変わり続ける観光地【倉敷】

アイビースクエア

東町の「夢空間はしまや」でのんびりと時間を過ごしたのち、美観地区方面に戻る。

肌着でおなじみのグンゼが運営するスポーツジムの横を通り抜け、「いがらしゆみこ美術館」の誘惑を振り切って素通りすると、レンガ造りのアーチが見えてくる。

これも倉敷観光地の代表格、「倉敷アイビースクエア」正面入り口。

倉敷のもう一つの顔、明治以降における紡績で栄えた町の象徴だ。ここが倉敷紡績所の工場跡地となる。

アイビースクエア地図

かなり広い敷地の中にレンガ造りの建物が並び、その多くが「ホテルアイビースクエア」として使われている。工場の建物に泊まる!というのはよく考えると珍しい体験だ。

残念ながら僕はここに泊まったことはない。

フロントの近くに「パブ 赤煉瓦」という風情ある、大人の空間ともいえるバーがある。外からちらっと見えるので、昔っから「いつかここで一杯、スコッチでも」と考えていた。しかしそうこうしているうちに僕はお酒を止めてしまい、ここで一杯たしなむ機会を失ってしまった。残念だ。

ホテル入り口

そもそも僕は、子供の頃はここがホテルであるということを全く知らなかった。というのも、いつも倉敷川方面・・・ホテルから見ると裏手にあたる・・・からしか、アイビースクエアを訪れたことがなかったからだ。

でも、大きくなって自由気ままにこのあたりをウロチョロするようになって、こうやって正面玄関を見て、「ああ、ここはホテルだったのだな」とあらためて気づかされた。

バカみたいな話だけど、実話だ。倉敷川側からだと、ホテル感が全くない。

アイビースクエア中庭

ホテルフロントを突っ切って、アイビースクエアの中庭に出る。

大抵の観光客はここまではやってきて、特に何もない中庭をちょこっとだけ歩き、みやげ物屋を覗き、そして立ち去っていく。

ホテル自体はこの写真の奥の建物だ。そりゃあ、ホテルの存在に気づかないわけだ。僕なんて、子供の頃、あの建物は廃墟だと思っていた。

この中庭は、イベントが時々行われているし、夏場はビアガーデンになる。今こうして、テーブルがびっちり並んでいるのは「ビアガーデン仕様」になっているからだ。

「時間無制限」を売りにするビアガーデンなので太っ腹なのだけど、そもそも営業時間が18時から21時半と3時間半しかない。営業時間という現実がある限りは「無制限」ではない。

まあ、飲み足りなければ、引き続き「パブ赤煉瓦」などへどうぞ。

つたが茂る

アイビースクエアの建物は、もともと紡績工場だったということもあってカタカナの「ヨ」の字みたいな櫛形の形状になっている。

夏場になると、「アイビー」の名のとおり、ツタが壁面をびっしり覆い隠す。

レンガ造りの建物は夏は熱を蓄えて大変暑くなる。それを防ぐため、遮熱目的でツタが植えられたという。庭にゴーヤを植えるのと一緒だ。

アイビースクエア内部

建物の全てがホテルになっているのではなく、一部は展示場として使われている。この日は何も展示がなかったので、がらんとしている。

元工場なので、天井はノコギリ状の三角屋根になっている。そして、さすがに天井までもレンガというわけではなく、ここは木製だということがわかる。

昔の工場が三角屋根を採用していたのは、太陽の光を工場内に取り込むためだ。しかし、この倉敷紡績所は、紡績発祥地であるイギリスと同じ角度に屋根の斜面を作ってしまったため、あまり効率的に採光はできなかったそうだ。イギリスと日本では緯度が全く違うから、太陽の位置がそもそも違う。経験が浅い中作ったので、うっかりしてしまったのだろう。

産業革命以降の工場といえば、「女工哀史」に代表される「過酷な労働環境」がイメージされる。実際、「ああ野麦峠」なんて、そういう悲話だ。

しかし大原孫三郎は託児施設を作ったり、工場勤務者のための病院を作ったり(これは今は倉敷中央病院という名前で現存し、日本で指折りの優良病院として名高い)して、工場労働者への便宜を惜しまなかったという。

なぜそのような篤志家だったのかというと、クリスチャンだった林源十郎との親交で、大原孫三郎自身もキリスト教徒として活動していたからだ。

倉敷や岡山界隈では大原孫三郎はとても有名な存在だけど、その知名度は到底全国区ではない。でもこの人の一代記を読むと、「なんだこの偉人は?」と呆れるレベルですごい。放蕩息子で、1億円くらいの借金をこしらえて謹慎処分を受けてからの変わり身のすごさ、という点でも、まるで物語の主人公のようだ。

