名古屋なめ尽くしオフ【名古屋】

万代寺

大須を歩いているうちに、賑やかなお寺に遭遇した。万松寺(ばんしょうじ)、という。

織田信長が狙撃された際に銃弾を防いでくれた懐中の餅にちなんでとかなんとかで、「身代わり」にご利益があるお寺だとかなんとか。加藤清正が名付けたとかいうので、お寺自体の歴史はずいぶんと古い。ただし、戦争で焼けたし、周囲は俗に染まりきった繁華街だしで、時代の流れといったものは全く感じさせない場所柄ではある。

そもそも驚きなのが、このお寺の宗派が曹洞宗だということだ。えっ?曹洞宗って、越前の永平寺でおなじみのアレだよな?座禅をひたすら組んで修行する宗派だと思っていたけど、なんなのこのめっさフレンドリーっぷりは。キティちゃんが刺繍されたお守りどころか、スワロフスキーが付いたお守りまで売ってるんですけど。

でも、仏教は別に「伝統芸能」じゃない。様式美に拘らないで、時代の流れとともにどんどん変わって行けばいいと思う。このお寺が再建されたのはまだ10年ちょっと前の話だというから、意欲的に「今風」にしたのだろう。それでいいんじゃないか。

でも、バリ島の雑貨を売るお店を経営していたり、鍼灸院もあります、というのはつくづく商魂たくましくて感心させられっぱなしだけど。

信長のからくり人形が名物

からくり人形を見せる、というのがこのお寺の名物らしい。しかし、「信長様の雄姿を再び」と言われても、いまいち「見てェェェ!」という気にはならないのが正直なところだ。おっかしいなあ、唐揚げとかだと「食べなくちゃ!」という気になったというのに。食い意地と、文化芸術の琴線というのは全く脳の中で違う場所にあるんだなというのがこれでよくわかる。

いやでも、僕はさっき萌え絵のタペストリー屋には入ったですよ?芸術鑑賞する意欲はあったんですよ?

と自己正当化してみる。

いずれにせよ、みんなに

「入ってみる?からくり人形だってよ?」

と水を向けてみたが、誰一人として「入りたい」という人がいなかったので、見事にスルーされたのだった。

「ダメだよこんな調子だったら、本当にひたすら食べ続けることになるよ。時には休息も入れなくちゃ」

と警告はしているのだけど、だからといって信長公のからくり人形を見たら小腹が空くわけではない。

ケバブ屋がある

からくり人形をスルーして商店街を歩いていると、今度はケバブ屋が現れた。この街、料理の国籍を問わないフリーダムさが素晴らしい。

東京にも、あちこちに商店街はある。テレビなんかで「昔ながらの味わい深い商店街」などとノスタルジー感たっぷりに紹介し、唐揚げやらコロッケやらが山積みされた総菜屋が登場したりする。それはそれで日常生活を送る分にはいいんだけど、やっぱりこの商店街のように「何が出てくるか予測不可能」な混沌とした場所の方が面白い。毎日ケバブを食うかというと、さすがにそれはありえないけど。

ケバブで串カツ?

日本で急速に店舗数を増やしている飲食店ジャンルは何?といえば、ケバブ屋、といえるかもしれない。なにしろ、十数年前まではほとんど無かったからだ。それが今じゃ、珍しさが全然なくなってしまったくらいあっちこっちにある。

安くて腹一杯食べられるのでありがたいし、ぐるぐる回転する店頭の肉は迫力満点だ。しかし頻繁に食べたいというものではないのも事実だ。今住んでいる家のすぐ近くにケバブ屋がある僕が言うんだから間違いない。

しかし、ここのケバブは「おや?」と足を止めるに値するものだった。焼き鳥のように串に刺さってるぞ?というか、「焼鳥ケバブ」ってそのまんまじぇねーか。

100円という値段に惹かれる

しまいには、「ケバブばりぱりチキン」なんてメニューまであった。これも焼き鳥風に串に刺されたもののようだ。確かに、トルコ料理屋とかで「シーク・ケバーブ」なんて頼むと、剣みたいな鉄串に刺された肉が出てくることがある。本場はそういう焼き方なんだろう。何故か日本では、「ケバブ」といえば「ピタパンに入った、ケバブサンド」のことばっかり想像してしまうのだけど。

