎水産食堂の向かいに、都合がよいことにスーパーがある。
「おっ、サティがあるじゃないか!ここで買い物していこうぜ」
後で写真を見て気がついたが、このお店「サティ」じゃなくて「ステイ」なんだな。道理で変だと思ったんだ、サティって赤い看板だったはずだから。
ここでパックもののお総菜や刺身、そしてビールなどの飲み物も買う。
「あれ?お前らご飯もの喰わんの?」
僕以外、ご飯パックを買おうとしないので聞いてみたら、二人とも「いらん」という。酒飲みだからだろうか。
「最近小食になってね、あんまり入らんのよ」
ばばろあが苦笑しながら説明してくれる。もともと彼は昔から大食漢ではなく、「うまいもんを少量ずつ喰えればそれでええ」という人だった。
「蛋白質は?ご飯いらんの?」
「なくていいかな」
彼は今日は、「ノンアルコールワイン」を店頭で発見したのが嬉しかったらしく、それを買っていた。
「ホンモノのワイン、買えばいいのに」
「いや、むしろこういう時じゃなきゃノンアルコールのワインなんて飲まんじゃろ?」
確かにそうかもしれない。居酒屋で「じゃあボクはノンアルコールワインで」とは頼まないだろうし、一人で家で飲みたい気分、という時に買うものでもない。「どんな味がするんだろうねえ」と仲間でワイワイ言いながら飲んだ方が楽しいだろう。
一方のおかでんは、ノンアルコールビールを買っておく。ノンアルコールビールも飲むけど、シメでご飯も食べる。
おっと忘れてはいけない、明日の朝ご飯も買っておかなければ。菓子パンがワゴンセールになっていたので、そこから見慣れない菓子パンを見繕っておいた。
13:37
買った食材の重さよりも、もらった氷の方が重いんじゃないか?というくらいクーラーバッグに氷を入れてお店を後にした。
次に向かったのは、カトリック黒崎教会。
遠藤周作文学館のすぐ手前にある、国道202号線沿いにある教会だ。
このあたりは「外海(そとめ)」と呼ばれるエリアで、一つ一つは小さいけれど味わい深い教会があちこちにある・・・はずだ。以前取り寄せた「五島巡礼手帳」さえあれば、全ての教会が紹介されているのだけど、あいにく今回の旅では持参しそびれた。かえすがえす、惜しい。
ばばろあが池島に行く時間を気にする。しかし、「通り沿いだから、すぐに終わるよ」といい、立ちよってもらうことにした。
肝心のクリスチャンである蛋白質はぼんやりしていて、「行けるなら行きたいねえ」程度のスタンス。むしろ僕が一番教会巡りをやりたがっている構図になっている。
それもこれも、巡礼手帳などを見て、教会の美しさに感化されたのと、なんといっても「スタンプラリー的要素」をそこに見いだしたからだ。
13:39
黒崎教会は丘の上に建っているので、国道202号線からははっきりと見えない。車を降り、坂を登ってみるとそこにはレンガ造りの教会があった。
「おお・・・」
思わず息をのむ美しさ。今日が晴れている、というのも良かった。
正面にはマリア様がお出迎え。黒崎教会のマリア像は、青いケープのようなものをまとっている。蛋白質は、まるでアイドルの追っかけカメラ小僧のようになって、このマリア様を激写していた。かなり自分の中でグッとくるものがあったらしい。あとで、「この写真、いいだろ?」と自分なりのベストショットを見せてくれた。確かにいい写真だった。
この教会には下駄箱がある。そういえば、教会によって「土足のままであがってよし」とするところと、「靴を脱いでお上がり下さい」というところに分かれている。もちろん西洋渡来のキリスト教なのだから、教会というのは土足が当たり前だろう。しかし日本に根付いた際、靴を脱ぐという考え方が混じったらしい。こういうのも、微妙に和洋折衷で面白い。
黒崎教会から海を眺めたところ。
この黒崎界隈が、遠藤周作の名著「沈黙」の舞台となったところ。蛋白質は感慨深そうに・・・というより、物憂げな顔でこの海を眺めている。
「今はこれだけ美しい海なのに、一昔前は弾圧があって多くの人が苦しめられたなんて・・・」
ばばろあと僕は、「お、おう」としか言えなかった。「そんな昔の話、今更気に病んでも」とかいうのは無粋というか、彼の信仰に対して失礼だ。彼にとって今回の旅は、自分と同じ信仰を持った人たちが昔ここにいた、ということに思いを馳せる意味がある。だから、我々がとやかく言う話じゃない。
一方のばばろあはというと、すっかりかすんでいる空を見ながら
「これ全部PM2.5なんで?本当ならもっとすっきり晴れとるはずなのに。みてみい、東の空の方が青いじゃろ。西にいけばいくほど白くかすむ。ええ加減にしてくれや、って思うでホンマ」
と大陸に対して抗議していた。
14:00
遠藤周作文学館到着。
黒崎教会とは目と鼻の先、岬の付け根に遠藤周作文学館はある。
現地付近は駐車場に入ろうとする車で渋滞ができていた。うそ!?そんなに大人気なの?信じられないのだが・・・。
唖然とする車中アワレみ隊ご一行様。
駐車場に誘導しているおっちゃんに聞いてみたら、ここは道の駅「夕陽が丘そとめ」であり、遠藤周作文学館はその奥にある、ということだった。
かといって、道の駅の併設施設というわけではなく、場所は独立している。
我々は道の駅の脇をすり抜け、遠藤周作文学館へと向かった。
「超巨大な建物だったらどうする?見るのに1時間じゃきかないくらいデカかったら、きりがなくなるよな」
と蛋白質には悪いが若干そういうのを気にしていたが、さすがにさほど広くはないようだった。館内図を見ると、右側の青色の部屋2室のみが展示室らしい。
さすがに作家さんの展示ともなると、展示できるものには限りがある。「直筆原稿」「執筆に使っていた机」「執筆にに使っていた部屋を再現」「好んで来ていた服」といったものが定番か。画家とはその点違う。
14:02
料金を払って、いざ館内へ。
「沈黙」の企画展開催中ということで、小説「沈黙」における登場人物の分析などが細かく図解されていた。なるほど、これさえ読めば原作を読まなくても大丈夫!というくらいだ。小学生の「読後感想文」ネタに困った時にはぜひここに・・・と思ったが、小学生にこの小説を理解させるのは無理だ。
遠藤周作文学館からちょっと先に行ったところに、「出津(しす)文化村」というエリアがあるらしい。教会があったり、明治時代、外国から派遣された神父さんが作った授産施設があったりするようだ。
なんとなくは事前知識として持っていたけど、あらためてこうやって地図をみるとがぜん興味が出てきた。船の時間を考えるとそろろそヤバいんだが、なんとか立ち寄っちゃおう。
「14時30分でいったん集合な?それでまだ見たりないとお前が思うんじゃったら、延長でええけえ。いったん14時30分ということで。それでどうするか決めよう」
「わかった」
ばばろあと蛋白質が話し合い、館内見学は30分間ということになった。
結果的に30分あれば一通り見て回ることはでき、我々は建物を出た。
そこには広い展望台があり、外海の海が一望できた。
14:38
遠藤周作文学館がある丘から北側を見ると、山の中腹に教会の鐘楼が見える。その近くには老人ホームにしてはやけに洋風な建物も見える(あとで調べたら、「聖マルコ園」というキリスト教系老人ホームだった)。どうやらあの界隈が「出津文化村」と呼ばれるエリアらしい。
今日、どれくらい時間の余裕があるかわからなかったのでここに立ち寄ることは想定していなかった。でもこうやって間近にあるのを見てしまうと、がぜん気になる。洗濯洗剤のCMに出てくるかのような、真っ白な色をした教会もとても気になる。
ちょっとだけ、ちょーっとだけ立ち寄ってみようか?
ほら、遠藤周作文学館とは目と鼻の先。車で数分の距離だ。
遠藤周作「沈黙」の碑もあるらしい。それだったら、「沈黙」好きな蛋白質にとってもぜひ立ち寄りたいだろう。
「船の時間、大丈夫かね?」
ばばろあが気にする。
「まあ、なんとかなるでしょ。もしダメなら瀬戸港ではなく神浦港という手もあるし」
「ほんまに大丈夫なんか?今日は神浦から行けても、明日池島から戻ってくるときに瀬戸港行きの船だったら面倒で?瀬戸からタクシーかバスかで神浦港に戻ってこんといかん」
「たぶん大丈夫だと思うんだよな、一応、便はある」
島に渡るとなると、薄いダイヤを常に意識しないといけない。タイミングがあわないと、ひたすら島に閉じ込められることになる。池島は今でこそ島民が激減してしまったけど、まだ2つの港から船はやってくるし便数もそれなりにある。
明日は池島から戻ってきたら、その足ですぐに嬉野温泉に移動する予定になっている。諫早湾の反対側なので、 ぐるっと湾を回り込むために移動時間は長い。なので、港の選択を誤ってモタモタしたくない、というのはばばろあも僕も共通認識だった。
「でもまあ、なんとかなるでしょ」
結局結論は、そういう曖昧な表現で片付いた。
14:39
一方の蛋白質はというと、カメラを抱えて物憂げな表情。小説「沈黙」はキリスト教弾圧の実話をベースとした話であり、まさにこの界隈での数百年前の出来事だ。「当時の隠れキリシタンは何を思ってこの景色を眺めていたのだろう」ということに思いを馳せていたのだろう。
この写真を見た蛋白質いわく、「久々に自分のベストショットだ」という。「ありがとう、こういう写真を撮ってくれて」と感謝までされた。
そういえば、彼から「ベストショットだ」と誉められたことは過去にも1回あってとても印象に残っている。アワレみ隊の第一回天幕合宿として神島に行ったときのものだ。
あれから24年。もう四半世紀も経つのか!!
