
16:12
六合目雲海荘の隣には、すぐにもう一軒の山小屋が建っている。「新六合目宝永山荘」という看板が出ている。
ほら!「道中の山小屋で金剛杖に焼き印を押してもらおう」と思っていた人、早くもここで困惑するはずだ。「えっ、新六合目ってなんだよ・・・」って。これは予想外の出費だぞ、とも。
油断禁物だぞ、この後七合目、八合目、九合目・・・とそれぞれに山小屋があって、さらに「九合五勺」にも山小屋があるからなー。
それから、山頂の火口をぐるり一周お鉢めぐりする場合、その一周の間にいくつも山小屋があることを忘れてはいけない。全部の山小屋で焼き印を!なんて誓ったら、かなりの出費を覚悟しなくちゃいけない。

16:14
この六合目に山小屋が2つも並んでいるのは、登山口がある五合目にはレストハウスしかないからだろう。つまり、「ひとまず今日は富士山に取り付くところまで行ければいいや」と思っている人は、六合目にたどり着く必要がある。五合目では泊まれない。
ちなみに五合目は一般車両の通行が制限されている。多くの登山客はパーク&ライドで麓の駐車場からバスで五合目までやってくる。このため、麓で一泊となると翌日のスタートが遅くなる。一泊富士山登山を考えるなら、富士宮ルートなら最低でも六合目のここまでたどり着いておきたい。
そんなことを言っている僕らも、時刻は既に16時過ぎ。山小屋泊の常識ならば、この時間に小屋到着だとしても小屋番さんに怒られるレベルの遅さだ。でも富士山ならば少々遅くても平気・・・だと思う、たぶん。
これが登山初心者で見込みが甘いならばマズいけど、僕というそれなりの経験者が仕切っているのだから問題はない。
ここで登山道は分岐する。富士山頂を目指すルートとは別に、宝永の噴火の際に出来た宝永火口に向かうルートだ。
今回の僕らは、富士宮ルートで山頂を踏破し、ぐるっとお鉢めぐりをしたのちに御殿場ルートを下山する予定でいる。そして途中から宝永山・宝永火口に分岐して、この六合目に戻ってくる。

16:15
宝永火口に向かう登山道を見送り、宝永山荘脇からぐいーっと強烈に標高を稼ぐ垂直ルートを登っていく。
かなり傾斜がきつい。でも、富士山というのはひたすらこういう山だ。
道中アップダウンがあったり、沢があったり、鳥のさえずりが聞こえたり、という変化は殆どない。ただ登っていくだけだ。だから面白みのない山、といえる。まさかこんな山に4度相まみえることになるとは思ってもみなかった。もう次こそはいいぞ、登らなくていいぞ。
いしは「いずれまた今度、子供ができたら子供といっしょに」とか言っているけど。

16:21
森林限界から登山がスタートするので、眺めはひたすらに良い。ただ、この景色がずっと続く。
天気が良ければ、振り向くと駿河湾!富士市の製紙工場の眺め!などと見どころいっぱいだけど、いくら標高を稼いでもその景色はほとんど変わらない。「あの丘を越えたら、きっと風景が一変するんだろなあ」という期待、がまったくないのが富士山だ。

