圧巻の山、圧倒する虫【巻機山】

07:40
巻機山の山頂を越え、御機屋に向かう。

またガスが出てきた。朝、行動を開始した時は天気が良かったけれど、今はやや不安定だ。良いタイミングで山頂を歩けたのは、運が良かった。

前方に、笑う池塘が見える。

07:49
御機屋に戻ってきた。

ここから避難小屋方面へは向かわず、割引岳をピストンすることにした。

往復でおよそ1時間。正直、少し面倒ではある。少し躊躇もする。

しかし、あれだけ立派なトンガリを見せられたら、行かなくちゃ・・・という気になる。これまで歩いてきた巻機山や牛ヶ岳が雄大な山頂だっただけに、ピラミッドのように尖った場所に立ってみたいという気持ちが湧いてくる。

登山というのは不思議なもので、登っている最中は「なんでこんなつらい思いをしているんだ」と自分の行動を恨めしく思うのに、下山した途端「良い旅だった!」と満足してしまう。

今回の「せっかくだから割引岳にも登っておこう」という気持ちも、それに近い。昨日、ニセ巻機を登っている最中だったら、割引岳に立ち寄ろうなんて思わなかっただろう。けれど、避難小屋で一泊して体力が戻ると、「せっかくだから寄っておこう」という気分になっている。

御機屋から割引岳は稜線がつながって見えるが、登山道は北側斜面をトラバースしている。地図を見ると、一度50メートルほど下り、そこから登り返すルートだ。

07:50
いやいやいや、ちょっと待ってくれ。

北側斜面を下り始めると、すぐ前方に残雪が見えた。

牛ヶ岳からもこの残雪は見えていて、「あそこに登山道があったら嫌だな」と思っていたのだが、その懸念が現実のものとなった。

残雪は2つあり、登山道はその両方を横切っていることが踏み跡からわかる。

手前の1つ目はまだしも、2つ目は距離が長い。果たして通過できるのだろうか。

07:53
「いやぁ、無理じゃないかなぁ。近づくだけ無駄じゃないかなぁ」

とつぶやきながらも、結局は残雪の縁までやってきた。御機屋からは下り坂なので、もし無理だった場合は登り返しが待っている。そう思うと気が重いが、近づいて確認せずにはいられなかった。

いざ近づいてみると、確かに踏み跡はある。ただ、水平ではなく、幅も狭い。なるほど、こういう状況か。

一番目の雪を越えても、その先に二番目の雪がある。下手に一番目をクリアしてしまうと、あとで引き返せなくなるかもしれない。さて、どうするか。

まだ登山道に雪が残っていることも想定して、こんなアイテムを持ってきていた。

モンベルの「リバーシブルグリッパー」。

この製品は、着脱が容易なスパイクだ。

マスクのような形をしており、つま先とかかとにゴムをひっかけるだけで、いつもの靴を簡易スパイクに変えられるという。

パッケージには、

・凍結した雪道用と濡れた木道用のリバーシブル仕様
・素早く簡単に装着可能
・軽量で携行に便利

と書かれている。

もともとは2019年の秋、閉山後の上高地を歩いたときに購入したものだ。

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路面や木道が凍っていたらどうしよう、と念のために用意したが、ありがたいことに一度も使わずに今日まで来た。

家で装着テストはしたことがあるが、実戦投入は初めて。しかも、いきなり本番というのは少し心配だ・・・。

リバーシブルグリッパーを装着してみた。

雑な装着状態なので位置がややズレているが、実際はもう少しつま先寄りがベストポジションだ。

名前のとおり、片面がピンスパイク、もう片面がアスファルトのようなザラザラ面になっており、状況に応じて使い分けられる。

今回は雪の上を歩くので、スパイク面を外側に。とはいえ、突起は3〜4ミリほどで7本だけ。軽アイゼンの代わりに使うには無理がある。目的がそもそも違う。

そして実際、このシチュエーションではこのスパイクでは頼りなかった。数歩進んだところで、「あ、これはやめておこう」と判断して引き返す。命あっての物種だ。

雪は滑るほどでも、ガチガチでもなく、決して悪い条件ではなかった。それでも、この踏み跡の狭さだ。バランスを崩したり、足を踏み外したら最後、谷底まで一直線。

アルパインポールを2本使っているので、それで体を支えながら進めるのでは?と思ったのだけど、ポールをどこに刺せばいいのかさえわからない。グリップがどうこうという話以前に、僕自身こうした場所を歩いた経験がなかった。完全に太刀打ちできなかった。

ほんのわずかな気の緩みが、死に直結する。これまでいくつもの岩場を歩いてきたが、それらよりもずっとシンプルに「あ、これは足をすべらせたら死ぬ」と思わせる状況だった。

幸い、この先にあるのは“おまけ”として登ろうとしていた割引岳だ。命を賭してまで行く場所ではない。帰ろう。残念だけど、退却だ。

08:07
とはいえ、まだ割引岳には未練タラタラだ。

「なんでわざわざ北側斜面をトラバースするんだよ。そもそも標高を下げて登り返すなんて、トラバースになっていないじゃないか」と地図を見ながら不満を漏らす。

御機屋から素直に稜線を伝って行けばいいんじゃないか?多少の藪漕ぎはあるとしても、残雪はないだろうし、足場も悪くないだろう。

そう期待して御機屋に戻り、割引岳方面を見やる。

なだらかな丘のような地形。なぜここに登山道がないのか不思議だが、おそらくこの先に、地図には現れない何かの難所があるのだろう。

どうだ、それでも行ってみるか?

自問自答したが、眼の前に張られたトラロープを見て、やはり諦めた。

このトラロープは道迷い防止のためかもしれないが、同時に「この先に立ち入るなよ?」という警告でもあるように見えた。

僕はバリエーションルートをガシガシ歩くタイプではないので経験がないが、こういう場所に立ち入り、草木をなぎ倒しながら進むのは果たして許されることなのだろうか。たぶん、ダメだろう。

08:15
しばらく御機屋で逡巡兼休憩。

悔し紛れにエナジードリンク500mlを一気に飲み干した。
これは最後まで温存しておいた一本で、避難小屋周辺に水場がなくても安心材料だった。それをここで解放した。おかげで荷物がずいぶん軽くなった。

08:27
この頃になると、下界からちらほらと人が登ってきた。みんな早起きだし、健脚だ。

朝が早く、気温もまだ高くないうえに、あのしつこい虫も静か。まさに歩きやすい時間帯だったと思う。とはいえ、この時間に登山口からここまで到達しているのは、やはり相当の脚力だ。

僕と同じく割引岳を目指して突撃していった人がいたが、その人も苦笑いしながら戻ってきた。

「チェーンスパイクを持ってくれば良かった。あれくらいなら余裕だったのに」

と言っていた。なるほど、そういうものなのか。

僕には、どれだけ足元がグリップしていたとしても、一瞬の気の緩みでフラッと転がり落ちる自分しか想像できなかった。いずれにせよ、お互い無理をせずに引き返せたのは幸いだ。

さあ、そろそろ退却しよう。あまりここでのんびりしていたら、牛ヶ岳まで行った健脚組が折り返してくる。

織姫の池、そしてニセ巻機を眺めながら歩く。

青空が顔を出したり、曇ったり。天気は「中の上」といったところで、ころころと表情を変えていた。

(つづく)

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