24年前は三重県の離島を目指し、そして今回は長崎県の離島を目指す。相変わらず同じ事を続けていて、むしろうれしい。
14:50
結局出津文化村にやってきた。
出津は小さな漁港がある小さな集落だ。地図でざっと見ると、先ほど見えた白い教会のほかにもうひとつ別の教会があるらしい。しかも修道会が2つもある。
こんな田舎なのに!と驚いてしまう。田舎だからこそ、なのだろうか。
キリスト教という異文化が、こんな純・日本な田舎風景の中に溶け込んでいる、というのが信じられない。お寺のほうが似合っている光景だ。しかもキリシタンは長年弾圧を受けてきたのに。
「弾圧なんてぜんぜんザルで、運悪く見つかった人だけがひどい目にあったけどほとんどノーチェックだったんじゃないか?」
なんて、当時のクリスチャンに大変失礼なことを考えてしまうくらい、平凡な光景がここにはあった。平和だ、今はとても平和だ。しかし昔は信仰を守るためにかなりの苦労があったのだろう。だからこそ、未だにここに「祈り」があり、先祖から引き継がれている。
気が付いたら僕も先ほどの蛋白質みたいな顔つきになっていた。
写真は、出津文化村の駐車場から遠藤周作文学館がある岬を見たところ。
駐車場の脇に、遠藤周作の「沈黙の碑」があった。
石碑にはこう書かれている。
人間が こんなに 哀しいのに 主よ 海があまりに 碧いのです 遠藤周作
その「あまりに碧い海」というのを実際目の当たりにし、思わず全員「沈黙」してしまう。さすが遠藤周作、端的ですごい言葉を紡ぐなあ、と唸ってしまった。
蛋白質はいよいよ悲痛な面持ちにまでなってきている。まるでお葬式の参列者だ。
「おい蛋白質、お前が気に病むことはないんだぞ」
「当時の人たちの想いがいかほどだったか、と想像すると・・・(絶句)」
あんまり昔に思いを馳せすぎると、現代に生きる蛋白質自身が心労で倒れてしまいそうだ。それくらい、なんだか悲壮感が漂っている。昨日の軍艦島のときからそうだ。もっとも、軍艦島とこの外海とでは全く時代背景もできごとも違うのだけど。
まるでお墓に対面しているかのように、少し石碑と距離を取って物思いに浸る蛋白質。
14:54
出津文化村の駐車場(外海歴史民俗資料館の敷地)から、出津教会までの間は結構距離がある。
地図をあらかじめ見ていたので、「おや、ちょっと距離があるのだな」ということは分かっていた。だけど、折角だから教会に行きたいじゃないですか。間近で見たいじゃないですか。ということで、「距離がある」という事実のは見て見ぬ振りをしておいた。
で、あらためて出津教会に向かおうとしたら、案内標識に「400m」と書いてある。ありゃ、予想以上に遠い。しかも、アップダウンも結構ある道のようだ。1分で80m歩くのが普通なのだから、往復で10分かかるな。
「さすがに15:34の便にはもう間に合わんな、開き直って一本後の便でええか?」
ばばろあが時計を見ながら確認してくる。
「いいんじゃないか?次は1時間くらい後だろ?その分ここでゆっくりできる、っていうわけだ」
次の瀬戸発の船は16:27だった。15:34の便は高速船で、わずか10分で池島まで渡る事ができる。一方16:27の便はフェリーで30分かかる。宿に到着できるのは17時を大幅に回る時間になりそうだ。
「どうせ明日は炭鉱ツアーが朝遅い時間からでしょ?だったら島内観光はそれまでにできるんだし、今日はもう池島に到着して、銭湯にでも行ければ御の字ってことで」
池島は炭鉱の島だったこともあり、銭湯がまだ現存しているという。炭鉱マンが、そして島に住んだ家族たちが愛した湯船に浸かってみたいものだ。
「いや、でも案外銭湯は早く閉まるかもしれんで?なにせもうあんまり人がおらん島じゃけえ」
確かにそれはそうだ。とはいえ、目の前の出津教会を見ないわけにはいくまい。
「蛋白質、どうする?」
「そうねぇ、折角ここまで来たんだし教会には行ってみたい・・・かな」
当たり前過ぎる回答を当たり前のように引き出し、これにて出津教会に行くということが決定された。さあて、片道400m、歩いていこう。
【注意】出津教会をはじめとする長崎の教会群は、見学を希望する際は事前に連絡を求めています(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンターを参照のこと)。今回我々は運良く見学することができましたが、ルールに則るようにしてください。
14:56
400mもの先の教会に行ってみようという気になったのは、遠藤周作文学館から見えた真っ白な建物が印象的だったからだ。しかし、それだけでなく、駐車場から教会までの道中、「ド・ロ神父記念館」「旧出津救助院」といった施設があるからだ。それが200m先だということなので、ちょうど中間地点。「うわ、面倒だ!」となったらそこで折り返せばいいや、という気持ちがある。
教会への道は「ド・ロ神父の里道」と名付けられていて、遊歩道のような小径になっている。
途中、トンガリ屋根のあずまやがある。「憩いのパビリオン」というらしい。その中には先ほどから頻繁に出てくる「ド・ロ神父」なる人物の紹介がされていた。フランス人神父で、まだキリスト教が解禁されていない明治元年に来日し、それ以降この地でキリスト教の布教と住民の授産に多大なる功績をもたらした偉人だという。
「ド・ロってことは、名字はロなのか?」
どうでもいい次元の低いことが気になる自分が恥ずかしいです。
ド・ロ神父のフルネームは「マルコ・マリー・ド・ロ」という。名前がマルコで、ミドルネームがマリーで、名字がド・ロということになるのかな?
14:57
ド・ロ神父の里道を歩いていると、道の脇になにやら意味深な建物が建っていた。敷地の中に何棟か古い建物が並ぶ。瓦屋根なんだけど、なんだか白い。なんとなく沖縄の家を見るような印象を受ける。
ここが「旧出津救助院」という施設らしい。
あ、瓦屋根の先に十字架がある。やはりここもキリスト教関連施設なのだな。
一般的にキリスト教のイメージというのは洋風だ。そりゃそうだ、西洋の宗教だもの。だから、瓦屋根に十字架、というのはちょっとした驚きを感じる。
でもこれで驚いてちゃいけない。この近くに「サン・ジワン枯松神社」という神社があって、そこでは宣教師サン・ジワン神父を祀ってあるんだぞ。もう何がなんだか状態だ。そんな不思議な神社があることをあらかじめ知っていれば、絶対に訪れていただろう。しかし知ったのは東京に戻った後で、後の祭り。
14:58
丘の上に、出津教会が見えてきた。
「マジか!水平移動するんじゃなくて、いったん下ってからまた上がるんか!」
思わずぼやいてしまう。
とはいえ、いまさら引き返す気は三人とも全くなかった。当初の僕の頭の中では、「場合によっては遠くから教会を眺めて、『はい、出津教会を満喫しました』ということにする」というのもありだと思っていた。
しかし、あらためて実物を間近・・・といってもまだ距離はあるけれど・・・を見てしまうと、ついつい魅入ってしまい、行かずにはおれなかった。
不思議な建物だ。西洋のお城のようだけど、瓦屋根でもある。行かなくちゃ!
