法事と登山と深夜バス【伯耆大山】

砂の中を歩く人

12:42
砂利で埋め尽くされた行者谷を渡る。

砂防ダムが上にあるせいか、渓谷にあるような大きな岩がゴロゴロ転がっていることはない。しかし、これだけの石がぶちまけられているということは、長い年月をかけてそうとう山が崩れているというわけだ。

水は、雨が降れば大地を潤す。しかし、一度崩れた岩はもう戻らない。火山噴火を起こすか、地殻変動を起こして隆起でもしない限りは崩れる一方だ。いずれ、今見ているこの大山も、標高がどんどん低くなっていくのだろう。

・・・ということを心配する必要はないな。少なくとも僕が生きている間に、標高が数十メートル低くなりました、なんてことはないだろうし。そもそも、自然の摂理として標高が低くなるなら、それは悲観することではない。もちろん、人間のわがままによって自然をぶち壊すのはよくないけど。

大山北壁

12:42
ただいま崩壊真っ最中、の大山北壁を見上げる。そろそろこの景色ともお別れだ。行者谷を渡ったら、あとは本格的に大山に背を向けて登山口に向けて歩いていくことになる。これで見納め。

短時間でうわーっと登り、短時間でうわーっと下る。米子駅からもさほど遠くない。便利な山だ。アプローチまでやたら時間がかかったり、手間隙かけた割には景色があんまりよくない山も多い中、ここはとても素敵。ああ、でもここに到着するまで、夜行バスに乗って10時間、そこから乗り合いバスで1時間だったっけ。朝目が覚めたら米子駅だったので、感覚が狂っていた。かなり遠い山だぞ、ここは。東京から、という場合だけど。

なだらかな道

12:45
砂利を超えると、そこは幅の広いなだらかな道になっていた。のどかだ。旅の終わり、という雰囲気が漂ってきた。

山によっては、車が通れる林道に出て、そこから1時間とか2時間延々歩いてね、というところがある。登山道を1時間歩くのと林道を1時間歩くのでは、精神的負担がぜんぜん違う。林道はできるだけ歩きたくないものだ。たとえ肉体的には楽であっても。だって単調なんだもの林道って。

それを思うと、この山は林道歩きはほぼないので気持ちが楽だ。

大山見納め

12:47
しまった、さっき大山さんに最後のお別れをしたはずなんだけど、また振り返っちゃった。今度こそ、バイバイ。

自動車が見える

12:47
車が停まっていた。SUVのような悪路に対応した車ではないので、ここまですいすいと車が入れるだけの道が整備されているのだろう。もう、心の中でエンドロール流しはじめてもいいですか。エンディング曲かけはじめてもいいですか。ジャッキーチェンの映画みたいに、「名シーン・NGシーン」のスローモーションリプレイ画像流してもいいですか。

緑

12:48
このまま林道を歩くのかと思ったが、歩行者専用の道にまた誘導された。

歩道のほうが最短距離で目的地に到着できるので、当然そちらを選ぶ。

緑

12:50
なだらかな道を歩く。このままほぼ水平移動していけば、大神山神社奥宮に到着できるはずだ。

さて、エンディング曲は何にしようか。

あー、でも駄目だなあ、明日法事を控えていて、ここで明るい陽気な曲をかけるわけにはいかないなあ。

そこでふと我に返ったのだが、法事、しかも一周忌って一体どんな顔をして臨めばよいのかね。もうお亡くなりになって一年だし、神妙な顔っていうのもどうかと思う。かといって笑顔でもないだろうし、やっぱり「仏頂面」っていうのが一番いいのかな。

今のうちに表情筋を鍛えておこう。それ、ひっひっふー

あかん、それはラマーズ法や。

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