さすがに後世の人達による美化があるでしょう?と思ってしまうが、明治期に活躍した人だし、経済人なのでいちいち文献が残っているので嘘はない。もし興味があるなら、

このあたりの本がおすすめ。

代官所の井戸

このアイビースクエアはもちろん法事のあとの会食や同窓会、そして結婚式にも対応している。ちょっと奥まった場所なので観光客からは気づかれにくいけど、チャペルだってある。

蔵が並ぶ町並みの中にチャペル!と思わず笑ってしまうが、レンガの外壁に覆われたこのアイビースクエアだけは別格。

そんなアイビースクエアの中に、不釣り合いな井戸がある。

紡績工場ができる前、この地は代官所があったので、その名残だ。

代官所地図

倉敷は幕府直轄の天領だったので、代官所があった。

なので、この代官所敷地を取り囲むように、堀が配置されていることがわかる。

とはいっても、今やもう代官所の残り香は全くなく、紡績工場跡地として完全にのっとられてしまっている。せいぜい、意味深な堀があるのと、この井戸があるくらいだ。

児島虎次郎記念館

さすがにここまで頑丈で立派な工場ができてしまうと、今更「倉敷を江戸時代の風情に統一しよう!代官所を復刻させよう!」なんて話にはできないと思う。

なのでこの界隈は、「明治期以降の倉敷」を体感するエリア、ということで何卒ひとつ。

コラーゲン

アイビースクエアを抜け、美観地区に戻る。

長年、讃岐うどん店「かな泉」があった場所には、別のお店が入っている。

「かな泉」は讃岐うどんの店として一時は名をはせたが、2012年に破産。おそらく、セルフうどんチェーンの勢いに勝てなかったんだと思う。なにしろあちらは破竹の勢いだし、お値段が安い。一方「かな泉」はうどんだけど高級路線で、うっかりするとお支払いが数千円レベルになる場合もあった。さすがに時流にあわなくなったのだろう。

その後釜に入ったのが、岡山県産のフルーツを使ったコラーゲンゼリーを売るお店と、結婚式場だった。時代が変わればテナントも大胆に変わる。

倉敷考古館

火の見櫓の脇を通り抜けたところに倉敷考古館。

壁一面が「なまこ壁」になっている。

普通、壁に瓦を埋め込むこのスタイルは、傷みが早い壁の下半分に施されるものだ。なにせ、見ての通り瓦をしっくいで塗り固めていくのは手間だし、お金がかかる。エコカラットみたいにパネルを壁に貼っておしまい、じゃないから。

にもかかわらず、このように屋根の部分まで一面なまこ壁になっているのは、相当贅沢な作りだ。場所柄、これも米蔵だったと思われるのだけど、ここまで見事な壁は倉敷の中でも他にないと思う。写真を撮っておいて損はない。

瓦とはいえ、数十年もすれば劣化してくる。このなまこ壁をやり直すとなると、一体何千万の費用がかかるのだろう?想像しただけで恐ろしい。さすがに、「もう面倒なので、それっぽい柄の壁で勘弁してください」というわけにはいかないだろうし。

なお、倉敷考古館の理事長は大原謙一郎。もちろん大原孫三郎の血筋だ。もうね、至る所に大原さんですよこの界隈は。伝説の人であると同時に、その子孫が現在進行形で町の発展に寄与している。

倉敷川

倉敷川。昔はこのあたり一帯は浅瀬で、海に面していた。美観地区の背後にある鶴形山は島だったこともあるくらいだ。そこからばーっと江戸時代に干拓していって、大規模な新田開発をしていった。

地図を見ればよくわかるが、「美観地区」は今となってはかなりの内陸部だ。その富が倉敷の豪農・豪商に集まったのだから、そりゃあ潤うに決まっている。一帯どれだけの石高がここから生まれたというのか。

その新田開発の境界線の名残が、倉敷川ということになる。昔は川幅が20メートルもあったという。

以前、地元のご高齢の方から、「昔は冬になると広島からかき船がやってきて牡蠣料理店を営業していた」と聞いたことがある。嘘だろ?あの倉敷川にどうしてそんなことができるんだ、と思っていたが、なるほど納得だ。

あと、わざわざ「広島からかき船がやってくる」んだから、昔の倉敷がどれだけ盛んだったか、ということがうかがえる。

(つづく)

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