
16:51
銅親水公園から、来た道を戻る。
途中、石積みのレンガ壁がある場所でいったん停車してみた。
防火用のレンガ壁だけが残り、あとは草むら。奥には石垣があり、ここに階段状に家が建っていたことがうかがえる。

解説看板があった。
1棟7戸の長屋が建ち並んでいて、昭和31年には819名が住んでいたそうだ。
長屋そのものは木造だったようで、跡形もない。礎石も残っていないので、簡易な作りだったのだろう。
こういういところでも、「三匹の子ぶた」の寓話が正しいことがわかる。石の建造物は、そう簡単には壊れないというわけだ。
わざわざ石の防火壁をいくつもこしらえる手間暇をかけていたのだから、よっぽど火災が起きそうな危なっかしさがこの地にはあったのだろうか?

16:52
今となっては、わずかなお年寄りと、ニャンコたちの住まいになっております。

精錬所の背中側から見たところ。正面が「銅がとれる山」だった、備前楯山。なんで「備前」という岡山県っぽい名前がついているのか、謎。

塗装が剥げてさびが出ているタンクなどが見える。
歴史の教科書に出るくらいの銅山なのだから、さぞや巨大な精錬所だろう?と思いきや、あんまり大きくはない。川と山肌に挟まれた、細長い敷地だ。そんなところに、民家みたいな建物まで建っている。おそらく事務所なのだろうけど、「ビル」をこしらえるほどでもない程度に余裕があったのだろう。
完全な廃墟のように見えるのだけど、緑十字の旗がはためいているのが見える。ボロボロになっていないところを見ると、今でもあの敷地内では何らかの作業が行われているっぽい。

16:56
古河橋に戻ってきた。

「足尾銅山の誇れる産業遺産」とまで言い切っている。
確かによく見ると珍しい作りだ。銅鉄製だけど、人が渡る部分は木製になっている。
「平成5年に新古河橋ができたので、歩道橋になった」と書いてあるけれど、今は通行禁止になっていた。

車が通る新古河橋と、歴史遺産の古河橋と、その奥の精錬所跡。
車道をまたぐ形で、わたらせ渓谷鉄道の貨物線の線路がちらっと見えている。
うーん、それにしてもあの大きな建物の中は一体どうなってるんだ。トタンで覆われていて、一部トタンが剥げたところ以外は窓らしいものが見えない。まるでチェルノブイリ原発の「棺桶」のようだ。

17:14
そんな精錬所跡の前を通り過ぎ、備前楯山の背後の細い道を走ってみる。
ところどころ、銅山操業時の遺構が道ばたに残っているぽかったけど、ハンドルを握っているとほとんど具体的にそれらを確認することはできなかった。
本山坑と繋がっているという、山向かいの小滝坑があるエリアに向かう。

17:14
国民宿舎かじか荘。おもわず「おー」と声を上げてしまう。
というのも、日本百名山である皇海山(すかいさん)を登る際、ここを起点にして山中一泊二日の行程となることが多いからだ。そうか、この遙か奥が皇海山なのか。
皇海山には、群馬県の沼田市方面から登っていくルートがあり、それが最短だ。往復6時間もあれば十分なくらいだ。しかし、その登山口にたどり着くまでが想像を絶する悪路で、通行止めになっていることも多い。楽をして登ろうとする代償として、愛車やレンタカーに傷を付ける覚悟を決めないといけない。
僕が実際、甘い考えで皇海山に突撃した時の記録が記事になっている。

通行止めに道を阻まれ、道中のデコボコで心折れていく様が詳しく書いてある。これはもう相当昔の話だけど、未だに状況は大して変わっていないっぽい。

国民宿舎があるあたりは「銀山平」という地名らしい。紛らわしい。銅山なのに。ということは昔はここで銀が採れたのかもしれない。「宝の山」とはまさにこのことだ。
その銀山平を、もう少し足尾の集落方面に下ったところが小滝と呼ばれるエリア。今じゃ誰一人住んでいないけど、ところどころ看板が見える。

17:19
坑夫さんたちの風呂場跡。小判型の湯船だけが残されている。昔はどういう風呂場だったのだろう?

最盛期の大正時代には、このあたりに1万人が住んでいたそうだ。信じられない。今じゃ、ほとんど誰も住んでいない谷間なのに。

あちこちに看板がある。そして、石垣や朽ちた鉄橋などもある。確かに、よく見ると人がいた気配、というのはまだかろうじて残されている。

このあたりは精錬所と選鉱所があったらしい。
ほかにも、じっくりとあたりを散策すれば、住居跡とか小学校跡といった「人の営みの面影」があちこちに点在しているらしい。時間があれば、それらを探してみたかった。しかし、もうそろそろ日没の時間が近づいており、今回はパス。

17:23
いるのは猿だけの空間だった。
(つづく)
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