小笠原遠征

フェイジョアーダ缶詰

07:40

いやぁ、早朝から濃い時間を過ごしたぞ。運動と新しい体験が、宿に戻っての朝食をより一層引き立ててくれる。

・・・わけないんだよなあ。今日は、これまた謎の缶詰。フェイジョアーダ?なんじゃそりゃ。例のごとく、暖められていない状態なので羊羹だか煮こごりだかわからないような状態のペーストを、無理矢理パンになすりつけて食べる。味なんて知ったこっちゃねぇ。

後で調べてみたら、ブラジルの家庭料理だそうで。日本語訳は「豚肉と黒豆の煮込み」なんだって。日曜日の昼に一家団欒で食べる料理でご飯にかけて食らうそうだが、調査したwebサイトによると「こってりしているので食後にオレンジを食べると消化によい」なんて書いてあった。

そんなにこってりしてるのかよ。道理で「煮こごり」状態になっているわけだ。

キッチンが目の前にありながら使わせてもらえないという、生殺し状態をしばし満喫。

「せめてものぜいたく」

07:55

昨日の朝ご飯(インスタントカップうどん)でようやく「お皿」を作ることができたしぶちょおは、お皿(決して空き容器、とかゴミ、と言ってはいけない)にスパゲティを盛りつけていた。フライパンに麺を入れて、少々お湯を足してほぐしたらできあがり、というインスタントなスパゲティだ。でも、フライパンが使えないので、湯沸かしポットのお湯を入れてぐりぐりと箸でかきまわし、なんとかそれっぽいものを作り上げていた。「まずそうだね」と率直な意見を申し上げたいところだったが、あまりにかわいそうなのでやめておいた。

「せめてものぜいたく」と、ゆで卵用に買ったけど放置されている生玉子を上にのせて完成。誇らしげな生玉子だが、本来はゆで卵用だっただけにちょっと悲しい。

オーナーのロビンソン(名前忘れたので、今適当に名前をつけた)と厨房の件で掛け合っていたばばろあとしぶちょおだが、「お湯を沸かしてゆで卵を作るくらいだったらOK」という了解をとりつけてきた。炒め物だとか煮物は困るけど、ゆで卵くらいだったらキッチンも鍋も汚さないから良いだろう、という好意だった。
ありがたく、残りの玉子をゆでる。

「で・・・ゆでてどうするの?」

食事はもう終わっている。

「帰りのおが丸で酒の肴にしようや」

ああ、そうだった、今日は午後、またおが丸の旅が始まるのだった。恐怖の25時間半。普通、旅は「現地を離れた時点」で感傷に浸りつつ終わるものだが、ここ小笠原諸島はそれすら許さない。丸一日、じっくりと今回の旅について考え直せや、という拷問のような時間がいやというほど与えられる。

飲食店看板

08:22

食事を終え、荷造りも済ませた。あとは、最終イベント「戦跡めぐり」のガイドさんが到着するのを待つだけだ。ばばろあはすでに興奮状態が臨界点に達しており、「どこらへん行くんじゃろうのー」と宿の前のテラスで1/25,000の地図を片手に予習に余念がない。

そのあたりはばばろあとガイドさんに任せるとして、おかでんは周囲の散歩。もう朝食前にさんざん散歩というか裸になったというか、羊を追いかけたというか、いろいろあったわけだが。

宿の近くに、ランチメニューを出しているお店を発見。「小笠原の飯=高い」という印象だったので、島魚フライ定食が700円だったのはちょっと意外だった。高いばっかりが小笠原じゃないんだな。もちろん実物を見ていないので何ともいえないが。

特徴的なのがランチタイム。11:30~13:30とやけに短い。せめてランチなら14時まで営業したらいいのに、と思うわけだが、これこそが「父島タイム」だ。14時におが丸が出航するので、乗船する人向けにニーズをあわせたらこういう営業時間になるわけだ。