15:00
出津教会までの石段を登っていく。
砲台巡り愛好家である前は山城巡りを趣味としていたばばろあは、教会手前の崖に作られた石垣を見て驚きの声を上げていた。
「蛋白質、見てみい。こんなん普通素人だけで作ろう思ったらかなり大変で?時間も金もかかる。こんな何もないような集落でこれだけのものを作るって、すごいことだと思うで」
確かに。
ド・ロ神父という傑出した偉人が長年滞在し、地域の発展に寄与したとはいえ、彼一人で作業をしたわけではない。信徒からの人的、金銭的な支援があってこその賜物だ。
「昔はここにどれだけ人が住んどったんかしらんけど、今と大してかわらんじゃろ。それでこの石垣とか教会で?そんな裕福な土地とも思えんし、どれだけキリスト教が信仰されてたんや、ってことじゃね」
15:01
カトリック出津教会。
教会の前には広場があり、駐車場となっている。しかしこれはミサなどに参加する信徒専用であり、観光客は利用できない。
青空、ということもあって、白い壁が特に映える。美しい教会だ。
基本的に教会はどこも美しい。いや、正確にいうと「カトリックの教会は美しい」というのが正しい。プロテスタント系の教会や小規模な宗派の場合、オフィスビルの一室が教会ということもあるので、なんとも評価のしようがない。おそらく、そういう宗派の人たちは、「教えこそが大事なのであって、華美に装飾にこだわるのはまやかしという考えもあるのだろう。仏教だって、そういう考え方の違いが宗派ごとにあるし。
変わった作りの教会だ。
一般的に教会というのは天井が高く、室内空間の広さを強調するものだ。そのほうが神聖感が出るという効果があるからだろうが、ここは平屋建てだ。建物の大きさの割に、やたらとぺしゃんこ感がある。
どこかで見たことがある光景だな・・・と思ったら、ああそうだ、山小屋だ!山小屋がまさにこんな作りだ。
ちょうどガイドさんとなる信徒の方がいらっしゃったので話を聞いてみたら、このあたりは海からの風が強いので、低い建物にしているのだそうだ。
「建物の設計はすべてド・ロ神父がおやりになったんですよ」
と教えてくれ、この建物独特な工夫点をあれこれ教えてくれた。窓は水が中に入ってこないように、外側に向けて傾斜がつけられているとか、白い外壁は日本の技術である漆喰をつかっているとか。
「でも、実際に建物を作るのは、地元の信者なわけで、ほらこのあたりの釘の打ち方はけっこう雑です」
なんてのも教えてくれる。いやいやいや、素人を動員してここまでの建物ができてしまうって、信じられないぞ。なんという情熱だ。
壁はものすごくぶ厚い。窓を閉めなくても雨が入ってこないようにする工夫だろう。しかし、結局風雨が強いときには雨が振り込んでくるようで、ブラインド風の雨戸が外にとりつけられている。
そこでばばろあがあることに気がついた。
「この雨戸、不思議じゃね。普通、雨戸って片方からしか閉まんのよ。でもこの雨戸、窓を中心として、左からも右からも閉められるようにレールが長く設置されとる」
些細なことだが、確かに言われてみればそうだ。雨戸自体は一枚なので、こんなに雨戸に自由度をもたせる必要はないはずだ。
ガイドさんにこの疑問を問いただしたばばろあだったが、ガイドさんは苦笑して
「さあ・・・そこまではわからないです。言われてみればそうですね。でも、そんなこと聞かれたことも、意識したこともなかったです」
と仰っていた。
ばばろあはその後もしつこくこの謎を解明しようと、首をひねっていた。
ツインタワー、いや、トリプルタワーだ。こういう形をした教会は初めて見た。どれが鐘楼だろう?
教会そのものの屋根の前後に、2つのタワーがある。奥の塔には十字架、て前にはマリア様。
あともう一つ、建物とはど区立した塔があって、こちらは・・・イエス・キリストかな?両手を広げて、「どこからでもかかってきなさい」ポーズをとっている。リオデジャネイロの山の上に建っている像とおなじっぽい。
この教会は、マリア様の鐘楼がある真下が正面玄関になる。しかし建物の両脇何カ所かに、小さめの入り口もあった。
「蛋白質、これは信徒さんがミサのときに出入りする場所か?」
「たぶんな。あんまり見たことないけど」
「便利だよな、一度にどーっと帰ろうとしたとき、出入り口が混雑しなくて済む」
そういえばこの教会は土足禁止だった。下駄箱があるので、靴を脱いで建物の中へと入る。ミサを執り行う神父は一体どういう足元なのだろう?裸足、ということはさすがにないだろうけど、サンダルだったらちょっとラフでおもしろい。
エリアサイネージのご案内、という看板があった。
スマホやタブレットでこの施設の紹介を見ることができますよ、ということだ。
「ほー、すごいなあ、時代は進んだなあ」と思わず感心してしまったが、よく考えてみれば単にwebサイトがありますよ、というだけのことだった。物理的な看板は省略しました、詳しくはWebで!というわけだ。
時代の流れだな、だんだん観光地もこうなっていくのだろう。そのかわり、動画コンテンツとかVRによる施設紹介といった新サービスを来場者に提供できる。
15:16
出津教会をあとにする。教会直下の崖下に何かあずまやがあるね、と見てみたら、古井戸だった。ああ、ここには地下水脈があったのか。
その傍らに、何か白いものが見える。あ、ここにもマリア様が。
「ちょっとまってて!」
そう言い残して蛋白質はマリア様のところに立ち寄り、なにごとか対話をしたのち写真を撮影していた。
彼、昔は写真部に属していたこともあるんだし、このまま「マリア像専門カメラマン」として世界を股にかけてもいいんじゃなかろうか。
15:19
瀬戸港から出る池島行きの船は15:34発。もう間に合わないので、開き直って次の
の16:27の便に乗ることにする。ここからだと、たぶん30分もあれば瀬戸港に到着することはできるだろう。ということは、ここにいられるのはあと30分。
ゆとりができたので、先ほど通り過ぎた曰く有りげな施設に立ち寄ってみることにした。
瓦が独特だ。コンクリートのようなもので固めてある。強風で飛ばされないようにするためなのだろうけど、あまり見たことがない作り。
看板には「旧出津救助院」と書いてあり、この界隈一帯の施設を総称しているらしい。
ド・ロ神父が貧しい外海の人々のために作った授産施設だという。パン、そうめん、マカロニなどを作っていたというのだからすごい。そうめんは落花生油を混ぜているので、独特の風味でオツなものらしい。
後で知ったのだけど、「ド・ロさまそうめん」という名で今でもそのそうめんは作られ、販売されているらしい。しまった!それを知っていれば、手に入れたのに。せっかく「ド・ロ神父って誰だ?」と関心を持ったのだから、お近づきの印にたべてみたかったな。
ちなみに敷地内にはマカロニ工場跡がある。明治時代、マカロニって誰がどうやって食べたのだろう?長崎にいる外国人を対象にしていたのだろうか。
15:21
鰯漁のための網を作っていたという建物が「ド・ロ神父記念館」になっていたので、入ってみることにした。入館料300円。
この建物は重要文化財に指定されている。
えー、地味だけど、これも重要文化財なのか!もうね、価値のインフレがすごすぎて、どういう肩書をもっていればすごいのかどうか、わからなくなってきた。「世界遺産」という肩書が一応一番偉そうな感じ。その概念がでてきたおかげで、「重要文化財」というのはちょっと目立たなくなってきている気がする。
建物の入り口を塞ぐように壁が立っている。入り口に強風が入らないようにするための目隠しだ、という説があるとかないとか。
独特の石積み塀で、この塀のことを「ド・ロ塀」というらしい。「泥塀」じゃないぞ、「ド・ロ塀」だ。
平たい石はこの界隈で採れる「温石(おんじゃく)」というもので、これを使った石塀そのものは以前からあったそうだ。しかし石同士を接着するための赤土と藁が溶けやすく脆いので、ド・ロ神父はか医療を加え、石灰などを使ってより強固な壁を作り上げたのだという。それが、「ド・ロ壁」。
何者だよこの神父様。布教に来た人じゃないのか?まるで「青年海外協力隊」みたいじゃないか。技術者か?建物のデザインから建築、そして材料まであれこれ知識を持っているのには驚きを通り越して呆れる。
施設の人が教えてくれたのだが、ド・ロ神父はもともと貴族の出だったそうだ。しかしフランス革命があり、神父の父親が「これからは貴族社会の時代ではない」と悟り、若かりしド・ロ神父にいろいろな技術を身に着けさせたのだという。それがまさか地球の裏側、日本のしかも長崎の集落で役立つことになるとは。
わざわざ石版印刷機をフランスから自腹で輸入し、印刷を行ったりもしていたそうだ。そういう遺品が施設内に展示されており、アワレみ隊3人揃って「へええええ」と感嘆しっぱなしだった。
記念館の向かい側も救助院なのだが、こちらも別途入館料がかかるという。おっと、どうしたものかな。でも今更「見ません」というわけにはいくまい?300円払ってド・ロ神父に思いを馳せる時間、続行。
ばばろあはすっかり前のめりになっている。
「わし、最初は教会とかあんまり興味なかったんよ。蛋白質が喜ぶならそれでええかな、って思いよったんじゃけど、ええね!おもろいわ。ド・ロ神父すごいわ」
ばばろあの趣味である「砲台巡り」は、建築とも絡んでくるジャンルだ。なので一連のド・ロ建築を見ているうちに、がぜん盛り上がってきたらしい。
この施設にはガイドさんがいて、わざわざ我々のために施設を案内してくれた。お陰でいろいろな話を聞かせてもらえて、とてもおもしろかった。
石垣。大改修が入ったそうだが、石垣左側のほうが昔のもので、右側が補修後のもの。右側のほうが新しいのに、石積みが荒い。昔ながらの左のものは、平らな小さい石がびっちりと詰まっていて美しい。執念すら感じる出来だ。
授産施設だった建物の中を見せてもらう。
そうめんを作っていた状態を再現してある。ほかにも、当時使われていた機材が保管されていた。
ところどころに鉄骨で補強がされていた。さすがに昔のままだと耐震ができないからだろう。
出津教会に向かう途中、この授産院の上から建物を見下ろした際に気になったものがある。
なんだろう、と近くで見てみると、レンガで作った煙突だった。ああ、煙突か。
一瞬そのまま納得してしまったが、よく考えると和風の建物なのに煙突、しかもレンガというのが面白い。和洋折衷だ。
というわけで、釜が据えてあるおくどさんも、レンガで作られているのだった。へえー。
煙突は斜めになっていて、外に煙を排出している。二階を吹き抜けにしてしまうと、二階のすペースが確保できないから、という配慮だろうか?
