15:53
一階の入口から入ろうとしたら、「部屋は二階なので脇の階段から登って」と言われた。ちょっと変わった作りの民宿だ。
よーし、これだったら、早朝に荷物をまとめて、料金精算しないで逃走することだって十分に可能だぞ・・・
やめとけ。ははじま丸が来るまでに必ず捕まる。いやいや冗談ですってば。ホント。
15:55
離島、しかも日本最果ての地の小集落の民宿ということなので民家に毛が生えた程度のものだと思っていた。
しかししかし、結構しっかりとした立派な民宿でございまして。これは意外だった。今回お世話になった「こぶの木」以外の民宿も、軒並みきれい(に見えた)。
しかし感慨深いものがあるよなあ、例えば正面にある「ゆ」と描かれたのれん、洗面台、本棚、鏡・・・こういうの、全ておが丸か共勝丸で1,000km揺られて運ばれて来ているんだもんなあ。「日本の食料自給率の低下が著しいのは問題である」という議論はよく耳にするが、この島の場合「生活自給率」自体がものすごく低いことになる。
もっとも、この島に限らず島暮らしってのはどこもそうなんだが、それにしても「1,000kmを船で運ぶ」というこの距離感と時間間隔が、他の島と比べて圧倒している。
ゆえに、何だかもう、目に見えるもの全てが有難くなっちゃって。下手に汚したり傷つけちゃいかんぞ、と自らを戒める。
15:58
3人部屋はこんな感じだった。畳のような、フローリングのような微妙な床で、10畳くらいだろうか。快適に過ごせそうだ。ありがたい。今日はぐっすり寝るぞー。
16:12
本来であれば、宿についた後は「いやー疲れましたな」「おっ、窓から海が見えるぞ」「さてこれから何しよう?」なんてお茶と茶菓子をつまみながらまったりと時間を過ごすものだ。
しかし、もうわれわれ、ここに来るまで累計26時間以上も船上でまったりしてしまっており、計画は既に固まっていた。部屋でゆっくりしているのは惜しい。
というか、もっぱら戦跡見たくてうずうずしているばばろあが気が急いちゃって急いちゃってモウ。
夕食時間まであまり余裕が無いが、どうせ狭い島のことだ。島の北端まで行って帰ってくることくらいは余裕でできそうだ。ちょっくら母島探検に行ってくることにする。
宿の豪快なおばちゃんに
「すいません、レンタカーってどこでお願いすればいいんでスかね?」
と聞いてみたら、
「ああ、うちの車貸したげるから。その代わりレンタカーとしてだからお金は貰うけどねハハハ」
ということだった。だったら話は早い。ちょうど良い宿を選んだもんだ、車を貸してくれる宿だったとは。まあ、この島の場合、レンタカー屋といった専業店なんて当然存在しないわけで、車を借りたい人は宿に相談して、宿の車を有料で借りるというのが一般的のようだ。
「なるほどねー、だから、宿の前に停まっているワンボックス車、★マークやらクローバーマークやらがついていたのか」
われわれはクローバー号を貸してもらうことになった。確か1日5,000円だったかな?値段は正確に記憶していない。
出発準備をしていたら、宿の親父さんが
「ああ、ガソリンが少なくなってきているね。足さないと・・・」
といって駐車場脇からポリタンクを持ってきた。え、それ、ガソリンっすか。
そうか、ガソリンスタンドなんて存在しないから、こういう形で「セルフ給油」しなくちゃいかんわけね。それにしても揮発燃料がこうやって身近にあるわけだからあぶねえなあ。
16:15
出発。
ばばろあが助手席に張り付いてナビゲーションを担当するが、見ているのは持参の1/25,000の地図。そこまで細かいの、見なくても良いと思うんですがと後部座席のおかでんは「島の旅」という離島ガイドブックの母島地図を眺めながら思った。
16:16
何しろ、沖港周辺しか集落がない島だ。あとは若干林道が枝分かれしているくらいで、基本的に島の南北を一本に貫く道がある程度だ。
「通行注意・落石のおそれ・これより先」
という電光掲示にちょっとびびりつつ、車は北へ。
16:34
道路そのものは素晴らしい舗装とまではいかないが、わざわざ立派なトンネルが掘られて、山を迂回するルートをショートカットさせていたりお金はかかっている。離島振興の費用が国か都から出ているからだろう。
おかげで快適なドライブとなる。
・・・んだが、結構アップダウンが激しい。母島は険しい山だ。軽自動車なので、エンジンが悲鳴をあげながら坂道を上っていく。
途中、「クジラが見える」という新夕日が丘に立ち寄ったが、ガイドブック自体に「運がよければ」クジラが見える、と書いてあった。もう今日はクジラもイルカも見たし、運は使い果たしたに違いないと思って適当に海を眺めて、また車上の人に戻った。
16:37
母島主要幹線道の最北端に到着。
ここは「北港」と呼ばれていたところで、確かに港に適した、手頃な大きさの入り江になっていた。
