小笠原遠征

岩の隙間も塹壕

10:03

「この岩なんですけどね」

板長さんから指さされた岩。大きな岩だ。神社の境内にぽつんと置いてあったら、しめ縄で祀られそうな岩だが、ここは山ん中だ。こんなものゴロゴロして何も珍しくない。

「はあ。普通の岩のようですが何か」

「この岩の下にある穴に、兵士が潜んで敵の襲来に備えたわけです」

ええええ。ただ単に、豪雨の影響で地盤が緩くなって岩の下の土がえぐれたんじゃないんスか。これ、わざわざ岩を掘って作った塹壕(ざんごう)でしたか。

「あぶねーなー、岩が倒れてきそう」

なんて思っていた自分が浅はかでした。だからこそ、驚愕たるや相当なものだった。

映画で見る「塹壕」なるものは、溝を地面に掘って、なおかつ土嚢を積んで、迷路状に移動できるように通路を造り、所々には手榴弾が塹壕内に投げ込まれても『ここに蹴り入れれば被害は無し』という深さ1m以上の穴が掘ってある、そんなイメージがあった。

これは何だ。岩を有効活用しつつ塹壕を作っている。こんなタイプは初めて見た。いや、塹壕自体初めて見たんスけどね。

「やっぱり日本人は『天の岩戸』のイメージを大事にしなくちゃな」

と軽口を叩きたかったが、戦績巡りなのでつまらない冗談は言わない方が吉だ。敬虔な気持ちで接しないと。

それにしてもさっきの銃口といい、この塹壕といい、全て山の西側斜面ばかりを向いている。東側の守りはどうなってるんだ。東側からわーっと攻め込まれたら、こういう陣形だとなすすべ無くさよーならーになってしまうではないか。

「島の東側は断崖になっているので、大量の兵隊が揚陸するのは無理なの。もし上陸するなら西側のビーチからになるので、こういう陣形になるんですよ」

なるほど、板長先生大変に明快です。

森林

10:05

山の斜面を下ったかと思ったら登ったりして、今一体どこにいるのかがますますわからない魔境ワールド。板長さんが「10万円くれなかったら私ここで帰る」って言い出したらちょっと困った。それくらい、なにやら右へ左へ動きつつ戦跡は続くよどこまでも。それにしても密度が濃いなあ、このあたりの戦績は。

ふと空を見やると、ジャングルとは呼べない程度の森林が広がっていた。この木たちは戦時中からあったのだろうか。それとも戦時中は空襲を受けてこのあたりははげ山になっていたのだろうか?ガイドは語るが、木は黙して語らない。ただ淡々と歴史を受け止める。

機銃掃射の穴が残る木

10:06

うわっ。

びっくりした。

板長さんがふいっと目の前の木を指さし、

「穴が開いていますよね?これ、空襲で機銃掃射を受けた跡なんですよ」

なんてことを言うからだ。

確かに、ヤシの木みたいなその木の幹には、何カ所か大きな穴が開けられていた。これが機銃の跡なのか。敵機が一気に低空飛行で突っ込んできて、機銃を掃射した際にできた穴、というわけだ。9mm拳銃の穴なんかとは迫力が違う。

「いやー弾が体をきれいに貫通したので、むしろ一命を取り留めました」なんてわけにはいかんぞ、これだと。体の一部がもぎ取られてしまう。

今までは穴とか建造物とか、「上陸作戦が決行されなかったのに大変でしたねえ当時の兵隊さんたちは」くらいの認識だったが、一気に気持ちが引き締まった。

食器類には、☆のマーク

10:08

このあたりは陸軍の管轄だったらしい。割れて取り残されている食器類には、☆のマークが入っていた。別に中国の人民解放軍がここにいた、という訳では無いと思う。

それにしても、先ほどの瓶もそうだけど、半世紀以上風雨にさらされていても案外土と同化しないもんなんだなあ。戦争は過去の話になりにけり、ではない。まだここにはっきりと生きて残っている。

比較的間口が広い壕

10:13

次に案内されたのは、比較的間口が広い壕だった。それまでが「人の出入りが十分できれば良いでしょ?」というサイズだったのに対し、ここは広くて堂々としている。奥行きもあまりない。何かの格納庫のようだ。

でっかいタイヤ

10:13

中にはいると、泥の中にでっかいタイヤが2個転がっていた。

探照灯格納庫としてここは使われていたようだ。夜間、敵機が上空を飛行するぞ!という情報をレーダー担当者からキャッチしたら、ここから探照灯をうぉりゃーと引っ張り出し、そしてパチンコ屋のサーチライト状態で上空を照らして敵機を見つけるわけだ。敵機発見と相成ったら、それ高射砲発射、という段取り。