16:30
単独峰ならではの、ズバーンと突き抜けた景色の良さというのを満喫できるのは下山時だ。
登山中は目の前の岩と砂れきをひたすら眺めながら、ハアハアと荒い息を漏らすしかない。
せいぜい、登山中の楽しみといえば遠くに見える次の山小屋だ。ああ、次のチェックポイントはあそこなんだな、とわかる。ガスってなければ、次の次の山小屋も見えることがある。
ほら、先の方に七合目御来光山荘が見えてきた。
僕らが宿泊予約をしている小屋が、あそこだ。今日はあそこまで頑張れ。
いしが
「えー、まだあんなにあるんですかー」
と悲鳴を上げる。ここまでも、僕と比べて随分ペースが遅い。
「まだあんなに」もなにも、登り始めて45分しか経っていないんだぜ。音を上げるにしては早すぎる。
意外だったのが、いしよりも僕の方が登山用の身体が出来ている、ということだ。そりゃ登山経験は僕の方が圧倒的に多いけれど、それでもせいぜい年間数回しか山に登っていない。それ以外の運動はやっていないので、心肺機能は人並み以下だ。一方のいしはというと、普段立ち仕事でせわしなく動き回っているし、なにより僕と比べて干支が一回り違う若さだ。「おせーんだよ、ジジイ」とばかりに僕を突き放すものだとばかり思っていたけど、そうはならなかった。
男女の違いという構造的な要素もあるだろうけど、おそらく「山用のペース配分と歩き方」を身につけているかどうかの差なのだろう。体力はたぶん僕の方が劣るはずだからだ。
なるほど、山で60代70代のお達者さんたちをよく見かけるのは、そういう経験が活かされているからなのだろう。「よく登れるな!」と驚かされるけど、足腰が痛くないのであれば慣れで登れてしまうのかもしれない。

16:57
このあたりの標高になると、登山道右側に宝永山を見下ろすようになってくる。
見てよこの富士山の傾斜。滑り台みたいだ。これをひたすらジグザグに登っているのが僕ら、というわけだ。
で、このきれいな富士山の傾斜に不釣り合いな出っ張り、それが宝永山。
1707年宝永4年に大噴火した際に出来た火口と山になる。「山」といっても、噴火したマグマが冷え固まったものではない。もともと美しいシルエットだった富士山の中腹が噴火で消失して、その消し飛んだ辺縁部を「宝永山」と呼んでいる。
この宝永火口のおかげでせっかくの富士山の台形シルエットが乱れている。とはいえ、富士山は生き物ともいえる活火山だ。次の噴火でこの宝永火口はふさがってしまうかもしれないし、別のところがぽっかりと穴が開くのかもしれないし、標高が4,000メートルを突破してしまうかもしれない。
もし標高4,000メートルになったら、「もうこの山は登らなくていいや」という前言は撤回するか?・・・うん、たぶん撤回する。でも、そんなスゲー噴火があった後だと、登れるようになるまで何年かかるだろうな。5年?10年?その前に首都壊滅してるかもしれない。

17:00
ガスが晴れてきた。天気が回復基調にある、というよりも僕らが雲の高さを突破したのだろう。
今や雲上人になりつつある。

17:12
頻繁に立ち止まって荒い息を整えているいしを待ちつつ、少しずつ標高を上げていく。
負けん気の強いいしは、
「私に構わないでください!どんどん先に行ってくれて構いませんから!」
と言う。僕が数メートル先で振り返って待っているのがイヤらしい。マイペースで行きたいし、人の助けは借りたくない、そんな意志を持っている。
そういう気の強さがあるのは知り合った当初からわかっていたので、「あ、この人は僕の恋愛対象じゃないな」と思っていた。僕はもうちょっと頼られるほうが好きだからだ。だから、いしとはフランクに接することができる、近所のメシ食い仲間になれる、と喜んでいたのだけど・・・どう転ぶかわからないものだ。今じゃ、結婚の段取りを始めている有様だもの。しかも、あっという間に。

17:17
七合目御来光山荘が間近に迫ってきた。標高2,780メートル。
登山口から標高差400メートルを稼いだことになる。ずいぶん登ったって?いや御冗談を。ここから先、山頂まであと標高差が1,000メートルほどございます。

17:21
御来光山荘、到着。
またガスが周囲を覆いはじめた。到着した!と背伸びをして背後を振り向いたけど、外界はガスのせいで殆ど見えなかった。
登山口からここまで、だいたい1時間45分程度。高度順応も兼ねていい感じの運動になった。明日が本番なので、今日は予行演習だ。
なにせいしは夜勤明けでの富士登山だ。高山病になりやすい状況なので、まずはここで低酸素の環境に馴染んで欲しい。
(つづく)
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