島流し御赦免ツアー

[No.22 釈迦堂 2005年05月03日 11:35]

釈迦堂を探す

神社の次はお寺だ。この変わり身の早さこそが日本人たるゆえんって奴で、除夜の鐘をついた後にそのまま初詣に行くようなものだ。

でも、為朝センセイの妨害からか、釈迦堂が見つからなくて困った。

この辺り、道が入り組んでいる上に狭くて、舗装されていないところも多い。しかも、アップダウンがあったりして、探すのにとても難航した。

しまいには、車で探すのを断念して、二人がかりでダッシュして目指す釈迦堂を探す始末。

こういう、どこにあるか分からないものを探すとき、目の前の道をどこまで進んだ時点で「やっぱりここじゃない!」と断念すべきか、判断に困る。しぶちょおがみるみる遠くへと去っていく。

木造建築物

しばらくして、うっそうと繁った林の中になにやら由緒ありそうな木造建築物を発見した。

これが釈迦堂だろうか?

はろはろーお釈迦様。

木造南蛮羅漢坐像があるらしい

あれ?あれれ?

教育委員会の黒看板によると、「木造南蛮羅漢坐像」って書いてあるぞ。ということは、ここは釈迦堂ではない?

「しまった、違うところだったか!」と慌てたが、よく本文を読むとこれがやっぱり釈迦堂。

なぜか、釈迦堂に羅漢さんがまつられているらしい。お釈迦様が広い心をもって「行くあてがないならどうぞこの我が家をお使いください」と言ったのか、それとも「うわぁ、ちょっとの間だと思ってたら居座られちゃったよ、困ったなあ」と思ってるのかは、凡人の我らには不明。

記念撮影

お堂の風情を満喫すれば良いのか、それとも中に安置されているという羅漢さんをのぞき込めば良いのか、どっちに重点を置くのかちょっと躊躇したが、まあ、とりあえず記念撮影だけはしておこう。

結局、中の羅漢さんは暗くて確認することができず。後で調べたところ、羅漢像は八丈島歴史民俗資料館にて保管されているらしい。おい、じゃああの教育委員会の看板は紛らわしいだろ。

[No.21 薬師堂 2005年05月03日 11:42]

薬師堂

今日は、細かい路地裏に入っていくことが多い。「それ、今日は島南部に行くぞ」などと気合いが入っていた前日までだと、立ち寄ろうとも思わない「地味で、主要道から外れている」観光地ばかりが島中央部で残っているからだ。

この薬師堂も、そう。

相変わらずの、ざっくりした観光地図を睨みつつ、その道を現実の道に強引に当てはめてみて、「うーん、多分こっち」とナビゲートする。助手席の役割は非常に重要だ。

今度は薬師堂だそうだ。お釈迦様の次に薬師如来様、というわけだ。さっきの釈迦堂は羅漢さんの住まいになっていたわけだけど、こっちの薬師堂にキリスト像が祀ってあったりしたらどうしよう。

到着したところは、ちょっとしたピクニック向けの公園、といった風情。

薬師堂に繋がる石畳には、なぜか鳥居が。

建物。以上。

「地図を頼りにして現地に到着してみたら、小さいほこらが観光地、というのは当然盛り上がらないわけだが、こうやってそこそこの大きさがあってもやっぱり盛り上がらないものは盛り上がらないな」

建物。以上。

・・・って感じだ。

[No.25 浮田半平功労碑 2005年05月03日 11:48]

浮田半平功労碑解説

「でも、盛り上がらないといえば一番盛り上がらないのがお墓や石碑なんだよな」

といってるそばから、浮田さんの功労碑だそうで。

「ちなみに、この後しばらくは碑と墓巡りが続くよ」

「うへー」

狭い道を走っている時、墓地の中にひときわ目立つ白い看板を発見。どうやら、あそこが目指す功労碑らしい。

浮田半平功労碑

八丈島大賀郷前崎港が玉石浜利用の不便な港であるところから、浮田半平が一村を勧誘して、新たに八重根港を開いた功労碑で、その妻加登が明治元年(1868)に建立したものである。八丈島港湾変遷の歴史と労苦を知る上で貴重な資料である。

・・・なのだそうな。

「甘藷由来碑もそうだったけど、どうも『うちの家族(祖先)はどうだ、すごいことをやっただろう』的なものが一般的なのかね、八丈島ってのは」

八丈島港湾変遷の歴史と労苦を知る上で貴重な資料、というのは判ったのだが、その労苦がどうだったのかがさっぱりわからないんですが。功労碑に書かれている内容をわかりやすく解説して欲しいのだけど、ダメっすか。

「これは貴重な石碑であーる」と言われても、その貴重っぷりがまだ僕らにはよく浸透してこないんですよ、ええ。

[番外編 コーヒーハウス ポケット 2005年05月03日 11:59]

コーヒーハウス ポケット

ちょっと早い時間だが、山に登ったし、神社仏閣巡りしたし、お昼ご飯を頂くことにした。

今日は、先日あしたばうどんを食べたお店のすぐ隣にある、「ポケット」というお店にした。特に郷土料理を出すわけではなく、洋食のお店だ。「結構お客さんが出入りしているなあ」という印象があったのと、ガイドブックに「若いダイバーたちがよく集まる」と書かれていたのが決め手となった。

