
12:35
渡渉を終え、ちょっとした山道歩きの後、いよいよ車のわだちがある林道に戻ってきた。
良かった、これで「遭難」の二文字は回避だ。怪我なく無事下山はほぼ確定と言っていい。
いくらなんでも、ここから先「下山した安心感で気が緩んで転倒、まさかの複雑骨折」なんて、ベタすぎるコントのような展開はあるまい。・・・あるまいな?
安堵の記念撮影。
ただ、人体に怪我はなくても、とにかくスマホが心配でならない。
いや、それだけじゃない。スマホを温存するために、防水機能ゼロの一眼カメラを雨中で酷使し続けている現状も相当にやばい。高級な精密機械を、まるで使い捨てカメラのように扱っている。すでにプレビュー画像は、水没の予兆か、あるいは霊的な何かか、不吉ににじみまくっている。

12:43
行く手を阻むように張られたピンクテープ。まるでマラソンの感動的なゴールのようだが、実際は「ここから先は車両通行止めだ、勝手に行くな」という合図だ。
目指す登山口「清岳荘」は、このテープの右手にある鉄パイプのハシゴを登った先。

12:49
深い霧の中から姿を現した、要塞のようなコンクリートの塊。昨晩お世話になった、清岳荘だ。
文明の拠点に戻ってこられた。この無機質なコンクリートが、今は聖堂のように尊く見える。
それにしてもこの山小屋、改めて見るとつくづく不思議な造りだ。正面に大きな外階段を配置するデザインセンス。

12:52
何はともあれ、登山口帰着。完全無欠の下山完了。
所要時間は7時間37分。事前の目論見どおりか。
非常に楽しい山だった。それは間違いないのだが、稜線に出てからの雨と、調光レンズ(雨に濡れると最悪に見えにくい)のせいで、絶景を楽しむ余裕がゼロだったのは残念だ。加えて、スマホの余命とバッテリー残量を気にするあまり、思考の半分がデジタルデバイスに支配されていた。山に来てまで、僕は一体何と戦っているのか。
写真の僕を見れば一目瞭然。レインウェアは完全にキャパを越え、浸水してどす黒く変色している。上から下まで、文字通りパンツの中までびしょ濡れだ。水をまとった人間、という様相。
これほど濡れ鼠になるのなら、あの沢歩きの際、あんなに慎重に足場を選ばなくても良かったのではないか。いっそ川にダイブしても結果は同じだった気がする。・・・いや、ダメだ。そうなれば頼みの綱の一眼カメラまで死んでいたはず。それだけは、それだけは絶対に避けたかった悪夢だ。

12:55
駐車場の脇に「くつ洗い場」の看板を発見。ドラム缶を半分に斬り、水を貯めてある。
この山域において、蛇口から出る水は貴重。ゆえに「溜めた水で靴を洗ってください」という合理的なルールが運用されている。
泥だらけの靴でレンタカーを汚すわけにはいかない。また、この後の僕は飛行機に乗り、羽田から電車を乗り継いで帰宅しなければならないのだ。泥を撒き散らす中年男、というのは気まずい。
とはいえ、泥なんて乾けば落ちる。最大の問題は、この「湿った靴」の中に封じ込められた雑菌が、数時間後に放つであろう猛烈な異臭だ。その臭気は周囲を不快にさせるだけでなく、僕が極めて気まずい思いをしながら公共交通機関で過ごす羽目になる。これはなんとかしたい。
車に乗り込むや否や、僕は即座に靴を脱ぎ捨て助手席の足元に鎮座させ、エアコンの強風を「足元モード」全開で送り続けた。レンタカーを返すその瞬間まで、僕は裸足。素足で繊細なアクセルワークをこなした。