ここまでガイドさんに説明してもらっていたら、ガイドさんが
「二階もあるので、二階も紹介しますね。そっちはシスターのほうがいいので・・・おーい、シスター!」
ここからシスター登場。
あ、いや、そろそろ僕ら、船の時間が・・・と気になったが、もうこうなると引き下がれない。話自体とても面白いし。
16:00
ガイドさんに変わって現れたシスターに連れられ、二階に上がる。
二階は、まるで教会のような雰囲気だった。椅子がずらっと並ぶ。
「ここは昔は修道女が寝泊まりしていたんですよ。ふとんをずらっと並べて」
へえー。
壁の下部が引っ込んでいて、押入れのようになっている。朝起きたら、寝具はそのスペースに仕舞っていたのだそうだ。
シスターに昔の話をいろいろ聞かせてもらう。これもまたとても面白い。面白いんだが、時間がそろそろ本当にやばい。
きさくなシスターは、部屋の隅に置いてあったオルガンの蓋を開け、演奏してくれた。これもまた、ド・ロ神父が輸入したものだという。100`年ものなのにまだ現役なのか!
それにしても昔のオルガンだからか、家具調だ。かなりごつい。鍵盤の下に、まるで引き出しのようなものがついている。
「これには変わった機能がついているんですよ」
シスターが嬉しそうに教えてくれる。昔のオルガンだ、せいぜいからくり人形がついていて音楽に合わせてくるくる回る程度のハッタリではあるまいか?
誰もがこのシスターの謎掛けに正解が出せないまま、シスターの様子をうかがう。するとシスター、鍵盤の下の引き出しっぽい部分をがちゃんといじった後に鍵盤を一つだけ押した。
ファーン
あれっ、和音がなってる!
シスターはもう一度別の鍵盤を一つだけ押す。ファーン。今度もそうだ。
「和音が自動的に鳴ってくれる機能なんですよ」
それはすごい。どういう仕組みなんだこれは。おそらくシンプルな、メカニカルな設定でそうなっているのだろうけど、これなら演奏が下手な人でもそれっぽい音楽を奏でることができる。
試しに蛋白質が適当に賛美歌のフレーズを弾いてみたが、ちゃんと音楽になっていた。こんな機能、今のオルガンにあるのだろうか?いやー、昔のオルガンで驚かされるとは思わなかった。
とか言ってるうちに、本当にもうアウトだ!時間切れ!いや、もう完全に間に合っていない。シスターとはまだあと10分でも20分でもお話を聞かせてもらいたかったのだけど、船の便が迫っているんだ!ごめん!
シスターに謝りながら、救助院を後にした。
現在の時刻は16:06、瀬戸港発のフェリーは16:27。あー、完全に間に合わないやつやー。まず駐車場まで、歩いて結構距離があるし。
「予想外におもしろすぎて、話を切るに切れんかった」
早足でばばろあが言う。
「もう瀬戸には間に合わんから、手前の神浦から出る船に乗るしかないだろうな」
「何時なん?」
「16:25」
「厳しいのぅ、でもこっちなら間に合うかもしれんか。今日はええかもしれんが、明日は大丈夫なんか?」
「明日、13:17に池島発の神浦行きフェリーがあるんよ。それに乗ればバッチリよ。むしろ瀬戸発着よりこっちのほうが便利よ?」
「池島の炭鉱ツアーの案内で、『帰りの便は14:17の瀬戸港行きをご利用ください』って書いてあったけど大丈夫か?」
「それ、たしかに僕も読んだ。でも、多分間に合うと思うんだよなあ。ツアーの紹介を見ると、一応所要時間2時間らしいし。しかも実質90分で、食事時間30分っぽいぞ。だったら、ツアーが11時に始まって13時には終わるはずだから、なんとか」
「まあ、どっちにせよ瀬戸港のフェリーには今更間に合わないから、神浦を目指すしかないか・・・」
我々は方針転換し、神浦港を目指すことにした。
16:17
神浦港に到着。ナビがなかったら素通りしてしまいそうな、ちょっとした漁港だった。定期便は池島に向かう1日7便しかないので、もちろんターミナルなんてものはない。
神浦港から出る池島行きの船は、「16:25頃」と時刻表に書いてあった。事前情報によると、直前にならないと船はやってこないし、のんびりしていたら船は定刻を待たずに出発してしまうこともあるそうだ。あらかじめ乗る気マンマンの態度を示しつつ、船着き場に待機していないといけない。
一応、間に合った。
これなら16:27発瀬戸港発の便にも間に合ったんじゃないか?と思えてくるが、欲張ってはだめだ。慣れない場所なので、駐車場がどこにあるのか、チケットの購入はどこか、船はどこに停泊しているのか、なんてバタバタしているうちに出港時間が過ぎてしまう。神浦からの便に間に合っただけで、儲けものだと思わなくちゃ。
船着き場の前には、「ホテル外海イン」というホテル兼レストランがあった。
神浦。
ここでいう「神」とはキリスト教なのか?と地図を確認してみた。ド・ロ神父が作ったというもう一つの教会、「大野教会」は地図で確認できるが、それよりもお寺とか神社が目立つ。さすがに地名まで影響をおよぼすほどキリスト教は強くないか。明治に入るまでご禁制だったわけだし。
16:18
写真を撮っているおかでんを尻目に、ばばろあは一人で桟橋まで行き、そこにいた人に池島行きの船について確認をとっていた。もしここが神浦港ではなかったら、もしここが神浦港でも、渡船乗り場が別だったら大変だ。
「池島行き?あの防波堤の先から出るんだよ、ほら今ちょうど出港するところだ」
なんて、目の前で船を見過ごしてしまうというのは悲劇を通り越して喜劇だ。
ばばろあが戻ってきて、
「ここでええそうで。行くで」
と僕を急かす。
16:19
渡船、というのはたとえで使った表現だったけど、本当にそれっぽい船が待っていた。これ、よく岩場に釣り人を連れて行くのに使うような船だ。
進栄丸、という。立派に神浦~池島を結ぶ定期航路を担う船だ。ちゃんとダイヤにも船名が書かれている。「船がドック入りしているので、急場しのぎで漁船を借りてきました」というわけではない。
漁業の傍ら、船を提供している・・・というわけでもなさそうだ。この進栄丸は神浦と池島を毎日5往復している。
16:20
運賃350円を乗船時に船員さんに払って、乗り込む。小銭は用意しておいたほうがよさそうだ。「1万円札しかないんですけど」というのは、多分困る。
「うわ、マジかよ」
思わず声を上げてしまうような狭い扉から船の中に潜り込む。普通に座れば大人3人程度のベンチシートが向かい合わせになっている。
「道理で便数が多いわけだ。池島って島民の数は少ないはずなのに、やけに便数が多いな?と思っていたんだけど、船自体が小さいんだな」
もちろん、この船とは別に、高速船もフェリーもある。とはいえ、今や人口わずか150名程度しかいない、0.9㎡の小さな島だ。神浦と瀬戸、2つの港から船がやってくる事自体がすごいことだし、便数が多いこともすごい。昔の名残なのだろうか。
16:38
客は結局我々だけで、チャーター船の状態となった。狭い穴蔵のような船室なので、他の団体がやってきたらどうしようかと思ったが、杞憂だった。
それにしても船がかなり揺れる。波は穏やかな日だと思うが、小さな漁船クラスの船が高速で突っ走るのだから、時にはトビウオのように空中を飛び、時には横に揺れる。
船の舳先に向けて窓があるのだけど、座っている限りは空しか見えない。立ち上がろうとすると、頭が天井にぶつかる。そもそも、船が暴れているので立ち上がるのは危険だ。
こりゃー、長時間乗ってると酔うぞ・・・と少しだけ心配になる。遠くを見ることができれば酔いにくいけど、それができない。視界は狭い船室しかないので、揺れをモロに見てしまう。
「プライベート・ライアン状態だな。ノルマンディー上陸直前の連合国軍の気分だ」
「船から降りた途端に銃撃されるのか」
「メーディーック(衛生兵)!って叫ばないと」
16:41
ほとんど何も見えないまま、「あ、減速したな・・・」と思っているうちに池島到着。
「危ないところだった、あと10分もこのままだったら酔っとったで、わし」
ばばろあが苦笑する。
確かにそうだ。所要時間15分程度。天気が良くてこれだから、天気が悪いとどうなることやら。
おおう・・・
船着き場周辺は入り江になっているのだけど、船着き場の対岸の山腹には鉱山施設が見える。もちろん、今は使われていない廃墟だ。
そして海沿いには、石炭の積み出し港の跡が残っている。
これが池島なのか。
軍艦島のように、すでに「歴史遺産」になってしまった世界とは全く違う。まだ、「今」と地続きになっている世界を目の前にし、僕はかなり興奮した。
半年ほど前、鉱山の面影を求めに栃木県の足尾銅山跡をさまよったことを思い出した。あそこもそれなりに廃墟と現役住居が残っていて味わい深い。しかしこっちはスケールが違う。すごい!これはすごい!