しかし、ここに何かがあるわけではない。海水浴場があるわけでもない。何も、ない。
16:38
解説によると、ここには現在の集落である沖村と並び立つ、450名余が暮らす北村があったんだという。鰹節やクサヤなどを生産していたとのことで、集落は狭い谷沿いに75mも伸びていたらしい。
しかし、昭和19年の強制疎開で村から人が居なくなり、本土復帰後も当時のにぎわいを取り戻すことなく、今はただただ、木々に覆い尽くされているだけの場所になっている。
これもまた、静かな戦争の傷跡と言える。
風光明媚で、美しい湾であるからこそ、何だかもの悲しい。
16:38
集落が75mにも渡ってあったという目抜き通り。村役場や郵便局、魚類加工工場や倉庫などが建ち並んでいて、400名以上がここで暮らしていたとはとても思えない光景だ。
爆撃されたり破壊されたわけではないのだが、繁殖力の強い木々に完全に犯されてしまい、今となっては民家跡さえ見分けることができない。
16:39
なんともフォトジェニックな北港。
桟橋となっていた石積だけが残っている。
沖に出れば珊瑚礁が広がっていて、ウミガメに出会うこともできるらしい。今では人気のダイビングスポットの一つなんだとか。
16:44
これは何か当時の遺構かと思ったが・・・
単なる観光用の展望台だったらしい。
別にこの上に乗ったからといって、眺めが抜群に良くなるというわけではない。
16:47
唯一残っている遺構が、北村小学校跡だというので、そこまで歩いて行ってみる。
・・・なるほど、階段と石垣がある。確かに人がここに居た、という証拠だ。
しかし、当時の子供達の歓声を思い起こさせるような何かは全く残っていなかった。コンクリートで基礎工事など行わなかったためだろう、しばらくこのあたりを探検したが、どこが校舎跡で、どこが校庭なのかさえわからなかった。あるのは、うっそうと繁った木々のみ。
16:51
「どーせ何も無いトコに行っても・・・」
と批判されつつも、北港の近くにある東港にも行くよう運転手のしぶちょおにお願いした。ここは、1987年までは捕鯨基地があったというが、今や完全に無人と化していた。
立派な防波堤が長々と伸びているのに・・・もったいない話だ。
父島から船をチャーターして母島に向かった場合、この港に着岸することもあるらしい。
16:55
さてばばろあお楽しみの戦跡巡り。そわそわしているのが端から見ても判る。道路が狭いので、車を路肩に乗り上げて駐車。
いくら東京とはいえ、ここで駐車していて違反キップ切られるなんてことはまさかあるまい。
16:56
看板には「砲台跡地入口」と書いてある。うわ、雨でずぶずぶしているジャングル道を歩かないといかんのか。ま、そりゃそうだ、不便で判りにくいところに砲台を作らないと、格好のねらい打ち対象になってしまう。
ばばろあは?
・・・ああ、もう相当先に行ってしまっている。デジカメと、ノートとペンを抱えて。
16:59
足下がびちゃびちゃしたり、誰かに踏みつぶされて死んでいるカタツムリの死骸に「うわあ」と驚いてみたりしながら、薄暗いジャングル道を歩く。
こんなところに砲台なんてあったのか?
17:00
あ!
ばばろあが立ち止まっている姿が見えたと思ったら、ちょっと開けた所に何か人工建造物が据え付けてある!あれが砲台か。
17:00
うわ。まさかこんな本格的なものが、博物館でもないのに森の中に放置されているなんて・・・
日本海軍10年式45口径12糎高角砲。
海軍では「高角砲」と言うが、要するに陸軍で言うところの「高射砲」だ。空を飛ぶ敵軍飛行機を撃墜するために作られたものだ。
それにしてもなんという迫力。
さびて朽ち果ててしまっているし、破壊されて一部原型を留めていないが(戦後、米軍が小笠原諸島に残存している砲台を全て破壊し、使い物にならないようにした)、それでもこの迫力たるやものすごい。博物館だったら、周囲に柵があったりして「お手をふれないようにしてください」と書かれていたりして、「ふーん」という感じなのだが、ジャングルの中に、すぐ自分の眼前にこんなド迫力なものが置いてあるのは言葉を失ってしまう。それくらいのすごいインパクトだ。
ただこの10年式45口径12糎高角砲、あまり射撃制度は良くなかったらしいと聞くが・・・。
17:00
砲弾なんぞも落ちておりました。
さすが45口径だけあって、でけぇことでけぇこと。竹の子よりもでかい。
恐らく、火薬や信管は抜いてあると思うのだが、こういうのがさりげなくごろんと転がっているのも、母島ならではなのだろう。
・・・と思っていたら、あとでばばろあから「これ、砲弾じゃなくて高角砲のシリンダーが外れて落ちた物だ」と指摘があった。さすがに、弾なんていう物騒な物はいくらなんでも放置されていないか。
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