「若いダイバーが集まる、ということはガッツリ食べるぞ系、ということだなさては」

早速生ビールを注文

「とはいっても、結局僕はがっつり飲んじゃう方なんですけどねガハハ」

早速生ビールを注文して、ぐいっと飲む。ああ、今日は汗もかいたし、なかなか痛快。喉も、胃袋もビールの到来に喜んでおります。

ハンバーグカレー

こちら、しぶちょおが頼んだハンバーグカレー。

ホットサンド

二人でシェアする用に注文した料理。

BBQチキンとビーフテリヤキのランチプレート

僕が頼んだ料理。

BBQチキンとビーフテリヤキのランチプレート、900円だったかな。

ご飯がまるでアイスクリームのようにちょこん、ちょこんと並んでいるのが可愛い。

[No.19 宇喜多秀家の墓 2005年05月03日 12:57]

宇喜多秀家の墓

さあ、午後の部スタートだ。ビールを飲んでますますモチベーションがあがったおかでんが、高らかに「あっという間にやっつけるぞ、あっという間に」と叫ぶ。

やっつけられる方はたまったもんではない。

残された観光地はほぼ全て島の中央部。お互いの距離はあまりないので、てきぱき片づければ確かに「あっという間」に終わりそうだ。

午後の部一発目に訪れたのは、「宇喜多秀家の墓」。

そうか、八丈島で没だったわけだから、当然お墓くらいあるよね。

観光地図の曖昧な表記に惑わされながら、細い道を分け入ったところで集合墓地を発見。その脇に、「宇喜多秀家の墓」という案内柱が立っていた。どうやらここらしい。

宇喜多秀家の墓の案内

とはいってもどれが秀家さんのお墓なんでしょうね、と一つ一つのお墓を見ていく。このあたりは「浮田」姓の人が多いようで、ちょっとお墓が紛らわしい。

しかし、一番奥まで行くと、その一角だけ木に囲われたお墓があった。その他のお墓とは別格のお墓。それが、秀家アニキの墓所だった。

八丈島流人第一号のお墓がここにある、ということは当時このあたりに集落があったのだろうかと偲ばれたが、解説によると以前はもっと西北にあったらしい。ある時期にここまでお引っ越ししたのだという。

宇喜多秀家の墓

400年も前の人のお墓なのだが、今でも丁寧に下草は刈り取られ、生花が活けられ、卒塔婆も並ぶ。大切に管理されてきていることが判る。

宇喜多秀家の墓におまいり

明日羽田空港に戻る予定のわれわれは、

「明日飛行機が欠航して僕ら自身も八丈島島流しの憂き目にあいませんように」

とお祈りしておく。

就航率が低い八丈島~羽田路線を考慮して、休みの日を1日残しての帰京となる。まあ、八丈島居残りで会社に出勤できなくなりました、ということは無いと思う。

[No.20 石山留五郎墓? 2005年05月03日 13:28]

ガソリンスタンド

地図上では、宇喜多秀家の墓からわずかに東に行ったあたりに「石山留五郎」さんのお墓があると記載されている。

しかし、探しても探しても、どうしても見つからなくて困った。表通り、裏通り全てこのあたりをくまなく調査し、民家の庭の中まで疑って、最後には徒歩で周辺探索したがお墓は見つからなかった。このあたりで墓地といったら、宇喜多秀家の墓がある一角だけだ。

「わからん!どうやってもわからん!」

地図を放り投げて、ギブアップ宣言をせざるをえなかった。

「どうもあのコスモ石油が怪しいんだよな。地図だと、だいたいあのあたりにあるような描かれ方をされているんだが」

「あのコスモ石油のせいで、お墓が壊されたのかもしれんな」

「観光地破壊か」

勝手にコスモ石油を悪者にしてしまう二人。

「・・・まあ、見つからないものはしゃーない。また後ほどもう一度訪れることにして、別のところに行くか」

30分近く探索した結果、ついに諦めた。

とりあえず「この施設の下に、眠っているかもしれない石山留五郎の墓を偲んで」といいつつ、コスモ石油の写真を撮影しておく。

[No.16 島酒之碑 2005年05月03日 13:30]

島酒之碑解説

お次は「島酒之碑」。これまでの島内うろちょろの際に、「あ、あそこに島酒之碑があるな・・・」と気づいてはいたものの放置されてきた観光名所だ。遠目からでも、大きな醸造瓶の姿を見ることができる。

丹宗庄右衛門が流されて来た時、島では穀類から酒を造ると、飢饉を招く心配があるので、禁酒令が敷かれていた。

そこで彼は穀類ではない薩摩芋から造る故郷の焼酎製造法を伝えたので、酒に飢えていた島民から大変に感謝された。

八丈島には現在6軒もの焼酎製造元があり、本土にまで出荷しているが、この碑はその由来を記して、流人の功績を永く後世に伝えようとしたものである。

ああ、なるほど。米から清酒を作っていたんじゃ、主食が無くなってしまうんだな。だからこそ、芋から作る焼酎というのは意味があるわけだ。これは感心するとともに納得だ。そうか、八丈島で焼酎が盛んに醸されるようになったのは、そういう苦しい時代が背景にあるからこそなのか。うむ、この観光名所はなかなか勉強になったぞ。

焼酎甕と一緒に撮影

思わず、

「島酒よ風にのり~、鳥と共にぃ~海を渡れ~♪」

と何かの曲のパクリを口ずさんでしまう。

「どうだ?島酒って名前の歌を出したら売れると思わないか?」

「うーん、厳しいと思う」

「あ、そうスか。まあ、確かに『島唄』ならともかく『島酒』じゃあ何のことかさっぱりわからんからな」

「酒が飲める酒飲める酒が飲めるぞ~♪、っていう曲の方が合っているような気がする」

「売れなさそぅ。やっぱ『島酒』はダメか。ならば『島とうがらし』という曲はどうだ」

「ますます訳がわからなくなってきたぞ、それ」

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