探照灯は母島で見たけど、ここではタイヤしか残されていなかった。恐らくくず鉄として持って行かれて売られたんだろう。

コンクリートで遮蔽物

10:15

引き続き別の壕に入る。数分刻みで壕巡りができてしまうんだから驚異の島だ。当時穴を掘っていた人たちには本当に頭が下がる。試しに岩盤をコンコンと叩いてみたが、決して柔らかいものではない。まあ、石だから当たり前だが。

壕に入ったところから、壕入り口を振り向いたところ。奥が壕の入り口。

ここの壕の特徴は、なぜか壕の入り口をふさぐかのように当時貴重だったであろうコンクリートで遮蔽物を作っているということだ。この中には空洞の隠し部屋があって、金銀財宝が・・・なわけはない。

大きめの銃眼
銃眼

10:16

壕の奥には、大きめの銃眼が口を開けていた。小型の機関銃ではなく、比較的大型の加農砲を配備していたのだろう。しかし、肝心の銃身が見あたらない。なんだかスクラップ置き場みたいになってしまっている。

なるほど、ここで一発ぶっ放すと、後方に高温かつ高圧の排気が出るので、それを遮る目的だったのがさっきのコンクリートブロックだったのか。今更ながら納得。

倒壊した電柱のようだ

10:17

・・・と思ったら、あった。砲身の角度と向きを変える土台部分の横に、ごろんと倒れていた。まるで地震で倒壊した電柱のようだ。

非常に長い砲身。型式は・・・しらん。プロな方にお任せします。

この記事を書くのに際し、ばばろあから「ネットで調べたりして、間違った情報や曖昧な情報を載せない方がええで。詳しい人が見たら一発で間違いが判るんじゃけえ。それだったら、簡単に『銃』とか『砲』程度にしておいた方がまだええと思うんじゃけどね」と忠告を受けていた。確かにその通り。その忠告に従って、今後は「なんかの砲台です」くらいにとどめておきます。

実際、ばばろあは板長さんを前にいろいろ知ったかぶりしたりマニアな質問をしたかったはずなのに、ツアー中ずっと謙虚に話を聞いていた。自分が詳しくない分野については傾聴する、ということを心がけていたようだ。なるほど、これぞ正しきマニア道なり。

スコップみたいな形

10:18

で、そんな事を言っているそばからアレなんスけど、何でしょうこの写真は。スコップみたいな形をしている。写真をわざわざ撮影した、ということは板長さんから説明があって、「ほー、そうなんだ!」と驚いたからこその一枚なんだろう。しかし、今となっては覚えていない。

それにしても戦後、完膚無きまで兵器は破壊されちゃったんだなあ。もったいない。どーせ小笠原諸島という離島のことだ、小笠原王国を樹立宣言、独立戦争だーということにならない限りは兵器を壊さなくてもレジスタンスは無いと思うんですけどね。

バッテリー

10:19

バッテリー発見。無知をさらして情けないが、戦時中にもバッテリーがあったのか、と驚いてしまった。電気はここまで敷設されていたはずだから、非常用のものだったのかもしれない。

その横に空き瓶が転がっているのが謎。さすがにここの瓶は泥水のせいで風化しつつあった。

コンクリートブロック

10:20

地下内部で枝分かれしている別の壕をたどっていくと(といってもすぐ側なのだが)、今度は機関銃用の銃座があった。こちらもコンクリート製の立派なものだ。銃眼の横には、おっとここにもコンクリートブロックが。

それにしてもこんなに銃眼が小さくて、なおかつ銃身のスペースを考えると射撃手ってほとんど何も見えていないんじゃないかと懸念しちゃうんですが、どうなんでしょう。まあ、たぶん大丈夫なんだろうけど。平和ボケした団塊ジュニア世代が心配することじゃないですね。

立派な壕

10:23

手抜きっぽい壕もあれば立派な壕もある。最初の頃は立派なものを作っていたのだけど、途中で硫黄島陥落などで時間が足りなくなって、慌てたのかもしれない。

あと、単なる「連絡壕」といって道路的な位置づけなものと、ちゃんとした司令部や寝食するための居住壕とは別なわけで、そういう違いがあるのだろう。詳しくは不明。

こちらの壕は、先ほどの機関銃座とも相まって立派でございまして。

三人が並んで歩いても余裕、というくらい幅広い作りになっていいた。

話はそれるが、我が出身高校の校則で「登下校時には三列以上横に並んで歩いてはいけない」というのがあった。今見直してもスゲー。確かに、横に広がって歩かれると通行人と車の迷惑になるけど、校則にするか普通?