細かいところで、「なるほど」が隠れていて面白い島だ。

結構年期の入った車

08:33

宿の道路に面したテラスでガイドさんの到着を待っていたら、向こうから軽自動車独特の「必死感が伝わるエンジン音」が迫ってきた。結構年期の入った車だ。

「おい、あれじゃないだろうな?」

「正直ぼろいぞ。それはかまわないけど、俺ら3名が乗るだけでもやっとだぞ?違うだろ、さすがに。ワゴン車か何かだと思うぞ」

「そうだよなあ、もっと大人数で申込する場合も・・・あれれ、Uターンしてきた」

一端われわれの目の前を通り過ぎたあと、道路の広いところでUターンして車が戻ってきた。そしてわれわれの宿の前にてゴールイン。

「あらー。これがわれわれを案内する車だったのね、やっぱり」

「板長、っていう名前だからなんだか白い車をイメージしていたけど、黒じゃん」

戦後60年、兵どもの夢の後を追って

08:33

しかし、黒であるのも理解できる。何しろこれから、大戦中に人が矢折れ倒れたような場所に行くのだ。白じゃいかんだろう。喪服同様、黒が良い。

車のリアガラスには、「戦後60年、兵どもの夢の後を追って」という紙がべたーっと張ってある。なんだか車にしてもそうだけど、妙な迫力がある。これが東京だったら、絶対新興宗教と勘違いするに決まってる。

ただこの板長さん、とても気さくなおっちゃんで、とても有意義な良いツアーが満喫できたことは今の段階で断言しておく。どう「有意義」だったのかは、この後おいおい説明していくが。

「まずは長靴に履き替えてください」と指示を受ける。おお、長靴!壕の中藪の中突撃していくぞ、という宣戦布告だ。これは本格的になりそうだ。また、「今日は若い男性3名だから、いけるところまでいきましょう。お年寄りだったり女性だったら、体力が続かなくてあんまりあちこちいけないんだけど」と仰る。これは頼もしい。

「ほら言ったじゃろ?戦争だの平和だの言ってるようなところは駄目なんじゃって」

早くもこの時点で自分の選択に成功を確信したばばろあが得意げに言う。その通りだと思う。

このほか、500mlのお茶ペットボトルと肩から提げられるペットボトルホルダー、懐中電灯の「探検道具一式」が支給された。本格的になってきたぞ。

まずは慰霊

08:37

車は、軽自動車ならではのエンジン回転数でウィーンと雄叫びをあげつつ、今朝通った山道に侵入。さあ、これから戦跡をみるぞ。

・・・と、気合いが入ったところで車は一端停車。

「おまえらまずは根性を入れ直す。スクワットとシットアップ300回!外に出ろ!」と言われるのかと一瞬ひるんだが、さにあらず。

「まずは最初、ここに行っておかないと駄目なんですよ」

といって、なにやら階段のあるところに連れて行かれた。

戦没者慰霊碑

08:39

何事かと思ったら、戦没者慰霊碑だった。父島で空襲を受けた人、作業中の事故で亡くなった人などを祀ってある碑だ。

板長は言う。

「ここでお参りしてから戦跡に行かないと、途中で雨が降り出したり壕の中で急に懐中電灯の電池が切れたり、奇妙な事がよく起きるの」

ええ?そんなマスコミネタ的な話が、僕らがこれから行く場所で本当に起きてるの?うそでしょ?演出でしょ?

「いや、不思議なことに、本当にそういう事が起きるんです。だから必ず最初にここでお祈りしてから行く事にしているわけで」

あるもんだなあ、そんなでき事が。

僕らも、

「決して遊び半分で見に行くわけではありません、英霊を冒涜する気も全くないのでなにとぞ悪いことが起きませんように、南無大師遍照金剛」

とお祈りしておいた。真言宗の唱え方でご納得頂けたかどうかはしらんが。

実際、ここに来るまでには硫黄島の戦いについて調べたりはしていたんで、遊びじゃないです、信じてください英霊さん。僕、正直に告白すると「夜トイレに行くのが怖い」というのを克服できたのが中学生だったくらいの恐がりでござんす。なにとぞ穏便に、ぜひとも。

これから向かうであろう方角

09:01

「軽自動車」ジャンルが排気量660cc以下、と規定される以前の550cc時代の車なので、とにかくやかましい。体重がそこそこある人間3名+板長の4名が乗ると、「何でボクこんな重労働させられてるわけ?」ってな雰囲気で車が悲鳴を上げる。うなり声、ではない、悲鳴だ。