池島港。
16:41
池島の船着き場から、団地が見える。炭鉱がまだ閉山していなかった頃は、この島に大勢の人が住んでいた証だ。最盛期の1970年には7,776人が住んでいたというが、2001年の閉山時2,100人を経て今や150人程度。少なくなってしまったものだ。逆に、150名とはいえまだ住んでいる人がいるということが昨日見た軍艦島とは違う。
軍艦島の場合、炭鉱専用の人工島だったわけで、閉山してしまえば居続ける理由がなかったのだろう。一方で、軍艦島(端島)のお隣の高島も炭鉱の島だったけど、閉山後の今でも人は住んでいる。この池島もそう。もともと島としてちゃんとした土地があるなら、漁業をやるなりなんなり、やりようがあるのだろう。
とはいえこの島、「新鮮な海の幸を提供する漁師料理の店!」みたいな気の利いたお店はまったくない。あるのは1店舗だけ。しかもそこは18時にしまってしまう。島民のための赤ちょうちんもスナックもない。いくら炭鉱ツアーの観光客がやってくるとはいえ、観光客+島民の規模では商売が成り立たない。それくらい、限界集落もいいところの場所。週に何度か、トラックによる移動販売車がやってくるという。
目の前に見える団地は、軍艦島のものとは全く違う。あちらが密集し殺気立っているのに対し、こちらは若干のんびりとした配置だ。そこまで土地に困っていたというわけではないのだろう。その証拠に、高層アパートではない。目の前のアパートは4階建てだ。
「池島を探検しよう」
と銘打たれた地図。0.9㎡しかない島とはいえ、アップダウンがあるし思ったよりも広い。
今我々いる船着き場は、地図の一番上、入り江の先端だ。赤い字で「現在地」と書かれているところにいる。
ここは今となっては入り江だけど、昔は大きな池だったらしい。それで「池島」。なんでこんな島に池があったのか謎だ。
その池を深くして、外海と繋げて、石炭の積み出し港と船の発着場にしたのは人間の力技。なにしろ炭鉱を何十キロも掘り進める技術がある集団だ、池を港にしてしまうことだって当然できる。
池島ウォークマップ、というのが無料で配られていたのでゲット。
ただしこれをじっくり読んだのは宿についてからで、それまでは池島がどういう作りになっているのかほとんど理解していなかった。宿もどこにあるのかさえ、まともに理解していなかったくらいだ。
蛋白質がぼんやりしていて、何日目にどこに宿泊するのかさえよく理解していなかったわけだが、僕自身がなんとなくしか状況を理解していなかった。仕事が忙しくて、旅行についてあれこれ調べる暇がなかったからだ。
あとになってこうやって写真やら地図を見て、「ああなるほど、そういうことか」と島の状況を理解する。撮影した時点では、全く理解できていない。
特に、「池島ウォークマップ」は二次元に描かれているが、実際は起伏がある島なのでもう少しややこしい地形をしている。なので、航空写真と平面地図を見比べて、ようやく島の全貌を実感できる。
そんな状態なので、てっきり宿は船着き場からすぐの場所だと思っていた。当たり前の話だけど、ほとんどの島において街の中心地というのは、港のそばだ。絶海の孤島のような厳しい環境の島なら、港と集落は別という場合があるけれど。
・・・しかし、目指す島唯一の宿「池島中央会館」はここから徒歩で20分くらいはかかるのだという。えっ、そんなに?
地図を確認すると、その名に偽りなしで、まさに池島の中央にある建物だった。
今いる船着き場から見える廃墟鉱山の、裏側。
しかも、山を登っていかないといけない。やー、こりゃ面倒だ。
16:43
船着き場の脇に「池の口」という名前のバス停があり、「そとめ」とかかれたコミュニティバスが停車していた。驚いた!この島にはコミュニティバスが走っているのか!
「乗れるんなら乗せてもらおうぜ」
ということで、運転手さんに声をかける。
「中央会館に行きたいんですが」
「まだ出発まで数十分あるから、歩いたほうが早いよ」
ありゃ、そうですか。どうやら、このあとやってくる船と接続するらしい。進栄丸の乗客向けには運行ダイヤがないというわけだ。
「それにしても住民がほとんどいない島なのに、成り立つのかね」
いや、成り立つわけがない。だからこそのコミュニティバスだ。これを民間会社が自発的にやるなんてことは、どうやっても無理。
長崎市営で、地元のさいか交通が委託を受けている。1日34便、約20分間隔の運行。狭い島なので、島の端から端まで、途中立ち寄りがあっても10分で到達する。
16:46
コミュニティバスが利用できなかったので、自分自身の足で中央会館を目指す。3泊4日分の旅行荷物に加えて、今晩と明日の朝用の食事を抱えている。もちろん飲み物も。そのせいで3人とも荷物が多く、足取りが重い。
しかもよりによって船着き場は島の最果て、入り江を塞いでいる岬の先端にある。まず入り江をぐるっと回り込むだけでも遠い。
「なぜもう少し便利の良いところに船着き場を作らなかったのか・・・」と思う。
池島の写真を見ると、昔は入り江の奥に船着き場があったらしい。しかしある時から現在の不便な位置に移転しているわけで、ちゃんと理由があるのだろう。おそらく、石炭を積む船の運行の邪魔にならないように、ということだろう。
入り江に沿って立つ団地の脇を歩いて行く。
港にもっとも近い場所、ということで今となっては一等地だ。昔は職場である坑道の入り口に近いほうが「職住隣接」だっただろうけど。
このあたりは「第三公住」と呼ばれるエリアで、主に協力会社(下請け会社のこと)の宿舎になっていたそうだ。炭坑に直接雇用されていた人は住んでいないので、やはりここは「格下」扱いだったというわけだ。
軍艦島の、どす黒くなったアパート群とは違い、まだクリーム色がいきている。くたびれてはいるものの、人が住んでいる家というのはこういうことだ。人がいなくなると、途端に建物はへばる。
って、うわあ!
完全に油断していた。この団地、人が住んでいると思っていたけど、廃墟だぞこれ。
ベランダの柵が風化してしまい、全くなくなっている部屋がいくつも見える。そういうところは、窓に板を貼り付け、風雨でガラスが割れないようにしてある。
それ以外の家も、柵代わりのトタンが割れてしまっているところもある。
「すげえ!こんな身近に廃墟が!」
なんて大声を出してしまったが、よく見るとまだ窓にカーテンがついている家がある。どうやら、住んでいる人もいるようだ。そりゃそうだ、ちゃんと有人島なんだから。どこかには住んでいる。
あんまり「廃墟だ!廃墟だ!」とはしゃいだら、住んでいる人に失礼なので気をつけないと。
かといって、軍艦島のときの蛋白質みたいに、神妙な顔をするというのも違う気がする。この池島は閉山した炭鉱の島、ということを売りにしているわけだし。
あああ、またもや、どういう顔をしていればいいのか難しい場所にやってきたな。
16:48
しばらく入り江沿いを歩いていると、バス停があった。「桟橋前」と書かれている。ここに昔は桟橋があったからだ。島の玄関口跡。
今はその面影はない。ばばろあが
「これが『みなと亭』じゃろ。電動アシスト自転車を借りられる場所」
と教えてくれた。ああ、言われてみればそうだ。ただし、いわゆるレンタサイクル屋のように、店頭にずらっと自転車が並んではいない。ぱっと見、営業している店舗にさえ見えない。
池島に現存する、わずかなお店の一つ。
電動アシスト付き自転車を借りると便利だとは思うけど、今回はパス。歩いて宿を目指す。
16:49
「みなと亭」を通り過ぎると、おや?これはまだ新しい建物がある。「池島開発総合センター」という文字が見える。どうやら公民館的な位置づけの建物らしい。
もちろん炭鉱が開いていた頃のものではなく、閉山後に作られたものだろう。閉山しても人はこの島に住み続けるわけで、だからこそ行政が地域振興にお金をかけなければならない。これまでは、炭鉱の会社が率先して福利厚生や生活のパイプラインを担ってきたのだろうが、閉山してしまえば何も残らない。
総合センター周囲は協力会社向けの公営住宅が並ぶ。特に奇抜なデザインということもなく、4階建てのクリーム色、と相場が決まっているようだ。昭和40年代に建てられたらしいので、まだ半世紀程度の築年数ということになる。
ちゃんとメンテナンスすればまだまだ現役で人が住めるが、さすがに住んでいる人自体が少ないので老朽化が隠しきれない。
この建物は、ベランダの柵が腐食して落ちてしまっているところ、トタンで覆っているところ、まだピカピカする新しい柵に交換されているところといろいろある。つい最近まで人が住んでいたのだろうか。ざっと見る限り、人の気配がない建物だ。
そりゃそうだ、この島には大小合わせて一体いくつのアパートが建っているのだろう?島民人口が150名だとして、一人ずつアパート1棟に住んでも余りがあるんじゃないか、という状況。当然、無人化したアパートがそこらじゅうにあるはずだ。取り壊したアパートだって、あるはずだ。