そんなわけで、テイクアウト用に「鉄串」ではなく「竹串」で焼き鳥風、というのはなんらおかしい話ではない。ふむ、100円というのはワンコインで手軽だし、「ばりぱり」という食感の小気味良さを予感させるネーミングもそそられる。試しに頼んでみっか。

別におなかが空いているわけでもなんでもないのだけど、「気になるものに手を出さないと損した気になる」という雰囲気だった。だから、頼まないわけにはいかないじゃないか。

・・・信長公のからくり人形には手を出さなかったけど。

整理券に延々と書かれる文字

お金を払うと、番号札と称してなにやら紙が渡された。そこにはびっちりとケバブの由来や、亭主のごあいさつが書き込まれていて面食らった。こんな番号札、見たことがない。というかこれ、「札」じゃないだろ。

お店の亭主はこう語っている。

当店のケバブは、東西の料理に明るいトルコの一流シェフが職人人生の精華ともいうべき秘伝の香料と技法を例外中の例外として特に直伝して下さったことにより生まれました。

なんかすごいスケールの話だぞ。奈良時代とか平安時代、中国に渡って仏教の神髄を体得し、秘伝のお経を携えて帰国したお坊さんのようだ。

そんな例外中の例外が100円で食べられるご時世だなんて。ありがたいことです。というわけで、しばし待つ。

これが「ケバブぱりぱりチキン」

これが「ばりぱりチキン」100円。

味は正直言って忘れた。でも、美味かったような記憶がぼんやりと残っている。いずれにせよ、これを100円で食べられるんだから、幸せなものだ。

缶ビールでも買って、そこら辺でつまみになるものを仲間で手分けして買い集めて、どっかで屋外宴会やったら盛り上がるだろうな。デパ地下総菜ほど気取っていないけど、種類豊富で安い。

でも、そんなことを考える輩はこれまで沢山いただろうし、そのせいで周辺住民や商店はゴミや騒音で迷惑を被ったはずだ。僕らがそんな悪巧みをする以前に、多分そういう「宴会」はこのあたりじゃ禁止になっていると思う。推測だけど。

それにしても日本語が長い

ケバブ屋、というのは、アラビア系の人がお店をやっているというイメージが強い。僕の家の近くの店は普通の日本人のオバチャンがやっていて特殊事例だけど、繁華街のお店は大抵そうだ。日本語は片言。

しかし、先ほどの番号札に書かれている亭主あいさつを見ると、明らかネイティブジャパニーズが書いた文章だということがわかる。「精華」なんて表現、普通の人なら使わないからだ。

ここの亭主の文字好きは番号札だけではとどまっていなかった。勢い余って、びっしりと紙一杯に

「ドネル・ケバブ専門店」から「中東発 創作ファストフード」への道

という長文が張り出してあった。

「またケバブ屋か」の冒頭セリフには草不可避

「またケバブ屋か」

というセリフから始まるこの文章は、なかなか面白かった。

この場所に新しいお店が何か出来るらしい、ということで道行く人は何ができるのかと期待していたのに、ありきたりなケバブ屋ができるということがわかったので「またケバブ屋か」と落胆した、というエピソードが綴られている。

まあ、この手の話というのは、もちろん単なる自虐で終わるのではなく、最後は「それでも当店のケバブは自信があります。うまいです」という展開になる。その前振りとしての「またケバブ屋か」だ。しかしその程度の前振りでは甘いと思ったのか、「珍しくもないケバブ屋を今更開店させちゃった」言い訳に続く第二段落で、「値段が高い」という自虐を展開しているというのが斬新だった。やるなあ、徹底して自虐するんだなあ。

で、「大須では珍しくもないケバブ屋を今更開店」し、「しかも値段は高い」んだけど、最終的には「当店はそれでも食べる価値があるんだぜ」という流れに・・・あれ?なってない。最後の段落では、「ケバブってなに?」というとが書かれている。最後まで自慢しなかったぞオイ。

一応、文中の要所要所で自慢っぽい記述はあるし、先ほど手にした番号札にも味自慢は書いてあるのでトータルでは「自信を持ってケバブを提供してます!」ということなんだろう。でも、こんな不器用なPRの仕方、初めて見た。

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