これから向かうであろう方角を車窓から見やる。なるほど、ああいう山のあちこちに壕を掘っていたわけか。で、海岸線に近づいてきたところでドーン、と。眺めが良いから、揚陸しようとする部隊や艦隊をねらい打ちできる、というわけか。

ま、実際は鉄の雨と形容できるくらいの艦砲射撃と空爆で上陸作戦決行前に相当なダメージを受けてしまうんだろうけど。この島で実質的な戦争が無かったのは良かったことだ。

国立天文台の近く

09:03

とある場所で車は停車した。早朝見た国立天文台の近くだ。

見ると、目の前には門があって、当然のようにふさがれている。この奥に一体何があるというのか?

---CM---

---CMおわり---

とある場所で車は停車した。早朝見た国立天文台の近くだ。

(CM明けに、CM直前の映像を再度流す技法。やめてくれんかなあれ、迷惑だわ。視聴者を馬鹿にしとんのか、それとも尺稼ぎなのかしらんが。最近はTVは全て生で見ないで、録画にしておいてCM部分およびCM前後の煽り部分はすっ飛ばすようにしている。そうすると、60分番組でも30分くらいで見ることができてハッピー)

話がずれた。

板長さんは、その門などはじめから無かったかのように、すぐ脇にある倒されて人が通行できる状態になっているフェンスを乗り越えて中に入って行った。門、意味ないじゃん。

というか、これ、不法侵入~?

いや、国立天文台のフェンスは別のところにあるから、ここは私有地のようだ。しかし、すぐ脇に近未来的建造物があるというこの場所で、一体何があるというのだろうか!?

そこでわれわれが見た驚愕の事実とは!?

---CM---

しつこい。

怪しげな廃墟

09:05

林の中を歩いていると、なにやら怪しげな廃墟が見えてきた。コンクリート打ちっ放しの二階建ての建造物だ。

戦争遺跡

09:06

今こうして訪れている、ということは「昔ここにホテルがあったんですけどね、経営者が放蕩しちゃって、商売がた落ちで今じゃ廃墟なんですよ」なんていうものじゃあるまい。これも戦争遺跡ということになる。

「野戦病院跡で、ここでは麻酔無しで手術が行われたりして、たくさんの人が死んで」なんて話だったらちょっと怖くて入りたくない雰囲気。不気味だ。

間口は相当広い

09:06

ずかずかと中に入る。どうやら危険なものではなさそうだ。間口は相当広い。

発電所の跡

09:07

中はがらんと広がった施設だった。部屋に区切られているわけでもなく、なんだか不思議な雰囲気だ。大集会場だったわけでもないようで、なにやら出っ張りがあったり、溝があったりと凹凸がいろいろある。

「発電所の跡なんですよ、ここは」

板長さんが言う。あ、発電所か。道理でだだっ広い建物なわけだ。

そして、板長さんはなにやら凹型に出っ張った箇所を指さして(写真中央)、

「ここに発電機が据え付けてあったんですよ」

という。

ああ、そういえばコンピュータセンタの地下にある非常用発電機や、船のエンジンなどがちょうどはまるサイズだ。ここで、父島基地の電力をまかなっていたわけか。

「でも、昭和19年までしか使われなかったんですけどね」

「え?これだけ立派な施設なのに?」

「全ての施設は地下に移せ、という命令が下ったので、地上施設は地下に移されたんですよ。ここもそうです」

確かに、ここを空爆されてしまったら一巻の終わりだ。電力がないと、せっかくの膨大な地下壕も真っ暗になってしまう。じゃあ、その地下発電所ってどこ?となると、早朝に見かけた謎の洞窟だった。え、あんな狭いところに無理矢理電力設備を押し込んじゃいましたか。急場しのぎだったのかなあ。

天井からぶら下がる電源ケーブル

09:09

天井からぶら下がる電源ケーブル。当時のまま時間が止まっているのだろうか。

長崎の軍艦島を何となく思い出してしまった。

冷却水を流すための溝

09:11

それにしてもこの溝は何だ。うっかり天井を眺めて歩いていたら、足を踏み外しそうだ。

「これは発電機の冷却水を流すための溝」

「へえー!?」

プールのような水槽

09:14

発電所跡の裏地に行くと、プールのような水槽があった。ここに貯めた水を先ほどの溝で循環させ、水冷式発電機は成立していたというわけか。

さすがガイドさんがいると、「なるほど、そういうことか!」という新発見が多くて勉強になる。われわれ単独でこの地を訪れていたら、ここまでは認識できなかっただろう。

がれき
鉄階段

09:15

二階に小部屋がある。発電所の制御室でもあったのだろうか?