「ゆとり教育が今の若者を駄目にした」なんて言うけど、ゆとり教育以前であってもこういう校則を作らないと制御できない、周りが見えない若者ってのは居たってことですよ。案ずるな若者よ。いつの時代も若者はだらしなくてしょーもない奴らばかりだ。まあ、程度の差はあるけど。

木枠がある

10:24

地中深くで気温湿度ともにほぼ一定なので、材木の保存状態が大変によろしい。この門を取り囲むように作られている木なんて、最近補強で取り付けたのか?というくらいの明るい色をしていた。

そういえばこの島の壕は地下水がぽたぽた落ちてこず、湿度は低かった。場所によっては雨水の浸水があってどろんこレース状態な場所もあったが、立て籠もるには比較的マシな場所だったのかもしれない。

ロープを使って下りる

10:24

とーはーいってもぉー

もともと快適な地中人生活のために分譲されたわけではないので、時にはこんな場所もあるわけで。ロープを頼りに、慎重に穴を下る。戦略上どう穴を掘れば効率的なのかが重要であって、「バリアフリー」だとか「快適」なんてのは全然関係なしだ。当然だけど。

壕の出口

10:25

壕の出口が見えてきた。壕の入り口付近は、これはもう構造上仕方がないのだがぬかるんでいる。ありがとう長靴。長靴支給が板長さんから無かったら、こんな壕には入れなかった。

父島で戦跡ツアーを考えている人は、もちろん板長さんがお奨めなわけだが他に問い合わせる時に「長靴は用意していただけるんですか?」と聞くとよろし。長靴が必要なところにはいきませーん、だから用意してませーんというガイドさんのところは、たいしたことない場所にしかいかないと犯行予告をしているわけだ。

急に大絶景

10:27

わっ、わわわわっ。

驚いた!壕から外にでたら、急に大絶景が広がっていたではないか。まるで展望台のようだ。戦跡、地下壕というやや重苦しい雰囲気から一転、南国リゾートへようこそになってしまったぞ。このあまりの変わり身の早さに、目を白黒してしまった。

そうか、眺めが良い=敵を監視しやすい、というわけで当然こういうところにも穴は開いているよな。

眼下には、沈没船がある扇浦が広がっていた。そして右奥にはおがさわら丸が停泊する港が見える。なるほど、ここに陣地を構えれば島北部の状態はある程度把握できるというわけだ。
ジョン/ジニービーチなどの南の浜から揚陸されたら監督しきれないけど。でもあちらにもたぶん似たような地下壕があちこちにあるのだろう。

この眺めを見る限り、相当海岸線からは海抜がある。ということは、今まで見てきた塹壕やタコツボって、もう陥落寸前ッス状態の時に使う用だったわけだな。ここまで敵兵に登ってこられりゃ、そりゃもうまさに「無駄な抵抗」状態。

恐らく、山の中腹や海岸線にもいろいろ揚陸阻止のための壕や施設があったんだと思う。しかし、例の「鉄くずとして売却しちゃいました」件があるので、板長さんとしてはお奨めできるものではないのだろう。だから、山のてっぺん付近を中心に見て回っているのだろう。何しろ半日コースだ、効率よくビシバシ見て回らないといけないわけだし。

山腹の開けた場所

10:31

あまりに絶景なので、また今きた壕に戻るのかと思ったら、そのまま山腹に沿って歩いていくことができた。ちょっと歩いたら、なにやら開けたところに出てきた。ここはどこだ?

同心円状の石垣

10:31

同心円状に、なにやら石組みがくまれている。円の中心に近づくにつれて、どんどん深くなっている。一体これは何だろう。加持祈祷をする場所・・・なわけないよな。

横から見た同心円

10:31

横からみるとこんな感じ。レーダーがあったのか、高射砲の指揮台があったのかはわからないが、とにかく日本軍凄すぎる。穴も掘るし、地上も作る。こうなってくると、つい半世紀前の戦跡を見ているのではなく、観光地になっている古代遺跡~数十年かけてこつこつと建設されたもの~を見ているような気がしてくる。

まあ、「戦跡ツアー」で見ている以上、観光地といえば観光地・・・なんだが。

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