こういう建物をジロジロ好奇の目で見てよいのかどうか、一瞬戸惑う。人が住んでいたら悪いし。かといって、全く興味なさげに素通りするのも、池島観光にやってきた意味がない。
ここで、通りすがりの車が我々を呼び止めてくれた。「乗っていきなさい」と。島民の方らしい。ありがたくお世話になり、車で一気に池島中央会館まで運んでもらった。
16:54
池島中央会館。
港があるエリアからぐーっと坂を登っていった先にある。港から見て鉱山の裏手側は、山を切り開いて比較的平らな高台になっている。そこに港界隈よりも遥かに広大な居住エリアが広がっている。中央会館はそんな居住エリアの入り口に近い場所にある。
建物は3階建て。研修施設という雰囲気。島唯一の宿泊施設で、素泊まりのみの受付となっている。
しかし、ここが昔は800名規模の映画館だったと聞いてびっくりした。そんな面影はどこにも残っていない。
せっかくたくさんのアパートが開いているのだから、そこに短期から長期まで、滞在者を受け入れればいいのに・・・と思ったが、そこまでの需要はないのだろう。この小さな中央会館一つで十分、というわけだ。
実際、池島といえば周囲4キロ程度の島内をぐるっと散策するのに数時間、炭鉱ツアーに参加して2時間あれば十分といえる規模だ。なので、長崎から日帰りで事足りる。我々のように一泊して炭鉱ツアーに挑む、という方が少数派だ。
でももったいないと思う、宿泊してじっくりと島時間を過ごす、というのが醍醐味だと思う。僕らは島内一泊といってもほとんど駆け足だったけど、できることならあともう一日は滞在したかった。そのかわりやることがないので、ひたすらのんびり過ごす、という時間の費やし方になるけれど。
池島中央会館の一角に、「松濤苑」と書かれた入り口があった。「和風レストラン・仕出し」と銘打っている。昔はここでレストラン兼、中央会館宿泊客への食事の便宜を図っていたのだろう。もちろん今は営業していない。窓から見える障子が物悲しい。
明日のお昼ごはんは炭鉱ツアー中に食べることになるけど、「炭鉱弁当」なるお弁当を注文してある。これは、先ほど見た「みなと亭」が作っているはずだ。
今、池島に残っているのは、飲食店では「かあちゃんの店」1店舗だけ。売店としては、池島開発総合センターの裏手に一店舗、あともう一店舗あると聞いている。角打ちできる酒屋があったけど2014年閉店、スナックも同じく2014年に閉店してしまっている。つまり、「物を買う」ことができるのは、島に3店舗しかなく、あとは自販機だけだ。これでも閉山してまだ16年。いくら軍艦島のように無人にはならなかったとはいえ、現実はかくも厳しい。
16:55
中央会館1階のフロントでチェックインをする。
ばばろあが手続きを行っている間、管内案内図を眺める。
1階はフロントと大会議室、そして松濤苑跡地。2階は大中小3つの会議室と、調理教室がある。この調理教室で宿泊客は自炊をしても良いそうだ。
3階が宿泊部屋になっていて、7室+大きな部屋の研修室。つまり、1晩につきこの池島は8組の宿泊客しか受け入れられない、ということだ。島唯一の宿泊施設がここなんだから、これが現実。
そんな中、我々は2部屋を確保していた。「いびきが気になる」というばばろあが一人部屋、残りの2名が二人部屋だ。
中央会館の使用料金表。
時間単位で会議室などを使うことができるのだけど、誰がどのように使うのだろうか。
宿泊客は、「一般」「中学校の生徒」「小学校の児童」で値段が異なっている、というのが面白い。宿でこういう料金体系というのは、見たことがない。おそらく、修学旅行や社会科見学で訪れる学生たちへの配慮、ということなのだろう。ちなみに「一般」の区分になる我々は、3,384円。歯ブラシやタオルが付いてこの値段だから、かなり安い。商売としては成り立っていないと思う。
中央会館のフロントにおいてあった、手書きの池島マップ。
ちょうど島の中央部分に僕らはいる。
島の右半分、船着き場がある池島港までのエリアに鉱山がある。しかしここにある第一立坑は閉山前は使われておらず、もっぱら島の左端にある第二立坑が使われていたそうだ。なので、地図によっては第一立坑のことを「排気立坑」と記してある。
16:58
3階の部屋に入る前に、2階に立ち寄る。調理教室に冷蔵庫があるということなので、そこに飲み物やお刺身を入れておくためだ。
2階調理教室。
あ、なるほど。「調理室」ではなく「調理教室」という名前になっているわけだ。学校の家庭科の教室みたいなアイランドキッチンがあった。
そんな調理教室の片隅に冷蔵庫があったので、荷物を保管させてもらう。
食器棚には食器類が備え付けてあるので、必要に応じて使えて便利。
便利、とはいっても、飲食物のすべてを島の外から持ち込んでいるわけで、それを思えば便利ではないのだけれど。
本当なら、島にお金を少しでも落とせると良いのだけど・・・。落とそうにも、落とす場所がほとんどない。
17:00
池島中央会館3階。宿泊部屋が並ぶフロアになっている。
扉はショック吸収の仕組みがついていないので、開け閉めするとき気をつけないと「バターン!」と大きな音を立てる。
ばばろあが一人で泊まる302号室。一人部屋。
すでに布団が敷いてあった。
そして蛋白質と僕が寝泊まりする301号室。二人部屋。
質素な部屋だけど、掃除はちゃんとされていて何ら不自由なく過ごすことができた。しかし、夜になると蚊の襲来を受け、やたらと痒かった。
「そういえばGW期間中、八丈島に行ったときも蚊にさされまくってびっくりしたことがあるな」
ひょっとして、離島では早い時期から蚊が跋扈するのだろうか?「島とうがらし」というのがあるように、「島蚊」というのがいて春先が活動のピークなんじゃあるまいか?
ばばろあが
「そんなことあるか。単に茂みに近いところにおる、というだけじゃ」
と僕の考えを一蹴した。なるほど、そういうことか。
17:02
部屋の窓から外を眺める。
我々がやってきた港とは逆、島の奥に通じる道を見やると・・・おや、大きな建物が見える。建物の作りからして、学校っぽい。ドーム屋根の体育館らしき建物も見える。
かなり巨大であることがわかる。それだけ昔は子供の数が多かった、ということだ。あとで地図を確認すると、「池島小・中学校」だという。そういえば、タワーマンションが林立する東京湾岸エリアで、小学校不足が深刻・・・なんてニュースを見たことがあるな。昔は炭鉱、今はタワマンか。時代は変わったものだ。
この学校は2017年時点ではまだ現役で、数名通っている児童がいるそうだ。しかしその子どもたちが卒業してしまえば、廃校ということになる。一度廃校になってしまえば、再開というのは難しいだろう。島の生活がこれでまた一つ消えていく。
って、うわあ!
びっくりした。目線を学校から逸し、窓の正面を見たら、そこに廃墟のアパートがあったからだ。木々が周囲を覆い、森に還りかかっている。
廃墟・・・だよな?さすがにあれは。
軍艦島で見たアパートと同じ、黒ずんだコンクリート外壁。港周辺のアパートとは全く生活感が違う。
よく見ると、窓が木枠だった。サッシではないのか。それだけ時代が古い、ということだ。いや、待て、後ろに見えるアパートはサッシが入っている。大きな窓なのに風雨で割れた形跡がないし、比較的新しいものだろうか?ということは、まだあの建物には人が住んでいるのだろうか?
一体この島にはどこにどのように人が住んでいるのか、さっぱりわからない。そもそも、この島にどんな産業があるのかが不明だ。
もともとここは三井松島産業が所有する鉱山だけど、2001年の閉山後は炭鉱技術の伝承研修を扱う「三井松島リソーシス」と、金属くずや廃プラスチックなどのスクラップをリサイクルする「池島アーバンマイン」の2社が残った。三井松島リソーシスは明日の炭鉱ツアーの主催社でもあり、現存する。しかし、「池島アーバンマイン」は2016年9月、破産してしまった。さすがに、離島に材料を運び込んで、加工して、また本土に送り返すという手間とコストを考えると割に合わなかったか。
この破産によってさらに島民の数が減ったはずだ。先程見せてもらった地図にはまだ鉱山エリアの一角に「池島アーバンマイン」と記されているが、今はもう何もやっていない。
となると、この島は「三井松島リソーシス社員」と、ほんの僅かな店舗の店員さんと、学校の先生と、簡易郵便局の局員さんと、その他、島の維持に必要な人少々、ということになる。漁船らしきものが池島港に停泊していたので、ひょっとしたら漁業や岩礁への渡し船で生計を立てている人もいるのかもしれないが。
住むなら断然港に近いほうが便利だけど、こうやって島の真ん中エリアに施設があったり、さらにこの奥には飲食店である「かあちゃんの店」が現存して営業している。ポロッとさりげなく、人が住んでいるのだろうきっと。敢えて人を避けて住んでいるわけではなく、昔からずっと住んでいるうちにご近所さんがどんどんいなくなった、ということなのだろう。
合理化のために引っ越しして住まいを集中させる、という計画はあったのだろうか?