英語で落書きがされているし、矢印も書かれている。気になったが、階段が朽ちている可能性があったのでやめておいた。60年以上が経過した建造物に優しいほどの体重ではない。それなりに重いからな。

ここで板長さんの驚くべき過去について話を聞くことができた。

昔、板長さんはこの建物に住んでいた、というのだ。住んでいた?いくらご年配で戦中派の人とはいえ、発電所に住むとは一体どういうことだ。

いろいろ聞いた話をまとめると、

(1)もともとはフィルム会社に勤務していた。高度経済成長で旅行需要(=カメラ需要)が伸びてきたので、フィルムをもっと売るために板長は仕事として父島にやってきた。

(2)その仕事とは、「きれいな風景の写真を撮り、『ほら旅先で写真を撮るとこんなにいいものなんですよ』とPRする素材にする」というものだった。

(3)しかし、父島に大いに惹かれてしまい、会社を辞めそのまま父島に留まることにした。

(4)新たな仕事として、父島復興工事の飯場として使われていたこの発電所跡で、調理師の仕事をはじめた。

(5)今は民宿経営と戦跡ガイドを生業としているが、宿の調理は自分で行っている。だから「板長」と名乗っている。

驚いた。なるほど、ここは板長さん思い出の地でもあるわけだな。寝食を共にした場所。真っ先に連れてきた戦跡がここだったのも、そういう思い入れがあったからなのかもしれない。

・・・というセンチメンタリズムは後になって勘違いだと判った。ここが一番「初心者向けコース」だからだ。この後、全身を使って降下、よじ登りなどの場所が現れる。

海軍 二

09:24

板長さんはぐいぐいとジャングルの中に入っていく。なかなか素早い歩みだ。われわれの気合いを察知したのだろう、「よーし、午前中で見どころ片っ端から行くぞ」と気合いが入ったとみた。

そんなジャングルの中に、なにやら石碑のようなものが建っていた。よく見ると、「海軍 二」と彫られている。

「父島には海軍と陸軍が同居していたから、こうやって管理地域の境界線に目印を立てていたんですよ」

なんだか縄張り争いをしているような印象だが、実際海軍と陸軍ではそれほど仲が良くなかったという。横の連携がとれない、というのは今も昔も日本人は相変わらずですな。

何かの機器

09:27

林の中に落ちていた何かの機器。説明を板長さんから聞いたはずだけど、覚えていない。井戸の水をくみ上げる桶のように見えるが、何だっけ?

謎の鉄塊

09:27

ここにも何か謎の鉄塊が転がっている。何だろう。

こういうところに無造作に転がっているということは、残りはどこへ行ったのだろう。

板長さんに聞いてみたら、

(1)戦後、砲台などは全て米軍によって破壊された。

(2)小笠原へ帰郷が許されたのは欧米系住人の方が先だった(1946年)。日本人の帰郷が許可されたのは1968年だった。それまでの間、欧米系住人は特に仕事があるわけでもないので、山に残された戦跡から鉄を引っぺがしてくず鉄として売ることで生計を立てている人が結構いた。

そんなわけで、ここに転がっているのは米軍に破壊された際に吹き飛んだのか、それともくず鉄として売られそびれたものなのか、どっちかだろう。

(2)のとおり、飯のタネとしてくず鉄を売っていた欧米系住人のおかげで、山の中腹くらいまでの目立った戦跡の資材はほとんど「盗掘」されてしまったらしい。でも、今日これから見て回る戦跡はそういう盗掘にあっていないものだというから、楽しみだ。

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