13:28
文明の利器が、ただの「光る板」へと成り果てた瞬間。
「あー、これは困ったな」なんて悠長なことを言いながら電源をガチャガチャやっていたら、画面に走る不吉な白い線がみるみる増殖していく。最初は控えめな数本だったのに、気づけば画面を埋め尽くしつつあった。
しかも、この白い線の部分はタッチ操作を一切受け付けない。さっきまで「かろうじて生きていた」領域が、リアルタイムで浸食されていく恐怖。液晶の崩壊を、僕はただ呆然と見守るしかなかった。
最悪なことに、登山計画アプリ「Compass」での下山通知が完了していない。ボタンを押そうにも、ちょうどボタンの場所に白い線が重なり、操作を妨害された。
最後のあがきでUSBケーブルを突っ込んでみるが、通電の気配すらなし。この時点で、バッテリー残量はわずか5%。
下山通知は諦めた。だが、本当の恐怖はここからだ。飛行機の搭乗手続き、あれはどうなる?ANAから直接買っているからカウンターで泣きつけばなんとかなるだろうが、そもそも帰りの便の正確な時間がわからん。Googleカレンダーに全てを委ねてきた弊害が、ここで爆発した。
ネカフェを探す?いや、この大自然のどこにそんなものがある。空港に従量制のPC?令和のこの時代、そんな骨董品が置いているはずもない。セキュリティとか何とかで、真っ先に排除されたはずだ。
詰んだ。
でも、自宅のいしには連絡を入れねばならない。19時を過ぎれば、いしと兄貴の元に「おかでんが消息不明」という自動警告メールが飛ぶ設定になっている。そうなる前に連絡をつけておかないと、北海道警察を動かす大騒動になりかねない。なんとしても公衆電話(絶滅危惧種)を捕捉しなければ。

13:35
スマホを失い、雨に打たれ、デジタル難民と化した男が行き着いた終着駅。それが「北海道小麦の白あんぱん」だ。
着替えを済ませ、エアコンで車内を暖房地獄に仕立て上げたところで、ようやく昼食にありつく。
心はスマホのことで千々に乱れているが、脳は糖分を求めている。とりあえず食おう。甘いものは全てを解決する(はずだ)。
「北海道」と書いてあるから買っただけのあんぱん。これが北海道の誇りなのか、それともただのマーケティングの産物なのか。

13:35
そして手にしたのは、黄金に輝く液体。ビール、ではなく「ドライゼロ」だ。虚無の飲み物である。
「山頂で勝利の美酒を」と夢見てザックに忍ばせていたが、あの地獄絵図の中でこれをプシュッとする余裕などあるはずもなかった。結果、ただの350グラムの重りとして、僕の体力を削り取っただけの液体。高地トレーニング用バラスト、と呼ぶのがふさわしい。

13:35
喉を通り抜ける、暴力的な炭酸と苦味。思わず「グエー」と、カエルのような声が漏れる。
常温。しかも平地よりちょっと高い標高のせいか、開栓と同時に泡が噴出した。慌てて啜り込んだら、喉が灼けるような刺激。ドライゼロ、常温で飲むと「僕は一体何を求めてこの液体を摂取しているのか?」という問いが頭をよぎる。
下山から45分。荷造りなんて数分で終わるはずなのに、スマホに対して「頼む、蘇ってくれ!」と呪詛を吐き続けていたせいで、随分と時間を浪費してしまった。
ふと外を見れば、あれほどいた登山客の車がきれいさっぱり消えている。皆さん、13時過ぎにはサッサと下山し、スマートに撤退済みというわけだ。僕より早く入山したひとはほとんどいなかったことを考えると、ほとんどの登山者が5時過ぎに入山し、13時過ぎには下山完了、と似たようなペースだったようだ。

14:17
僕はといえば、1年に1回、北海道の山を1座登るだけで精一杯。もはやキャパオーバーである。
目標の斜里岳はクリアした。あとは泥を落とし、湯に浸かり、文明社会へ帰還しよう。
流れ着いたのは「道の駅パパスランドさっつる」。登山口から最短距離にあるオアシスだ。
この天気だ。客足もまばらで、道の駅全体がどこか寂しげな空気を纏っているが、今の僕にはそれがちょうどいい。
(つづく)

コメント
コメント一覧 (2件)
何はともあれ"リアルタイムとは別のパラレルをーるどを往く"おかでんのご帰還めでたし。
スマホも保険でなんとかなったようでそこもまた良し。(Fujiの一眼が心配でなりませんが…)
それにしても"振り返れば、斜里岳は本当に楽しい山だった。"果たしてそうか?うーん、わからん。山男の思考はさっぱりわからん。今後の活躍も期待しております。
zennさん>
富士フイルムのカメラをご心配いただき、ありがとうございます。
そう言われてと気がついたのですが、この記事の最後に載せている「故障したスマホ」の写真、まさにX-T20で撮ったものでした。機動力を重視したい場面で、あえてごつい一眼カメラを取り出して構えているというのは、冷静に考えるとかなり倒錯していて面白い絵面ですね。
先日からzennさんには「新しくカメラを買うなら?」という個別のお話をさせていただいていますが・・・いずれ、あるタイミングから「おや?記事の写真の質感が変わったぞ?」という局面が訪れるはずです。
もし変化に気づかれましたら、ぜひ早押しクイズの勢いで「カメラ買い替えただろ!」と突っ込んでみてください。楽しみにしています!