みんなアパート住まいだから、「この部屋に愛着があって、今更引っ越しできない!」という反対はあまりなさそうなのだけど、そう簡単な話ではないか。
池島中央会館の3階には、浴室もある。
男女別には別れていないので、女性が入るときには「女性入浴中」と書かれた札をぶら下げておく必要がある。あと、使用するためにはボイラーのスイッチを入れないといけないので、あらかじめ会館の職員さんに伝えておく必要がある。
湯船は2つ。
右は源泉かけ流しで、左は加温した温泉・・・というわけではなさそうだ。ここは温泉は出ない。
おそらく、宿泊客が多いときは湯船2つともを利用して、客が少ないときは一つだけを使う、というコンセプトなのだろう。たとえば宿泊客一人のときに、これだけの大きな湯船に豪勢にお湯を貼られたらもったいない。水もエネルギーも、すべて島の外から運び込んでいるのだから貴重だ。
浴室にはカラン、ボディソープにシャンプー・リンスも完備。自分でもってこなくてもOKなところが便利。
ただし、ここから徒歩5分のところに往時を偲ぶことができる公衆浴場があるという。我々はそちらのお世話になるつもりなので、このお風呂を使うことはなかった。
洗面所。
使っていいのかどうかは聞いていないのでわからないけど、洗濯機も置いてあった。
ドライヤーもあるので、女性も安心。そういえば、カップルも宿泊していたな。
「工場の夜景が好きな女子、なんてのがいるけど、廃墟女子っていうのもいるのかねえ?」
「多分男の趣味だろ。それにしてもすげえな、こんなところに彼女を連れてくるなんて」
こういう何もない宿泊施設の利用にオッケーを出したり、廃墟や炭鉱を見ることに興味を持つような女性は、男性からするととてもありがたい存在だ。いい彼女をゲットしたじゃないか青年よ。
トイレ。さすがにこちらは男女別だった。
17:22
日没になる前に、公衆浴場に行くことにした。なにせ街灯などないので、夜になると真っ暗になってしまう。
チェックイン時、「懐中電灯が必要ならありますので」と言われていたが、さすがにその前に島内観光がてら、行ってこよう。
17:23
ほとんど人が住んでいないし、往来もない島なのに信号機があるぞ?と思ったら、そこが池島小・中学校。学校授業の一環として、信号機を設置したのだろう。「赤信号のときは、止まれ」とか「右見て、左見て、また右見て」という交通の基本動作は、この島にいる限り習わないと身につかない。
児童がほとんどいなくなった今でも、ちゃんと点灯している。授業のときだけ点灯させればいいのに、と思ったが、「あっ信号だ!青だろうか赤だろうか?」と一瞬身構える癖、というのを身に着けさせるためにも常時点灯なのかもしれない。
全校児童数名とはいえまだ現役の施設。さすがに、ここはまだ生活感を感じさせる。
それにしても掃除はどうしているのだろう?児童数に対して、敷地の広さが尋常ではない。日ごとに掃除場所を変えたって、全部回るのにかなり時間がかかってしまう。
17:25
真新しい看板があるな、と思ったら「公共トイレマップ」だった。親切だ。
この島には6カ所にトイレがあるそうだ。公衆トイレとしては1カ所だけで、残りは公共施設や店舗のトイレを使わせてもらうことになる。
島内散策のために訪れた観光客が、トイレに困らないようにという配慮はありがたい。
意外なことだが、この島には銭湯が2カ所現存する。逆に言えば、アパートの各部屋には風呂が備わっていないのかもしれない。
とはいえ、島民の数の割に銭湯が多い。
一カ所は、港の近く、池島総合開発センターの近くに「港浴場」の名で営業している。そしてもう一カ所が、我々が今目指している島中央部にある「東浴場」だ。閉山前はこの他、8階建てアパートの1階に「西浴場」があったという。それとは別に、職員浴場、第二坑道の建物内にも浴場があった。
それにしても、なんだこの圧倒的なインパクトの光景は。ツタ系の植物に完全に覆われてしまったアパートが並ぶエリアに差し掛かってきた。これは・・・さすがに人は住んでいないよな?
アパートの階段に通じる入り口は、木の引き戸になっていた。歴史を感じる。金属だと潮風で劣化するから木を使っているのか、それとも昔は木の引き戸が当たり前だったからなのかは不明。
先ほど中央会館のフロントで見せてもらった、「池島マップ」を撮影してあったので、それをデジカメの小さな画面でチラチラと見ながら場所を確認する。ええと、東浴場に向かうには、「池島ストアー」のところを左に曲がらないといけないんだけど・・・
なんか、目の前に広がるのは廃墟アパート。行き過ぎたんじゃあるまいか。いくらなんでも、この先にお店やら公衆浴場があるとは思えない。
ちなみにこの建物は105号棟「池島寮」。100番台のアパートは職員用のアパートで、番号が大きくなるに従って住む人の役職と、部屋のグレードが上がるそうだ。係長以上が住む家は風呂付き。それ未満は、共同浴場通いとなる。
※この島には「職員」という人たちと「鉱員」という人、そして「協力会社」という人がいる。
池島寮は、独身の職員向け住居。
少しだけ戻る。
そういえば、何か団地とは違う建物が見えていた。よく見ると、「長崎市設食料品小売センター」と書いてある。あー、地図上で「食料品小売センター」と書いてあるやつか。
この中に、島唯一の飲食店「かあちゃんの店」があると聞いているが、さて、やっているだろうか?
お。館内は電気がついているぞ。営業しているらしい。
そういえば、先ほど車で送ってくれた人が、「今晩は『かあちゃんの店』で食べるの?」と聞いてきたっけ。
長崎市設食料品小売センターの中に入る。
入ってすぐのところに「かあちゃんの店」があり、入り口正面にはちょっとした食料品と日用品が売られていた。
売られているのは、これだけ。
ううむ、と思わず唸ってしまった。人間、最低限の文明的な生活を営もうとするとこの程度でやっていけるのだな、と思ったからだ。もちろんここにあるだけでは不足だろうが、「これだけは置いておかなくては」というものが、ここに凝縮されているのだろう。
棚8段のうち、スナック菓子が2段を占める。そしてカップラーメン、袋麺が3段。日本人の主食であるコメは、生米としては売られていない。「サトウのごはん」形式で売られている。
あれ?肉とか野菜はどこだろう。
ひょっとしたら、別のところに冷蔵棚があって、そこで生鮮食料品が置いてあったのかもしれない。冷やかしで入った我々なので、長居はしなかったので見落とした可能性がある。
建物は広いのだけど、ベニヤ板で仕切られてしまいほとんど使われていない。そして今いるエリアも、シャッターが閉まっているところが多い。
昔は行商人が本土から100人ほど毎日やってきてここで物を売っていたそうだ。なるほど、民間スーパーじゃないんだな、この建物は。だから「長崎市設」なんだ。長崎市は行商人に場を提供していた、というわけだ。
しかし閉山して人がいなくなったこの島では商売が難しく、行商人の高齢化も相まって次々と規模縮小。今や「かあちゃんの店」だけになってしまった。
その「かあちゃんの店」だけど、朝8時から18時くらいまで営業しているそうだ。不定休、客がいないときは早じまいしてしまうこともあるとか。
「しまった、飯はここにしとけばよかったな」
ばばろあがぼやく。僕も正直、ちょっと悔しい。
今日の日程上、ひょっとしたら船に乗り遅れてしまい島への到着が大幅に遅れる可能性があった。そのため、18時「頃」と言われている閉店時間に間に合う自信がなかったし、そもそも不定休なのでやっていない場合もあり得る。島に来て何もなかったら、飢えを凌ぐ手はずがもう何もない。自販機でジュースを買って飲むしか、残されていない。そういう危険性があったので、食事はすべて本土から運び込んだのだった。
日持ちする食料ならば、「今日はかあちゃんの店のお世話になって、買ってきた食料は明日にでも食べよう」と機転をきかせることができた。しかしなにしろ、買ったのはお刺身だ。キング・オブ・なまもの。明日の朝食べるのでさえ、よろしくない。「うーん」といいながら、この場を立ち去るしかなかった。ちなみにかあちゃんの店はしっかりと営業中だった。
今こうやって文章を書いていて気がついたのだが、営業は朝8時からだというなら朝飯をここで食べればよかった。朝飯は各自菓子パンを買っていたのだけど、そんなものは保存がきく。池島の大スペクタクルな光景に圧倒されて、そこまで頭が回らなかった。
ちなみにこのかあちゃんの店、「うどんとそばと、丼ものと、とんかつ定食くらいならあります」というよくありがちな定食屋とは一味ちがう。人気メニューとして、長崎ご当地グルメである「トルコライス(900円)」が鎮座しているから全くあなどれない。
しかも、ちゃんぽん(750円)や皿うどん(750円)といったメニューもあり、観光客を歓喜させる内容になっている。いいなあ。トルコライス、人生で一度も食べたことがないんだ。池島で食べてみたかった。
せっかくだから何か買おうか?とも思ったが、極めて日常的な商品しか売られていないので観光客が買うものは何もなかった。さすがに便所掃除用の洗剤を買っても仕方がない。「あっ、ウチで使っているのと同じヤツだ!」とは思ったけど。
小売センターをあとにする。
「それにしてもおかしいな、確か『池島ストアー』を目印に曲がるはずだたのに」
そして現実を目の当たりにした。
地図上で「池島ストアー」と記されているその地は、跡形もないさら地だった。
17:29
「東浴場」を目指して歩いて行く。
このあたりはアパートの密集エリアだ。鉱員とその家族が生活を営んでいたわけだが、今や廃墟だ。あ、いや、まだ人が住んでいるかもしれないから、「廃墟」と言い切ってしまってはまずい。
かあちゃんの店があるくらいだから、この近くにも人は住んでいるはずだ。いくらなんでも、誰も住んでいないところにお店は出さないだろう。
この島のアパートの多くは4階建てだった。5階以上になると、階段での昇り降りがしんどくなるからだろう。もちろん昔の建物なので、エレベーターなんてものは備わっていない。
それを思えば、軍艦島は容赦なくアパートが高層化していたのですごい。土地がないんだからしょうがないじゃなか。歩け歩け、というわけだ。池島はまだ土地に若干の余裕があったので、こうして4階建てのアパートで済んでいるし、整然とした区画整理で団地が形成されている。
傷んだ建物ではあるが、部屋によってベランダのサッシが新しかったり古かったり、様々だ。人がモザイク状に抜けていったからだろう。一斉に建物の住人全員が抜けたわけでなく、長い月日をかけて徐々に人がいなくなっていったことが伺える。新しいサッシの家だって、今はもう誰も住んでいない。
こういう建物の場合、どのフロアに住むのが一番贅沢なんだろう?最上階の4階は見晴らしがいいけど階段の昇り降りがしんどい。かといって1階だと草木が迫ってくる。防犯という点ではこの島なら問題ないだろうけど。結局2階に住む、というのが一番よさそうだ。
13号棟。
アパートを一つ一つ見ていけば、建造年月によって個性があるのだろう。しかし、ざっと通り過ぎた程度ではさほど「おや?」と思えるほどの特徴は気づかなかった。どの建物も、必要最低限のシンプルな作りになっている。
この建物はベランダに対して窓が2つ。2DKの間取りだ。多くの鉱員用住宅では、6畳と4畳半の部屋にダイニングキッチン、という間取りだったらしい。一家が住むにはかなり狭い。
ちょっと変わっているのが、ベランダで隣の家との境に、収納スペースがあるということだ。木の扉が付いている。あと、窓はサッシになっているものの、木の雨戸が備わっている。サッシにしたのは後世のことで、最初のうちは木枠の窓だったのかもしれない。
東浴場は公園を右に曲がったところ、と地図には描かれてあった。
先ほど道を間違いかかったこともあるし、気をつけないといけない。しかし、我々が歩いている道には、公園らしきものが見えてこない。しまった、また道を間違えたか?と一瞬身構える。
なにしろ、参考にしているのが手書きの地図だ。縮尺とか方角がデフォルメされて描かれているだろうから、気をつけないといけない。
と思っていたら、おや?何か公園っぽい入り口がある。
しかし、その入口の先は、単なる茂みだった。これは公園だろうか?
17:30
結論から言うと、この茂みが公園で正解だった。建物でさえ植物に覆われるこの土地なんだから、公園なんてあっという間に植物ワールドになってしまう。
このあたりは電線だけでなく、パイプも空中を伝っている。
「発電所でできた蒸気をこっちまで運んでるんよ」
ばばろあが教えてくれる。
港から中央会館に向かう途中に発電所があるのだが(車でビューンと通り過ぎたのでこのときは全く見ていない)、そこでは商品にならない微細な石炭を使って海水を沸かし、蒸気でタービンを回して電気を作っていた。同時に淡水も作っていて、国内初の海水を淡水にする設備が備わっていた。このお陰で、外海からの海底上水道パイプを使わなくて済んでいた。むしろ逆で、周辺地域が干ばつになったときは造水機で作った水を送り出していたというのだから驚きだ。
発電の際には蒸気もできるので、それがこうやってパイプで島内を巡っている。蒸気の熱を使って各施設で湯を沸かしたり、暖房や工場の動力にも使っていた。
なぜ地中化していないのか不思議だが、地下にパイプを掘るよりも設置やメンテナンスが楽だったのだろう。
もちろん今は発電所は稼働していないので、このパイプも中身はカラだ。
17:31
東浴場到着。
銭湯というより、公民館といった風情の建物。
建物の入り口に、親子連れがいた。この人達は中央会館の宿泊客ではなかったので、島民かもしれない。ということは、子どもたちは数少ない小学校の児童、ということになる。このあたりに住んでいるのだろうか?
入浴料金は格安で、1回100円。
運営母体はどこだろう?昔は炭鉱施設の一部だったのだろうが、今となっては過去の話。営利目的でやっている金額ではないので、長崎市が引き継いでいるのだろう。炭坑が営業していたときは、入浴料は無料だったというのだからすごい。
営業時間は16時から21時。3交代制で仕事をするのが炭坑なのだから、風呂だって24時間営業にしてもいいのに・・・と思うが、蒸気で湯を沸かす音がかなりうるさかったため、短い営業時間にせざるをえなかったそうだ。
銭湯の中に入る。
男性と女性に入り口が分かれており、その真中に番台がある。しかしこの番台からは更衣室は見えない作りになっている。昔ながらの銭湯とは若干違ったスタイル。
小銭がなかったので千円札を出したら、番台のおばさんは困った顔をした。100円玉はないか?という。持ち合わせがなかったので、蛋白質から100円を借りた。
入浴料100円というこの浴場において、1000円札だなんて高額紙幣。お釣りをいくら用意しても足りないので、小銭持参は必須マナーだ。
広い更衣室。
なんでこんなに広いのだろう。昔は真ん中にソファとか置いてあったのだろうか?それとも、鉱夫たちの装備品などを置けるように、棚を大きく・広く設置していたのかもしれない。
東浴場の浴室。
広い浴槽が真ん中にある。しかし、奥の方半分は浴槽が潰されている。おそらく、入浴する人が減ったので、浴槽サイズを半減させたのだろう。
あと、壁際に小さく細長い浴槽のようなものがある。ザブンと浸かるには小さすぎるので、ここは汚れ物を洗ったりする場だったと思われる。
シャンプーとボディーソープは備え付けられていないものの、番台で貸してくれる。なのでタオルさえ持参していればOKだ。
「なんかこのお湯、のぼせやすい気がするんよね。気のせいだとは思うんじゃけど」
「ばばろあ!それはわかったから、湯船に入れ。今から記念撮影するんだから」
「ええじゃん、ここにおっても」
「お前の股間が丸出しなんだ。それをあとでモザイクをかけにゃならんこっちの立場にもなれ」
「かまわん、かまわん」
「なんで友達のチ●コ写真を拡大しながら、修正をしなくちゃならんのか・・・」
そんなわけで撮影された写真がこれ。さすがに修正済みだ。
昔っからばばろあは風呂での写真撮影時に股間を出すことがある。アワレみ隊旅行の定番ともいえる。昔なら、そういう写真を見ながら全員で爆笑して、「もー、ばばろあったら!見えちゃってるぞ!」と手を叩いていたものだ。しかしさすがにそんな写真を保存するわけにもいかず、修正する手間が面倒ということもあって、今では「股間丸出し写真」のたぐいはほとんど撮影していない。
最近は自分のPCの写真フォルダの内容が、自動的にGoogleフォトにアップロードされる仕組みにしてある。他人と写真共有する上でとても便利なのだが、股間のキノコが写っている写真をGoogleのサーバにあげてしまうと、Googleから「ポルノ」とみなされてアカウント剥奪という処分を受ける可能性がある。なので写真の修正は大事だ。
18:15
のぼせて脱衣所で放心状態のアワレみ隊御一行様。
18:16
東浴場の入り口に設置されている自販機。
取り扱い飲料の数が少ない。その数、7種類。これだけボタンがあるのに。
あれこれ種類を用意しても売れないし、頻繁に補充できないので同じ飲み物をたくさん在庫しておこう、という考えがあるのだろう。これならそう簡単には売り切れないぞ、というわけだ。
それにしても、一番の売れ筋は缶コーヒーなんだな。ジョージア「至福の微糖」が上一段すべてを占拠している。
侮れないのはリアルゴールドだ。こういう厳選された品揃えにおいてもちゃっかり居場所を作っている。ということはこいつ、売れているというわけだ。やるなぁ。
18:17
宿に帰る前に、もう少しこのあたりを探検してみる。
こちらのアパートも、先ほどの13号棟と作りは一緒だ。しかし早い段階で住人がいなくなったようで、荒れ方が進んでいる。ベランダの柵も、新しくなっているところはない。8号棟。
18:19
アパートの一部屋に、何やら後づけのホースが伸びているのが見えた。コンクリートの灰色に対して、青と、ピンクと、灰色の3本のホースは目立つ。なんだろう、これは。
その建物の1階部分。木の扉。103号棟。
おっと、その左側に湯沸かし機が設置されていた。明らかにもともとあったものではない。そしてそこから、3本のカラフルなホースが伸びていた。
なるほど、3階の住人がお湯を使うために引っ張ったホース、というわけだ。
おそらく発電所が止まるまでは、各住戸にお湯が供給されていたのだろう。しかしお湯の供給が止まってしまったので、自己解決したというわけか。